「ワークショップ疲れ」という現象の背後にあるもの:「風呂敷的ムーヴメントとしてのワークショップ」の普及と変化

 これは僕だけが感じていることなのでしょうか、どうも、最近、人々のあいだに、「ワークショップ疲れ」というものが生まれているような気がします。

「げっ、また6人グループになんの?」
「またポスターとマジックと付箋紙かよ」
「どうせ、どんな提案をしても、落としどころが、最初から決まってるんでしょ」

「ワークショップ」というラヴェルで括られる「何か」に、人々が、疲れはじめている。
 もちろん「人々」といっても、どこまで一般性のある話かはわかりませんが、そんなことを、去年の秋頃から、とみに感じます(このことは、かつて、ブログ記事でもご紹介しました)。

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 これは、わたしの持論ですけれども(一部は、近刊「プレイフルラーニング」に描きました)、ワークショップとは「Alternative(オルタナティブ)」「Amature(アマチュア)」「Interactive(インタラクティブ)」、そして「Spontanous(スポンテイナス)」「Indivisual(インディヴィジュアル)」「Externalization(エクスターナライゼーション)」の6つの概念によって彩られている「何か」であると、思います。

 そして「それが何か」に関しては、「二つの視角」から「スポットライト」を「照射」して考えることができるのではないか、と思います。
 
 第一の視角は「学びの提供側」の視角。
 この視角に立って、ワークショップをながめてみますと、それは「オルタナティブな学び・活動の場」であり、その担い手は「アマチュア」であり、そこで展開される学習活動は「インタラクティブ」である、ということになります。
 ここでアマチュアとは「教育の専門家」ではない、という意味です。「教育とは異なる領域の専門性・経験をもつ人々で、教育の専門家ではない」人も、あえて、この中に含むものとします。別の言い方をすれば、Subject Matter Expert(内容に関する知や経験をもった人々)ではあるけれど、決して、「教育の専門家」ではない、ということになりますね。

 第二の視角は、「学びへの参加者からの視点」です。
 この視点によりますと、ワークショップとは、人々が「個人(インディビジュアル)として「自律意思(スポンティナス)」によって参加し、何かを「外化(外に出すこと・発信すること・表現すること:エクスターナライゼーション)」を通して、「共愉(コンヴィヴィアリティのある)学びや活動」を経験することができる機会である、ということになります。
 そして、場合によっては、「今は参加者」の自分ですら「ワークショップの提供側」にたつことができる。なぜなら、そこは「アマチュア」にって運営され、開かれた場であるから。

 ここまでの議論をまとめます。
 いずれの視角においても「着地点」は明らかです。
 それは、ワークショップとは、もともと「フォーマル・エデュケーション」ないしは「学校」に対する「アンチテーゼ」として立ち上がってきた、いわば「運動(ムーヴメント)」のようなものだということです。

 それは「手法」でも、ましてや「コンテンツ」によっても規定されるものではない。だって、「ワークショップ」という名称を関した場において、採用されている「学習手法」も、「学習内容」も多種多様でしょう? 
 造形、まち作り、アート・・・学習内容は、いろいろあるでしょう。ワールドカフェに、グループ学習、個人創作、ジグソーメソッド・・・学習手法だって、いろいろあるでしょう。
 それらの多種多様な要素から、「ワークショップとは何か」を形而上学的に規定するのは困難であると、僕は思います。むしろ、そうした物事から、ワークショップとは「語り得ぬ」ものである。

 むしろ「アマチュア」な個人が、それぞれの専門性や経験を活かして、自由意思によって提供する場であり、そこに人々が参加し、外化・表現することによって学ぶことのできる「ムーヴメント」である、というのが僕の結論です。

 この場合の、「フォーマルエデュケーション」ないしは、「学校」とは、第一の視角によれば、「教育のプロフェッショナルによって担われる、導管型の学びの場」であることが想定されています。
 第二の視角によれば、「フォーマルエデュケーション」や「学校」とは、「国家・社会の秩序維持のために行われる、第三者による学びの構造化・組織化」のことをさします。
 いずれも、ワークショップは、これらのものとは、時に「対立・対峙」し、それゆえに「存続」することができた「オルタナティブな学びのムーヴメント」であった、ということになります。
「オルタナティブ」とは、「対立できる何か」がなければ「レゾンデートル(存在証明)」はなくなるものです。

(上記の定義は、フォーマルエデュケーションや学校を、相当にマクロな視点からみたものです。あとに述べますが、一概に、フォーマルエデュケ-ションや学校であっても、アマチュアが参加する場合もありますし、インタラクティブな学びの場はたくさんあります。ここでは敢えて議論をクリアにするために、概念を対照づけて考察していることをお許し下さい)

 少し考えてみればわかるように、「学び」とは、決して、「フォーマルエデュケーション」や「学校」の提供するものに、限られるわけではありません。

 プロフェッショナルではなくても、アマチュアであっても、学びを提供できる

 学校ではなくても、市街地や路地においても、学びを提供できる

 第三者に強制されなかったとしても、人は個人で学ぶことができる

 そういう「フォーマルなもの」「学校的ではない」ものから抜け落ちてしまう学びとは、世の中に、実に、たくさんあります。
 つまり、人々が意識せずに実践しているものの中で、「学び」と関連づけられるものは、多種多様にある、ということです。
 僕は、そういう「既存の概念から抜け落ちたもの」を大きく、緩く、くるみこむ「風呂敷のようなもの(包括的概念といえばいいのでしょうか?)」として「ワークショップ」というラヴェルをとらえています。

 ひと言でいえば、

 ワークショップとは「風呂敷的ムーヴメント」である!?

 あるいは、もう少し、表現をかえていうならば、

 ワークショップとは「オルタナティブムーヴメント」に掲げられた「旗」

 である、ということになるでしょうか。

 あるいは、全く違う角度から、それを記述するならば、

 ワークショップとは、
 「誰もが教え手になることはできるのだ」
 「人は、自分の学びに自らイニシアチブをもてるのだ」
 という「実践的思想」である

 ともいえそうです。
 そうした「思想」をゆるやかに共有する「想像の共同体」が、「ワークショップという言葉を用いる人々の集団」ではないか、と僕は思います。

 ま、後者二つ「旗」とか「思想」は、まだいいけど・・・
 最後にでてきたのは「風呂敷」か。。。

 ごめん(笑)。
 怒らないでね。
 真に受けないでね。。。

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 しかし「事態」は変わってきました。
 それは「ワークショップのフォーマル化」「ワークショップのドグマ化」という事態の進行です。

 第一の「ワークショップのフォーマル化」とは、ひと言でいえば、「永遠のオルタナティブ」として存立可能 - 逆に言えば、フォーマルエデュケーションをアンチテーゼとして存立してきた - であったワークショップが、表舞台にでて、スポットライトを浴びることになります。

 しだいに、会社、組織、学校、病院様々なフォーマルな場面において、「ワークショップなるもの」が取り込まれ、実践されることになってきました。
 この事態は、先ほどの2つの視角でいう、後者を毀損する可能性が高くなります。
 なぜなら、それは「個人が自由意思で集う場」であったはずなのに、「組織によって、第三者によって、学びを統制される要素が生まれてきた」からです。

 第二の「ワークショップのドグマ化」とは、ワークショップを「手法・技術として固定化・組織化・確立」させ、それをしかるべきかたちで「知識配分」していく仕組みのことをいいます。
 こうした動向が固定化しすぎますとと、「荒々しい、アマチュアによるムーヴメント」であったはずのワークショップは「固定化」され、「秩序化」された手法として普及し、知識配分が開始されることになります。つまり「ワークショップの担い手のプロフェッショナル化」が進行します。

 これら二つの事態をまとめます。

 すなわちで、ここで述べていることは、上記6つの特徴で彩られていた「ワークショップなるもの」が、すべての特徴を失ったわけではないにせよ、少しずつ、「色褪せる可能性」をみせているということです。
 
 まずは、フォーマルなものに取り込まれる事態、ドグマ化していく事態がそれを加速させています。さらにそれらに加えて、「普及がはじまってきたこと」が相乗効果を生み出しています。
 「普及」に関しては、ワークショップが「イノベター」や「アーリーアダプター」によって担われている状態でしたら、そのスピードは緩やかだった。しかし、いまや、ワークショップという言葉は普及し、マス化しはじめてきています(このあたりはロジャースのイノベーション普及論をご参照ください)。

 こうした一連の動きのなかで、ワークショップがもともと持っていた諸特徴が、色褪せていく事態は、確実に早まっている。そして、そのことが、もともとワークショップがもっていた「コンヴィヴィアリティ」を失わせてくることになったとしら、それは少し厄介な事態です。

「げっ、また6人グループになんの?」
「またポスターとマジックと付箋紙かよ」
「どうせ、どんな提案をしても、落としどころが、最初から決まってるんでしょ」

「ワークショップ疲れ」は、まさにこのような「地平」に少しずつ生まれてるような気がします。

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 今日はどちらかというと、議論をクリアにするために、「フォーマルエデューケーション」や「学校」などの、様々な諸概念を、「ワークショップ」と敢えて対照づけて議論をしてきました。この点に引っかかる方がいるかもしれませんが、どうかお許し下さい。

「フォーマルエデューケーション」だって、いろいろあります。それが提供する教育の多くは、インタラクティブで、個人が光るものもあります。日本の初等中等教育において提供されている授業は、米国の授業と比較して、インタラクティブで仮説生成的であるという比較研究も、多々あることはよく知られている事実です(1980年代の教室比較研究ですね)。
 これまで学校教育が培ってきた経験・提供価値を、僕は十分承知しておりますし、むしろ、僕は、我が国のフォーマルエデューケーションや学校教育のクオリティの高さに(いろいろな問題があることは承知しているつもりです)、もっとプライドをもつべきだと思っている人間です。

 また、誤解を避けるために申し上げますが、僕は「ワークショップ的なもの」「風呂敷的ムーヴメント」は、現代社会において、とても大切だと思っています。
「オルタナティブ」「アマチュア」「インタラクティブ」「スポンテイナス」「インディヴィジュアル」「エクスターナライゼーション」に彩られる学びの場を、自らももっとつくりだしたいと願っている人間です。決して「ワークショップ的なもの」の価値を毀損したいと思っているわけではありません。むしろ、「ワークショップ的」な「風呂敷ムーヴメント」を大切にしていかなければならない、と思っています。

 けだし、世の中というものは、ほおっておけば、「オルタナティブ」「アマチュア」「インタラクティブ」「スポンテイナス」「インディヴィジュアル」「エクスターナライゼーション」とは「対局にある価値」が高くなっていくものです。

 管理、権力、体制。
 教条化、固定化、体系化。

 ほおっておけば、「スポットライトを浴びて、人々の関心を集めた物事」であればあるほど、そうした方向に進んでいく可能性が高くなります。
 ですので、そうしたものに「抗う諸力」を、社会が持つことはとても大切なことだと僕は思っています。要するに「バランス」なのです。

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 これは、「プレイフルラーニング」でも書いたことですが、「ワークショップは、今、岐路に立っている」と思います。

 固定化・教条化・秩序化を拒否し、新たなものを次々と生み出していく革新行動が、「想像の共同体」においておこるかどうか。
 つまり、「ワークショップ」が、本来の意味での「ワークショップ」であり続けることができるかどうか。

 そして、それを支える実践的コミュニティ、そして、実践的研究が生まれるかどうか。それらを通して、人々を魅了する、革新的な学びの場が、生まれてくるかどうか。そこに魅了される人々が、さらに新規参入してくるかどうか。

 「実験的(Experimental)」な精神を持ち続け、先達がつくりだしたワークショップ文法を超える努力を、その担い手たちが実行することができるかどうか。そして「永遠のカウンターカルチャー」としてのロールモデルを演じつづけることができるかどうか。そして、それを通して人々を魅了できるかどうか。

 「量的拡大は質的転換をもたらす」とは有名なテーゼですが、量的に拡大し、多くの人々が参加しつつある、今だからこそ - フォーマル化・ドグマ化がひたひたと進行しやすい今だからこそ - ポジティブな質的転換のサイクルに向かう必要があるように思うのは、僕だけでしょうか。

 「風呂敷的ムーヴメント」を「オワコン」化させないために、今、そのあり方が、問われています。

 そして人生は続く
 さ、はよ、寝よ。
 なんか、寒いぞ。

追伸.
 日曜日に、某所で「企業とワークショップ」についてお話ししなくてはならないのですよね。そのプレゼンをつくっていて、今日の話題にいきつきました。