えっ、、、まさか、自分で靴も履けるの!?

 昨日、保育園で、考えさせられる出来事があった。
 保育園の先生が、「TAKUZO君は、今日、靴下を自分ではけましたよ」と教えてくれたのである。

「たかが靴下」と思うかもしれないけれど、僕は、びっくりしてしまって、思わず、「うそー」と声に出してしまった。
 なぜなら、僕は「靴下よりも難易度の低い靴すら、TAKUZOは、自分ではくことはできない」と思っていたからである。

「保育園では、靴下はけるんですか? まさか、靴とかも、自分ではいてますか?」

 保育園の先生に、おそるおそる聞いてみる。

「はい。手助けはたまに必要ですが、自分でやりますね」

 二度目の衝撃。

「食事とかはどうですか? 家では、途中で飽きて、自分で食べないのですけれど。保育園では、自分で食べますか?」

「途中でやめることはありませんね」

 三度目の衝撃。

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 つまり、こういうことである。

 TAKUZOは「親の僕が、自分でできないと思っていたことは大方できる」のである。
 能力は既に備わっているのに、親があれよ、これよと「手助け」をしてしまうがために、「やらない」だけなのである。

 TAKUZOは決して「靴下が脱げない」のではない。
「靴下が脱げないという無能力さ」は、他ならぬ、TAKUZOと僕との関係において社会的に構築されていたということにある。

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 軽くショックだった。
 理由はいくつかある。

 ひとつには、自分の子どもの発達に関しては、親の自分はある程度、客観的に見ることができている、という自負があったこと。
 しかし、僕は、自分の子どもを見ているようで見ていなかったのかもしれない、と思った。

 二つめは、僕は、研究者として「熟達」「学習」といった問題に取り組み、ストレッチ(背伸び経験)やフィードバック(アドバイス)といった概念を、授業で扱っている。
 講演では、「人を育成するための"権限委譲 - 任せること"の重要性などを述べている。

 自分では、「任せることの重要性」は、頭ではわかっているはずなのに、それを子育てでも実践しようと思っていたはずなのに、僕には、それができなかった。

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 どうして、こうなってしまうのか。

 社会的な理由も、おそらくはある。我が家は「共働き家庭」である。これは理由にはならないとは思うけれど、きっと、この影響も大きい。

 ついつい、時間がなくなってしまったときなどに、

「えーい、何をチンタラしておるのじゃ、靴を貸せ、オレがはかしてやるわい、早く保育園いくぞー、こっちが会議に遅れるー」

 という風になってしまう。

 あと、もうひとつ。
 TAKUZOの様子を見ていて、明らかに「親に甘えてるよな」と思っていても、ついつい、「一日の大半を保育園で過ごしているのだから、家にいるときくらいは、親に甘えさせてあげたいな」と考えてしまうこともある。

 かくして、僕は、TAKUZOの行動を先読みしつつ、彼が本来やらなくてはならぬことを、やってしまっていたのかもしれない。そういう様子をTAKUZOは知っていて、「親はどうせやってくれるから、自分ではやらない」という選択肢をとっていたのかもしれない。

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 人間の成長にとって重要なことは、「自分の能力にプチプラスのある背伸びの経験をさせること」であり、「任せること」である。
 
 そんなことは、ヴィゴツキーを持ち出すまでもなく、エリクソンを持ち出すまでもなく、統計データを持ち出すまでもない。アタリマエのことであり、常識である。

 かつて松下幸之助は「任せて、任せず」という名言を残した。

 教育研究者として「口にすること」ではなく、一人の親として、それを「実践すること」の難しさに、直面している。