無意識かつ暗黙のうちに伝えてしまう「何か」 : ヒドゥンカリキュラム

 教育現場には「二つのカリキュラム」が存在すると言われています。

 ひとつは、あなたが「本来教えようしているもの」。
 これを仮に、フォーマルカリキュラム(顕在的カリキュラム)とよびましょう。

 たとえば、算数の授業ならば算数。文章表現の授業であれば、作文技術。あなたが、意図的かつ綿密につくったプランのもとに、学習者に伝えようとしているものが、フォーマルカリキュラムです。

 しかし、あなたは、フォーマルカリキュラムを教える一方で、「もうひとつのカリキュラム」を同時に伝えていることになります。望むと望まないとにかかわらず、あなたは、学習者にフォーマルカリキュラム以外の「何か」を教えている。その「何か」から、あなたは決して逃れることはできません。
 これが「ヒドゥンカリキュラム(Hidden Curriculum : 潜在的カリキュラムともいいます)です。

 ここでは、「ヒドゥンカリキュラム」を、「教育現場において、無意識的かつ暗黙のうちに、生徒に伝達してしまう価値観、行動様式、知識など」と考えましょう。

  ▼

 たとえば、社会の教科書の挿絵を想像してください。今、仮に誰かが、「キッチンの前に立って料理をつくっている」とします。それは「誰」ですか?

  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

 今の教科書はどうなっているか検証したわけではないですけれど、多くの場合、台所にたっているのは「女性」であることは想像に難くありません。

 今、仮に体育館にクラスで出かけるために、廊下に1列で並ぶとします。
 僕の子ども時代は、こうした場合、男子が先で、女子が後でした。出席簿もそうです。少なくとも僕の小学生の頃は、男子が先で、やはり女子が後でした。

 性別役割分業は、最もわかりやすいので、敢えてそれだけ取り上げましたけれど、これがヒドゥンカリキュラムの典型例です。
 このような中で子どもは、「女性は料理をつくる存在」「男が先で、女は後」という価値観を、無意識的かつ、暗黙のうちに獲得してしまう可能性があります。

  ▼

 もちろん、ポストモダンの議論を持ち出すまでもなく、政治的中立・価値中立である教育現場、教育は存在しません。また、政治的中立・価値中立である教員も(研究者も)、この世には存在しません。

 教育現場には、様々な既存の価値感・価値システムが埋め込まれています。
 学習者は、そこで暮らし、学ぶことで、フォーマルカリキュラム以外の内容も、無意識的かつ暗黙のうちに学んでしまうものなのです。

 私たちにしうることは、そうした無意識的かつ暗黙のうちに伝達される価値や行動規範に「意識的」になろうと努力することではないか、と思います。

  ▼

 あなたは、何を伝えたいと思っていますか?
 
 そして

 あなたが、伝えたいと思っていなくても、結局、伝えてしまっているものは何ですか?