結局、論争になっていなかったのですね・・・

 今日は、1年生~2年生向けの学部授業「学力論」で、グループ発表の日。グループ発表のテーマは、2000年に教育界で巻き起こった「学力論争」の全体像を把握し、その議論の問題点を指摘するという内容である。

 先日、公開デモを行ったe-journal plusという読解支援ソフトウェアを使って、学力論争を読み解くことが課題となっている。

e-journal plus
http://mainichi.jp/life/electronics/news/20071130mog00m100081000c.html

ejournal_interface.jpg

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 発表では、非常によいところに気づいているグループもあって、少し驚いた。通常、学部1年生~2年生は、与えられる文献をあまり疑うことなく読んでしまいがちであるが、そのグループの読みは、批判的で大変よかった。

 学力論争は、学力を「不可視で多義的で標準テストでは測定できないもの」と捉えるグループと、「可視で一義的な標準テストによって測定できるもの」であると捉えるグループの間でおこっている、ということを指摘していた。わずか17の専門文献から、そのことを読み解くとは、非常に鋭いと思う。

 帰り際、ある学生がもらした一言が印象的であった。

「学力論争といいますが、"論争"になっていなかったのですね」

 まことに耳の痛い話である。そして、このことが、僕自身がもっとも気づいて欲しいことであった。

 さらに思考を一歩進め、なぜ論争にならなかったのか。そして一国の教育政策を論じるのであるから、せめて「論争」にするためには、どんなプロトコールを両陣営が築くことが必要なのか。ぜひ、考えて欲しいと思った。

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 授業は、次回以降、いよいよ感動!?のフィナーレに向かう。

 学生たちが自分たちで設定した

 学力と貧困
 学力とゆとり
 学力と行政

 というテーマに基づき、「日本の教育のあり方」を提言してもらう。どんな意見がでるだろうか。楽しみである。

 未来の教育は、どこぞのエライ人とか、どこぞの経営者とかの新春大放談の中にあるものではない。
 言説空間を批判的に読み込み、批判的に思考できた人の手によって、自由に提案され、討議されるべきものである。