外側に向けられたメッセージ

 最近、個人的に、グッときた言葉。

私は「メッセージ」が好きじゃありません。言葉が外に向かっていて、「自分自身」に向けられていないからです。

(谷川俊太郎)

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 特に、「この手の言葉」は、「教育の業界」に多いように思うのは気のせいでしょうか。敢えて自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますけれども、「外に向けた言葉」が、決して、「内側」、つまりは自分には返らないことが多い。

 自分とは切り離された「外側」に向けた「メッセージ」や「提言」は溢れている。しかし、その「メッセージ」や「提言」は、決して自己には返らない。
 くどいようですが、自爆的に、かつ、自戒を込めて言いますが、自己のあり方を内省し、自己を問い直すことの機運に欠けている傾向があるように思うのは、僕だけでしょうか。

 前にも述べたかもしれませんが、「教育の言語」「学びの言語」「成長の言語」は、それを発するものが意図しようと、しまいと、「再帰性」をもっています。
 外に向けられた言語は、あたかも、ブーメランのように、自分にかえってくるのです。

 あなたは、大人に学べという
 あなたは、大人に成長せよという
 あなたは、大人に変容せよという
 あなたは、大人に対話せよ、という

 で、そういう「あなた」はどうなのだ?

 あなた自身は、学んでいるのか?
 あなた自身は、成長しようとしているのか?
 あなた自身は、変わろうとしているのか?
 そして、あなたは対話の中にいるのか?

 自分の外側という名の「中空」に放たれたメッセージが、行き場を失い、漂い、淀み、腐臭を発することのないように。
「教育」や「学び」について語ることとは、自分を問い直すことなのではないか、と思うのです。