教育研究、データ、デザイン

 「教育研究にはデータを積み重ねることが重要だ」

 と一般によく言われる。ないよりあった方が絶対にいい。また、上記の命題に関しては同感である。そのことを否定するわけでは、断じてない。

 が、データを積み重ねて、そのデータの中「だけ」から、何か新しいソリューションやカタチ- Something newが生まれる、と考える人が、もしいるのだとすれば、かなりナイーブすぎる考え方だ。結論からいうと、帰納的方法「だけ」から、なかなかSomething newは生まれにくい。

 もしそうなら、統計データ、アンケートをひたすらとっていれば、いいはずである。この世は、質問紙屋だけで事足りる。しかし、実際はそうではない。

 何か新しいソリューションをつくりだすためには、データを積み重ねるという分析思考の一方で、同時にアブダクションを実践することが重要だ。

 アブダクションとは、記号論研究者C・パースによって提唱された、「不可解かつ不確実な現象を説明し得るような仮説をつくりだす思考」のことである。帰納法(induction)、演繹法(deduction)とともに、人間の思考の基本的要素と言われている。

 この場合、簡単にいうと、「自分が最後に見たいもの」を導くような「何か」を考えつく思考法というのかな。

 たとえば、今、「こういう風に子どもたちが、あんな風に学習している光景が見たい」とする。その「光景」を実現するための仮説=方略を考えることが、アブダクションである。

 パースは、新しい知識はアブダクションから生まれると考えた。演繹的方法ではほとんど新しい知識は生まれず、帰納法ではほんの少しである。つまりは、いわゆる「分析的思考」では、新しい知識は、なかなか生まれにくい、と考えた。

 アブダクションといえば、この方を思い出す。僕が学部時代、その講演を聴いて大きく感銘を受けた吉川弘之先生(元東大総長)である。

 当時、吉川先生は「デザイン・工学とはアブダクションのプロセスに他ならず、アブダクションこそが、イノベーションを生む原動力ではないか」と指摘していた。「なるほど、デザイン・工学ね・・・僕が教育研究でやりたいのjは、こういうことなのかな」と考えたことを、今でも覚えている。

 もちろん、そういったからといって、「データを積み重ねる分析的思考」を軽視するという、反知性的態度をとりたいわけじゃない。むしろ、逆だ。全く逆だかんね。

 僕の勘で言うと(勘で申し訳ない)、データを積み重ねる分析的思考は、「アブダクションの方向性」をゆるやかに示す「制約」として機能するのではないかと思う。だから、大いに、そういうアプローチの研究が増えればいいと思う。

 早い話が結論から言うと、データを積み重ねる分析的思考も、アブダクションによる仮説形成的推論、どちらも軽視してはいけない、と考える。教育研究には、社会科学的アプローチの他に、デザイン・工学アプローチが必要不可欠である、と思う。