「では」と「でも」の話:ASTD2008前夜!

 米国カリフォルニア州、サンディエゴに無事つきました。明日からASTD(America Socity of Training and Development:世界最大の人材開発国際会議)に参加します。

ASTD2008
http://www.astd2008.org/

 ASTDの年次大会は、だいたいこの季節に、米国で開催されます。世界各国から、企業人材育成担当者、組織開発担当者、教育研究機関、など、1万人弱が集まります。今、サンディエゴの街は、「石を投げれば!?育成担当者に当たる」状況ですね。

 ちなみに、このカンファレンスでディスカッションされる内容は、非常に多岐にわたります。eラーニングから、組織変革まで、本当に様ざま。

 アカデミックな話はあまり多くはありません。むしろ、「プラクティカルに現場をどのように動かすのか」という話が多いです。そして、話がプラクティカルであるがゆえに、「人材育成の考え方」が、今、どのように「変わりつつあるのか」を感じることができます。そこが、この会議のいいところでもあり、慎重になるべきところでもあります。

 ところで、海外に出かけた人が、日本にいる人々に対して報告をする際に用いる論法は、いつの時代も共通しています。「米国では」「フィンランドでは」。「では」「では」「では」。「では」のオンパレードです。

 で、無批判に「では」を繰り返す人のことを「では族」といいます。概して、「では族」の語りは、熱いです。なにせ、自分の目で見ているから、聞いているから。個人が経験したことは否定できません。そして「では」は、多くの場合、「でも」に根拠なく接続してしまうことが多いです。

 米国「では」、~が流行っているから、日本「でも」そうするべきだ
 フィンランド「では」~であるから、日本「でも」そうするべきだ

 でも、よーくよく冷静になって考えてみると、このセンテンスの前半と後半は、つながっていないことがわかります。
 米国「では」~だからといって、日本「でも」全く同じことをしなければならない「所以」は、実は、全くありません。米国は米国。日本は日本です。「では」を「でも」に順接させるためには、本来「根拠」が必要なのですが、そこが省略されていることがわかります。

 また同じように、フィンランド「では」流行っているからといって、日本「でも」そのまま何かをしなくてはならないというわけではありません。日本は日本。フィンランドは、フィンランドです。それなのに、フィンランドでは○○メソッドだから、日本でも○○メソッドでGO!という風になります。
 
 いずれにしても、「米国で流行っているけど、日本では状況が違うこともある」し、「米国で流行っていることで、日本が取り入れた方がいいこと」もあるというわけです。

 また、これは話がすこし横道にそれますが、「米国で流行っている」といっても、そこで見た「米国」が、ほんの「米国の一部の特定の場所」だけということもありえます。

 「視察」とは中立で公正に、訪れる先の「現実」を見る活動ではありません。基本的に、見る側は、「よいところ」を見に行きたいと願いますし、見せる側も、よいものを見てもらいたい、と願います。既に、視察で見るものには、「既にバイアスがかかっている」ということに気をつけなければなりません。

 ともかく・・・
 「では」の論法には、本来、ケースバイケースの慎重な判断が必要です。曇りのない目で「事実」を見極め、それを「評価」し、理由づけることが、大変重要です。「では」を語る側にも慎重さが必要です。そして、「では」を聞く側にも、リテラシが求められます。

 ・・・とまぁ、偉そうなことを言ってしまいましたが、できたらいいね、それが、このブログで(笑)。

 ともかく、なるべく、そのようなことを念頭におきつつ、これから数日の間、ASTDの様子をお伝えいたします。時差ボケで、時々、何言っているかわかんないかもしんないけど、どうぞお楽しみください。お読みいただく方は、どうぞ、上記にお気をつけて。