「生きる意味」を見いだす・・・上田紀行著「生きる意味」

 「癒やし」の概念をいち早く提唱した、文化人類学者上田紀行氏の「生きる意味」(岩波新書)を読んだ。

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 今、私たちの社会を襲っている問題の本質とは何なのだろうか。
 それは「生きる意味」が見えないということだ。いま、日本社会のいたるところで起こっているのは、「生きる意味」の雪崩のような崩壊である。なぜ自分が生きているのかが分からない。生きることの豊かさ、何が幸せなのかが分からない。

(2pより引用)

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 本書における筆者の主張をやや乱暴に一文で述べるすると、

「生きる意味を構築することが重要で、その手段としてNPO、NGO、ワークショップ、セルフヘルプグループといったようなコミュニティ≒中間社会の再創造が重要である」

 ということになる。

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 本書における筆者の主張は、その大部分が僕の知らないことで、「なるほどなぁ」と思った。が、ふと疑問もわいた。

 それは真っ向から筆者の主張とは対立するような気もするのだけれども、専門外なので無責任に言う。

 僕が持った疑問は、

「一人一人の人間が、何らかの手段で、生きる意味を見いださなければならない」という社会規範が、むしろ、若者たちのシンドサの原因なのではないか。

 ということである。

 こう述べたからといって、もちろん、「生きる意味が不要だ」と言っているわけではない。むしろ、それが構築できる場合は、そうした方がいいのだろう、と思う。

 ただ、人間の運と能力は偏在する。運も能力もあり「生きる意味」をシコシコと構築できる人がいるいっぽうで、見いだせずに苦しむ人もいる。

 理論的な裏付けやデータは全くないのだけれど、僕の日々の実感として、「生きる意味を真剣に見いださなければならないと思っている人」ほど、「シンドク」見えるのは気のせいだろうか。
 
 むしろ、大多数の人は「生きる意味」を見いだすために苦闘するというよりも、日々、誰かがつくった「大きな物語」に翻弄されながら、漂流し、これという瞬間にだけ、考え、判断し、生きている気がする。

 それは、「生きる意味を構築しなければならない」という立場からは不真面目で、インコレクトな態度なのかもしれないのだけれども、そもそも、人間には、そのくらい「いい加減さ」が「適当」なんじゃないだろうか、とも思うのだ。

 流されてもいいところは、積極的に流される
 考えるときは、一瞬考える。
 
 ということになるかしれない。その方が、シンドサを回避できるのではないかな、素朴に思った。

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 もちろん、最初に断っておいたとおり、この僕の疑問は、Theoreticalでもなければ、Data-drivenでもない。おおよそ、学者のとるべき態度ではないといわれれば、それまでだが、何となく実感として感じたので、書いてみた。

 いずれにしても、本書を読んで、僕はいろいろ考えさせられた。

 僕にとって「生きる意味」って何なのだろう。

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追伸.
本書の副次的効用!?として、グローバル経済、構造改革、新保守主義の概略を知ることができる。経済学者やエセコンサルタントの説明を聞いても、全くわからないことが多いのだけれど、本書では、それらのつながり、それぞれの持つ意味がよくわかった。

 グローバル経済を説明する箇所で引用されていた、トーマス=フリードマンの仮説「マクドナルド理論」には思わずうなってしまった。

 フリードマンいわく、

 ハンバーガーチェーンのマクドナルドが存在する任意の二国は、それぞれにマクドナルドが出来て以来、互いに戦争をしたことがない

 さて、皆さんには、この理由はわかりますか?