物語は、かつ消え、かつ結びて

「物語」というキーワードが、企業人材育成の分野で、最近よく語られるようになってきました。人文科学におけるナラティブターンが、この分野にもようやく到達したのかもしれないな、と思いつつ、決してそんなことはないようです(笑)。
 今、「物語」が注目されているのは、現場にはびこる「別の深刻な理由」を、何とか解決したいと考える人が増えているから、のようです。

「なんか、最近、うちの職場、バラバラなんだよなぁ」

 この「認識」が「真実」かどうかはデータがないので判断は保留するとして、こういうことを感じる人が、年々増えているのだと聞きます。それに類する本も、多数出版されているそうですね。

 現在の職場では、すでに社員の雇用形態は多様化しています。今後は、グローバル化の波にのって、日本で働く外国人はさらに増えるでしょう。また成果主義などの施策によって、同じ雇用形態の人々の中にも「格差」が生じています。かくして、職場の「バラバラ感」はどんどんと高まっているのかもしれません。

 そして、この「バラバラ感」を何とか「つなぎとめるもの」「たばねるもの」として期待されているのが、「物語」であるわけです。だから「物語」と「つながりの回復」は、いつもセットで語られます。

 異なる価値観をもつ人々を「つなぎとめる」ためには、誰もが納得し、合意し、コミットできるような「大きな物語」を共有する必要があります。
 しかし、やっかいなことに、かつて日本企業を「鉄」のように束ねていた「大きな物語」は崩壊しています。じゃあ、どうするか。ここに、現代の「モデル無き模索」のはじまりがあります。

 組織変革、組織開発、組織診断・・・様々な手法がしのぎを削っています。

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 ところで、圧倒的ポジティブに語られる「物語」や「つながり」は、常に組織にとってプラスをもたらすわけではありません。

 それが行きすぎると、人々が疲弊したり、新しいアイデアが生まれなくなってしまったり、外部環境の変化に対応できなくなってしまうことも、これまた事実です。

 たとえば、物語を周到に会社が操作し、人々を「労働」に駆り立てる場合・・・つまりは、組織文化が過剰にマネジメントされるといった事態に陥る場合、人々は仕事から離れられなくなってしまう可能性があります。
 人によっては、バーンアウトしてしまう可能性もないわけではありません。

 また、物語の支配力が強すぎる場合。過去の成功体験や失敗体験やしがらみに縛られて、何一つ新しいアイデアを生み出せなくなったり、組織が外部の環境変化に対応できない、といった事態も生まれる可能性があります。

 物語によって「つながり」が強くなりすぎてしまった場合。それは人々の間に過度の依存を生み出します。合意をとるまでに時間がかかり、根回しなしでは、なかなかモノゴトが前に進まない状況も生まれるかもしれません。

 結局のところ、「物語」も「つながり」も「諸刃の剣」なのです。「物語でCatch all(キャッチオール:問題はすべて解決)」を「決め込む」というのは、あまり「真摯な態度」ではありません。

 もちろん、だからといって「物語はダメ」だと言いたいわけではありません。むしろ、僕が言いたいのはその「逆」です。
 ネガテイブな側面がありつつも、そこで得られるメリットを勘案し、何をどこまで進めるかについて意思決定を行わなければならないのが「実務」です。予測可能なものを可能な限り、予測しつつ、よいさじ加減の意思決定を行うことしか、ないのだと思います。

(ちなみに、世の中の本当に大切なことは、ネガティブなことも、ポジティブなことも両方併せ持っているものです。研究者は、あるモノゴトにネガティブなことがあったから、すべてダメだと結論しがちですが、そういう思考では何一つ意思決定はできません)

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 もうひとつだけ思うことがあります。
 今、必要なのは、本当に「大きな物語」なのでしょうか?
 そして、それを「浸透」させることなのでしょうか?

 新たに生まれた物語は、いつの日か、「因習」になります。また「つながり」は「しがらみ」に、いつかは必ず転化してしまいます。

 むしろ、「新しい物語」が常に作られる一方で、「手垢のついた物語」が壊される。「新しいつながり」が生み出され、「過去のしがらみ」は断ち切られる。そういう「生々流転のプロセス」をつくりだすことが重要なのかもしれません。

 もちろん上記は仮説にすぎないですし、実証できたわけでもありません。でも、何となくそう思うんです。

 小生、まだ短い人生しか生きてはいませんが、これまでの経験を通して培った「持論」に下記があります。
 
 本当に大事なものは、「動き」の中にある