無気力と怠惰と傲慢さは、いかに「学習」されるのか?:人に接する職業にひそむ罠!?

 先だって、病院の受付で、あまりに惨い受付に出会いました。とても混雑している病院だと聞いており、かつ、家から電話をして診察時間を確かめたときから、電話ごしに「あっ、雰囲気、やばそうだな」と思ったのですが、案の定、「むごい経験」が待っていました。子どもとともに茫然。あべし、ご愁傷さま。

  ▼

 しかし、こうした一瞬でも、「なんちゃって研究者」のはしくれたるもの、研究マインドは衰えません。ここは「親子」で「幽体離脱」し、「研究スイッチ」を入れるときでしょう。僕にとって、研究者とは、「寝てもさめても、24時間、研究のことばかり考えている人」をいいます(他の方にとっての定義は知りません)。

 研究スイッチON!
 きゅるーウィンウィンウィン(笑)

 まず、この「無気力」で「怠惰」に思える対人態度は、どのような経験の蓄積によって「学習」されたのかに思いをはせ、彼女が為してきたであろう長期の「経験学習」を想像します。

 思うに、病院の受付とは、患者からのクレームや要望が殺到するフロントラインであり、患者の中には「ややこしい患者」もいたのかもしれません。そのような患者を相手にすることを長期に繰り返していれば、そのような対人態度が「学習」されたのも無理はないことです。

 また、この、あまりに「傲慢」に思える「他者への態度」は、なぜ、これまで「アンラーン(学習棄却)」されずに、ここまで残存してしまったのかに思いをはせ、この病院の「職場における学習」のプロセスを想像します。彼女は、いかなる他者のネットワークの中にあり、いかなるフィードバックを得ていたのか。

 外見から想像するに、彼女は「年配者」であり、この病院でも「古株」に思えます。
 きっと業務知識を豊富に有する彼女に対しては、何かリフレクションするべき事態がおこっても、他者からフィードバックをうける機会は「限定的」だと考えられます。
 先生はとても「よい人」なのですが、そのやさしい性格にくわえ、診察室と受付は隔絶されており、かの先生が扉を一枚隔てた人に対してフィードバックをかけられるようには思えません。「先生がとてもよい人」というまさにこの1点が、この病院のレピュテーションを高め、受付の怠慢を相殺してしまうポイントとしても機能することが想像できます。

 かくして「経験から学び」「職場から学べず」に、僕が経験することになった「惨い対人態度」が形成されたものと考えられます。
 
 学習とは、「ポジティブな方向」にむくとは限りません。
 学習は「ネガティブなもの」にもひらかれているのです。
 ネガティブなものを「獲得」し、ネガティブに振る舞うことを覚えること
 それも「学習」です。

 しかし、この解釈にも一定の限界があることも最後に付記しておかなくてはなりません。それは「通院という出来事の非対称性から生じるバイアス」です。
 ここでいう「通院という出来事の非対称性」とは、受付の方にとっては「患者が通院してくるという出来事」が、「日々、数分単位で繰り返されるオペレーション」であるのに対して、患者にとって、それは「当事者意識の強い、一回性の、しかもネガティブな出来事」であるという事実です。すなわち、ここには立場の違いによる「非対称性」が存在する。

 ということは、もしかすると、彼女がそれほど「やばい接客」をしておらず、いつものように接しているのだけれども、患者の方からみれば、それが「疳の虫に触る可能性」があります。患者にとってみれば、通院とは「苦しい」中で、藁をもすがる思いで成し遂げる出来事であるのだから。
 そう、ここで、彼女を厳しい面持ちで見つめる「僕自身」の目にも「バイアス」がかかっていないかを、検証する必要があります。

 嗚呼、なるほど。
 現場の問題は、いつも根深い。

 そう考えると、なんだか「怒り」が収まり、仏像のように非常に穏やかな面持ちで、受付を後にして診察室に入ることができました。
 嗚呼、わたしに、穏やかな思惟の時間をありがとう。学問とは素晴らしいものです。

 さっ、診察うけよ。

 ▼

 帰り際、また受付をとおります。
 あっ、今度は人が変わりました。先ほどの女性はいなくなり、新たな方が受付にたっています。

 会計時、今度の受付の方は、非常に易しく、子どもにも接してくれます。そのほほえみに癒されました。興味深いのは、ここが、「先ほどと同じ病院」とは、あまり思えません。受付のクロゼットの色すら「暖色」に見えてくるから不思議です。嗚呼、あたたかい。

 そう、結局、「人」なのです。
 「人」で「風景」は変わるよね。

 そして、人生は続く