プレゼンテーションにおける「間」:「緊張をつくりだすこと」と「問いを届けること」

 ここ一週間くらい、「間」ということをよく考えます。「あいだ」じゃありません、「ま」です(笑)。
 具体的に申しますと、プレゼンテーションを行うときに、話者(スピーカー)が意図的につくりだす「間(ま)」ですね。そのことが、最近、気になって仕方がありません。
 世の中に「いかにしゃべるか?」というプレゼンテーション本はあまたあります。しかし、まことに興味深いことに、「いかに沈黙するか」ということを示唆する書籍は少ないように感じます。ま、なくて当然ですが(笑)。

 しかし、いろいろな方々のプレゼンテーションを拝見していて、一方でこうも思うのです。
 ただ、しゃべくりまくる、ジェスチャーをするだけが、プレゼンテーションにとって大切なのではないよな、と。敢えて「何もしゃべらない時間をつくること」「沈黙する時間をもうけること」、すなわち意図的、かつ、戦略的に「間をつくること」も、興味深いことだな、と思うのです。

 ひるがえって、なぜ「間」が大切なのかな、あらためて考えてみますと、それは

「相手を一瞬緊張させ、注意を喚起するため」
 ないしは
「一呼吸おいてもらうことで、自分の考えをうみだしてもらうため」
 なのかな、と思います。

 つまりは「間によって、話題に緩急をつけ、注意資源を獲得するため」ないしは「一寸、我にかえり、自分で考えてもらうため」ということになるのかな、と思うのです。

 仕事柄、僕は、人並み以上にはプレゼンをしたり、他の方のプレゼンを見る機会が多いと思います。その経験をもって考えてみると「間のとりかたが絶妙な方」と「そうでない方」は、たとえば同じプレゼンを読んでいたとしても、受け手にどの程度刺さるかは、かなり違ってくる気がいたします。もちろん、自戒をこめていいますけれども。
  
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 たとえば、今、「プレゼンの区切りに、間をつくる方」と「間をつくらないで喋る続ける方」がいるとします。おそらくは、言うまでもなく、前者の方が「学習者の注意」は集まるのではないでしょうか。

 それまで話者は話しつづけている。つまりは学習者は「常に情報を提供されている状態」にあるわけです。そこから「一変」して、話者によって「間」がつくりだされ、「誰も発話のない時間=沈黙の時間」が生まれます。すると、その一瞬には、圧倒的な緊張状態が生まれる気がします。
 この「つくりだされた緊張の時間」が、おそらく、「句読点」のようなものして機能して、「継続的な学習」を下支えするのかな、と思います。

 また、「同じ間」でも、異なった用いられ方もあるでしょう。
 典型的には「話者から学習者に対して、問いを投げかけたあとにつくられる意図的な間」ですね。

 今、仮に、スピーカーの方が

 「それでは皆さん、この問題については、どうお考えですか?」
 「この問題に対する皆さんの答えは、賛成ですか反対ですか?

 といったような「問いかけ」を学習者に対してなした、とします。経験的には、この問いかけのあとに、どのくらいの「間」が与えられるかが、かなり重要である気がするのです。

 もちろん、長すぎても、短すぎてもだめでしょうね。
 長すぎれば、「壊れたラジオ」のようになってしまいますし(泣)、短すぎれば「問いかけられたんだか、いないんだか、わかんないような状況」になります(泣)。

 経験的には、「長すぎてしまうこと」はあまりなくて、「短すぎること」の方が、散見されるのではないでしょうか。自分で問いかけておきながら、「間」をつくりだせない。自分で学習者に問いかけておきながら、学習者が考える時間を持たせることができず、次の話題に「流れて」しまう。場合によっては、そのまま自分で問いに対する「答え」を言ってしまう場合も散見されます。いわゆる「自問自答」状態ですね(笑)

 この状況を比喩的に述べるならば、

「適切な間が設けられていない"問いかけ"というのは"学習者に届いていない"のです」

 問いを投げかけてはいるけれど、その問いは学習者に咀嚼・理解されていない(=届いていない)。彼らの思考が、まだ駆動していない。

「問いを投げかけたはいいけれど、それが学習者に理解されていない状況」をもって、「わたしは学習者に問いかけた」というのなら、「誰も買っていないのに、売ったという」のと同じですね。皮肉なものですね。

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 こうしたことが起こる理由は、自戒をこめて振り返ってみますと、何となく想像がつきます。おそらくそれは、話者にとっては「誰も発話のない時間」「みなが沈黙してしまう時間」、すなわち「間」が「怖い」ものとしてうつることが多いのです。

 ヤベ、テープとまっちゃったよ、、、どうしよ。
 ヤバ、黙っちゃったよ、、、どないしよ。

「間」が生まれてしまっては、「興ざめ」してしまうのではないだろうか。間を「言葉に詰まってしまった」と受け入れられるのではないのか。「間」をもうけているあいだに雑談が生まれ、もはや回収できない程度にまで発展してしまうのではないだろうか。

 そんな風に「間」を恐れてしまうことが、自戒をこめていいますが、よくありうることなのではないでしょうか。そして「間」を恐れるがゆえに、ただでさえ、てんこもりな内容を、しゃべくり倒してしまう。そんなことがおきがちではないかな、と思います。

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 今日は、プレゼンにとっての「間」の話になりました。
 今日の話題では、「間があったほうが学習効果は高いこと」を前提に話題を展開しましたが、もちろん、これも実証されているわけではありません。どうやって、実験するのかはわかりませんが、今後の研究課題?なのかもしれません。

 もちろん、今日の話は、まったく他人事ではありません。
 自分のプレゼンを磨きたい、と願います。

 そして人生は続く