「宛先」のある研究とは何か?:他ならぬ、あの人に「届く」研究を模索する

 いつも僕が、自分の大学院生に投げかけている言葉のひとつに、

 「宛先のある研究をしなさい」

 というものがございます。「宛先のある研究」とは、言葉を換えれば、

 「誰か」のための研究をしなさい

 ということです。研究をなす前に、まずは自分の研究をお届けしたい「誰か」をひとり(一群)決めてください。自分の研究を通して、「誰か」に付加価値をお届けするマインドで、研究計画をかき、研究方法論を検討し、研究をまっとうしてほしいと思うのです。

 困っている「誰か」、何かを待っている「誰か」、何かを成し遂げようとしている「誰か」・・・そういう人を「決めて」、その顔を思い浮かべて、彼らに価値を返すことを願いながら、研究を組みたてて欲しいのです。

 もちろん、これは僕の研究領域だからこその指導方法であり、また、僕の指導学生さえそうしてくれれば、僕はそれ以上は何も望んでいません。
 分野によっては、全くあてはまらない領域もあるでしょうし、あてはまる必要のない基礎的な領域もあると思います。また、指導学生ではない他の大学院生の方が、どのような研究を為そうが、僕は感知するところではありません。

 また、誰かに「お届けしよう」と研究をなしても、実際に現場の方々に「付加価値」をお届けできるかどうかはまったくの「未知数」です。「思えば実現する」ほど、現場と理論の間に潜む「死の谷」の深さは、浅いわけではありません。

 自戒をこめて申し上げますが、「付加価値」をお届けしようと力むくらいが、丁度良いくらいとも思います。それだけ力んでも、現場にインパクトをもたらすことはなかなか難しいものです。いや、実際は「付加価値をお届けしよう」と顔を思い浮かべながら研究をなしても、届かないことの方が多いかもしれません。「思えば実現する」ほど甘くはないですが、「思わない」よりは「思った方」が実現する可能性は高まる・・・そういったところでしょうか。

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 こうしたことを僕が述べるようになったのは、自らの「苦い経験」があるからです。経験の浅い頃は、とくに「宛先のない研究」「誰にも届かない研究」を積み重ねてしまいました。

「論文誌にのせること」「研究として成立させること」を「宛先を確保すること」「自分の研究のお届け先を決めること」よりも優越させてしまった経験というものが、僕にも確実に存在します。そして、自分としては、そのことを、あまり今は誇らしく思っていません。たしかに成果はあげられたけれども、心のどこかにひっかかりが残っています。

「あー、研究としては成立したからいいけど、あれでよかったんだろうか」

 と。

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 今日は「宛先のある研究」「誰かのための研究」のお話をしました。この価値は、おそらく、今後、僕の研究指導がどのような形態に変わろうとも、きっと変わることのないもののように思います。

 中原研は、研究室の仕事も多く、大学院生は、いくつかの共同研究プロジェクトを掛け持つことが多いため、なかなか忙しい日々を過ごすことになりますが、ぜひ、こうした研究を続けていって欲しいな、と思います。

 そして人生は続く

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追伸.
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