自分のファシリテーション、ワークショップ、研修などを見直す方法

 自分の「顔」は、決して、自分の目で直接見ることができるわけではありません。

 あなたが、直接見ることのできないものの中で、もっともアイロニーを感じざるをえないものは、「あなた自身を象徴するもの」のひとつである「顔」であります。

 多くの人々は、「自分の顔」を見るとき「鏡」を用います。そして「鏡」に映った自分を見て思うのです。

「最近、老けたな」
「最近、ちょっと、顔が丸くなってきてない」
「今日一日、わたし、ハナゲ飛び出子さんだったわ」
「あら、昼食べた焼きそばの青ノリが、歯に一日ついてたわ」と(笑)。

 かくして「己」を知る。
 焼きそばのノリも、ハナゲも、あまり本題とは関係ないですが(笑)

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 これと同様に(!?どこが同様?)、自分自身の提供しているファシリテーション、講義、というのも、自分ではわかっているようでいて、わからないものです。

 やっている自分は前にでたら「ガチ本気」ですから、それを「客体視」することは、わかっていても、なかなか難しい。

 だからこそ、自分の行う「ファシリテーション」などの実態を「把握」するためには、リフレクティングミラー(あなたのあり方を映し出してくれる鏡:Reflecting Mirror)が必要です。
 それは、録画された動画や音声などの「ツール」であったり、あなたのファシリテーションや、授業を見ている「他者」であったりします。

 Reflecting Mirrorを通して、自己を見直す。

 社会構築主義ではないですけれども、「自己」のためには、「他者」や「言語」による媒介が必要なのです。

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 面白いもので、自分が前で喋っている様子 / ファシリテーションしている様子を録画されたビデオを見てみると、恐ろしく「自分が思い描いている自己のイメージ」と異なっていたりします。

 プレゼンテーションしているときに、自分としては身体を動かしていないつもりでも、これが、奥さん、ちょっと聴いて(!)。ほれ、ムーミン谷の「ニョロニョロ」のように動いていたりします。こんなんだっけ? ニョロニョロって、ちょっと描いてみました。

Doc-12_08_06 7_28-page-1.jpg

「おら、ニョロニョロ動いているよ、あちゃー」

 という感じですね(笑)。

 ちなみに、僕の後輩にひとり、アカデミックプレゼンのときに身体を揺らす、愛すべき「ニョロニョロ」がいます(ゴメン、ネタにして)。
 こないだ、久しぶりに学会で見たら、昔よりもあまりプレゼン中に動かなくなっていました。「ニョロニョロ」ならぬ「ニョロ」くらいにはなったかね。もう一息だね。

(ちなみに、昔、中原研では、学会発表の前に、研究室のメンバーで学会発表の練習をするとき、ビデオでとって、自分で見てもらう、ということをやっていました。自分のプレゼンを見るのは、なかなか衝撃的です)

 閑話休題。

 はたまた録音された音声などを見てみると、さらに「悲劇的」です。

「えーと、えーと」

 と連呼している自分にモレなく気づくことができますし、

「そのファシリは無茶振りだろ! あー、ここは、あーすべきだったなぁ、失敗、失敗」

 という反省点にも気づくことも可能かもしれません。

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 実は、もっと「どM」な方には、ひとつ効果的だと勝手に僕が思っている方法があります。

 それは、自分のやったファシリテーション、講義、ワークショップなんでも結構ですが、それを「テープ起こし(逐語録)」をすることです。
 これは「苦行」以外の何者でもありません。はっきりいって「拷問」です。だいたい1時間の逐語録をとるために、たぶん5時間くらいはかかると思います。

 すべての自分がしゃべったこと、そして学習者がしゃべったことを「逐語録」でおこす。そうして、もし可能だとしたら、ひとつひとつの発言事に、何らかのカテゴリーを振ってみたりするといいと思います。

 そうすると、面白いことに、「あなたがつくりだした学びの機会のコミュニケーションパターン」がわかってくることがあります。

 つまり、その場で、誰が、どういうやりとりをしていたのか。その場で支配的だったコミュニケーションとは、どういう特徴をもっているのかがわかります。

 例えば、かつて、Mehan(ミーハン)という会話分析の研究者は、「教室の会話構造」を「I - R - E」という表現しました。

 IREとは「Initiative : 発問」- 「Reply:反応」 - 「Evaluation:評価」の3項ですね。教室とか学校に支配的なコミュニケーションパターンは、この3つの連鎖から成立している、というのです。

 具体的には、例えば「子どもちゃんの教室」を想像してみてください。ある教室において、先生と子どもの会話がこのように続きます。まず先生からの「発問」

先生 「・・・この状況だとバスは何時にきますか?」(Initiative : 発問)
子ども「3時です」(Reply:反応)
先生 「そうですね、よろしい」(Evaluation:評価)

 これは、普通の教室では「当たり前な会話」ですし「全然違和感ない会話」ですけれども、「街で普通の人々がやりとりをしている通常の会話」と比べると、少し「変」ですね。ふつうの会話ならば、こうなるはずです。特に3つめに注目です。

街のおねーちゃん「バスは何時にきますかね?」(Initiative : 発問)
街のおにーちゃん「3時くらいです」(Reply:反応)
街のおねーちゃん「ありがとう」(Appreciation:感謝)

 つまり、ふつうならば「感謝」で終えるところに「評価」がきている。「バスは何時にきますか?」と聞いて、答えてくれたのにもかかわらず、教室では最後は「感謝」ではなく「評価」で終わるのです。
 先生は最初から自分が知っていることを聴いている、ということですね。そして「評価」が教室のコミュニケ-ションパターンを支配している、ということです。

 もし「どM」な方が、こうした会話分析の手法 - 例えばミーハンやらの会話分析 - に着想をもって、妄想力を広げて、自分の行ったセッションの逐語録にカテゴリーをふっていったとしたら、面白いことがわかってくる場合があります。

 例えば、

 自分としては、「いわゆる教室的ではないコミュニケーション」をつくりたいと思っていたのに、テープ起こしをしてみると、バリバリ、IREにハマっている・・・

 教えている自分としては、学習者が自ら問題を発見しているハズだったのに、実は、自分が答えを押しつけていたり、評価をしていたりする・・・

 ファシリテーションの自分としては、学習者の対話を促すために、あまり喋っていなかったはずなのに、実は自分が発問と説明ばかりしている・・・

 自分としては、学習者同志が自由闊達に対話をしていると思っていたのに、実は、「自分ーひとりかふたりの優秀な学習者」が話しているだけだったりする・・・

 自分としては、均等に学習者に発話を促していたはずなのに、困ったときには、必ず優秀な学習者に話をふって、お茶を濁している・・・

 こういう事例がわかってくるかもしれません。
 
 コミュニケーションパターンの分析というのは、逐語録をつくらなくてはならないし、大変なんで、よほどの「どM」な人でない限りは、それほどやらないとは思うのですが、でも、もし、自分が「教える側」にたつのなら、その前には、一度はやってみると、新たな発見があるように思います。

 面白いですね。

 みんな、自分がわからない。
 もちろん、
 僕も僕がわからない。

 かくして人生は続く。

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■2012/08/05 Twitter

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