矛盾する「親のわたし」

 今日は、思い切りプライベートな話題です。

 といいますのは、昨日の夕方、僕は「言葉に表しにくいような変な気分」を経験したのです。ほんの短い間でしたが、自分の中に「明らかに矛盾した感情」が生まれ、それを、一瞬だけ意識しました。

 プライベートな話題といいますのは、息子TAKUZOのことです。

 TAKUZOは、今年3月保育園を卒業し、この4月から小学校に通います。学校がはじまるまでは、「学童保育」ということで、朝から晩まで、近くにある学童保育施設に通っています。
 新しい環境ということで、少し不安だったのですが、今のところ愉しく通っているようです(本当にうちの子はヨワキャラなのです)。

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 で、いつもなら、夕方、愚息・TAKUZOを迎えに、保育園に行くのですが、昨日は、なんと、自分で学童保育からおうちに帰ってくるのです。
 リビングにかけてある時計に目をやり、あっ、そろそろ、迎えに行かなきゃ、と思い、立ち上がって、はたと気づきました。

 「あっ、もう、おれ、お迎えに、行かなくていいんだ」
 
 正しくは4月1日からそうだったのですが、あいにく僕が自宅にいたのは、昨日がはじめてでした。

 僕が、迎えに行かなくても、帰ってくる。
 TAKUZO、もう、帰ってくるんだ・・・。

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 冒頭の「変な気分」が心の中に生まれたのは、この一瞬でした。
 こちらとしては、「手がかからなくなった」ことを素直に喜ぶべきなんでしょうけれども、なぜか「喪失感」に似たような感覚がありました。
 単純に「TAKUZOが家に帰ってくる」、ただ、それだけのことで、本当に、たいしたことじゃないんですよ。でも、その一瞬、変な感情がわいてきたのです。

 あっ、もう、お迎えチャリ、乗らなくてもいいんだ
 あっ、もう、お迎え時間ぎりぎりで、爆走しなくていいんだ
 あっ、もう、雨のこととか、天気のことを気にしなくていいんだ
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 あっ、もう、おれ、やらなくてもいいんだ。
 もう、あの頃は、戻ってこないんだ。。。

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 TAKUZOは小学1年生。

 そうはいっても、まだまだ手は(がっつり)かかるんでしょうけれども、こうやって、ひとつひとつ、親から離れていくんだな、と思いました。くどいようですが、昨日の出来事は「お迎えなしで帰ってきただけ」。本当に、たいしたことじゃないんです(笑)。
 でも、日常に埋もれた一瞬の出来事に対する、心の反応は、少し複雑で、少し切ないものでした。

 よく言われることですが、メンター(世話をするひと)-メンティ(世話をされる人)にとって重要な契機は「出会うこと」「かかわること」でもあり、「離れていくこと」です。

「出会うこと」や「かかわること」がなければ、メンタリングは、そもそも生まれません。しかし、「離れていくこと」がなければ、メンタリングは「完結しない」ことも、また事実なのです。
 そういう意味でいうと、メンターとメンティは、「離れること」や「別れること」を宿命づけられた関係であり、それがあって、メンティは「他律」から「自律」を獲得できます。
 離れなければならないのです、自律のためには。
 
 僕は、こうしたことは、概念的知識としては「頭」では理解していました。さらには、何も考えずに、こうした抽象的知識を、文字に、起こすこともできます。
 しかし、一方で、自分の心の中には、どうにも矛盾した感情が芽生えていることも、認めなくてはなりません。

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 これまで、我が子を見て、

「あー、早く、大人になって欲しい」

 と思ってきました。
 今なお、そう思っています。
 それは事実です。

 しかし、同時に

「そんなに、急いで、大人にならんでもいいのにな・・・」

 とも感じています。
 これも、また、真実です。

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 僕は「矛盾」しています。
 そして人生は続く。