それは誰のものなのか?

 最近、とにかく「人」と逢うことが多い。「単なるおしゃべり」から、「真剣勝負の交渉」まで、様々である。が、4月以前と以降では、当社比3倍くらい、僕は人にあっているような気がする。
 生まれつきの「寂しがり屋」である。でも、たとえそうでなかったとしても、僕は「ひとり」じゃいられない。

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 先週、印象的だった言葉。

 医学教育学会で東大を訪れた、京都大学の三原さんにお逢いした。彼女とは、ボストンでお逢いして以来。

 短い時間であったが、医学教育の世界が、どういうものであるのか、を聞けた。非常に興味が持てた。医師をどのように育てるか、は近い未来の医療にとって非常に重要な課題である。しかし、「医学教育」をデパートメントレベルでもっている大学は、世界に3つしかない、と聞いた。逆に3つあるのだ、と正直驚いた。

 今度、彼女には、Learning barなどでゆっくりお話を伺いたい、と思った。

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「ソフトウェアを握って生きていく時代は、もう終わろうとしています、ソフトウェアは、みんなの知恵の固まりみたいなものですから」

 これは某企業の方と話していて、でてきた言葉である。近年、ソフトウェアをオープンソースの形態で開発し、儲け自体はソフトウェアの導入や運用でかせぐという企業が増えてきている。

 この言葉を聞いたとき、僕は、頭の片隅で、記号学者のロラン=バルトを思い出していた。「作品からテクストへ」「作者は死んだ」という挑発的なコンセプトで、現代哲学を切り開いていたバルト。彼は、特権的な「作者」の立場に引導をわたしたことで、知られている。

 言うまでもなく、ひとつのテクストには、多くの人々の語りが含まれる。テクストがそうであるように、もし「ソフトウェア」もそうした多声的な空間であるとするならば、「ソフトウェアを握る」とは何を意味するのか。

 さらに想像力をふくらまし、eラーニングでいうところのデジタル教材に話を発展させる。ある知名度のある教員の授業が「商品」として流通する。かつては、大学という場に閉ざされていた、局所的で一過性の営みであった「授業」が、情報通信技術によって、「モノ」として流通する。しかし、その教員の授業は、多くの研究者の研究の蓄積によって成立し、そこには様々な研究者の声が木霊している。

 このとき、この教材は、いったい誰のものなのか?

 そこまで考えたところで、ハッと正気に戻った。

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 健全な思考には、言うまでもなく黙考が必要である。それと同時に、他者の言葉から誘発されるインスピレーションから、考えさせることは多い。

 この場合の「思考」、それは「僕のもの」なのか?