なんか事例はありませんか?:事例の逆機能

 仕事柄、講演などをよく行うけれど、質疑応答などでよく投げかけられる質問にこんなものがある。

「なんか、事例ありますか? あったら教えてください」

 こういう質問には、

「○○大学では・・・・をしました・・・」
「○○株式会社では・・・・・なことをしました」

 と答えることが求められている。

 結局、いろいろなデータや理論を参照しながら話をしても、人はそれだけでは満足しない。データやセオリーから導き出される「実践がどのようなものであるか、そして、どんな出来事を生み出したのか」について興味をもつ。

 データやセオリーのような命題的思考と、事例のような物語的思考から、話された内容を理解するわけである。それ自体、全く悪いことではない。人間の理解の道理にしたがったリクエストである。

 しかし、中には、「事例だけを聞いてすべて理解したと考える人」も、たまに見受けられる。

「データや理論」を話しているときには下を向いておられるのだけれど、「事例」のところだけは熱心にメモをとり、それが終わると、またお眠りになるといった具合である。

「難しいことはいいんです、事例だけ教えてください」

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 そういう場合は、「事例」は命題的思考を補完するというよりは、むしろ、命題的思考を阻害し、思考停止に陥らせるような気もする。

 ある組織が、いつ、どこで、何をやったのか?

 はわかるけれど、それが「なぜ」起こったのか、「どういう結果がでたのか」は不問に付されるからである。これは、いわゆる「事例の逆機能」とよんでもよいかもしれない。こんな理由から、あんまり事例ばかりが求められるのも、いかがなものかと思う。
 
 事例は、どのように生かされるのか?

 意外に大問題である。