母親とは「存在」であり、父親は「役割」である

 絵本作家・きむらゆういちさんのエッセイ「たいせつなことはみんな子どもたちが教えてくれた」を読んだ。

 きむらゆういちさんの絵本「あそびえほんシリーズ」といえば、子どものいる家庭ならば、どこの家庭にでも1冊はあるようなベストセラーである。
 木村さんの活躍は、絵本だけではない。造形教室を主宰したり、NHKの幼児テレビ番組のブレーンをつとめたり、、、その活躍は多岐にわたる。

 

 エッセイの中に、印象的な一言があった。

 母親とは「存在」であり
 父親とは「役割」である

 要するに、子どもにとって、母親とは「存在するだけで安心」するものであり、だから「どーんとしていればよい」。

 それに対して、父親は、「役割」を果たさなければ、父親にはなれない。
 一緒に遊んであげるだとか、本を読んであげるだとか、そういう「子どもにとって重要な役割」を果たしてはじめて、ようやく「父親は父親になることができる」というのである。

 なるほど、その通りだよな、と思った。
 きむらさんの指摘は、僕がこの2年間でうすうす感じていたことにかなり近く、それを端的に表現しているな、と思った。そうだ、カミサンは「存在」であり、僕は「役割」だったのか。

  ▼

 僕は父親としての「役割」を果たせているだろうか。

 いささか、というか、かなり不安ではあるけれど(カミサンには申し訳なく思う)、愉しみつつ、無理なく、一緒に生活していく他はないのかな、と思う。

 そして、父親の人生は続く。