「基礎演習」の思い出

 昨日の大学院ゼミの文献は、「大学生を対象とした自己調整学習の指導」についてであった。

 大学生が、自分の学習をプランニングし、モニタリングし、コントロールしていくためには、どのようなスキルや態度を獲得することが必要か。
 今回読んだ文献は、多くの初年次教育の現場で、今まさに問題になっていることであるように思った。

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 文献を読みながら、自分の初年次教育、つまりは、僕が大学1年生だった頃を思い出す。

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 ちょうど僕が大学に入学した前後は、前期教養学部のカリキュラム改革が進行していた時期で、文献調査・討論・発表などのアカデミックスキルを学ぶ「基礎演習」という講義が、はじまった頃であった。

 今ではどこの大学でもやっているような内容なのだろうけど、当時、この講義の教科書であった「知の技法」は、ベストセラーになっており、メディアでちょっとした話題にもなった。

 しかし、一学生の立場からすると、授業の運営に問題がないわけではなかったように思う。

 最大の問題は、基礎演習 - つまりは、大学生に必要なアカデミックスキルを獲得させるといいつつも - 授業を担当する教員によって、全く異なる内容で、異なった内容が、教えられていたことではないかと思う。

 要するに、「あたりはずれ」が大きかった。
 学生によっては、なぜか「英語文学をひーこら、ひーこら、読まさせられていたり」、なぜか「社会学の古典を読まさせられていた」。もちろん、英語文学や社会学の古典を読むことが重要でない、とか言っているわけではない。そうではなくて、学生全員が受講する「ひとつの基礎科目」であるにもかかわらず、教員によって「獲得させたい力」が異なっていることが、学生の立場からすると、奇妙に思えた。
 いずれの授業も、ひとりひとりの教員が考える「大学生に必要なアカデミックスキル」であったのだろう。そこに、あまり統一感はなかったように思う。
 今は事態は変わっているとは思うけど、基礎演習がはじまったまさにその年の状況は、そんな感じだった。

 ちなみに、非常に幸運なことに、僕の担当教官は、社会学者の見田宗介先生だった。「調べて、まとめて、伝える、意見を述べる」といったようなことを、一応は、体験することができた。

 僕は、鶴見良行さんの「バナナと日本人」という本を担当した。

 日本人が、ふだん何気なく食べているバナナの生産の背後には、国籍企業の暗躍、農園労働者の貧苦がある、という話であり、それに付随する様々な資料を図書館で集めて、レジュメをつくり発表した。

 アカデミックスキルについては獲得できたかどうか不明であるが、少なくとも「バナナ」には詳しくなった(それでいいのか?)。

 古の名言に曰く

 魚を与えれば、その日1日は食いつなげる
 魚の釣り方を教えてあげれば、一生食いつなげる

 アカデミックスキルの学び方には、ふたつの方法がある。内容知を学ぶ中で基礎スキルを学ぶ、という学び方と、内容知とは別に個別に基礎スキルだけを学ぶ、というかたちである。
 内容知を学ぶ中でアカデミックスキルを獲得することは、そう簡単じゃないな、と、今になって思う。

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 今回文献を読みながら、僕は全く違うことを考えていた(ゼミ中に不謹慎である!?)。

 アカデミックスキル云々の授業、否、さらに踏み込むならば、大学における学習者のカリキュラム(学習経験)のあり方を決めるのは、結局、教員間がいかに連携して、利害を超えて、カリキュラムを決定できるのか、にある。要するに問われているのは、教員間の関係であり、意思疎通である。

 それは、「どのような内容を基礎と定めうるのか」という政治的交渉のプロセスでもあり、アクターネットワーク形成のプロセスでもあると思う。

 やっぱりそうだよな。
 このあたりが、問題だよな、と思う