ケータイだけの危険性

 学生「僕は、メールやWebはケータイしか使わない」
 中原「なぜPCは使わないの?」
 学生「だって、どっちも一緒、インターネットじゃん」

 前にも日記で書いたことがあるけれど、つい先日も、ある学部生と、こんなやりとりをした。

 確かに「ケータイのメール」も「PCのメール」もインターネットメールであり、「ケータイのWeb」も多少の仕組みの違いはあっても、ほぼ同じである。この学生が、「PCのかわりにケータイを使う」という選択肢をとるのも、合理的だよな、とは思う。

 実際、最近、PCを使っている学生は本当に少ないな、という感触をもつ。なぜわかるかっていうと、学生から僕に贈られるのメールがケータイから発せられているからです。まずまともなメーラを使っている人はいないんじゃないか、と思っちゃいます。
 ちなみに、こういう事態は学部生だけじゃない。大学院生でも、こういう学生は多くって、びっくりしてしまう。大学院になってから、表計算やプレゼンをはじめてやったというツワモノもいて、開いた口がふさがらない。

 まぁ、別にピーピー青筋をたてなくても、使いたいもん使って、できることが同じなら、それでもいいんだけどさ。

 でも、やっぱり、僕には懸念が消えない。

 「ケータイでできること」、あるいは、「PCのWebでできること」ってのは、情報の「消費」活動がメインであって、「情報を自分であたりをつけて収集して、分析して、まとめて、発信するといった活動」が、おろそかになってしまうのではないか、という懸念である。

 さらに言うならば、見かけ上はケータイを使っていても、「情報を扱っているように」見えてしまうので、そういう活動の重要性が忘れ去られてしまうという懸念でもある。

 別に、僕がケータイオンチだから、こんなことを言っているわけじゃないよ。たぶん、人並み以上にケータイは利用しているし、imodeも、かなりのサイトを使っている。
 しかし、経験上、そこでやっている活動は、「情報を一方的に消費されられる感じ」が多い。

 さらなる懸念は続く。これらの学生諸氏が「人の親」になったとして、日頃「ケータイしか使っていない親」と、「家でPCもケータイも使う親」に分岐するとする。
 もし仮に彼らの情報処理能力に差があった場合、その格差が子どもに格差が再生産されるっていう問題がある。

 そういう事態が、何だか怖い。
 ケータイにせよ、PCにせよ、メディアはこのさいどちらでもいいから、「情報の創造的側面:分析・統合・発信」をきっちり教えるべきだと思う。