良い学習と悪い学習:メンター制度で学ばれるもの

 先日、大学院授業「組織学習システム論」で「よい学習と悪い学習」ということがディスカッションの話題にのぼりました。

 組織と学習に関係する実務家、人材育成に関係する方々が、

 「組織の中で人が学習する」

 とワードを耳にした場合に、僕たちは、どこかで、その「学習」が「よい方向にひらかれていること」を「前提」にしがちであるけれど、それは「違う」よね、という話です。学習は、常に「よいもの」へも、「悪いもの」へも開かれている、ということですね。

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 といいますのは、学習研究者にとっては、「学習」という言葉はとてもニュートラルな言葉なのです。社会的見地からみて学習内容が「良いこと」であっても、「悪いこと」であっても、人が、いったん学んでしまえば「学習」と見なします。
 極端なことを言ってしまえば、「泥棒さんとして一人前になること」だって「学習」です。今から13年前、学部4年生だったころの僕が、こんな文章を書いています。ちょっと「若気の至り」で、こっぱずかしいですが、もしご興味があれば。

小ボケと正統的周辺参加
http://www.nakahara-lab.net/misc16.html

 これに対して、「教育」というのはちょっとニュアンスが違いますね。「教育」とは、あくまで僕の定義によれば「社会秩序維持と世代継承のために、第三者が、他者の学習を組織化・構造化すること」です(だから、本当は、教育は、嫌いとか、好きとかの次元で語りうるものではないのです)。

 ゴールは「社会秩序維持・世代継承」というところにありますので、「教育」では、「悪いことが学習されてしまうこと」はアウトですね。つまり、その場合、「学習」としては成立しているけれども、「教育」としては「失敗」ということになるのです。

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 例えば、今、メンター制度を企業で導入する、とします。メンティはメンターから様々な支援を受けて、様々なことを「学習」するでしょう。しかし、その学習プロセスの中では、「よいもの」も「悪いもの」も「学ばれてしまうこと」に注意しなくてはなりませんね。

 たしかに、メンターの暖かい言葉がけや配慮、支援によって、メンティは成長するかもしれません。しかし、悲惨な場合には、

「こんな風にさぼってても、この職場は大丈夫なんだな、しめしめ」
「言っていることとやっていることが違っていても、さほど問題にはならないんだな」

 というかたちで、人は、そういうものを意図せざるとしないとにかかわらず、学びとってしまうのですね。
 そして、「他者の振る舞いを通した学び」は、「研修室での学び」に比べて、非常にパワフルであることが多いと思います。

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 学習は、常に、良いものにも、悪いものにも開かれている。
 ですので、常に両側に目配りをすることが大切なことかもしれません。