これからは地方の時代だ!?

「教育も地方の時代にはいったんですよ。もう現場を知らない"中央"に横やり入れられるのは、まっぴらだ。これからは地方の時代です」

 数年前から、上記のような言葉を、教育関係者から聞くことが多くなりました。

 教育学者の多くは、手放しではないにしても「中央からの脱却」を歓迎するむきが多いし、現場の先生、行政官にいたるまで、あまりそれに反対する話は、あまり聞きません。

 限定的に何人かの教育学者が、「地方に財源をうつしたとしても、地方が自由裁量で決められること、自由にルール設定できることはそう多くないこと」を指摘し慎重論を唱えていますね。しかし、そうした声は、全体の傾向、必ずしもマジョリティではないように思います。

 改革が前進するときはいつもそうであるように、「とにかく、何かを変えなければならない」という力が、「そもそも変える必要があるのかを考えること」を、圧倒します。今回の議論も、そういう流れの中にあるように思います。

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 僕個人としては、「市町村の教育現場に教育の裁量をゆだていく」という意見には、条件付き賛成です。

 「条件」は、贅沢をいえばたくさんあるけれど、一番思うのは、「専門知識と経験をともなった人が、地方の教育行政にかかわり、一定期間リーダーシップをきり、かつ、責任をとる仕組みをつくること」です。

 そういう人材育成システム、人事システムの刷新がともなわないと、「教育の裁量が増した」としても、その自由をとりまわす地方の方が、その自由をもてあましてしまうような気がするのです。

 一番最悪なのは、

「ジョブローテーションで偶然教育委員会に配属された、何の専門性も経験もない行政官が、そのときの首長に都合のよい方針で、場当たり的に処遇し、かつ、責任が問われるときには、別の部門に異動してしまっている」

 という、よくある話になることですね。
 これは避けたい。それこそ、地方と中央の学力格差などを拡大することにつながる気がするのです。

 「これからは地方の時代です」というのであれば、「地方」も、それに値するだけの力をつけなければならない。しかも、そこで生じた教育のクオリティにも、責任をとる仕組みを用意しなければならない。もちろん中央にも、そうした人材が増えることが重要であることは言うまでもありません。

 「これからは地方の時代です」という言葉は、言うのは簡単なんですね。それは、誰でも言えるし、思いつく。だけれども、それが実現するためには、相当なリソースと努力が必要です。
 
 「これからは地方の時代です」は、とても重い言葉なのですね。