「実践研究」と「しなやかさ」

 中原研究室の大学院生の中には、「現場での実践研究」を志す学生が何人かいる。

 今年修士論文にチャレンジする学生の中には、既に、毎日「教育現場」で過ごしている人もいる。朝8時から夜8時まで、どっぷり12時間。小学生たちに囲まれて、濃密な時間を過ごしている学生もいる。

 中には、これから「教育現場」に身を置こうとしている学生もいる。「現場」ではいったい何が起こっているのか。自分のやりたいことに対して「現場」の人々は、どのような「反応」を見せるのだろうか。残された時間は、そう多くはない。

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 アタリマエのコンコンチキであるが、「現場」は「研究室」ではない。

「現場」には「現場のリアリティ」がある。現場は「現場の人々」が日々、実際に生活したり、働く場である。そこは「抜き差しならない場」であり、「真剣勝負の場」である。それぞれの人々ごとに「物語」があり、その「物語」の延長上で「研究者」に出会っている。

 時には、研究室でたてた「ロジック」が、脅かされたり、練り直しを求められたりすることもないわけではない。これまで1年以上かけて練りにねりあげたロジックが、音をたてて「崩壊」することも、ないわけではない。学生からそのような報告を受けるたびに、僕も心が痛い。「どうして、もっと早くに予測してあげられなかったのか?」

 しかし、それで「動じて」いてもあまりよいことはない。自戒をこめていうが、実践研究を志す研究者にとって必要なことは、「研究のロジック」を常に意識しつつ、「現場の声」に耳を傾ける「しなやかさ」をもつことである。

 研究としてのフレームワークを保ちつつ、現場の人に「やってよかった」「あの人に来てもらってよかった」と思ってもらえる「何か」を成し遂げようと努力することなのではないか、と思う。

 時にそれらは「トレードオフ」の関係にあることかもしれない。しかし、諦めず、腐らず、動じず、即答せず、粘り強く、誠意をもって話し合い、それらを何とか「実現しようと努力すること」が重要である。

 かくして、実践研究を志す研究者は常に「混沌」と「矛盾」の中に身をおくことになる。そして「研究のロジック」も「現場の声」もどちらも重要である。どちらかが欠けてよいことなど、ひとつもない。その両者を抱きつつ、研究を進める他はない。

 偉そうにいっているが僕自身も、それがいつもできるわけではない。これまでいくつかの研究で、「現場」の共同研究を推進してきたが、そこではいくつもの「失敗」をして、そのたびに現場の方々にご迷惑をおかけし、助けられてきた。中には思い出すのも恥ずかしくなるような経験もないわけではない。
 そういう意味では、僕がこんなことをいっても、全く説得力がない。でも、失敗を繰り返してきたからこそ、「ロジック」と「現場の声」を両立させることの重要性は痛感している。

 以前このブログでスコット・フィッツジェラルドの言葉を紹介した。

The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function.

「優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういうものだ。」
スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)

 実践研究に求められる知性とは、そういうものなのかもしれないな、と思う。