噺家さんとお客さん

 先日、パントマイム・パフォーマーのカンジヤママイムさんにお逢いしたおりに、お聴きした「噺家さんとお客さんのインタラクション」の話が忘れられない。

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 噺家さんたちは、演劇場には舞台の直前にしか入らない。演劇場の楽屋には、ネタ帳というのがある。ネタ帳には、その日の朝から今にいたるまで、それまでの噺家さんたちが演じた「演目」がリストされているのだという。

 噺家さんたちは、膨大な「演目」をすでに暗記している。彼は、このネタ帳を見て、自分の膨大な演目を検査する。自分が、次に、何の噺をすればよいかを、この時点で決定するのだという。

 面白いのは、噺家さんが、ネタ帳を見たときの反応である。
 一瞥して、

「今日の客は、素人が多いか」
「今日の客は、玄人が多いか」

 を判断できるのだという。
 素人の客が多ければ、それようのネタを用意する。玄人には玄人にきかせるネタがある。演目リストを見れば、だいたい玄人、素人が多いかは、おおよそわかるのだという。

 ここには、こういうメカニズムが作動している。

 まず、既に舞台にのぼっている噺家さんが、客の反応を見ながら、客は玄人が多いか、素人が多いかを判定していく。
 その様子を見るか、あるいは、話をきいて、次の噺家さんたちは、自分の演目を決める。その演目を見て、また次の噺家さんは、演目を決める。「前の演目の配列」が、その次の「演目」を決めるリソースとなっている。

「何が演じられるか」「その日一日がどのような場になるのか」は、噺家さんたちだけによって、決定されているわけではない。
 客の反応、そして、それを見た噺家さんの判断のインタラクションの果てに、「何が演じられるのか?」が決定されているのである。

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 この世界は、以前、紹介した「茶の湯と卒意」の話とつながるところがある。茶の湯の世界では、「おもてなし」には、下記の3つの原則があるという。

1.準備を整えて客を待つ(仕度の原則)
2.くつろげる空間を演出する(しつらえの原則)
3.ゲームのルールを共有する(仕掛けの原則)

 おもてなしは、まずは主人が取り仕切ることからはじまる。主人は、準備を行い、空間を演出し、客をまつ。あらかじめ前もって行う準備のことを「用意」という。

 しかし、おもてなしの本質は「主人」だけにあるのではない。上記3のルールを共有した「客」と「主客一体」になって、相互行為として達成される、というところが最大のポイントである。これを「卒意」という。

 おもてなしには、「用意」と「卒意」が必要である。つまりは、主人と客が、アドホックに機転を利かして場を構成する。

 おもてなしが成功するかどうかは、主人だけにかかっているのではない。主人と客のインタラクションの中に、おもてなしがある。

 「主人と客がともに一回かぎりの機会を思いやりをもって取り組もう」という「一期一会」、それにより「主人と客が心が通い合う状態」が生まれる「一座建立」は、こうしたインタラクションによって達成される。

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 これは、おそらく、演芸や茶の湯といった世界だけに言えることではない。
 フォーラム、セミナー、ワークショップというものでも同じだろう。きちんと主催者側が準備をしても、「お客さんが卒意をきかせてくれない場合」には、「よい場」にはならない。

 もちろん、そもそも「用意」ができていない準備不足のイベントは多々ある。そういうものは論外にしても、いくら準備をしても、その場の成功は、主人だけで決定されるわけではない。

 イベントを経験して、「あんまり面白くなかった」と感想を述べるのは簡単だ。

 しかし、その場の構成のため、
     あなたは「何」をしたのだ?

 そういうことを考えてみる必要があると思う。