徒弟制一掃!?

 何だか附におちません・・・。
 というよりは、こうした大ざっぱな議論で(というか、記事かな・・・)、学習の手法としての「徒弟制」が誤解されないことを祈ります。研究者が「一人前」になるプロセスとして、研究室で行われる研究に「参加すること」が、前近代的な教育手法であるかのような誤解が、生まれないようにして欲しいと思います。

徒弟制一掃、文科省が大学院を抜本改革へ
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060430i101.htm

 ここでは、「徒弟制度」が単に「大学院生や若手研究者の労働力搾取」の手段としてと見なされ排斥されようとしていますが、学習研究において徒弟制(Apprenticeship)は、そういう「教員 - 生徒間の垂直的な権力関係」「労働力収奪の関係」を助長する制度ではありません。

 多くの学習研究者がすでに明らかにしているとおり、学習内容が高度なものになるにつれて、「学習手法としての徒弟制」、つまりは、「研究室で見習い研究者が、教員のプロジェクトに参加し、自然に知識を身につけること」は、むしろ不可欠なのではないかと思います。
 ドナルド=ショーンがいみじくも述べるように、「高度な専門知識を要する実践において、応用力を修得するためのたったひとつの方法は、現場での経験しか存在しません」。
 むしろ、高度な知識創造をめざす組織で、かつ、うまく機能している研究室では、この徒弟制がExplicitであれ、Implicitであれ、機能しているのです。

 徒弟性自体は<悪くない>のだと思います。
 むしろ、問題は、徒弟制を教育機会としてではなく、単なる「労働力収奪」の装置としてしか利用しなかった、硬直した研究室運営、研究室ガバナンスのあり方を改革すべきでしょう。それに変革をもたらすというのなら、僕に異存はありません。大いにやればいいと思います。

 私見では、日本の大学院教育の問題のひとつは、徒弟制度が労働力搾取の装置としてしか機能していないということよりも、1)そもそもExplicitな研究者養成カリキュラムが不在であること、また、2)そうしたExplicitな教育機会が、徒弟制のようなimplicitな学習とうまくむすびついていないことに、起因するのではないかと思っています。
 少なくとも、ボストンでのハーバード、MITでの大学院教育をかいま見て、僕はそのような印象をもちました。いいえ、海外にでる前から、僕はそう思っていました。
 これには、学部によってもいろいろな意見があることですので、一概には言えませんが、少なくとも僕の専門の観点から言いますと、そのように思います。今後、議論をつくす必要があると思います。

 誤解を避けるために言いますが、自分が教員の立場にたったから、上記のような主張をしているわけではありません。ここでは敢えて、その理論やデータについて、詳しく述べませんが、教育学研究者、学習研究者として誠意をもって言っています。

 一人前の研究者になるためには、体系的に知識を習得するのと同時に、どうしても、様々なプロジェクトに参加しつつ、次第にそのプロジェクトを動かしていくような、いわゆる現場での徒弟的学習が、どうしても必要なのです。

 くり返しになりますが、今回の発表が変に誤解されて、「徒弟制度はすべてダメ!」とならないことを祈ります。「研究室でかかげる研究への徒弟的参加が、どんな場合もダメ」みたいな曲解は、避けなければなりません。

 日本の教育言説は、すぐに右に、左に振り子のように揺れるから、とても心配です。