「でもでもラーニング」と「だけだけラーニング」

 おまけですけどね、全くの余談ですけどね、そこのオクサン、ちょっと聞いて(笑)。昨日の科研会議で、中原、ビビビときたことがありました。

 三宅なほみ先生によりますと、あるロボットサイエンティストがこんなことをおっしゃっていたそうです。

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 これからは「でもでもロボット」の開発ではなく、「だけだけロボット」の開発がフィーチャーされる時代になる。

 今までのロボット開発は、いつ「でも」、どこ「でも」、どんな目的「でも」使えるロボット、つまりは一般的なロボットの開発がめざされていた。つまりは「でもでもロボット」が開発されていた。

 でも、これからは、この場「だけ」で、このとき「だけ」に、この目的「だけ」に使えるロボットの開発がめざされるようになる。つまりは「だけだけロボット」である。

 そういうロボットじゃないと、本当の意味で、人を支援することはできない。

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 この話を聞いて、僕は、ピンときたのよ、オクサン。
 ロボットのことは、あんまりわかんないのですけどね、でも、この話は、ラーニングにおいても、あてはまることなのかな、と。

 つまり「でもでもラーニング」から「だけだけラーニング」がフィーチャされる時代になるのかな、と。前者が後者に置換されるとか、そんなんじゃなく。後者がフィーチャーされる時代がきているのかな、と。

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 いわゆる一般的なeラーニングの目的は、「いつでも、どこでも」ですね。これが典型的な「でもでもラーニング」。

 でも、今一部で注目されているPlace-based learningの概念にしても何にしてもそうなんですけど、「でもでも」よりは「だけだけ」をめざしているのですね。

 つまりは、「学びってひとそれぞれ個別だよね」「学びってin situで、その場でその時におこるんだよね」ということを前提にして、そういう「個別化」「局所化」したところで起こる学びを、いかに支援するか、ということに世界の研究者の目が向いている、ということです。

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 もちろん、「でもでもラーニング」と「だけだけラーニング」の区別は、企業人材育成にだって、適用できると思うんです。

「いつの時代でも、どの人でも同じように受けていた階層研修」といったような学習機会が、少しずつ減っていき、仕事の現場のそこ「だけ」で、そのとき「だけ」に起こる学び - workplace learningに注目が集まっていると感じるのは、僕だけでしょうか。

 これ、論理飛躍しすぎ? こじつけ王子?
 自分のことを「王子」って呼ぶなって?
 じゃあ、「こじつけオヤジ」?
 すまんね、悪いね、申し訳ないね。

 でもね、僕はピピンときました。今、きっと、僕はLearning researchの変革のまっただ中に自分はいるんだ、と。個人的には「でもでもラーニング」と「だけだけラーニング」の今後に目が離せないな、と思います。