学力をどうする?

 少し前のことになりますが、「学力論争」というのがありましたね。盛り上がったんだか、盛り上がらなかったのか、僕自身はキチンとフォローしていないのですが、これに関して最近出版された「希望をつむぐ学力」という本を読みました。

 この本、教育学者、ジャーナリスト、教育社会学など、関係する多様な人々が、学力に関する私論を展開するという内容ですね。

 執筆者各人によって、学力に関するとらえ方など、ちょっとトーンが違うのですが、「学力問題」の全体像をとらえるのにはとてもよい本でした。

 学力問題に関するハードな社会学的分析ならば、下記の「学力の社会学」がよいと思うのですが、「希望をつむぐ学力」のほうは、もうすこし軽く読める本です。

 この本の中に収録されているもので、個人的に一番興味深かったのは、岩川直樹先生の「教育における力の脱構築」という論文でした。

 教育業界には、「学力」に限らずいろんな「力」がありますね。「人間力」だの「コミュニケーション力」だの、「段取り力」だの・・・。

 本論文の最初の方では、

1)「力」の概念が、歴史的・社会的な影響を受け、変質していっていること

2)特に、最近は新保守主義による競争と効率原則が支配的になっていること

3)「力」の概念は、「力の発言を他者や場から切り離された個体の問題に還元されること

4) 力の養成は脱文脈的なスキル学習、反復学習に陥りやすいこと

5)養成された「力」は外在的基準により、<科学的>な数量評価によって測定される傾向があること

 が述べられていました。

 そして、「力」の概念によって、下記のような弊害がおこる可能性があることが指摘されていました。

1) 測定になじむスキルなどの目に見えやすい側面のみが問題にされる傾向があること

2) 外在的指標による数量的評価になじまないものまで、その適用範囲を拡大することによって、学びの意欲を授業中の挙手の回数で評価するような、あやふやな根拠に基づいたもっともらしい数値が一人歩きするようになること

 etc...

 なるほど、その指摘は非常に共感出来ます。実は、先日ある本で、僕は「力」問題に関して、こんなことを書きました。

「なんとか力(なんとかりょく)をつけろ、とか、あなたには、なんとか力が足りない、という風に、安易に「ちから」という言葉を使う教育評論家がいたら、あまり信用しない方がいいです。それは、自分の主張したいことに、「ちから」という言葉をくっつけて、単に言いたいことを言っているだけ。学問的裏付けがないことが多いのです」

 そんな折りでしたので、この論文を非常に共感をもって読むことができました。
 また中段で展開される、日本の教育界は、PISAのとらえる「リテラシー」の概念を、敢えて誤読・誤用しているという指摘は、非常に示唆にとみました。

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 ただ、「力」の概念が問題をかかえていることはよくわかったのですが、「それを、じゃあ、どうすればよいのか」と具体的な方法を問われると、なかなか難しい側面もありますね。

 たとえば、教育学者の中には、ヴィゴツキーや状況的学習論などを下敷きにして、こう論じるむきがありますね。

「本来、力とはそういうものではなく・・・文脈に埋め込まれているものであり、他者の助けによって・・・云々」

 という論法です。いわゆる社会文化アプローチの知見をもとにして、従来の「力」の概念を再構築することをめざそうということです。簡単にいうと、「学力とは本来○○なものではなく、○○なものである」という論法で、学力という言葉にのっかりつつ、その定義をズラすという方法です。

 事実、この方法は教育学的にコレクトな態度と考えられがちなのですが、世に流布する「力」の概念は、恐ろしいほど強力なのですね。かなりの激戦を強いられる。ともすれば、この論法では、「力の教育学」とのポリティクスに敗北してしまうになってしまうのではないかなぁ、と僕自身は思ってしまいます。

 じゃあ、どうすればえーねん

 という声が聞こえてきそうですが、僕自身も悩みのまっただ中にいますので、確固たる処方箋があるわけじゃない。

 でも、まずは2つくらい戦略があるのかな、と思うのです。

 1つめは、「力」の概念にのっからず何か新しい概念を創出していくという方法。「学力」とか「能力」とか、そういうものをいっさい使わないのです。先のPISAの「リテラシー」の概念は、それに近いのではないかと思います。

 2つめは「力」概念に一件従順な振りをして、それに基づいてテストもやる。それは社会で求められているのだからやむを得ないと考えるわけです。
 でも、「力」概念に適合すると考えられる方法は敢えてとらず、むしろ新しい学習観に基づく教育を志向するという戦略です。どちらかというと、アメリカの学習科学の研究者はこちらの戦略をとっているのではないでしょうか。彼らは、常にアカウンタビリティをもとめられていますので。

 このあたり、いずれにしても、研究者や教育実践家が、キチンとした戦略をもつ必要がでてくるのではないかと思います。

 学力・・・このすさまじき概念をどうするか?
 それは教育学を研究する人間につきつけられたアポリアかもしれません。

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