「インタラクティブな学習の大切さ」を「非インタラクティブ」に伝える!? / 「対話と学習のあり方」を「非対話的」に伝える!?

「学習の方法」を他者に「伝える」というのは、まことに「再帰的」な営みであります。

「インタラクティブな学習がこれからは大切ですよ、かくかく、しかじかなやり方でも、できるんですよ」と「ノンインタラクティブなやり方」で「伝えられること」に、僕がもし学習者であったとしたら、矛盾を感じてしまいます。

「対話をとりいれた学習が、これからの社会では求められるんです。かくしかじかなやり方で、できるんですよ」と「非対話的」な姿勢で「伝えられ」ても、僕は、ピンときません。

「コミュニティの中で、インタラクションしながら、学ぶことが、大切なんですよ。かくかくしかじかなあり方があるんですよ」ということを「超特権的・絶対安全圏」からハイアラーキカルに一方向的に語られても、僕には、どうもピンときません。

 「伝える」ということが「情報を発信した」ということではなく、学習者本位の価値観に立脚し、「相手を変えること」「相手をゆさぶること」であろうとするならば、上記のような状況は「伝えたこと」にはなりません。
 すなわち「インタラクティブな学習」や「対話的な学習」や「コミュニティの中での学習」を「伝えよう」とするのであれば、「インタラクティブな学習の中」や「対話的な学習の中」や「コミュニティの中での学習」をつくりだし、その中で学んでもらう必要があるように、僕は思います。

 ということは、「インタラクティブな学習」や「対話的な学習」を他者に勧めたり、伝えたいと願う人は、自らも「インタラクティブな学習」「対話的な学習」の「実践」から逃れることはできません。
むしろ、自らが、身を投企してつくりだす「学習機会」を「通して」、その価値ややり方を「伝える」必要があるように思います。この意味で、こうした人々は「再帰的自己」として生きることを覚悟せざるをえないように僕には感じます。

 このあたりは、研究者によって、いろいろ考え方はあるんだと思います。

 しかし、「学習の革新性」「革新的な学習」を「語る」ということは、「再帰的自己」を受け入れることなのだ、ということを「意識せず」に、敢えて「気づかないふり」をして、わたしたちは、これまで、これらを「饒舌」に語っていなかっただろうか。激しい自戒をこめて、僕はそう感じています。

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 昨日から募集が開始された、7月6日(土曜日)に予定されている、下記の研究会においても同じことが実現できそうです。

※2013/05/28 13:10 参加お申し込みが、本イベントの定員を超えたため、やむなく申し込みを締め切りました。お申し込みいただきましたみなさま、ありがとうございました。数日以内に、参加の可否につきまして、結果をメールにてご連絡差し上げます。

対話をうみだす"実践知"を、トップランナーから学ぶ」 : 子どもの対話 vs 大人の対話  小学校教諭・菊池省三先生  プロファシリテータ・加藤雅則さん をお招きして
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/05/_vs.html

 この研究会では、小学校教諭・菊池省三先生  プロファシリテータ・加藤雅則さんをお招きして、「対話と学習」に関して探究を深めたいと考えています。その際、お二人に御願いしているのは、ご担当いただける「セッション」のあり方自身も「対話的であること」です。
 おそらく、それぞれの専門性、それぞれがお考えになる「対話的学習」の素晴らしいセッションをみせていただけるのではないか、と思います。

 昨日から募集がはじまっており、すでに募集人数は200名を超えました。重複のある応募などがございますので、そちらの情報整理する必要がございますが、おそらく本日中には、予定よりはやく募集を停止せざるをえなくなると思われます。

 どうかお早めに!
 そして人生は続く