研究者と「強さ」

 論文を書くということは、何らかの「対象」に焦点をしぼって、一貫性のある主張を、説得性のある「根拠」と「手続き」をもって、繰り広げることです。

 当然のことながら、何らかの対象に焦点をしぼった時点で、はたまた、「ある手続き」を選択した時点で、そこからこぼれ落ちてしまうものは、あります。

 つまり、「何かを対象にすること」は、「対象にしない何かをつくること」なのです。「ある手続き」を選ぶことは、「その手続きでは見ることができないこと」を捨てることなのです。

 問題は「捨ててしまった何か」や「見ることができなかった何か」を嘆くことではありません。また、知的品性と配慮に欠ける人の、「あなたには見ていないものがあるじゃないか」という非難を怖れることでもありません。

 ひとつのやり方で「物事のすべて」を見ることができるほど、現実の世界はシンプルではありません。もし、そう考えているのだとしたら、その指摘こそ「傲慢」だと僕は考えます。

 それならば、今、自分が準備しておくことは何か。

 まず、「自らが対象にできなかったもの」「自分の手続きからはこぼれ落ちてしまったもの」を真摯に受け止めることです。
 その上で、「なぜ自分が、その対象を、そのように見るべきだと思ったのか」をきちんと「自分の言葉」で説明できるようにしておくことです。
 そして「批判」を真摯に、静かに、待ちましょう。冷静に、それでいて、凛として、批判に対して自分の考えを述べましょう。

 時には激しい応酬になるかもしれません。自分の方が正しいと思うのならば、時には牙をむいて闘いましょう。オネストに、クリティカルに、かつストレートに、自分の考えの正統性を主張しましょう。
 そんなときこそ「冷静」に。頭に血がのぼった方が「負け」です。「冷たい頭と熱い心」。「冷たい心と熱い頭」 - 逆になってはいけません。

 自戒を込めていいますが、研究者にとって必要な「強さ」とはそういうものだと思います。
 
 ここで断じてしてはいけないこと。
 それは「逃げること」です。

 弱い人ほど、「レトリック」と「専門用語」に逃げます。
 それで人をケムに巻けると思っています。

 どこの誰かの言葉で、どこの誰にも「届かない」ように論を組み立てます。それは、胴体は前を向いたまま、下半身は逃げている状況に似ています。

 そんな「弱腰」を見逃すほど、同業者は甘くはありません。すべては見抜かれます。その先にあるのは、「徹底的な批判」か、あるいは「最初から、なかったことにされる」ということです。

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 世間は忘年会のシーズンです。

 しかし、大学院は、今、まさに「追い込み期」です。中原研究室では、4名のM2(修士二年)の学生たちが、今、修士論文を書いています。どのテーマも、チャレンジに値する素晴らしいテーマだと僕は思います。

 提出まで残り二十数日となりました。
 今が正念場です。