記録することとは、丁寧に見つめること、こなさないこと

「暇人」というわけでは全く「ない」のですが、最近、「自分の日常を記録することの意味」を考えます。

 今年になって、このブログを、ほぼ毎日書くことを心がけていたりするのも、このようなことを考えるきっかけのひとつでしょう。毎日起こっている出来事や研究の進展をネタにしながら、ブログを毎日書き続けるのは、正直、ハード(Hard)です。

「くだらないことを毎日書くんじゃない」
「きちんと煮詰まってから言葉にしなさい」

 というお叱りや失笑も多々受けていそうな気がしますが、一方で、

「いつも、そんなことを考えているんですね!」
「今日のブログは、あるある、と思いました」

 なんていうお声を、ごく希に頂戴するのも、また嬉しいものです。もう少し、この「実験的実践」を続けていきたいと考えています。今年は「第二の創業期」です。

 ブログの他には、この数ヶ月、ビデオ編集にも凝っています。このことも「自分の生活を記録することの意味を考える」きっかけになっていることかもしれません。

 先週の日曜日は、TAKUZOと僕の二人で過ごしたのですが、二人で散歩して出かけた様子を下記のようなショートビデオにまとめたりしました(たいしたものではありません・・・単につなげただけ、笑)。

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「自分の日常を、様々なモダリティ・メディアを使って記録すること」を敢えて「習慣」のように続けていますと、面白いもので、自分に「変化」が生まれてくることに気づかされます。「頭で知る」というよりも、「じわじわと体感すること」に近いことかもしれません。

 いくつかある変化のうち、最大のものは、「今、この一瞬を、丁寧に見つめるようになる」ということです。「丁寧に」というのがポイントです。

「この一瞬は面白いな、言葉にするとしたら、なんと表現しようか・・・」
「今の光景は、見落としていたな。でも、良い絵になるだろうな・・・」
「あれは、ずっとこれまで見落としてきたな。なぜ、こんな綺麗なもの、面白いものに、これまで気づかなかったんだろう・・・」

 自分自身が「生活の実践者」でありながら、「観察者」であり、かつ、「ディレクター」であるような感覚というのでしょうか。自分の生活のごくごく身近なものの中に「表現」を探してしまう感覚とい言ってもよいかもしれません。もちろん、たいした表現のクオリティではありません。あくまでドシロウトレベルです。

 でも、レベルはそれほど高くはなくとも、そういう習慣を続けておりますと、少なくとも「自分の生活をメタ的に、丁寧に眺める視点」というものが生まれるような気がします。あるいは「自分の生活を、こなさなくなる」「自分の生活を、流さなくなる」といってもいいかもしれません。
 ちょっと、なかなか、うまい言葉がなかなか見つかりませんが、そんな感覚を憶えつつ、日々雑事の中で過ごしています。

 もちろん、このことは、もしかすると言い古されたことなのかもしれません。
「アカデミックな世界」や「理論の言説空間」に通じている方は、「そんなこと、ドキュメンテーション(記録)研究で、さんざんこれまでに指摘されてきたことじゃないか」と思われるむきもあるでしょう。
 もちろん、そのことは僕も「頭」ではわかっていました。でも、それを「自分の身体」「自分の生活」で体感いたしますと、「頭」とは違った「認識」が生まれているのも事実なのです。

 その「認識」が、何かをしっかり言葉にすることが、僕の課題なのかもしれません。自分自身と自分の生活を「実験台」にしながら。
 この領域においては「ドキュメンテーションを理論的に饒舌に語ること」よりは「ドキュメンテーションを自ら実践しながら、その意味を体感しつつ、言葉にしたいな」と思います。

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 いずれにしても、「暇人」というわけでは「全く」ないのですが(大学の仕事もハードなんです・・・)、「自分の日常を記録することの意味」がもう少し言葉になるまで、この「実験」を続けていきたいな、と考えています。一方で「新しいこと」を考え、実践しながら。

 今、また「新しいワークショップ」を実践しようと、何人かの方々と話をしています。それらの方々にも「メディア」をもって、今、その活用の可能性をさぐりながら、生活をなさっていると思います。

 その上で、「表現メディア」を、ワークショップ参加者人数分、用意しています。
 これを一般の方々にお渡し(貸与)し、自分の身近な物事を作品にしたとしたら、どんなことが生まれるだろうか。
 これからはじまるであろう「新たな実験的ワークショップ」が楽しみです。

 記録することは、丁寧に見つめること
 そして、生活を、こなさないこと

 そして人生は続く