「方法知を伝えること」を考える : 世阿弥「風姿花伝」を読みながら妄想していること

 最近、寝る前、横になりながら、世阿弥の「風姿花伝」を夜な夜な読んでいます。

 小生、それほど、古典・古文に強くないので、やや難解な古語に出会うと、すぐにウトウト眠くなってしまい、さっぱり読書が進まないのがタマに傷です(笑)。ただですね、そのせいで、一行一行かむように読むことができるともいえますね。1日1膳ならぬ、1日1行。いや、もうちょっと読めるかな? ま、これはこれで、よしとしましょう。

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 「風姿花伝」で、個人的に特に興味深いのは、申楽者の発達段階をといた「年来稽古條々(ねんらいけいこのじょうじょう)」の章、能を演じることに関して具体的な方法を解いた「問答條々(もんどうのじょうじょう)」、そして「花」とは何かを解いた「別紙口伝(べっしくでん)」でしょうか。

 まず「年来稽古條々」。
 こちらをを読んでおりますと、小生などは、どきっとしてしまいますね。小生、ちょうど今が、いわゆる「人生の正午」を過ぎて、下降の頃なのだそうです(泣)。
 
 曰く
「このころは、過ぎし方をも覚え、また行く先の手立てをも覚る自分なり」

 おいおい、「まだやりたいことはたくさんあるのに、もう下降かよ」といいたくなるのですが、そこはそういうもんなんでしょう(泣)。でも、数百年のあいだ封印されてきた秘事口伝を読んでおりますと、そういうつっこみも「おこがましいな」と思うようになってきます。そして、素直に「行く先の手立て」を考えなあかんな、という気になってくるから不思議なものです。

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 「問答條々」は、ひと言でいえば「能にかんするQ&Aコーナー、世阿弥先生に聞いてみよう!」でしょうか。ここは「誰もが悩む問い」と「世阿弥の答え」がセットになって進行していくことが特徴です。

 例えば、

「あのさー、当日、開演前の客席みたら、その日の能の成功が占えるって聞いたんだけど、マジ? ねーねーねー、どやってやんのー」

 というノービスちゃんの問いに対して、世阿弥先生はこう答えます。

「先づ、その日の庭を見るに、今日は、能、よく出で来べき、あしく出で来べき、瑞相あるべし」
(そうだなー、会場みちゃったら、今日の能が成功するかどうかなんて、一発でわかっちゃうよ。そういう予兆あるもん)

 で、このあと、具体的にどのように「観客」をのせていくかを綴っていきます。

「会場がざわざわしているのなら、とにかく観客が静まるのをまつのだ。観客はいつはじまるかはじまるかと思って、だんだんひとつの心になってくる。意識がどんどん集中してくる。そのときが、チャンス。一声をあげるのは、そのときなのだよ」

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 ここで世阿弥が解いているのは、要するに方法知(Knowing how)です。ひと言でいえば「ハウツー」。そして、ここで僕は、「方法知を伝えること」に関して、少し、ぐだぐだと考えてしまいます。

 一般に、「ハウツー」というものは「低級なもの」だと考えられています。俗によく言うでしょ。

「何、ハウツーに、頼ってんだよ?」
「すぐに、方法に飛びつくんじゃない」
「これって、いわゆるハウツーですよね」
「ハウツーなんて語ってどうするの?」

 特に、マネジメント業界、学習の業界!?・・・いわゆる「現場をもつ領域」では、方法知というものは、事実知と比べて、「一段と低いもの」に考えられています。
 例えば「マネジメントとは何たるかを小難しく語る本」の方が、「マネジメントのやり方を語る本」よりも「高級なもの」と考えられるでしょ。
 僕も、学生時代から、ずっと、そうやって教えられてきましたし、自分でも、そのように考えていたきらいがあります。

 でも、一方で、「風姿花伝」を読んでいて、思うのです。

「誰もが悩み、つまづくことの方法を語ること」は、本当に「低級なこと」なんだろうか、と。そりゃ、コンテキストから離れて文字としておこされた「方法知」は、「コンテキストの中で行われる行為」とイコールとはとても言えない。
 そこで「書き起こされる方法知」とは、「つまづき」を防止するくらいの、「ミニマムなレベル」のものかもしれない。でも、現場では、それが「ある」のと「ない」のでは、大違い、とても助かる、ということもあるよな、と。

 もしかすると「書き起こされた方法知」自体が悪いのではなくて、それが、「コンテキストの中にある知」と「同等」のものと考えられてしまい、その制約が認識されないことが問題なのではないだろうか。
 そして、ともすれば「読み手を思考停止させてしまうこと(この方法に頼っていれば、あとはOK!)」「方法知自体を教条化してしまうこと(この方法が正統よ、その他の方法はアカンで!)こと」に問題があるのかな、なんて。

 だとすれば、多くの人々に流通可能で、しかも、その制約がよく理解されていて、それでいて、人々の思考を停止させず、むしろ、その方法自体が更新され発展していくような知の公開の方法はないものかね、と(そんなもん、あるのかよ?)。

 ここまで考えたときに、かつて骨董通り法律事務所の福井健策先生に、著作権に関する勉強会・研究会でお話しを伺ったときに、福井先生がたしか、こうおっしゃっていたことが記憶に残っています。

「方法、アイデア、着想というものに、法律は、著作権を認めませんでした。それは、私たちの文化を発展させるために、それらは流通させた方が、社会全体のためになると法律が考えているためです。そのことで、「不利益を生じるかもしれない個人」が、もしかすると、生まれるかもしれません。でも、社会全体の功利を考えれば、方法、アイデア、着想は流通した方がよいのです」

著作権、文化、そしてマネタイズ : 【fʌ'n】第二回目「ラーニングデザインと著作権」が終わった!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/02/post_1829.html

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 うーん、もやもや(笑)。
 自分でも、どうして、こう思考がぶっ飛んでいくのかわかりませんが、わかりませんが、とにかくそんなことをゆるゆると考えているのは、愉しいものです。そして、だんだんと意識がとおのき、眠たくなってくるのです。

 おやすみ3秒、のび太君。

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 風姿花伝は、芸能論としてはもちろんのこと、キャリア論とか、学び論とかに興味のある方でも読むことができると思います。皆さん、この年末は、年賀状を無事出し終わったら(まだ書いてない・・・)、古典を読んでみることにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。なかなか素敵な年末が過ごせるのではないか、と思います。
 おらは、古文は苦手だっぺよ、という方には、原文と現代語訳を二つあわせて読み合わせるといいかもしれませんね。

花とは、珍しさをひとの心に喚起するもの、
一所常住せぬもの
そして、秘するからこそ花
(別紙口伝より抜粋)

 そして人生は続く

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追伸.
「方法知」を扱った本には、「これさえ読めば、他人と差別化できて、絶対成功するみたいな方法」が紹介されてる場合、よくありますよね。でも、「これさえ読めば、他人と差別化できて、絶対成功するみたいな方法」をマスに広く広めようとする行為は、論理矛盾じゃないかなぁ。だって、広まれば広まるほど、差別化できなくなんない?

だってね、「他人と差別化でき絶対に成功する方法」を会得している人たちが、ご対面したら、「他者を差別化」できるわけないよねぇ。みんな「同じ方法」で戦おうとしているんだから。

たぶんですね。「差別化に成功する人」は、絶対に、そういうものをありがたがらないと思います。むしろ「こうやってはダメなんだな」「自分はこうやんないどこ」と考えると思いますね。