"学び"が触発する環境をいかにつくるか? : 「転機」や「節目」を考える場のデザイン


 最近、「働く大人が学ぶための環境とはいかにあればいいのか?」ということを、よく考えさせられます。そこにいて活動をすることで、「学びが触発されてしまうような環境(空間)」をわたしたちは、どのようにつくりだせばいいのか。今日は、そのことを少し考えてみましょう。

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 これらの問いに関連して、すぐに脳裏に浮かび上がる概念は「学習環境のデザイン」とか「学習材」いう言葉になります。
 これらのワードが生み出される背景になったのは、様々な理論的系譜があり、それらを読み解く作業は、またチャレンジングな課題ではありますが、ともかく(!?)、これらが人々のあいだで語られるようになってきたのは、今から20年くらい前ではなかったか、と記憶しています。
 理論的系譜として、すぐに思いつくのは、ひとつはPepart, S.の「Constructionism」であり、ひとつは「状況論の導入」などでしょうか。このあたりの詳細は、近刊「プレイフルラーニング」でご覧下さい。
 
 いずれにしても、様々な理論的系譜がもつれて、よじれて、ひんまがっているうちに(!?)、「教授のデザイン」や「教材」ということばに加えて、「学習環境のデザイン」「学習材」という言葉が、実務の現場で、語られるようになったのではないか、と推察します。

 その様子は、ひと言でいうと

「教える人が、教える内容を魅力的かつ効率的に"設計"することに加えて、学ぶ人が学びやすい環境を設計し、用意すること」

 から

「教えるための道具や材料を準備することに加えて、学ぶ人が自由に用いることのできる素材を用意すること」

 に研究の射程が広がってきた、ということです。

 これら2つの理論系は、時に「置換モデル(ひとつがひとつを代替する)」をメタファに語られることが多いですが、実際のところは、後者が前者を「包摂」するような概念として理論的には位置づくものと個人的には思います。この詳細な議論は、また別の機会にいたしましょう。

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 学習環境のデザイン
 学習材
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 後者の概念にたった場合、「学びのサプライサイド(供給側)」にとって必要なことは、「学ぶ人が学びやすい環境をつくること」であり、「かれらが自由に用いることの学びの素材(学習材)」を豊富に用意しておくことということになります。

 このことはお金をかけて、ドカーンと教室を改装しなければならない、とか、気合いをいれて「ラグジュアリーな素材」を準備おくことを必ずしも意味しません。そんな「鼻息」荒くしなくたっていいのよ(笑)。

 学習者のLearningful(学びを触発するような機会)をつくるというコンセプトに一貫してデザインや準備がなされていれば、その先にあるものは、実践現場の様々な状況に応じて、変化してよいのだと思います。
 
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 ところで、少し話題をかえて、「学習環境」や「学習材」という言葉の意味するものに思いをはせるとき、僕の脳裏には「茶道とは総合芸術である」という言葉が思い起こされます。
 主人、客人、お茶室、道具、お料理・・・茶道を構成する様々な要素が組み合わさり、茶道は協働的かつ社会的に「達成」されます。
 茶道をたしなんでおられる方からすれば、迷惑千万、至極残念(!?)でしょうが(笑)、そこにこめられた考え方は、僕の目からみれば「学びをデザインする」という考え方に、似ていることがあるな、と勝手気ままに思います。
 茶道が本格化したのは17世紀。
 その歴史的深みから考えて「ラーニングデザイン」の歴史なんていうものは、本当に浅いのだけれども、その含意するところを、僕なりに解釈すると、それは茶道に近しいところもあるように感じるのです。

 決して「絢爛豪華」でなくてもいい。決して「華美」ではなくてもいい。むしろ「侘び」と「寂び」の世界でいい。
 しかし、主人(学びのサプライサイド)のコンセプトにしたがって、その場の環境が準備(用意)され、客人(学び手)は、卒意(主人の用意に応えるかたち)をもって、その場で学ぶ。ときに、客人同士が交歓しあい、「相客一体」になる。
 そんな瞬間が、「学習環境のデザイン」のインプリメンテーションのめざすところと、近しい気がするのです。学習環境のデザインとは、環境一体・主客一体・相客一体の総体なのです。

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 すこし昔話になりますが(今日は話がとびますね)、僕が、はじめて「学習環境」「学習材」という概念を知ったのは、今から20年弱くらい前のことです。その頃の僕は、20歳をすこし超えたくらいのワコウド(ヤング?)でしたが(笑)、当時、自分が参与観察させていただいていた学習環境で、

「あー、この概念の意味するところは、こういう場所のことをいうのかもしれないな」

 と思ったことがあります。
 
 その学習環境は、ある「明確なコンセプト」のもとに、空間、家具、学習材が用意されていました。「学び手が自分の学びの活動を、自分でつくりあげられるように、様々な学習材」がふんだんに用意され、学びを触発しておりました。

 決して「華美」なわけではありません。むしろ底流に流れていたのは「DIYの精神」。しかし、そこは「Learningを喚起するようなEvocative Object」にあふれていた。
そこにいるだけで、何かを創りたくなってしまうし、何かを考えたくなる。創り上げたものを、誰かとシェアしたくなってしまう。そこは、そういう場所でした。

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 ひるがえって、「働く大人の学びの環境」というとき、「大人の学び研究」には、まだまだ、できることがあるな、と思います。

 なぜ「研修室」というと「白い壁」にかこまれた「教室」なのか。そこは、かつてゴッフマンが「全制的施設」とよんだような「息苦しさ」が支配することが多いのか。なぜ、Evocativeな学習材が、ふんだんに用意されていないのか。そこで学ぶ人は、何かを創り上げ、何かを他者とともに成し遂げようとしないのか。

 先日、ある学習施設で、ヒアリングさせていただいた際、その場の研修コースを企画運営をなさっている方が、こんな、印象深いひと言を述べられていました。

 大人が学びたくなり、かつ、学ばなければならない瞬間は、やはり「人生の転機」であったり、「節目」であったりすることが多いのです。 / だから、大人の学ぶ場所は、「人生の転機」や「節目」をしっかりと考えることにふさわしい場所であってほしいのです。

 もし、仮に、それが「事実」なのだとしたら、本来、働く大人が学ぶ空間とは、「そこにいるだけで、節目をしっかりと迎え、ビジョンを描き、かつ、希望を感じられるような場所」であってほしいものだと、僕は思いますし、それを手助けするような様々な道具・学習材にあふれる場所であってほしいと願います。

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 今日は話があっちゃこっちゃに飛んで、もうわけがわからなくなりました(笑)。

 最近、あまりに忙しく(もう週末ですか・・・なんか飛ぶように時間が過ぎていきます。今週も何とか生き残ったのですね)、いろいろなところで、得られたインスピレーションをまとめることが、僕に不足している証左でしょう。ごめんなさい。どうかお許し下さい。

 ただ、言いたいことはこういうことです。

「働く大人の学びの環境は、ふだん考えないことに気づき、未来を構想し、アクションを促すような「学びを触発する場」であってほしい。

 そういう場が増えることを切に願います。
 そして人生は続く