「何がわからないか言ってごらん」という言葉は「わからなさ」をさらに増す!? : 「かみこんで」やらな、変わりまへんな!

 昨日は、臨床心理士の先生との対話を通して、僕が印象的だったことをお話ししました。
1)「なぜ〜しなかったんだ」という言葉は「理由」を聴いているわけではないこと。2)さらには「なぜ〜しなかったんだ」は二重拘束を内包すること、について、ゆるゆると書きました。

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 実は、臨床心理の先生とお話していて、もうひとつ興味深いことがあったので、今日は、その話です。それは、

「何が、わからないか、いってごらん。なぜ、わからないんだ!」

 という言葉です。
 この言葉も、おそらく、上司 - 部下の関係の中で、あるいは教員 - 子ども、親 - 子どもという非対称な関係の中で、用いられる可能性が高い言葉のように思います。そして、これは相手を追い込んでしまう言葉として機能する可能性が高い、ということです。
 つまりは「わからない側」、つまりは、言われる側を、必要以上に困惑させてしまう言葉のひとつだ、という話でした。

 なぜか?

 それは「わからない人」は「自分が、何が、わからないか」すら、「わからない」ことが多いからです。
 「自分が、何が、わからないか」すら、「わからない」人に、何を問うても、それ以上、説明はできません。どんなに彼が「頑張って」も、どんなに「努力」をしても、「何がわからないか」を「わからない」人には、「わからなさ」を口にできないのです。
 むしろ「何がわからないか」をわかっていない人に、「わかっていない理由」を「なぜ」と問うても、かえって、「わからなさの濃霧」は増して、濃くなるばかり。さらに、プレッシャーがかかるので、場合によっては、パニックです。そんなとき、人は、沈黙を守り、肩をすくめ、怯えるのです。

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 臨床心理の先生は、「なぜ、わからないか?」を考えるのは、「わからせる側」の責任だとおっしゃっていました。
 たとえば、教育の現場ならば、「相手がなぜわからないか」を考えることは「教える」という活動の根幹であり、それは「教員」が「考えるべき問題」であるということです。

 おそらく、こういうときはひとつひとつ相手の理解を確かめていくこと。相手がどこまでわかっているかを確認していく作業が必要であるように思います。そもそも何が起こったのか。何をしようとしたのか。ひとつ足を一歩手前に引いて、そもそも、の部分から理解を確かめていく必要があります。

 そんなことを考えていたら、先日、ヒアリングでお邪魔した、あるマネジャーさんの言葉を思い出しました。彼は、「言葉にならない人」に、ひとりひとり「かみこんで」、言葉にすることを促します。

 言葉にならない人はいるんですわ。そういうひとは、ひとつひとつプロセスみてやって、行動とか、考え方とか、「かみこんで」やらな、変わりまへんな。

 ここまでわかっているか。 なぜ失敗したんや。次、どうすりゃええねん。ひとりひとりに、かみこんでいくんです。

 皆さん、苦労なさっていますね。

 それにしても、異なる学問分野の先生との対話は、刺激的です。なかなか深く考えさせられました。ありがとうございました。

 そして人生は続く。