やっぱりネットでなんか、学べないって!

「eラーニングって、結局、ダメでしょ。やっぱりネットでなんか、学べないって!」

 先日、ある場所で、こんな言葉を聞いた。周りの人々が、みんな一同に、この言葉に同意していたので、「あまり波風をたたせてもな」と思い黙っていたけど、何だか僕には、この言葉に「違和感」を覚えた。

 ここで「eラーニング」を2つに分けて考えたい。
 1つは、「eラーニングとよばれるサービスを提供している業界のこと」。2つめは「e(ネット化)されたラーニング(学び)、」つまりは、「ネットを使って学ぶこと」。

 もし仮に「eラーニングって、結局、ダメでしょ」の「eラーニング」が前者、すなわち「eラーニング業界」や「eラーニング業界のビジネスモデル」を指し示しているのだとすれば、その認識の是非をここで問うことはしない。
 僕はマーケターではないし、データは持ち合わせていない。よって、その命題の真偽は、僕には判断できない。

 しかし、もし仮に、それが後者、すなわち「ネットを使って学ぶこと」を指し示しているのだとすれば、それはどうも僕の認識とはズレる。

「ネットを使って学ぶこと」というのは、もはや、敢えて「eラーニング」という言葉を使わずとも、もう、人々の生活の中に既にある。このことは、2004年の著書からずっと言い続けている。
 つまり、先の言葉を引用するならば、「もうダメ」「ネットでなんか学べない」もクソもヘッタクリもない。人々の多くは、「もうネットで学んでいる」のである。

 わからないことを検索エンジンに打ち込み、調べ、知的生産を行っている。Yahoo知恵袋に質問を投げかけ、そこから情報を収集し、意思決定を行っている。
 人々の多くは、先輩や同僚とコミュニケーションをとりながら、知識を仕入れ、仕事をしている。
 つまり、人々は、既にネットワークを使って「学び」、仕事をしたり、生活を営んでいる。「学び」とは、ある教育目標のもとに設計されたコンテンツを使って、「知識を蓄積すること」だけを指し示さない。「人間の学習」とは、もっと広いものを指し示す概念である。
 人々が、様々な人々やモノゴトとつながり、賢くなっていくプロセス、そしてそれによって、何かが生まれ、何かが破壊されるプロセス。学びとは、そういうものをすべて指し示す概念である、と僕は信じている。
 
 かつて、「脱学校の社会」の中で社会思想家のイヴァン=イリッチは、Learning web(学習ネットワーク)という概念を提唱した。
 異種混交のネットワークの中で、モノ、ロールモデル、仲間、先輩などの様々な「学習資源」と出会い、利用し、賢くなっていく場として、彼は「ネットワーク」を夢見た。まだインターネットの「イの字」もない時代の話である。しかし、彼は、それを既に、その到来を見通していた。

 イリッチが脱学校論を著したのが1970年代のことである。日本は、まさに高度経済成長のさなか。ハイアラーキカルなものの頂点をめざし、皆が上昇志向を持ち続け、<教育>をうけ、<勉強>していた時代であった。

 しかし、イリッチが理想としたのは、<教育>でも、<勉強>でもなかった。むしろ、彼はそれを弾劾した。彼は、生涯をかけて、教育、医療、福祉といった我々の日常生活にかかせないものにひそむ「権力」と、それに押しつぶされる「人間の自律性」の問題を、執拗に問い続けていた。
 そして、その思惟の果てにたどり着いたものが、「ともに歓びをもって生きること:コンヴィヴィアリティ:Conviviality」の思想であり、それを実現するための、学習のネットワーク(Learning web)であった。

 それから30年・・・。
 彼の描いた夢は、もう既に現実のものになっている。人々の多くは、既にLearning webを手にしている。そして、その勢いは加速することはあっても、減速することはない、と思われる。

「ネットで学ぶこと」に関する僕の認識は、上記のようなものであるが、どうだろうか。
「結局、ダメでしょ」と断罪するものが、いったい「何」を指し示しているのか。そこでいう「学び」とは、具体的に人々のどんな「行動」のことを指し示しているのか。そして、さらにいうなら、本当にその「認識」は、正しいと言えるのか。
 そこには、慎重かつ冷静な思考が必要ではないか、と僕は思う。