状況に埋め込まれたプレゼンスキル : プレゼンの猛者が、所かわれば、派手ゴケする理由!?

 3月に募集させていただいたイベント「多様な社員を"講師"に育てる仕組み」の開催が、4月26日に近づいてきて、さて内容をどのように盛り上げようか、と少しずつ、準備を進めております。

多様な社員を"講師"に育てる仕組み(4/26)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/03/post_1975.html

 また今年からはじまった「近い将来、大学の教壇にたちたいと願う大学院生に"教えることを教える"全学教育プログラム」、東京大学フューチャーファカルティプログラムの授業(大学院講義「大学教育開発論」)が、いよいよ、昨日からはじまり(昨日は同僚の栗田佳代子さんのセッションを見学させて頂いておりました)、最近、この「講義」ということについて、なかなか考えさせられます。

東京大学フューチャーファカルティプログラム
http://www.todaifd.com/

 特に最近とみに思うのは、
「(講義の)プレゼンテーションがうまくいくか、どうかということは、状況に埋め込まれている」

 ということです。
 もうすこしこなれた言い方をすると、「ある状況ではプレゼンをうまくできる方でも、状況が変われば、そのスキルが活きないことが、容易に起こりうる」ということです。

 これ、どういうことかと申しますと、よく企業の方とお話ししていると、こんな声をお聞きします。

「営業プレゼンに何の問題もない人でも、社内研修のプレゼンはできないこともあるんですよね」

 一方、こんな大学に目をやってみると、こんな声も伺います。

「あの人、学会プレゼンはできるんだけど、なぜか、講義ができないんですよね」

 これ、どういうことでしょうか?
 なぜ、片方で何の問題もなくプレゼンテーションできている人が、状況が変われば「派手ゴケ」するのでしょうか?

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「営業でのプレゼンテーション」と「社内研修のプレゼンテーション」
 はたまた
「学会プレゼン」と「講義のプレゼンテーション」。

 使われているプレゼンツールは、いわゆるパワーポイント、全く同じ物です。このような場合だと、片方でできることは、もう片方でもできるだろう、つまりは「スキルは転移(Transfer)するだろう」と考えてしまいがちですが、これが、なかなかうまくいかないことがあるそうです。
 すなわち「同じパワーポイント使っているんだから、あっちでできるやつは、こっちでもできるだろう?」と考えない方がいいということになりますね。もちろん、「あっちでできる人は、こっちでもできる場合」もあるんだろうけど、手放しで「両方ともできる」と考えることは、リスクをともなうということです。

 これ、最初は、僕自身、全くわからなかったことでした。

 「不思議だな、そんなこともあんのかいな。同じプレゼンじゃん」

 と思っていたのですが、ヒアリングや観察など、企画の段階で行った情報収集により、だんだんと状況を知るにつけて、何となく理由がわかってきました。

 考えてみれば、あたりまえのことなのですが、同じプレゼンテーションでも、状況が変われば「目的」と「対象者」と「伝える手法・内容」が全く異なるのです。下記からは、4つのプレゼン場面を、やや戯画的に描き出しますので、どうか「妄想力」をはたらかして、適宜、補いながら読んでみて下さい。

 たとえば「営業のプレゼンテーション」。
「営業のプレゼンテーション」といっても、一口にいろいろありますが、もっともわかりやすいので、顧客との関係が長い、BtoB系の、たとえば部品メーカ系の現場で行われるプレゼンテーションを想定していただけるとよろしいのかなと思います。
 このような場合、まず、対象者(プレゼンを聞く側)は「よく顔を知っていて、信頼関係のできている顧客2名から3名」になることが想像できます。関係は良好、相手のことはよく知っているし、相手はこっちのこともよく知っている。もちろん、商品のことも、相手は長く使ってくれているので、お互いいやというほど、知っている。
 目的は、部品をいくら、いくつ買ってもらうこと。確かにパワーポイントを用いて情報資料の提供を行っている。つくられた資料は、いわゆるビジネスプレゼンで、文字は小さく、顧客がこのまま経営に提出できるように、ほぼビジネス文書の体裁になっている。プレゼンは、紙に印刷して、それを参照するかたちで、フェイスツーフェイスの状況下で行われている。実際に、行っていることは説得・交渉に近いことが予想される。会話はかなり焦点がしぼられていて、ディテールにしぼられています。

 対して、同じ人が社内講師になり、新人研修の講師になった場合はどうなるか。
 まず、対象者はぐっと増えて30名から50名。新人研修の場合で登壇する場合には、相手のことをこちらは知らない。自分が伝えたいもの、たとえば、自社・自部門の事業内容と戦略については、自分にとってはよくわかっているが、相手は全くわからない。新入社員の中には、自社・自部門に配属になるものはごくごく一部かもしれないので、必ずしも、あなたの話に興味をもっているわけではない。この場合、プレゼンは、全くわからない大勢の人で、かつ、それほど部門の戦略については興味をもっていない人を対象にして、彼らの興味関心をひきながら、教えなくてはならない。伝えなければならない内容は、自部門全体の様子なので、フォーカスはかなり甘い。

 次に、大学のことを考えてみます。
 学会プレゼンとは、その研究領域についてよく知っており、かつ、それについて高い興味関心(やる気の高い人)をもつ研究者を対象にして、自分の研究内容を伝え、議論するために行われる。
 話す人も聞いている人も、お互いは、アカデミックなトレーニングを受け、研究方法論や専門用語をよく知っている。略語を用いることも多いし、たとえプレゼンを多少はしょったところで、それをカバーする膨大な知識をもっている。人数は多くて30名程度。時間は15分程度話を続かせればよい。
 
 対して、授業でのプレゼンテーションとは、同じパワーポイントを使っていたとしても、状況が一変する。大学にも寄りますが、学生は多様化しているので、すべての学生が、一様に「高いやる気」や「高度な能力」をもっているというわけではない。
 最大の違いは、学生は、その研究分野においては、ほとんどが素人であり、高度な知識ドメインを有していないことにある。人数は多ければ数百名を超える大人数講義。時間は90分。おおよそ、常に喋り続ければ、90分で新書2分の1冊くらいの情報量を喋ることになる。
 
 上記は、2つの状況をやや極端に、戯画化しつつ、対照づけて書きましたが、もうここまで書けばおわかりでしょうか。
 同じプレゼンテーション、同じパワーポイントを使っていたとしても、対象者や目的、さらには伝達内容・伝達手法が異なれば、一方で「できるもの」が、他方では「できなくなる」ことが、容易に起こりうることがおわかりいただけるのではないかと思います。ひと言でいいますと、それらは、かなり異なる認知的活動なのです。そこで求められるスキルや能力も、大きく変わることが予想されます。

 もちろん、状況が変わったとしても、両者ともに臨機応変にできる方もいらっしゃるのかもしれませんが、たいていの場合には、状況に適応し、能力をいかんなく発揮できるためには、それなりの長期の時間か、ないしは、トレーニングが必要になるのではないか、と思います。
 最悪の場合には - 特にプレゼンに自信をお持ちの方で、たかをくくって、何の準備もせずに、別のコンテキストで、いつもと同じかたちでプレゼンをしてしまった場合には、「あちゃぱー、やらかしちゃいましたか・・・」というぐらいに「派手ゴケ」する場合もなきにしもあらずなので(笑)、注意が必要です。

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 今日の話は、少し考えてみれば、あたりまえのことであったかもしれません。しかし、とかく、いざ現場で実際に何が起こるかということになりますと、あなたが企業経営・大学運営サイドの方であるならば

「あちらでできることは、こちらでもできるんでしょ、だから、さっさとやってよ」

 ということになりがちですし、あなたが登壇する側にいらっしゃるならば

「あっちでできたんだから、準備やトレーニングなしで、こっちでもできるよ」

 ということになりがちなのです。

 もちろん、両者が似ている場合もあるし、それほどの落差が生じないこともある。また片方でうまくいったことが、こちらでも奏功する場合もないわけではない。
 ただし、今日、4つの状況を極端に描いたように、対象者と目的が異なってくれば、片方で培ったプレゼンスキルが転移できないことがあるというリスクも、頭の片隅にはいれておいていただけるとよろしいかな、と思います。

 そして人生は続く