ゆとり教育

 先日、「現役の文部科学大臣がゆとり世代の中学生に謝罪した」というニュースが報じられた

 中山成彬文部科学相は21日、「スクールミーティング」で水戸市の茨城大教育学部付属小、中学校を訪問し、ゆとり教育について「導入は拙速すぎた」とゆとり世代の中学生に謝罪した。

 意見交換で中3の男子生徒が「教科内容が見直されることで(ゆとり世代の)僕たちの代だけ上や下の学年に劣ることになるので心配」と訴えると、中山文科相は「ゆとり教育の見直しで教科書のページ数も元に戻りつつある。皆さんには申し訳なく思う」と謝罪した。

 また「ゆとり教育の導入は拙速すぎた。授業数まで削減したことは反省点。自分の頭で考える主体性のある子どもを育てたい」などと述べた。

2005年4月21日 共同通信

 ゆとり教育が盛んに主張された頃から、「教科内容の削減の危険性」に関しては、多くの教育学者が指摘していたのにもかかわらず、それに踏み切った文部科学省。

 当時の世論やマスメディアの論調が「画一主義反対!、教育にゆとりを」一色であったことを考えると、それも仕方がないとは言えるが(今になって、マスメディアや世論が文部科学省だけを攻めるのはおかしい!)、どうも最近はきまりが悪い。

 しかし、どうにも首をかしげてしまうのは大臣の弁である。

 その場に居合わせたのではないので、僕は詳しいことはわからないけれども、もしこの記事がホントウだとすると、「文部科学大臣が謝罪すること」は「教科書が薄かった僕たちの代だけ、上下の学年より劣っている」ことを認めたということである。

 一見、これは「ふむふむ」とわかりやすいけれども、ホントウに正しいことなのだろうか。今後、その対策として教科書は厚くなり、授業数は元に戻っていくのだろうけど、「教科書が元に戻れば、学力があがる」というのは、ホントウなのだろうか? さらに「授業数をふやせば、自分のアタマで考える主体性のある子どもになるのだろうか」?

 このあたり、すこし印象的に語られすぎている気がしてならない。

 もし「ゆとり教育」が失敗だったというのなら、なぜそれが失敗だったのか、それによって失われたものが、何であったのか。どうやったら、リカバーする手段が何であるのか、キチンとした研究やデータに基づいて、プランニングして欲しいな、と思う。

 そうでないと、また「自分のアタマで考える」とか「主体性」とか、聖性をおびた言葉が生み出され、消費され、或いは「とりあえず教科書厚くしりゃいいんだろ」みたいな話になって、はっきりとした輪郭の見えにくい政策が打ち出されるような気がする。そして、そのたびごとに現場は大騒ぎになる(まだ大騒ぎになればいいほうで、失意と無関心が支配するようになるのが一番怖い・・・)。

 僕はそれが心配だ。