改革とプラン

「改革」に対する態度は、おおよそ、二つにわかれます。

 ひとつめ。「改革」の前には、「データ」に基づいた、しっかりとした「プラン」を策定し、確実な「完成予想図」がたったあとで、実際の改革に着手するべきだとする「プラン主義者」。学問的にいうと、自分の学問を「政策科学」として立ち上げようとする場合に、こうした立場にたつことが多いです。

 ふたつめ。「改革」を行うに際しては、「明確なプラン」は必要とせず、今求められていること、そして自分たちにできるところから場当たり的に着手するべきである、とする「非プラン主義者」。自分の学問を「実践の学問」として定義する人たちのあいだに、こうした立場の人は多く見受けられます。

 プラン主義者は、非プラン主義者を非難します。

「改革を行うことがすべての所与になっており、改革について考え、しっかりとプランをたてる機会がない」

 非プラン主義者は、プラン主義者をこう批判します。

「データに基づいて慎重に言えることは、重箱の隅をつつくような本当にとるに足らないことである。そこで得られる結論は、改革とは言えないようなアタリマエのことだ。改革のプランや完成予想図がキチンと策定できることは、現実にはありえない。今できることから物事に対処していく他はない」

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 この問題を考えるにあたっては、認知人類学者ルーシー・サッチマンの「プランと状況的行為」が参考になります。

 サッチマンで明らかにしたように、プランとは、どんなに周到に準備していても、それがそのまま実行されるわけではありません。

 人間は、プランを実行する際の状況にアドホックに対応しながら、振る舞いを決定します。この意味で、「プランが絶対であり、プランさえあれば見通しがたつはずだ」とするプラン主義者の見方は、やや早計であると言わざるをえません。

 しかし、「人間の振るまい」がいくらアドホックな要因で決定されるといっても、全くの「方向性」なしで、それを物事を成し遂げることはできません。プランとは、我々がアドホックに対応する際に参照し、判断の根拠となる資源のひとつ、であるとも言えるのです。

 というわけで、結論は一言でいうと

 「そりゃ、まー、やりながら考え、考えながらやるしかないね」

 です。

 「"見通し"を少しは持ちつつ、行き当たりばったり、そのつど見通しを修正しつつも、何とかかんとかたどり着く」これが、うまくいく改革の実態ではないでしょうか。

 この結論に、「なんじゃそら」、とズッコけた人もいるかもしれません。クドクドとしょーもないことを言うんじゃない、と。でもね、それがホントウなんだから、仕方がありません、申し訳ないけど。

 というわけで、僕は「プラン主義者」の考え方にも、「非プラン主義者」にも与しません。もちろん、その間の論争にも介入しません。彼らの考え方は、僕に目には、どちらもナイーブに見えてしまうのです。

 だいたい、世の中で「最も大切なこと」は、どちらかに「断言」できることではありません。