あってなきが如く、ないかの如くある : プロフェッショナル「大野和士さん」

 先日、指揮者の大野和士さんが出演している番組「プロフェッショナル」をビデオで見ました。

 大野さんは、ヨーロッパで活躍する将来有望な日本人指揮者の一人で、「第二の小澤」と言われている方だそうです。

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 大野さんの話の中で面白かったのは、「指揮者として、人を動かすときにもっとも大切なこと」を語っている部分です。

 曰く、

「(指揮者は)どんな音色をだすかは言わない。あくまで、自分の曲の解釈やイメージしか伝えない。プレイヤーたち一人一人が個人として解放されることが大事である」

 だそうです。

 また、

「どの楽器でも、一番いい音がでるときは、"あなた、でなさい"と言われたときではない。自分のやりやすい方法で(音を)だすときである。

一番大切なのは、(指揮者が)あそこにいきます、あそこがわたしたちのゴールです(と提示すること)。あとは、(各人の判断にまかせて)解散。これが理想です。

指揮者の存在は、あってなきが如く。ないかの如くあるのが、理想的なのです」

 といった類のことをおっしゃっていました。

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 思うに、「あそこにいきます」「わたしたちのゴールです」というのが、一般にいうところの「ビジョン」かもしれません。
 この場合は、指揮者が楽曲と対話しながらつくりあげた「楽曲の解釈」が、それにあたるのでしょう。

 解釈を提示し、楽団員の「理解」を求める。その上で、それにどのようにアプローチするかは、メンバー自らが、それぞれの専門性や経験を判断した上で、決定すればよい。

 もちろん、指揮者として言うべきことは言う。フィードバックはする。しかし、それは「出して欲しい音色」を指定するのではない。あくまで、個人は「解放」してあげなければならない。

 大野さんの指揮者のイメージは、「一般に考えられている指揮者のイメージ≒コントロールする存在」とは全く異なるもののようにも、思います。それを如実にあらわす言葉が、「あってなきが如く。ないかの如くある」という言葉でしょう。非常に印象的で、深い言葉です。

 思うに、人を動かすことは、そういう微妙なバランスの上に成り立っているものかもしれません。
 個人の専門性や経験を信じた上で(逆にいうと、個々人が既に信用できるものを持っているということですね)、「解放」してあげる。全体の調和を乱さない限りにおいて、自分の考えに基づいて、やりたいようにさせてあげる。それが「指揮をするということ」なのでしょうか。

 僕は時に思います。

「人は自分のやりたいことは、どんな手を使ってでもやる。やりたくないことは、どんな手を使ってでもやらないか、あるいは、やったことにする」

 何を隠そう、僕自身はそういう人間です(笑)。でも、みんなそうじゃないの(笑)。また、上記は、今までの短い人生経験と人間観察から獲得した「僕の持論」かもしれません。

 人を動かすって、難しい。