手足を動かす教育研究

 <教育>の言説空間では、「誰にも反対出来ないような正論」が繰り返し述べられることが多い。

「学校改革はトップダウンで行うのではなく、地域の人々や教師がともに手をとりあいながらボトムアップで行うべきである」
「教育は社会階層の再生産を少なくする方向で実施するべきである」

 これらの正論には、おそらく誰一人として異論を差し挟む人はいない。「そりゃ、そうだろうな」「そうなればいいな」と誰もが思うことである。

 しかし、同一の正論が何度となく無反省に繰り返し述べられているのを見ると、僕には、どうしても釈然としない気持ちがのこる。

 こうした正論は、本当に「学校改革をボトムアップですすめること」や「社会階層の再生産を少なくすること」を実現したいと思っているのだろうか、と疑問に思う。

 そして、

 ボトムアップの学校改革は、何をどのようにすすめるべきか?
 社会階層の再生産を少なくする施策とは何か?

 ついこのような問いを、アタマの中に浮かべてしまう。つまり、その正論を「現実のもの」とするために、「とりあえず、今すぐできること」はないのか、をさぐりだす。規範的思考から方法的思考に移行する。

 教師にできることは何か
 親にできることは何か
 教育行政官にできることは何か
 そして子どもに取り組ませるべきことはなにか

 大きな問題を下位目標にブレークダウンする。そして、それぞれの人たちに、どのようなメッセージを発し、何をしてもらえばよいのかを考える。

 もちろん、そうしてみたところで、それまで「0」であったものは、すぐには「1」にはならないかもしれない。でも、その試みが局所的であったとしても、ちょっとした工夫で、「0.1」にでもなりさえすれば、「0」よりはましだ、と考える。

 しかし、こうした方法的思考は、正論を述べている論者からすれば、コレクトな態度とは言えない。むしろ、そうした思考や態度は嫌悪される傾向がある。「それってHow toでしょ」と非難されたりしがちかもしれない。

 しかし、なぜ「How to」の問いは、価値の低い問いだと思われるのか?

 その原因のひとつは、規範的思考より方法的思考の方が、いろいろと、「問題」を巻き起こしやすいからである。そして、その問題が「正論」の「正しさ」に疑いの目を向けてしまうからである。

 問題がブレークダウンされ、具体的に「教師」「親」「教育行政官」というステークホルダーが想定され、彼らに何らかのアクションを求めた時点で、「現実の世界の様々な制約」が噴出してくる。

 「そうはいうけれど、こういう事情で○○できない」
 「○○をするためには、□□を現在の2倍にしなくてはならない」

 など、現実の世界の「事情」が見えてくる。「正論」が、いわゆる「正論」でしかないことが、白日のもとに曝される。

 「誰もが批判をしない正論が指摘する現実」というのは、だいたいの場合、多くの現実の制約が拮抗し、「そうならざるをえない状況」になっている場合が多い。こうしたものを対象に方法的思考をとれば、パンドラの箱をあけ、様々な制約と相対し、悩む結果となってしまう。故に、方法的思考だけは避けなくてはならない。

 そこで、いわゆる「価値操作」が行われる。

 「アタマで考えること」>「手を動かすこと」
 「正論」>「具体的なフィールドに関与すること」

 といった具合に、常に「>」の不等号の位置を固定する。「手を動かす」とか「具体的なフィールドに関与すること」は常に価値の低いものと位置づける。

 ゆえに「教育書」はいつも終わりが寂しい。「具体的な提言」は終わりの3ページだけに、申し訳程度につけられている。「本書では、いわゆる役に立つHow toを提供しない」と高らかに宣言されている。

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 「理想」をもってはいけない、「正論」を述べてはいけない、といっているのではない。理想なくして、現実は決して生まれない。それはすべての議論の基盤である。

 もちろん、すべての教育論が方法的思考のもとで編まれるべきだともおもっていない。論文の主張は焦点化されるべきである。誰もが気づいていなかったコモンセンスを疑ったり、データをもとに例証する論文の必要性は、いささかも減じない。

 しかし、ひとしきり問題が把握されたのなら、次は、一歩思考をすすめる時期である。大事なことは、社会の側からは、一般に教育研究にそれが要請されているという事実である。世の中には、今すぐにでも対処を考えなくてならない教育の問題が、たくさん、ある。

 「それってHow toでしょ」

 という物言いは、「大きな問題をブレークダウンして、それぞれのステークホルダーにメッセージを発しようとすること」や「実際に手を動かして、やってみること」が、それだけでも、どんなに難しいことなのか、そこには、どれほどの智恵や苦労が必要なのかに、注意を払わない。

 問題が把握されれば、あとの「実装」「実行」は何とでもなる、という前提がそこにはある。そこに、少し前まで予想出来なかった「新たな問題」が次々と発生することを見ようとしない。といおうか、多くの場合、そういう論者には経験がないので、「実装」「実行」の困難に想像力が及ばないのではないかと思う。

 「手足を動かす教育研究」・・・最近、この言葉が気に入っている。