事故、火事、死亡 : 新聞記者の熟達化

日、一緒にお仕事をしているAさんと雑談をしていた時、話が「新聞記者の熟達化」に及びました。
 Aさんは、かつて、某新聞社で記者をなさっていた御経験をお持ちの方です。

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「新人記者の仕事は、事故、火事、死亡、事故、火事、死亡という感じですよ。
 言うまでもなく、交通事故に関する記事、火事に関する記事、死亡記事のことです。新人の頃、特に1年目くらいまでは、この3つの記事を書くことが多いですね。

 でも、これには、ちゃんとした理由があるように思いますね。

 まず、事故、火事、死亡記事というのは、"固有名詞"と"数字"が多いのです。そして、それらは絶対に間違えてはいけない情報です。

 固有名詞と数字をきちんと聞き取る。そして、聞き取った情報の「裏」をとる。これが求められるのです。これは、事故・火事・死亡以外の記事でも、すべての新聞記者の仕事に共通するスキルですね。

 たとえば、死亡記事で、名前を間違ったら、大問題ですよね。それこそ、訂正記事を打たなくてはならなくなってしまいます。

 死亡記事の場合、多くの場合は、大企業の総務などから情報が入ってきますね。でも、必ず、遺族に直接連絡をとります。そして、喪主の人に電話口にでてもらって、故人の名前、死亡時刻、喪主の名前、葬儀の開催日時、場所をひとつひとつ確認します。間違いをふせぐ手段です。

 しかし、電話の相手は、急な不幸に見舞われている人です。そんな悲劇の中にある人に電話をかけて、挨拶をして、丁寧に聞き取りを行うのです。
 でも、新聞記者の仕事は、概して、「急な不幸に見舞われている人」を相手にすることが多いのです。
 ですので、死亡記事の確認作業の電話は、そのための基礎トレーニングなのかもしれません。

 交通事故や火事では、固有名詞や数字はやはり間違ってはいけませんが、文章のトレーニングになりますね。

 といいますのは、交通事故や火事の記事というのは、よほど心がけていないと、すぐに長くなってしまうのですね。これはやったことのある人なら、絶対にわかります。

 たとえば、今、仮に新人が「○○の方向からきた車と、○○の方から走ってきたトレーラーが・・・」という風な文章を書いたとしましょうか。文章、長いですよね。
 こういう記事を書いて、先輩やデスクのところに持って行くと、「出会い頭って書けばいいんじゃないの?」と一言で言われてしまう。長い表現を、いかに正確に、短くできるかがポイントなのです。

 あと、新聞記事というものは、「逆三角形」に書く、ということがよく言われます。つまり、大切なことはなるべく前の方に書く、ということです。逆にいうと、記事の後ろからどんどんと文章の長さを削れるように書くということです。

 新聞では、ひとつの記事にさけるスペースは限られていますし、大きなニュースなどが入ってくると、後ろから文章の長さを削らなければなりません。ですので、後ろにはいつ削ってもような情報を載せていくのです。

 僕が新聞社にいた頃は、1年目は、死亡・火事・事故をひたすら書いていました。1日に5件以上の記事を書いたこともあります。

 でも、不思議なもので、死亡・火事・事故の3つの記事を1年くらい書いていると、2年目以降は、どんな記事でも書けるようになっているのですね。

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 非常に面白いですね。
 ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句同じではないとは思いますが、Aさんのお話は、だいたいこのような趣旨の話であったと記憶しています。Aさん、貴重なお話、ありがとうございました。「仕事における学び(Learningful Work)」の話は、面白いですね。

 このように、新人の働く現場やそのプロセスを「子細」に見つめていくと、その仕事の中には、のちの仕事工程で必要になるスキルや知識が埋め込まれているものです。

 かつて、ジーン=レイヴとエティエンヌ=ウェンガーという研究者は、いくつかの仕事場を人類学的手法で観察し(エスノグラフィー)、その場での学びのプロセスを明らかにしました。

 彼らが参与観察した職場で、新人は、「全体像は見渡せるけれども、たとえ失敗しても、その失敗が全体には及ばないような仕事」から順に従事しつつ、熟達者になっていくことがわかりました。

 よい仕事場というものは、かくのごとく、新人に任せる仕事に、綿密なデザインや意図があるものです。そのデザインや意図は、必ずしも、その場に居合わせる人に気づかれているわけではありません。しかし、新人がそこでの活動に「参加」することによって、熟達していくことが可能になっています。

 あなたの会社で、「新人が育たない」ということばを聞いたら、まずは新人を責める前に、新人の仕事の現場、プロセスを分析してみるとよいと思います。

 今、新人に与えられている仕事で獲得されるスキルと、後工程で新人が必要とするスキルを比較してみることで、「なぜ新人がなぜ育たないのか」に関するヒントが得られるかもしれませんよ。

 たいがいの場合、「新人が育たない理由」の中には、システムの問題、仕事場にある「構造」の問題も数多く含まれていると思います。