研究室とはみんなでつくるもの

 「研究室」というのは「メンバーが貢献をしあう場である」と僕は思う。

 たとえばゼミ。
 研究発表をする人に対しては、「なるべくその人の研究がよくなる」ように、「その人の研究のプロット」になるべくそうかたちで、コメントや情報提供してあげるのが、よい研究室であると思う。

 たとえば共同研究。
 研究者には、お互い、強み(strength)がある。強みをいかすかたちで、貢献しあうのが共同研究である。お互いに、弱みをかばいあったり、傷をなめあったりするのが、共同研究ではない。

 他人の強みの上に、あなたの強みを重ねる。

 ピーター・ドラッカー風にいえば、共同研究はこうも表現できる。

 ところで、先日、ある学生さんに共同研究のお誘いをしたのだが、その人からの返信にはこうあった。

「僕は、(自分の得意な)○○を中心に、○○プロジェクトに対して貢献ができるように思います」

 本当によくわかっている学生さんだなぁと感心した。

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 以上は、僕の理想の研究室であるが、なかなかそうはいかないのが世の常である。

 とにかく雰囲気が悪い研究室もある。以下は、僕自身は経験したことはないけれど、そういう話をよく聞く。

 ゼミのときなどは、「つっこみ」と称して、言いたい放題。それも、それまでの発表の経緯や文脈、発表者の研究のプロットを考慮せず、自分の立ち位置からバッサバッサと「たたき切っていく」。
 あたかも、「切る」ことが美徳、快感であるかのように振る舞う。「言いたいことをいって何が悪い」という姿勢である。
 そういうのは、申し訳ないけどシゴキやイジメ以外のものではないし、品がないと思う。
 
 これは僕の信念かもしれないが、「人はけなされれば、悔しがって、谷底からはい上がるはずだ」と思っていると、痛い目を見る。そういう屈強な意志をもった人は中にはいるし、そういう対応がよいこともある。

 しかし、ほとんどの人は、「褒められ、励まされ、情報を提供され、なだめられて、ようやくよいものが書けるようになっていく」のだ。ポジティブな反応が、次のポジティブな成果をうみだす。

 「たたきつぶしてもはいあがってくること」よりは、「褒めることからはじめて向上心をもってもらう方」が、確率論的によい可能世界を生むことを、知るべきである。人間はそういうものだ。

 もちろん、ゼミの雰囲気が悪いと、共同研究なんて望むべくもない。チームのメンバーを信じることができない雰囲気で、どうして、人が進んで「貢献」を行おうなどと思うことができようぞ。

 かくして、「誰かが就職した」「誰かが学会誌に採録決定した」というニュースが流れれば妬み、誰かが教員と共同研究をはじめたといえば、陰で嫉妬する。

 レベルの低い集団力学が、永遠に続く。

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 研究室は人の集まりである。時にはネガティヴなレスポンスがかえってきたり、雰囲気が一時的に悪くなることもある。

 しかし、そこが「知的生産を行う場」であることを社会から期待され、投資を受けている以上(東大生は一人あたり900万円の税金が投入されている!)、そこに集うメンバーも、最低限のルールと意識を持つべきだと思う。

 研究室は、みんなで「創る」ものだ。

 それは、最初から存在する受け皿ではないし、まして、部屋の名前ではない。そこに集うことを選んだ人たちが、みんなで「創るもの」なのだ。それを行おうとせぬ人間は、研究室に集う資格はない。たとえ、その人がどんなに優秀であったとしても、そう思う。