教育は未完
こんな言葉をよく聞きます。
教育者や教育学者は、いつまでたっても理想的な教育を実現できない。
でも、そんなとき、よく思うんです。
教育は後にも先にも、決して「完成すること」はないのです。
別に格好つけて言っているのではなく、それは常に「未完」であるべきなのです。さらに言うならば、それは、様々な価値が対立しあう葛藤の場でなければなりません。Developmental work researchの知見をあらためて参照するまでもなく、その葛藤こそが発展の源になりえるような気がします。
否、ここでは「あるべきなのです」「なければならない」と敢えて当為学風に言いましたが、正確に言いますと、「未完なのです」「葛藤の場なのです」ということになるのかもしれません。
そして、
教育者や教育学者は、いつまでたっても理想的な教育を実現できない
そういう中立めいた批判の中に、僕は、その言葉を発する人自身の「理想」を見ます。ここでいう、「理想的な教育」は「わたしの考えるよい教育」という意味と同義であることが非常に多いのですから。
教育は常に未完であり、葛藤の中にあります
だから、教育者・教育学者は、今日も「果てないあやとり」を続けるのです。
教育のことを考えるとき、あなたはいつも「未完のプロジェクト」の登場人物なのかもしれません。
投稿者 jun : 2005年08月20日 11:31
コメント
私は未来のことの逆に出発点の話題をちょっと。
ある高校のために進学・就職のお手伝いをしていたら、教育学部だけは初等中等教育に前提科目がないことに気づきました。ほかのたいていの学部には前提科目があります。体育学部には体育科目とか。
教育は受ける立場としては小学1年から長年経験していますが、教える側の理論や技術は教育学部に入学した時には前提素養がないわけですよね。教育学というのは別格なんだと思いました。
投稿者 君島浩 : 2005年08月19日 12:44
愛するマラグッツイ氏もこんなことを言っています。
教育学にとって、あまりの確実さのとりこにならないことが重要なのではないでしょうか。むしろ、教育学の力の相対性と、教育学的な理想を実践にうつすことの困難に対して自覚的であることが重要であるように思います。
投稿者 lee : 2005年08月19日 16:43
興味深いですね。教育研究からはぐれかけている今の私に「教育は人なり」という言葉の含みを思い巡らさずにはおかないテーマです。
相対性や実践の難しさといった事柄はまさに悩める「人」そのものの事でしょうし,前提科目や素養のなさを立て替えたのは「人」の人格や人間性といったところなのかもしれません。
きめの粗い捉え方かも知れませんが,なるほど私たちは人から人へ,世代を超えて社会を紡ぐ存在であり,それゆえ未完である。けれども,私自身の生き方にはどこかで区切りがやってくる以上,理想的な人生を歩みたいという願いも尽きない。
私もまた,日々そんな事を遠回しに考えている「人」なのだなぁと思ったりします。たまに「動物化」してみたい時もあるけど…(^_^;
投稿者 りん : 2005年08月20日 23:49
時間というものが進んで行く中で、教育も常に変化し、進んでいる。理想は恒久的に先にあり、留まっている時間などどこにも存在しないのであるのだから、教育は完成することはありえない(個人内以外には)。
最大限の変化を認める教育者になるかどうか。そこがポイントかと思います。
投稿者 lee : 2005年08月21日 16:50



















