ドキュメンティング・ファシリテーション : ひとりで実践記録、ひとりでファシリテーション!?

 最近、小生、ハマっておりますのが、ドキュメンティング・ファシリテーションです。

 ドキュメンティング・ファシリテーションとは、昨日、研究室の舘野さん(D3)と話していて、彼にヒントをもらい、つくった「造語」です。
 最初は「ドキュメンテーション+ファシリテーション」で「ドキュリテーション」と名付けたのですが、なんか「ドキュ」という語感がイマイチなので、やめました(笑)。

 ドキュメンティング・ファシリテーションは、英語として正しいかどうかは知りません。たぶん、もれなく、確実に間違っているので(笑)、「よい子」はマネしないでね。

 要するに、ドキュメンティング・ファシリテーションとは、

「ワークショップや実践を自ら実践しながら、かつ"記録"も行い、しかも、その記録した映像をもとに、"参加者の対話"をうながしちゃう」

 という「謎のファシリテーション」です。
 役に立つんだか、たたないんだか、今のところ、さっぱりわかりません(笑)。劇薬なので「よい子」はまねしちゃいけません(笑)。

 なぜ、こんな「謎のファシリテーション」にたどり着いたかと申しますと、久しぶりにおうちでホコリをかぶっていた「iPad」をひっぱりだしてきて、ホジホジと遊んでいると、あることに気がついたからです。

documenting_facilitation.png

 いやー、ipadでビデオを撮影し、iMovieで編集し、ネットにあげることが、非常に簡単な操作でできてしまうことって、こんなに「簡単」なんですね。「指先だけで編集」です。そんなもん、はやく気づけよ。

 つい最近、そのことに興奮して、カミサン(教育番組のディレクターをやっております)に「こりゃー、すげーぞ」と言っていたら、

「あんたね、わたしは、毎日映像見続けてる人間なの・・・」

 と「そんなもん、あたりまえだろ的」つれない様子でした(笑)。ふぅ。今度はもっと面白いネタをお持ちします(笑)

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 ドキュメンテーションといっても「靴下ポイポイ男」の小生がつくるものですので、当然のことながら、プロクオリティのものはできません。そんなもの、ハナから期待しないで下さい。

 ですが「まぁ、みれないこともないくらいの適度なクオリティ」のものならば、別途、「ドキュメンテーション部隊」を用意しなくても、自分一人で短い時間でつくることができるのです。
 場で対話を行うのにもっとも適した映像を、参加者にみせ、その後の対話をファシリテーションすることも可能になるのです。

 つまり、ドキュメンティング・ファシリテーションとは、

 「ひとりプラクティショナー」であり
 「ひとりドキュメンテーション」であり
 「ひとりファシリテータ」である

 という究極のかたちです。

 まぁ、こちら、たぶん、あまり迷惑をおかけすることはないと想いますので、こちらで、しばらく実践を続けてみようと想います。その先にありそうだな、と感じるから。

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 iPadをホジホジしていて、最近、いくつかの「マネジメント向けワークショップ」「働く大人向けワークショップ」を思いつきました。それは、また別の機会にお話をします。
 
 それでも人生は続く
 

投稿者 jun : 2013年2月28日 09:47


アカデミズムの壁:学際的な研究合宿をデザインする!?

 今年の研究室の合宿は、去年同様、「学際的・異種混交・春合宿」とすることにしました。
 研究室のメンバー以外に、ご縁(En)のある方で集まり、「様々な研究領域の最先端を2日間で知る」という感じの「Camp」みたいな合宿です。

 名付けて「EnCamp(エンキャンプ)」。
 まんまやん(笑)

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 EnCampまで残り1週間。
 今、舘野さん(D3)、保田さん(M1)を中心にして、研究室のメンバーが準備をしてくれています。皆さん、お疲れ様です。リーダーのお二人、ありがとうございます。
 下記にその様子が公開されていますので、もしよろしければご覧下さい。

EnCamp2013(今年)
http://www.facebook.com/EnCamp2013

EnCamp2012(去年)
https://www.facebook.com/EnCamp2012

 今年のEnCampは、イノベーション研究、状況的学習論、学習研究、パフォーマンスエスノグラフィーの最前線を学び、研究者のキャリアを振り返る内容になるようです。ご参加頂ける研究者の方々に、心より感謝いたします。

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 リーダーのお二人がつくってくださっているEnCampのFacebookページを見ていて、「この15年間で、研究環境も変わったよな・・・」としみじみと思いました。

 まずわずか15年くらい前まで、「学閥」というのか「大学の壁」というのか「研究領域の壁」というのか・・・何といってよいかわかりませんが、「異なる大学のメンバー」「異なる研究アプローチのメンバー」が、一同に集まることは、あまりなかったように思います。

 僕は幸いにして、学部の頃は、学際系?のかおりのする先生!?のもとで研究指導を受けておりましたし、大学院では自由奔放に、いろいろな大学の方々と学ぶ機会を持たせてもらいました。
 こうした研究環境は、僕のような性格の人間にとっては、まことに幸せなことでした。だって、研究室の人よりも、研究室以外の人の方が、研究会とかで人は多いんだから(笑)。でも、一般には、まだまだそういう雰囲気ではありませんでした。

 他の大学の勉強会に出たりすると、教員から怒られたり、違う研究アプローチの研究会に出たりすると、「裏切り者めー」という感じでののしられたり、ほんの10数年前までは、アカデミズムの壁は高かったような気がします。
「今でも高いよ」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも僕の研究領域に関する限り、その壁は、今よりももっともっと強固でした。

 そういう壁が少しずつ瓦解し、「同じ研究テーマを探究する人々」が集まれるプロジェクトが増え、そういうところにファンドがつくようになってきました。
 また、僕の研究領域に関して言うと、研究が大規模化し、実際に実務を担っている方々にご利用・参加頂きながら、データを取得する研究になってきますと、ひとつのアプローチや単一の研究者の手にあまるような規模にまで研究が膨らんできました。それは、研究という社会的営為の変化によって、もたらされた「構造的な変化」であるとも言うことができます。

 さらに、これに拍車をかけたのは、Facebookやら、Twitterやらのソーシャルメディアでしょう。メディア環境の発展によって、いろいろな人が自由につながれる時代になってきたと思います。

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 最近、大学院生を見ていると、たまに驚くことがあります。
 彼らは、僕の友人や、友人の指導している大学院生を知っている方々と、僕が思っている以上に、すでに知り合い、意思疎通しているのです。

大学院生A君「あっ・・・何々さん、こんにちは!」
中原の心の中「あっ、このふたり、どこで知り合っていたのかな・・」

 まことにあっぱれ。
 こういう状況が、最近、よくいわれる「Connectionism(つながりをつくることこそが学びという考え方)」のひとつかな、と想像しますが、自己増殖するネットワークをうまく駆使して、研究業績をあげていただきたいな、とも思います。

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 中原研では、春は、このように「学際的・異種混交・合宿」としています。一方、夏は、参加者を研究室のメンバーだけにしぼり、がっつりと学習の文献を読みます。

 開くこと、閉じること。
 オープンであること、集中すること。

 External Social Capital(組織の外側にある社会関係資本)と、Internal Social Capital(組織の内側の社会関係資本)のバランスをとりながら、何とかかんとか、「綱渡りの研究室運営」を行っています。ひゃー、おちるぅ。

 いつまで、このスタイルが続くかはわかりませんが、何とか、こうしたあり方を維持していきたいな、と思っています。

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 研究室の合宿とは「誰のためにあるのか?」
 
 この問いに対する答えは、意外なほど、一般には問われません。研究室の合宿は、伝統ある研究室ならば、古くから「やること」になっているし、「誰のためのものか?」なんて、あまり考えない。

 しかし、僕の考えでは、上記の問いに対する答えは、学生を含め「学ぶ人のため」でしょう。
 だって、誰も合宿してくれって頼んでないよ。やりたいからやるんですよね。いつやめたって、いいのです、やめたいのなら。

 ならば、せっかく貴重な時間をつくるのなら、自分たちの学ぶ機会を自分たちでデザインしてほしい。そうした機会を、決してルーティンや惰性で運営するのではなく、一回一回振り返って欲しい。きっとよい学びの機会になると信じています。

 僕自身、EnCamp、愉しみにしています。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年2月27日 08:40


読者が、途中で必ず行き詰まるようにできているマニュアル!? : 2つのマニュアルを読み解くリテラシーの必要性!?

 今日のお話は全くをもって余談になりますが、先日、あるところで、マニュアル設計を専門にしていらっしゃる方とお話ししたとき、興味深い話を伺いました。

 その方、曰く、

「世に流通しているマニュアルの記述には2種類あるんですよ。"最後まで読んでできるマニュアル" と "途中で行き詰まるようにできているマニュアル"です

場合によっては、マニュアル執筆者は、読者を"途中で行き詰まるようにすること"を書くこともあるのです」

 僕は、最初、この意味がわかりませんでした。

「マニュアルを書く」というと、当然、「読者が読んでわかること」、さらには、「読者が独力で書かれてあることを実践可能とすること」が「前提」であろうと、勝手に想定していたので、思いがけない言葉に、一瞬、ひるんでしまったのです。

 読者を"途中で行き詰まるようにする"マニュアル???

 おそらく、教材設計理論の専門書、どのページをめくったとしても、そんなことが書いてあるページはないと創造します。
 マニュアルの記述をもってして、敢えて、読者を煙にまき「途中で行き詰まるようにすることを書くこと」の意義が、すぐにはわからなかったのかもしれません。

 その方、曰く

「業務の手順には、どうしても形式知として文字でおこすことができないものがあります。また、作業には、読者が自分で対処の仕方を考えなくてはならない局面があります。その場合には、マニュアルには敢えて書かず、途中で"行き詰まらせます"。そうすることで、自ら考えること、あるいは、他人に聴くことを促すのです」

 つまり「途中で行き詰まること」を敢えて書くことで、「自ら思考すること」「他者とともに問題解決にあたること」を促す、ということですね。
 なるほど。
 そんな「高度なマニュアル記述」が存在するんですね。
 世の中、まだまだ知らないことだらけですね。

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 僕は、マニュアルの専門家ではないので、詳細は知りませんが、このテクニック、使い方によっては、「他者依存」「情報操作」を生み出すこともできるな、と思いました。
 そして、わたしたちには、それを読み解くリテラシー?みたいなもの、心構えも必要かもしれないな、とも思うのです。

 マニュアルの体裁をとっているので、一見、「誰でもできること」を標榜されていつつも、手に取った読者を「途中で行き詰まるようにデザイン」されており、困った読者を、その他のメディアや追加の教材にナヴィゲートするような「マニュアル?」が、広い世の中、存在しないということはないだろうな、と。

 つまりは、表向きは「マニュアル」でありつつも、実際は、「より高度なサービスへのゲートキーパー」を担っているマニュアル、ということです。

 まぁ、そんなものがあるのかどうかは知りませんが、もし「途中で行き詰まるようにデザインすること」が可能なのだとしたら、そういう「高度な情報操作」「読者誘導」も可能になります。
 そういう場合には、わたしたちには、マニュアルや入門書を読み解くリテラシーが必要になりますね。

 皆さんが持っているマニュアルや入門書は、いかがですか?

 お持ちのマニュアルや入門書は、
 "最後まで読んでできるマニュアル" ?
  それとも
  "途中で行き詰まるようにできているマニュアル"?

投稿者 jun : 2013年2月26日 08:46


「下の世代」が「上の世代」から「学べる場」をつくる工夫:「共有できるテーマ」「正解のない表現」「反転した非対称関係」

 かなり前のことになりますが、ある研修(ワークショップ)で、大学生と40代くらいのビジネスパーソンの方が、ペア2名になって、ある課題に取り組む、ということがありました(Oさんとの共同研究で実施したものです)。

 課題は、「40代のビジネスパーソンの方が、自らのキャリア(これまでの仕事)を振り返り、それ3分くらいのデジタルムービー」にする、ということです。

 ビジネスパーソンの方々は、必ずしも、「デジタルムービー作成」の力量をお持ちではないので、そこに「ヘルパーさん」「助っ人さん」として配置されていたのが、デジタル映像編集の得意な大学生の方々というわけです。
 ムービーの編集技術をもつ彼らは、40代のビジネスパーソンの方々の語りに耳を傾け、彼らの指示のもとに、ムービーを作成していました。

 試行錯誤のうち、ムービーは無事完成し、みなで鑑賞会を最後に行いました。素朴で、それぞれの方々の個性あふれるムービーができあがり、それは素晴らしいものでした(ご参加いただいた皆様、ありがとうございます。この場を借りて御礼申し上げます!)。
 そのときのワークショップは研究として行ったので、その後は、参加者に話を伺いました。
 そのとき、あるひとりの学生がもらした、ひと言が、僕は、どうにも忘れられないでいます。

 ある学生さんが、こう素朴におっしゃったのです。

「大人になっても、まだ、自分がわからないことがあるんですね」

 一字一句そのまま、というわけではないですが、ご発言は、上記に類する内容であったと理解しています。

 たぶん、学生さんには「意外」だったのだと思うのです。

 すでに立派に社会で活躍している大人の方々が、「意外」にも、自分のキャリアをどのように表現してよいか、それがどのように「意味づけ」たらよいのか、に悩むことが。

「自分たちのような若者」だったら、そのようなことがあることは理解できるけれど、「社会で活躍なさっている大人」も、「また同じ」ように、「自分がわからなくなること」もある、ということが。

 このワークショップの「意図せぬ効果」は、「学生」の方々の「学び」にもありました。おそらく、彼は「キャリアとは、常に現在進行形なのだ・・・完成することはないのだ」ということを感じとられたのではないか、と思います。

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 それでは、なぜ、このような出来事 - 学生が経験ある大人のキャリアに共感を示しつつ、そこから何かをつかみ取ること - が起こったのでしょうか。

 これにはいくつもの回答がありえると思いますが、ひとつは、「キャリアを考える」というテーマ自身が、「学生も同じように悩むこと(共感できること)」であったということがあげられると思います。

 自らも「同じテーマ」に悩んでいるからこそ、そこに、より上位のビジネスパーソンが悩む姿を見て、学生さんは、何かを感じ取ったのかもしれません。これが全く自分に関係ないテーマであったら、下の人には、上の人の語りは、どうもピンとこないのかもしれません。

 ふたつめは、ビジネスパーソンの方々が「正解のないものを可視化(表現)すること」を求められていたことでしょう。
 今回の場合、最終アウトプットは、ビジネスパーソンの方々の歩んできた「キャリア」のデジタルムービーです。作品は、どれも素晴らしいものでしたが、どのムービーが正解で、どれが間違っている、ということは一切ありません。
 一見「かたち」のない自分の歴史を、表現するからこそ難しい。だからこそ、そこには迫真性の高い語りや、素朴な戸惑いやが生まれるのかもしれません。そして、その迫真性や素朴さが、大学生に共感を生み出したのではないか、と想像します。

 最後のポイントは「反転した非対称関係」です。
 今回のペアワークの課題、すなわちデジタルムービー作成においては、学生の方がスキルが高いという状態にあります。
 大学生は、ビジネスパーソンの語りを、かたちとして表現するために、様々な問いかけを行わなくてはなりません。つまり、大学生が「問いかけ」、上位者がそれに「答える」という状況が生まれています。
 これ、通常の社会的状況ならば「逆」だと思うのです。問いかけるのは「上位者」、答えるのは「学生」という風に。ある意味で、このときのワークショップは、通常の社会的状況を「反転した世界」でもありました。このような状況下で、「反転した非対称関係」による「問いかけ」が、奏功したようにも思います。

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 上の世代から、下の世代が学ぶ場をつくる

 人材開発の世界では、こうしたことがよく言われます。
 しかし、たいがい「人工的につくられ、かつ、何の工夫もない世代継承機会」とは、うまくいかないケースも多々あります。

 上の世代の知識や経験の「押し売り」になってしまったり、上の人の「新春大放談的自慢話大会」になってしまったりすることもあります。下の人には「やらされ感」漂いながら、かつ、時計の針を気にしてイライラしながら話を聞いているということが起こっている会は、日本全国津々浦々にあるでしょう。

 知識や経験の世代継承とは、上から下にむけて「パイプ」を張りめぐらし、さらには上から「モノ」を「ポイポイ」と投げ込むように行うことは、まず難しいのです。私たちは、「パイプ・ポイポイ」メタファから、そろそろ脱出する必要があります。
 それは、本来ならば、それが自然と行われるような「良好な社会的状況(例えば良好な職場)」を日常の実践を積み重ねてつくりだすのが一番でしょう。
 それが難しい、ないしは、組織を超えてそうした場をつくるためには、本日お話ししたように、いくつかの学習の工夫をもって、それに対処することも可能なのかもしれません。

 本日、お話しした話は、たんなる一例です。また、これは意図してつくりあげられたものではありません。
 しかし、「共有できるテーマ」「正解のない表現」「非対称な関係と問いかけ」という3点は、もしかすると、こうした場の設計に役立つのかもしれません。

 そして人生は続く

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追伸.
 週末、iPadをいじっていました。iPad版のiMovie、かなりいいですね。適当にいじくりまわしていたら、ムービーができます。こうしたものを用いると、また上記のワークショップも、新たな可能性が生まれそうですね。

iPad版・iMovie
http://www.apple.com/jp/apps/imovie/

投稿者 jun : 2013年2月25日 06:48


<私>がわからなくなる時代の学習研究!? : アイデンティティ変容としての学習

 先日は、同期の研究者たちと、それぞれの専門・研究領域の「最先端(フロンティア)」を持ち寄る研究会をしました。

 僕たちの研究領域の最近のトレンドをながめてみますと、例えば「longitudinal Study(縦断研究)」「Big data(大規模データ処理)」「Scaling up strategy(実践のスケールアップと持続可能性)」など、様々な概念があげられるわけですが、僕にとってもっとも「印象的」だったのは、学習研究のスコープに「アイデンティティ変容としての学習」といったものが導入されはじめているという報告でした。

 学習研究といっても、ものすごく広いので、これまた何ともいえないのですが、従来ならば、僕たちが対象にしているような学習研究のスコープは、「認知」のドメインに絞られる傾向が強かった気がします。僕は、これまで「エモーション」の領域には、全く土地勘がないので、そう思うのかもしれませんが、少なくとも、僕がカバーしている領域では、なかなか見つけることのできない概念でした。
(例えばアイデンティティの問題は、状況的認知論のメイントピックでもあるので、全く扱われていないわけではありませんが、相対的に見ると、やはり認知のしめる次元が圧倒的です)

 話題は「認知」にしぼり、万が一「エモーション」が扱われることがあったとしても、それは「付随的なもの」、ないしは「認知」を促進したり、「認知」にともなうもの、として論じられることが多かったように思うのです。

 ところが、少しずつ少しずつ、その状況が変わってきている。これが認知的次元のみならず、「エモーショナルな次元」を学習研究の射程に入れようとする動きです。その筋の専門家・研究者にとっては「何をいまさらジロー感!?」の漂う話題かもしれませんが、僕にとっては、なかなか新鮮にも感じます。
 例えば、先ほどの「アイデンティティ」を持ち出すのならば、「アイデンティティ変容としての学習」をおう、ということになるでしょうか。

 この背景にあるのは、いろいろな要因が考えられそうです。
 第一に考えつくのは、ここ10年、ネットなどの発達により、「仮想世界での自分」と「リアルワールドでの自分」に武断が起きやすくなっているので、複数のアイデンティティを駆使したりする機会が増えてきているから、というのが、よく言われることでしょう。実際、報告も、この線のロジックで研究がなされていました。

 でも、僕は、これはおそらく「現代という時代」の「不確実性」ゆえに生じている問題でもあるようにも思います。

 僕の研究領域の「組織・経営・学習」にひきつけていうならば、「学ぶこと」そして「働くこと」に付随して、ともすれば「アイデンティティを見失いやすいこと」「自己を見失う可能性が高まっていること」「よってたつべき価値が見出しにくいこと」などが生まれやすい傾向があり、それゆえに、研究の射程に、これらが入っているのかな、と邪推しました。

 ひと言でいうならば、

 <私>がわからなくなる時代の学習研究

 ということです。
 もしそうだとしたら、少し切なく、また、同時代人として、共感をおぼえてしまいます。

 例えば、望月先生(専修大学)は、P.Geeの多層的なアイデンティティ理論を紹介しておられました(ご紹介感謝!)。
 望月さんのご報告に寄りますと、ある学習研究では、これらのアイデンティティを分析枠組みとして研究がなされていたそうです。

 N-identity
  自然にできるアイデンティティ
 I-identity
  組織の中でつくられるアイデンティティ
 D-identity
  対話の中でつくられるアイデンティティ
 A-identity
  実践共同体に所属することでアイデンティティ

 僕は、アイデンティティ理論は、本当に全く専門知識はなく、ズブのドシロウトですが、経営学習論的(Management Learning)な観点から、この4つの分類は興味深く感じます。

 といいますのは、かつて、組織が今よりも揺るぎなく考えられていた時代の、Identityといえば「I-identity」そのものでありました。
 つまり「自分=組織・権力によって構築されたアイデンティティ」であり、「社員」であり、「係長」であり、「課長」であり、「部長」であった。つまり、ひとことでいえば、「I=Organization Man」ということです。キャリア論的にいえば「Organizational Career」の時代といえるかもしれません。

 しかし、組織が揺らいでくると、様々な「自己」が頭をもたげてきます。
 「組織の中での自分(I-identity)」と、「様々な他者との関係において見出される自分(D-identity)」さらには、組織外の様々な実践共同体において見出される自分(A-identity)」。多層的な社会的集団にそのつどそのつど参加し、出入りすることにより、「自己」を複数抱えることになるのです。

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   ・

 もちろん、すべての人々が、こういう「多層性」の中を生きているとは思えません。
 が、こうした多層的な空間の中で、時に「折り合い」をつけ、時に「引き裂かれる思い」を持ちながら、生きること、働くこと、学ぶことに、ある臨界値以上のリアリティを感じてしまうのは、僕だけでしょうか。

  ▼

 嗚呼、時代は変わっていきます。
 こうしたトレンドと、どのようにつきあっていくか。なかなか考えさせられます。研究者として「学問のトレンド」をどう意識するか、という問題もありますけれども、「今を生きる同時代のひとり」として、どのようにつきあっていくか、ということもね。

 僕がたくさんいるんだよ。
 でも、そのどれもが、僕なんだよ。

 ガチで研究のことを議論する会はよいものです。
 こうした機会を、いつも持てるのだとしたら、幸せなのですけれども、たとえ少なくとも、定期的にもつことは大切ですね。

「走る」ために「考える」
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月22日 05:37


"ラオウ"みたいなマネジャーになれ!:上司によるリーダーシップ開発とラオウ再生産理論!?

 人材開発の領域においては、「将来の若手リーダーは、上の世代のリーダーがつくるのだ」という言説が盛んです。
 また「上の世代からの薫陶は、能力開発の20%をしめる」という議論もあります。もちろん、それは「間違い」ではありません。

 ただし、ここには、一定の「注意」が必要なこと、全く無視できないリスクがひそんでいることも、また事実です。
 今日は、いわゆる「上司によるリーダーシップ開発」の有効性を認めながらも、そこにひそむ留意点についてお話ししましょう。

  ▼

 ここで勘案しなければならない留意点、ないしは、リスクとは「継承される価値とは何か」という問題と「継承したものの時代適合性」です。
 別の言葉で申し上げますと、上の世代のリーダーから、「どういうものを伝達・継承され、それは本当に、現代という時代にふさわしいものか、どうかを、そのつどそのつど吟味していく必要がある」ということです。

 つまり「上司の薫陶によるリーダーシップ開発」には、「時代にあわないものや価値」を「伝達」されるないしは、「それって、上(あなた)のキャラじゃないの、普遍的に役立つことなの?」といったようなものを「薫陶」される可能性もゼロではないということになりますね。

  ▼

 先日、ある業界の若手マネジャーの方と愉しくお話ししていたら、その方が、ボソッとこうおっしゃったのが、この言葉です。非常に印象的でありましたので、ここでもご紹介します。下記、一字一句を再現できているわけではないですが、そのマネジャーの方は、こんなお話をしていました(愉しかったです!ありがとうございました!)。

Aさん「(僕は、マネジャーになったとき)、上の人から、おまえ、"ラオウ"になれって、言われたんですよ。」

中原「"ラオウ"って、北斗の拳の最強キャラですよね。まわりのものは、すべてなぎ倒し、聞く耳をもたず、己の意を力ずくで通すという。ラオウになれっていうのは、恐怖・ゴリゴリ・弱肉強食マネジメントってことですか?」

Aさん「そうですね。でも、それは僕には無理だし、それが良いマネジメントとも思えませんでした」

 ラオウマネジメントとは、すなわち、こういうことです(笑)。その刃が、組織外の「競合」を向いているのならいいのですが、組織内、職場内に向いたとしたら、さぁ、大変。

 マンガ「北斗の拳」でラオウは、いいます。

 世に覇者はひとり!
 うぬは、死兆星を見たか? 
 そうか、見たか。

 それならば、今や、天を目指すオレの拳!
 とくとみせてやるわ! オラオラオラオラオラ!

ラオウはこんな人(画像がでます)
http://ow.ly/hTZe9

 ▼

 僕は、ここで"ラオウ的マネコメント"の功罪を述べたいわけではありません。それは適合する職場もあれば、そうでない職場もあるんでしょう。ひとことでいえば、それはケースバイケースかもしれません。

 でも、大切なことは、

 "ラオウ"は"ラオウ"を再生産する傾向がある(ふたたびつくりだす)

 ということであり、

 万が一、

 "ラオウ的マネジメント"が、現在の組織・職場・外部環境・営業スタイルにあわなかった場合は、上の世代から「世の中の変化にあわないもの」を「伝達」「継承」される、ということなのです。
 この方の場合は、様々な事柄がご検討のうえ、"自らがラオウ的マネジャーになること"は、違和感を感じたといいます。

 ▼

 今日は「ラオウ再生産理論」のお話をしました(!?)。
 先ほども述べましたように、人材育成の言説空間においては、

「リーダーがリーダーをつくる」
「上司の薫陶によって、リーダーになる」

 が支配的な考え方です。しかし、このような言説においては、本日お話した「一定のリスク」も勘案していくことが、僕は大切ではないか、と思います。

 もちろん、多くの若い世代に対する多くの伝承は、まるで「パイプ」の中を「モノ」が流れるように、上から下に流れるわけではありません。
 下の世代は、下の世代なりに上の世代の「見るべきところは見ており」、また「反面教師とするところは反面教師」とします。また「学べるところは、また学んでいるはず」です。そういう点では、今日のお話は、やや取り越し苦労なのかもしれません。
 
 しかし、そうはいっても「リーダーがリーダーをつくる」「上司の薫陶によって、リーダーになる」という言説の影響力は甚大です。
 これらを手放し、かつ、無反省に受け入れると、望ましくないものが再生産されたり、ひいては、それが組織の環境適合にとって、望ましくない影響を与えたりすることも「ゼロではない」から、ちょっぴり「注意」が必要なのかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月21日 09:05


「センテンス3つ、12秒」までのプレゼン勝負:「方法知の奴隷」と「方法知を創造する主体」

 深夜、一日を終えるとき、僕の楽しみのひとつに、ウィスキーなどをやりながら、他人のプレゼン動画を見ることがあります。
 最近は、様々な動画が、ネット上にあふれ、いろいろな人のプレゼンテーションがネットで見られるようになりました。これらを見るだけで、とても勉強になりますね。

  ▼

 昨日は、先日録画していた「プレゼンが世界を変えるTED 人の心を動かす技」を見ました。
 TEDの思想と、TEDという舞台で素晴らしいプレゼンを行っている人の、その後のストーリーを紹介するものでしたが、非常に興味深く見ることができました。
 個人的には、TEDの底流に流れるカウンターカルチャー、それを可能ならしめている思想的基盤の形成過程に興味がありますが、またそれは別の機会でお話しします。

 この番組、もし見逃したという方は、2013年2月24日(日)午前0時50分(注意!土曜日深夜になりますね)、再放送があるようです。愉しめると思いますよ。

「プレゼンが世界を変えるTED 人の心を動かす技」
http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0217.html

  ▼

 しかし、まぁ、こうした世界的に有名になるプレゼンを見ておりますと、いくつかわかってくることがあります。ここでは敢えて3つにしぼってお話をしましょう。

 ひとつめ。
 これは、よく言われることですが、

  何を伝えるか?(What to deliver)
 
 ということと「同時」に、それに加えて、

  どのように伝えるか?(How to deliver)

 ということが、無視できない重要性をもっているということです。

 番組では、公衆衛生学がご専門の「ハンス・ロスリング」さんが、自らのプレゼン録画を見つつ振り返りながら

「プレゼンの冒頭では、最初の2つの文までは黙って聞いてもらえる。ただし、3つめの文では興味をひきつけなければならない。最初の12秒でひきつけないと、聴衆は離れていく」

 というようなことをおっしゃっていました。非常に印象深い言葉で、かつ、彼の実践知に支えられた言葉です。

 最初の12秒で、どのようなメッセージを発し、いかに人をラーナブル(Learnable)な状態にするか、あるいは、学びのレディネスを高めるか。
 国境を越えるようなプレゼンテーションにとっては、内容(What)に加えて、Howの問いも、またクリティカルになるのですね。

 ところで、ふりかえって考えてみますと、僕自身は、「プレゼン冒頭の12秒間」に、何を、どのように話しているのか、とても考えさせられます。皆さまは、いかがでしょうか。

 中には、

「えー、ただいま、ご紹介にあずかりました、ちょめちょめです。わたくしごときのペーペーが、このような場にたっていいものか、どうなのかわかりませんが・・・」

 と妙に「へりくだっていた」姿勢で、「ペコペコ」していたり、していませんでしょうか。
「アンタのことを信頼して場をまかせてるんだから、"わたくしごときのペーペー"とかいって、"予防線"はるんじゃないよ」と思わず、便所スリッパで「スコーン」とやりたくなる衝動を抱える方もいらっしゃるかもしれません。
 もちろん、わたしたちが行うプレゼンは、いわゆるTED流のプレゼンではないので、それと並列に比較検討することは、誠に難しく、また。、まことにTEDにとって迷惑なのですけれども(笑)、自戒をこめて、最初の12秒間を考えさせられました。

  ▼

 ふたつめ。
 もうひとつ痛感することは、「プレゼンには王道はない」というアタリマエの事実です。
 つまり、「よいプレゼンテーションのやり方」とは、「スピーカーのキャラ・経験・専門性」と、かつ「聴衆の性質」という二つの要素の「関数」として、構築されているものである、ということですね。

 実際、今回、番組で取り上げられた数人のプレゼンターのプレゼンテーションには、それぞれ個性があり、みなスタイルは違うものでした。そして、それらのプレゼンテーションの「聴衆」はいつも異なっていました。
 プレゼンテーションは、「聴衆とは誰か」を意識しつつ、それと「自分のキャラ」と重ね合わせ、つくられていたもののように思います。

 とかく、わたしたちは、「Howの問い」を目の前にしたとき、すぐに「答え」を探しがちです。しかし、おそらく、その「王道」はない、ということが番組からは読み取れます。

 そして3つめ。
 上記2点を受け入れ、最後に思ったことは、「自分のプレゼンスタイルは、自分でつくりあげるしかない」ということです。

 誠実に、自分というキャラ、経験、専門性に向き合い、さらには聴衆の求めるものと向き合う。その上で「自分のプレゼンスタイルをつくる」。おそらく、そういうことなんだろう、と思います。

 そして、願わくば、折に触れて、「自分のプレゼンスタイル」を振り返る機会をもつ。そういう地道な努力の果てに、スーパープレゼンテーションはあるのかな、と思いました。

 ▼

 一般に、日本では「Howの問い」や「伝え方の技術」は価値の低いものと考えられがちです。もちろん、人々を思考停止に陥らせるような、教条化された方法知の弊害はよく承知していつつも、それをもって「方法知すべてが、イコール、意味のないこと、価値の低いこと」という風に考えるのだとすれば、それは議論を単純化しすぎであるような気もします。
 
 大切なことは、自らが「他者のつくりだした方法知の奴隷」になるのではなく「自ら方法知を創り出す主体」になることなのではないか、と思います。
 その上で、「社会的意義のある内容知」、すなわち「高い付加価値のあるWhat」を誰かに「伝えること」ができたとしたら、これ以上、望むことはないかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月20日 12:08


「その組織ならではの知」を語りつぐということ:社員を「講師」に育てて「デビュー」をさせる!?

 昨日は、経営学習研究所の理事があつまる、定例のミーティングでした。

 経営学習研究所の理事は、実務家や研究者の方々で後世されており、それぞれ社会的背景・ふだんの仕事は異なりますけれども、皆さん、非常にお忙しい中、月1度、都内某所に集まり、研究所の運営・ラボの運営について、報告・議論を行っています(お疲れ様です!)。

 昨日は、理事の多くが「来年度の活動計画」について、少し提案といいましょうか、ブレストといいましょうか、大放談といいましょうか、そんなことをさせていただきました。
 手前味噌になるかもしれませんが、計画を聴いていて、本当にワクワクするような活動が多く、僕自身、非常に愉しみになりまました。皆さん、お疲れ様です。

 ▼
 
 中原の場合は、来年も、経営学習研究所で、いくつかの活動を行っていきたいと思います。

 まず行っていきたいのは、人材育成に関するイベント。
 今のところ決まっているのは2つです。

 一つめは、もう日付も決まっていて、

「社員を講師に育てる仕掛け:
    ソフトバンクモバイル流・研修開発入門(仮)」

 というテーマで、4月26日に開催させていただこうとおもっています(募集は3月に入りましたらはじまります!スケジュール帳のご用意を!)。

 こちらは、

 ソフトバンクモバイル株式会社
 人事総務統括 人事本部 人材開発部 人材開発一課
 島村公俊さん
 大内礼子さん

 らにご登壇いただく機会を得ました(お忙しいところ心より感謝です。ありがとうございます)。

 ソフトバンクモバイルさまでは、社員の中から、研修講師を公募し、70名の社内研修講師を養成。現在、多くの社内研修を自社社員の方々で行っていらっしゃいます。

 しかし、アタリマエダのクラッカーですが(古い!)、社内講師は、「一般社員の方々を、単純に講師に任命すること」だけで「可能」になるわけではありません。「デビュー」までの仕組み作り、クオリティアシュアランスが、とても大切なのです。
 デビューまでのプロセスにおいては必要な支援が多々考えられます。募集から、面接、模擬授業など、デビューにいたるまでの、様々なプロセス、支援、クオリティを守るための仕掛けが必要になります。

 この会では、一般の社員の方々が「講師」として「ステージ」にあがるまでをいかに支援するか、その仕掛けづくりについて、島村さん、大内さんの方から、ご講演をたまわりたいと考えています。

 社内講師育成といっても、一般には、そこには「メリット」がある一方で、「課題」も生まれることが予想されます。また、すべての研修を社内、自社で担うということは、困難もあり、そういう意味では、何を自社で行い、何を自社外で行うかに関する切り分けが大切になります。

 今回のイベントは、先日、僕がソフトバンクさんを伺わせていただき、同社・沢田さん、大内さんらからお話しを伺ったことで、非常に感銘を受け、ぜひ、その内容を多くの人々に知っていただきたい、と思い計画させていただきました。僕自身もとても愉しみにしています。

(ひとつまだ決まっていないのは、会場の問題なのです・・・泣。今回多くの方々にご参加頂きたいので、200名規模の会場を都内で探しています・・・どこかでMALLとコラボし、会場をおかしいただける企業の方々を、募集しております!コラボいただきました暁には、社内の方々を、一定数ご招待させていただきますので、ご検討を御願いします!)

「研修」がテーマのひとつになるのなら、ふたつめのテーマは、やはり「OJT」をとりあげたい、ということになりますね。
 こちらは、まだ日付は決まっていないのですが、できれば、5月中旬以降をめどに

「ネオOJTをつくりだす(仮)」

 というイベントを開催させていただきたいと思っています。こちらも中原が非常に感銘を受けているお取り組みで、もう少ししましたら、オープンにさせていただきたいと考えています。どうかお楽しみに!

  ▼

 その他、中原が経営学習研究所でやりたいこと、といいましょうか、来年度計画といいましょうか、妄想のひとつに、

 「オレは雑誌をつくりたい」

 というのがあります。「クールなデザインで、キンキンに尖りまくったメッセージを、ガツンガツンとのせているメディア」を僕はつくりたいと思っています。名付けて「年刊ラーニング」? 「ちょいダサ」ですか?

 考えてみますと、「メディアをつくりたい」というのは、僕が子ども時代からずっと、ふつふつと抱えていた妄想でした。
 中学時代の時には、ラジオのDJ?パーソナリティにあこがれて、おうちでAV機器をつなげていました。
 大学の頃は、ANA「翼の王国」の各エッセイの文章にあこがれて、旅をしては、文体コピーをしていました。
 今、考えてみますと、「誰かに何かを伝えたい」というところが、僕の「コア」にあるのかもしれません。

「雑誌をつくりたい」と申しますと、一見、「気でもふれたか!」「あいつ、ひと河渡った、と思っていたけれど、さらに一河わたったね」というご意見もでてきますけれども(笑)、よく考えてみると、研究者の中で「自分のメディア」を立ち上げた方は、そう少ないわけではありません。

 もっともキンキンに尖ったところでは「季刊リュミエール」などがありますね。おまえみたいな「ハナク●ヤロー」が、幻の雑誌「リュミエール」を語るんじゃない、というお叱りをうけそうですけれども。

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 今日は、中原の経営学習研究所における来年度計画(妄想?)でした(それ以外の来年度計画もありますね)。一部はすでに決まっておりますが、まだもう少しつめていかなければならないところがありそうです。

 ともかく、「やりたいこと」は、たくさんあるのです。
 あとは身体と気力がついてくるか(笑)
 まぁ、特に最後の方は「やれるかどうか」はわからないのですけれども、しかし、こういうのは「言ったもんがち」です。
 だって、言うのは「タダ」なんだし(笑)
 言わないことには、「実現までの道筋はゼロ」なんだから。

  ▼

 以前にも申し上げたかもしれませんが、今年は、僕が人材育成研究を構想・着手しはじめてから、おおよそ10年です。「10年一昔」とはよく言いますけれども、今年は、これまでのあり方をリフレクションしつつ、、さらに「新たなロードマップ」を築いていきたい、と思っています。

 2013年は、中原の「第二の創業期」です。

 以上、経営学習研究所における中原の「大人の放課後活動」の来年度計画でした。教育・研究・学内事業においての、来年度計画は、また別の機会にお話しできると嬉しいです。

投稿者 jun : 2013年2月19日 07:10


「振り子」を見たら「ちゃぶ台がえし」!:人材開発の言説空間を読み解く!?

 教育業界 / 人材開発の言説とは「揺れ動く振り子(Moving Pendulum)」のようなものです。あっちにふれたと思えば、こっちにふれる。こっちにふれた、と思えば、あっちにふれる。

 揺れ続ける振り子が「極」にふれて、決して一点にとどまろうとしないことの理由は、「学び / 人材育成に王道がないこと」「常に新しい学習手法が探究されていること」もありますが、本当のところをいうと、隠された3つの理由があります。

それは、「介入の効果に遅効性がある条件下では、意見は極化しやすく、かつ、その方が、言説の担い手にとってポジションやステータスの獲得可能性があがる」からです。

 もう少しわかりやすくいいましょう。
 要するに、こういうことです。

「何かの新しいことをやったとしても、その学習効果が表面化してくるまでは時間がかかり(時間がかからなくても、時間がかかると言えばよい)、責任がうやむやになりやすいこと。そうした状況では"いったもんがち"の状況が生まれやすく、極にふった意見の方がわかりやすい。そして、そういう"極"の意見こそが、その業界に精通しない人々のあいだでは「革新的」というレピュテーションを獲得しやすい。そして、そのことが、言説の担い手のポジション・ステータスの獲得や、マネタイズにつながる」

 ということです。

 だから、わたしたちは、「極」にふれた言説を見たときは、警戒をしなくてはなりません。自分の実践を見失わないかぎりにおいても、別に、そういう言説にのっても、そっても?いいのですけれども、一寸立ち止まって考える必要があります。

 例えば、昨今の高等教育ならば・・・

「ティーチング」から「ラーニング」の時代へ

 とか。

 例えば、ここ最近の人材育成ならば・・・

「OJT」から「経験学習」へ

 とか。そういう「極にふる議論」、「あたり一面を一色で塗り尽くそうとする、シンプルかつ即物的な議論」「Catch ALLの魔法のような効能書き」を見たときは、注意が必要です。

「A or B」をあなたに迫ってくるたいていの言説は、実は、「AでもBでもないこと」の方が圧倒的です。むしろ実務的には「A and B」であり、「Aでもなく、Bでもない、第三の道」をさぐることの方が、建設的かもしれません。つまり「A or B」の議論の「ちゃぶ台」をかえさなくてはなりません。

 振り子を見たら、ちゃぶ台がえし!
 えいっ!

chabudai_gaeshi.jpg

 どうか「振り子」にとともに揺れないで下さい。
 極に揺れ続けると、いつか落ちちゃうよ。

 そして人生は続く

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追伸.
 少し前にこんなことを書いていましたね。「ちゃぶ台がえし」の絵は、こちらからコピーしてきました。主張はあんまりかわっていないような気がしますね。

人は「育てる」のか、それとも、「人は勝手に育つ」のか!?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1891.html

投稿者 jun : 2013年2月18日 09:54


跳躍のための「舞台」をつくる!? : 身体、学習、パフォーマンス

 土曜日・日曜日は、JSET冬合宿「身体という"メディア"、学習装置としての"舞台":即興劇・マイムを体験しつつ学習理論を探究する」というワークショップを開催しています。

fuyu_gasshuku01.png

 近年、初等中等教育においてはコミュニケーション能力の開発の文脈において、高等教育・企業教育の分野においては、イノベーション創発などの文脈において、「身体を用いた学習機会の可能性」が注目されています。

 演劇教育などを実践なさっている方には、「今さらジロー感」(!?)漂う話題でしょうし、これが「学び」に付随する諸問題を解決してくれる「魔法の杖」でないことは明白です、が、「身体を通した様々な活動」は、今までわたしたちが「見落としてきたこと」を、考えるひとつのきっかけを、与えてくれているような気がします。その「見落としてきたもの」が何かを考えるのが、今回のワークショップです。

 今回のワークショップでは、インプロの専門家として東京学芸大学准教授 高尾隆氏,マイムの専門家として藤倉健雄氏(ウィスコンシン大学・演劇教育学Ph.D)をお招きし、両先生のファシリテーションのもと、参加者全員がインプロを行い、マイムに挑戦しました。
 また、同志女子大学の上田信行先生、同大ゼミの皆さんには、ダンスを用いて「学習環境としての舞台」に関する例示的な実践を行って頂きました。

 さんざん体を動かしたあとは、独りになり、考えることも、また必要です。

fuyu_gasshuku02.png

 1日目の最後は、実践と理論の往還です。
 最終セッションでは、学習理論 - ヴィゴツキー心理学の影響を受けた「舞台」を用いた学習実践に関する解説を、岡部大介氏(東京都市大学)先生からいただきました。個人的には、

 人間の発達のプロセスは「発達ステージの通過」よりも、「ステージを創り出すこと」

 発達を促進する「ステージ」において「Being a head taller than your are(頭ひとつぶんだけ、背伸びしよう)」

 というメッセージが非常に興味深いことでした。

 ホルツマンは、イーストハーレムの貧困層の子どもたちが、ダンスを練習し、構築されたステージで披露するという社会的実践「オールスタータレントネットワークショー」と深く関与して、発達的支援を行っています。

 このような社会的実践は、いわば「他者に構築された発達のための舞台」です。「他者に構築された舞台にのぼること」で、「自分を超えた何かを行うこと(Performing)」することで、心の中に生じてしまった「リアルライフとのズレ」は、一面では、本来「知らなくてもよかったこと」なのかもしれません。

 このあたりの「ズレ」の問題は、フレイレの「意識化」の概念、また、舞台というメタファは経験学習理論でいうところの「タフな経験」と家族的類似性のある概念のように思えますが(異なるところはオーディエンス問題でしょうか・・・)、ますが、そこをポジティブにとらえ、いかに生じたコンフリクトを解消できる方向で支援を提供できるかがポイントになるのか、と思います。

 また同時にホルツマンは、子ども達に、自分ではない「なりたい何者か」を徹底的に演じさせる(創造的模倣)という実践を行っています。「自分ではない、しかし、気になる他者」を内包(incorporating)させ、それを通して「自分とは何者か」というアイデンティティに「揺さぶり」をかける、のだといいます。

 ここに関しても、内的に生じてしまったコンフリクトを、いかにポジティブな力としていき、かつ、セーフティネットをはるのか、ということが僕としては、気になるところです。

 ホルツマンの実践は、学校教育「ではない」場面で展開しているので、いわゆる「equality」はそれほど大切な価値ではありません。「舞台」に出て、誰もが喝采をあびることは、リアルライフにおいては存在しません。
 畢竟「舞台」というものは、「床」からの「段差」があり、かつ、そこには「オーディエンス」があります。そして、舞台での活動をハイライトさせようとすればするほど - つまりは非日常的な場として権威づけようとすればするほど - 「床からの段差」は高くしなくてはなりません。 
 
その「段差」へのつまづきをどうするのか。「段差は存在するように見せかけて、実は段差はない環境」をつくるか。それとも、「段差は確実に存在し、落ちてしまったときに救う方法をとるのか」それとも「ハードな段差だけを用意するのか」
 いずれにしても「他者が舞台をつくる」というときには、ある意味で、「舞台監督」として責任をもつといったような「腹をくくる」覚悟がなければならないのではないか、と思いました。

 そして、いつかは「他者に構築された舞台」から「自分で舞台を構築すること」への移行をとげる必要があります。それについては、ずいぶん、先の課題なのかもしれません。

 この日のセッションの最後は、参加者の皆さんが、それぞれ、輪になってダイアローグです。

  ▼

 合宿は日曜日昼あたりまで続きます。
 ハードな一日のはじまりです。

 そして人生は続く

 ーーー

追伸.
 本合宿は2/17無事盛況のうちに終了いたしました。
 最後になりますが、このたびの合宿に参加し、勇気をもってステージにおたち頂いたみなさま、高尾先生、藤倉先生、橋本先生、橋本研の皆さん、松浦さん、苅部さん、舘野さん、上田信行さん、上田ゼミの皆様、会場をプロデュースいただいた内田洋行のみなさま、ありがとうございました!
 
 下記は、橋本諭先生(産業能率大学)、橋本先生の学生さんチームで作成いただいた当日のリフレクションムービーです。学生さんたちがワークショップに実際に参加し、内側の視点から撮影なさっただけあり、当日の様子がよくわかります。どうぞご覧下さい。橋本先生、橋本研究室のみなさま、本当にありがとうございました。

Hashimoto-lab
http://www.hashimoto-lab.com/2013/02/2811

 また、当日のワークの様子は、NAKAHARA-LAB on Youtubeで公開させて頂いております(今回の合宿にご参加頂いていない皆様は、見ただけではわからないかもしれません。ただし、合宿にご参加いただいた皆様には、リフレクションとしてご利用いただけるものと思います)。

NAKAHARA-LAB on Youtube
http://www.youtube.com/user/nakaharalab

 中原が最後のラップアップで用いたスライドです。ご笑覧ください。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月17日 07:12


"教えることを教えるプログラム"の先進事例がわかります!:TODAI FD.COM(トウダイ・エフディ・ドットコム)、本日始動!

「将来、大学の教壇に立ちたいと願う大学院生に"教え方を教える"プログラム」・・・東京大学フューチャーファカルティプログラムが、2013年春よりはじまるというアナウンスがでたのは2013年1月17日・・・・それから、はや一ヶ月(ほんとうにはやいよね・・・)。

「教えることを教えるプログラム」がスタートします!:大学教員をめざす大学院生向け「東京大学フューチャーファカルティプログラム」今春から開講!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/01/post_1934.html

   ・
   ・
   ・

 There is one more thing!

 東京大学より、また「お知らせ」です。

「東京大学が考えるFDとは何か」「FDの先進事例を集めたデータベース」、そして「東京大学フューチャーファカルティプログラム」のお知らせページを集合した、ひとつのサイトが産声をあげました。

 その名を

 TODAI FD.COM(トウダイ・エフディ・ドットコム)
 http://www.todaifd.com/

 といいます。

todai_fd_com.png

  ▼

 TODAI FD.COM(トウダイ・エフディ・ドットコム)は、まだまだ生まれたばかりのサイトです。
 本サイトは、今後、まだまだ充実しなければならない情報があるとは思います。いまだ、その情報は不足があり、まだ十分とは言えません。
 また、学内のFDの進行状況など、学内にフィードバックするべきものと、学外に公開出来るもの、多種多様な情報があることは否めぬ事実です。

 しかし、今日はとにかく、その「誕生」をお知らせし、その「発展」を「お約束」いたします。
 私たちは、このサイトを、東京大学内部の部局の先生方で、部局のFDをはからずもご担当になり、お悩みの方々向けに作成させていただきました。
 学外においても、どなたでも閲覧いただけるので、どうかご利用頂けますと幸いです。いまだ拙いサイトかもしれませんが、どうぞご寛恕下さい。

  ▼
 
 特におすすめなのは、国内外のFD先進事例は「目的別」「時間別(機関別)」「対象者別」に検索ができるようになっています。「誰に向けて」「どのような期間で」「何を目的とするのか」というカテゴリー毎に、FDの先進事例が紹介されています。

 これらの事例の一部は、スタッフが取材を行わせていただき、独自に作成したものです。基準は、学内にとって参考になるものをメインに、わたしたちの内的基準で集めました。
 取材は現在も続いておりますが、これまで取材に御協力いただいた京都大学高等教育研究開発推進センターはじめ、関係者の皆様には、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。
 また、これより、様々な大学にスタッフが伺わせていただく予定です。どうかよろしく御願いします。
 石投げないでね(笑)。

 わたしたちは「国内大学の教育環境の整備」は、ひと言で申しますと「待ったなし」であると考えています。
 どうぞ「本学の試み」に共感してくださる方が、もしいらっしゃったとしたら、どうか一緒に「新しいもの」をめざしましょう。この場を借りて、心よりお願い申し上げます。

  ▼

 なお、「手前味噌」になるかもしれませんが、このサイトをメインに作成した東京大学大学総合教育研究センター・教育課程方法開発部門のスタッフを、この場でご紹介させてください。
 本サイトは、教育課程・方法開発部門の藤本夕衣先生がメインになり、同部門・栗田佳代子先生のご支援のもと、完成させました(本当にお二方ともお疲れ様でした!)。

東京大学大学総合教育研究センター・教育課程方法開発部門
http://www.he.u-tokyo.ac.jp/study/study_school/

 藤本夕衣先生は、教育哲学がご専門で、主著「古典を失った大学」などを上梓なさっております。このたびは、サイト企画から、構築まですべてをご担当頂きました。

 栗田佳代子先生は、教育心理がご専門でありつつ、ティーチングポートフォリオの先駆者として知られています。
「アカデミックポートフォリオ」「大学教育を変える教育業績記録」などの翻訳を手がけられる他、「ティーチングポートフォリオ・ネット」を主宰し、リーダーをつとめられています。東京大学フューチャーファカルティプログラムの授業担当者として、2013年4月からの準備に大忙しな日々を過ごしていらっしゃいます。

 

ティーチングポートフォリオネット
http://www.teaching-portfolio-net.jp/

 東京大学では、今後、近い将来、ていうか、来年(笑)、東京大学学内で行われているFDプログラムの一部を、オンライン等でも公開し、学内の多地点キャンパスでの受講に対応することを考えております。具体的には、東大テレビ・東大iTunesUなど、教育課程・方法開発部門が有する様々なメディアを縦横無尽(!?)に駆使します。

東大テレビ
http://www.todai.tv/

東大iTunesU(iTunesUひらいちゃうよ)
https://itunes.apple.com/jp/institution/the-university-of-tokyo/id382733273

 リソースの問題はいまだ未解決なので、どこまで何ができるかは、確約は1ミリもできませんが(号泣!)、学内のみならず、学外にも、できれば、こうした情報を積極的に公開していきたいと願っております。
 なぜなら、学外への透明性を高め、様々なフィードバックをえることが、結果として、学内向けプログラム、コンテンツのさらなる質的向上に資する、と考えているからです。そして、そのことは学外の、どなたかのお役にもたてるのではないか、と。
 いずれにしても、このことに関しては、部門をあげて、部門内オープンエデュケーションを推進している重田助教、山本特任専門職員、阿部教務補佐員らとともに、智慧をしぼっていきたいと考えています。

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TODAI_FUCALTY.png
東大 × 学び × 革新

 TODAI FD.COM(トウダイ・エフディ・ドットコム)
 http://www.todaifd.com/

 本日、TODAI FD.COM、始動です。
 
 そして人生は続く!

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追伸.
 本日午後9時30分くらい(ごめんなさい・・・アバウトで)から、USTをやります。「みんなでプレイフルラーニングの"先"を語ろう」です。近刊「プレイフルラーニング:ワークショップの起源と未来(上田信行×中原淳著:三省堂)」をざっとまとめつつ(おさらい!?)、皆さんで、「ラーニングについて未来」のお話しができれば幸いです。

 上田信行先生×中原淳、そのほか、何人かの素敵なゲストがおそらく登場してくれるでしょう。視聴は、どなたでも行えます。下記のサイト「NAKAHARA-LAB on UST」からどうぞ! 夜、お会いしましょう!

(中継は脇本君、保田さん、感謝!)



Video streaming by Ustream

NAKAHARA-LAB on UST
http://www.ustream.tv/channel/nakaharalab

投稿者 jun : 2013年2月16日 07:00


「どうせ、自分の授業や会議では、メンバーは意見なんか出さないよ」と嘆くときに、ちょっぴり考えてみたいこと:「良質の問いかけ」と「受けとめる勇気」

 もう今となっては随分昔のことにように感じられますけれども、「対話」という言葉や、「対話を活かした授業」という考え方が、まだ、今ほど、それほど人口に膾炙していない頃、東京大学の僕たちの部門(僕は教育課程・方法開発部門の長をしております、意外にも、ひそかに、なんつって!)では、他機関と連携し、「ひとつの無謀な挑戦」を試みたことがあります。

 当時2010年は、ハーバード大学のマイケル・サンデル先生が、NHKで「ハーバード白熱教室」をやっていらっしゃったときでした。
 某企業につとめる僕の大学時代の同期からの打診で、この「白熱教室」を、東京大学本郷キャンパス・安田講堂で実施してみないか、というまたとないチャンスを得ました(感謝)。僕は、大学にとって、このチャンスは大きなメリットをもたらすと考えました。事態は急転直下、フリーフフォール状態で、動き出しました。

 この打診から、当日、2010年8月25日まで。つまりは、サンデル先生が東京大学安田講堂の壇上にたつまでの数ヶ月間・・・七転八倒、阿鼻叫喚、四面楚歌、想像を絶するような会議と各種のネゴシエーションが続きました。中には、、いろいろな「葛藤」が生まれることになるのですが、もう3年もたった今となっては、その詳細を僕は憶えていませんし、それ自体に1ミリも興味はありません。

 実務のど真ん中、ドロドロの泥沼をかけずり回っていた僕や僕の部門のスタッフとしては、その間の記憶は「全くの白紙」です。重田助教らと、とにかく、全速力で走り抜けたことだけが思い出されます。

 8月は、本郷キャンパスの安田講堂に続く道は、本当に熱く煮えたぎっていました。今となってはよい思い出です。

  ▼

 かくして、2010年8月25日、サンデル先生が安田講堂で授業をなし、その様子が日本全国のお茶の間に放映されることになりました(東京大学大学総合教育研究センター × NHK共催イベント)。
 そのときの様子は、今もデジタルアーカイブに残っておりますし、下記のサイトで見ることもできます。もしまだご覧になられていない方がいらっしゃったら、どうかご覧下さい。

sandel_itunes.png

ハーバード白熱教室 in JAPAN@東大テレビ
http://www.todai.tv/contents/event/sandel/001/index.h%EF%BD%98tml

ハーバード白熱教室 in JAPAN@東大iTunesU
https://itunes.apple.com/jp/itunes-u/maikeru-sanderu-habado-bai/id448069376?mt=10

 この授業にあたっては、当時、サンデル先生の公共哲学に関する授業内容もさることながら、それ以上の、様々な「波及効果」がありました。特に、様々なところで、日本の大学の行っている授業のあり方、カリキュラムのあり方について議論が起こりました。
「学習環境の革新」をめざす僕の部門としては、この光景こそが、一番大切にしたいものでしたので、非常に嬉しかったことを憶えています。 対話、対話型授業、対話を活かした学習・・・何といってもよいのですが、そういうものの大切さが、それまで以上に、人々の話題になりました。

 ところで、実務の詳細は忘れてしまいましたけれども、今でも、3年前のことで鮮明に憶えていることが、ひとつだけあるとしたら、このことです。

 それは、サンデル先生をお呼びして、東大で講義をしていただきたい、という話がでてきたときに、いろいろなところから噴出してきた「ありがたい・ご懸念」です(どこからとは、敢えて、申し上げません)。

 そもそも、大学教員が大人数授業なんかして、意見を学生に求めても、

「手を挙げる人がゼロで、意見がでないんじゃないか」
「ネガティブな意見しかでないんじゃないだろうか」
「多くの人に話をふると、まとまらないんじゃないか」

 つまり、ひと言で申しますと、「学ぶ側への信頼がない」という事態です。そして、そうした言説とうまく共振するのが、「だからこそ」、「教える側」においても、「意見を出るような授業をしないほうがいい」「しゃべらせない授業の方がいい」「多くの人に話をふるような授業をしないほうがいい」という「教え手の言説」になります。この「学び手 - 教え手」の「共犯関係」については、すでにこのブログでもお話ししました。
 どちらがどう、というわけでなく、双方が「授業の作り手」である、という認識を、双方が「大の大人」なんだから、持ったほうがいいよね、と僕は思います。

大学教育をめぐる「共犯関係」と「共創関係」
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1944.html

 ところで、

「手を挙げる人がゼロで、意見がでないんじゃないか」
「ネガティブな意見しかでないんじゃないだろうか」

 などなど、こうした懸念に関しては、一定の理解を示す一方、僕は、きっと事態はそうならないだろうな、と思っていました。はっきり言って「野生の勘」です、北海道人をナメないでください(笑)

 それぞれの懸念をひとつひとつ払拭しつつ、ようやく当日を迎え、さて会場は、どうなったでしょうか。学生はどのように振る舞ったでしょうか。
 サンデル先生のファシリテーションによって、1200名を超える会場は、こうなりました。

「手をあげる人が多すぎて、意見をのべたい人が多すぎて、授業時間が、当初の2倍程度かかりました」

「ネガティブな意見だけでなく、様々な観点からの意見がでました」

「まとまることはないにせよ、それぞれの意見の保持たち達が、他の意見を持つ人々の存在には気づき、問題の奥深さを知りました」

 ▼

 ここで「何を言いたいか」は明確です。

 確かに、当日は、非常に類い希なるグローバルプロフェッサーの授業でした。ですので、誰がやっても、こうなるかどうかはわかりません。むしろたぶんならないでしょう。
 また、また1200名の聴衆のうち4分の1くらいは東大関係者でした。圧倒的に一般聴衆が多いとはいえ、そのことの影響はゼロではありません(東大関係者が多いことは、個人的には、意見がでることにとってプラスになるとは思っていませんが・・・そういうご意見もでてきそうですね)。

 ただし、少なくとも下記のことを考えてみることの意味はゼロではないことがわかります。

「意見が出ない」のは、まずは、人々の思考を「駆り立てる問い(Driving Question):良質の問いかけ」が、ないからではないだろうか?。
そして、「意見を出したとしても」、きちんと、それを「受けとめる勇気」をもっているだろうか。どんな意見がでたとしても、「積極的に耳を傾ける姿勢」をもっているだろうか?

「ネガティブな意見しかでない」のは、「物事の多様性」に気づくようなファシリテーションがうまくいっていないからではないだろうか?立場や考えの違いに気づくことこそが大切であるという価値観が、そもそも、うまくメンバーに共有されているだろうか?

「なかなかまとまらない」のは本当に「ダメなこと」なのか? 「無理矢理意見をまとめ、全員を落としどころにハメようとすること」を、急ぎすぎていないだろうか?多様な意見が、中空に存在し、それぞれの脳裏に少しは刺さっている状態。そういう理解状況だって、理解にとっては必要な状況ではないだろうか?

 さて、以上の3点、いかがでしょうか。もちろん、不肖中原修行中、自分も、これらの問いにかかげられた問題に、時に、自らもからめとられていることを正直に告白します。以上、自戒をこめて、あげてみました。

 ちなみに、このことに少しだけ関連して、先日、ある企業で、企業内研修の講師(ファシリテーション)をなさっている方と少しだけお話をする機会を得ました。その方は、企業内で研修やワークショップを担当なさっていて、いつも、このような感想をお持ちになるそうです。一字一句同じではないですが、下記に捕捉しながらお言葉を引用させて頂きます。

 その方曰く、

「(本当にこの仕事をやっていると)みんな、企業で働く大人は、本当は、喋りたいんだって思いますよ / 本当に大人って、ここは大丈夫、面白いと感じた場では、関をきったように喋りたがるんです。いったん火がつくと、もう止まらない。大人に意見がないなんて、絶対にうそ。みんな意見はもっている。でも、それをふだん押し殺している。意見を持っていないように、みせかけている」

「でも、マネジャーの中には、完全に誤解をしている人もいます。うちの社員は、誰も意見を持っていない。そしてネガティブなことしか考えない。そして、全然まとまらない。そう思っていることもゼロではないのです / 本当は違うのです。意見を喋っても聞いちゃいない。ポジティブな意見しか聞き入れない。無理矢理まとめとして、誰が話しても、同じだな、と思う。そういう状況を、さんざん、下の人は見て、そう振る舞っているだけなのです」

 ▼

 マネジャーと、グローバルに活躍するプロフェッサーを日本にお招きする際に噴出した懸念は、一見、異なる問題のように感じます。

 しかし、ただ一点においては、同じ問題を抱えています。それは「学ぶもの - 教えるもののあいだの信頼関係の欠如や誤解」「リーダーとフォロワーのあいだの信頼関係の欠如や誤解」です。

 もちろん、片方は「教える現場」、片方は「仕事の現場」です。おいそれと並べるという即物的な比較は慎まなくてはなりません。また、権力関係的には双方は「非対称」ですので、学ぶものの思惑と、教えるものの思惑がぴったり重なることはありません。
 しかし、それが変な方向に重なり合い共振しあいますと、「デフレスパイラル(負の方向)への共犯関係」が作動することを忘れてはいけません。

  ▼

 今日のブログ記事は、若干の思い出話も含みながら、「意見がでない」「ネガティブな意見噴出」など、「学びの場 / 仕事の現場のコミュニケーションをインタラクティブ」にしたときに起こる懸念について考えました。

「手を挙げる人がゼロで、意見が出ない」
「ネガティブな意見しかでない」
「意見がぜんぜんまとまらないんじゃないか」

 こうしたことにお悩みをお持ちの皆さまが、このブログの読者の方々にもいらっしゃるかもしれません。それぞれの状況の詳細については、わたしはわかりませんし、残念ながら、知るよしもありません。

 ただ、そうした現象を「個人のせい」「学習者や受講者のせい」だけに帰属しようとなさるのならば、少しだけ立ち止まって考えてみることも無駄ではないかもしれません。。

 どうか、一寸だけでも考えてみる時間はあってもいいように思うのです。

 そういう社会的状況は、「なぜ、生み出されているのか」
「本当に、こちら側になすべきことはないのか」ということです。

 そういう場合、「教える側」「マネジメント側」にも問題がないとはいえない場合が少なくないな、と個人的には思いますが、いかがでしょうか。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月15日 07:00


できる講師と、そうでない講師の分かれ道:現場の人に「刺さる言葉」をつむぐ

「できる講師」と、「そうでない講師」の「差」とは何か?

 この「問い」に関しては、たくさんの答えがでてくることが予想されます。
 話がオモロイ、教材がわかりやすい、絶妙なファシリテーション、イケメン!?、などなど。どれもが「正解」でありえますし、「唯一絶対の答え」を決めることが、このブログで展開したいことではありません。 
 中には、「どんな人でも、1日で、できる講師になれちゃいます」みたいな意味不明なキャッチが踊る業界もあるようですが、僕には、まったく興味もありませんし、そういう即物的なお話をこの場でしたいわけでは1ミリもありません。

「できる講師」の「差」とは何か?

 もし仮に、もっとも大切だと感じるものを選んでよ、そうでなきゃと、すねちゃうもんねー、と言われたら、僕は、やむなく、これを選ぶでしょう。これまでの経験と観察を通して、これを選ぶと思うのです。

 それは、

「発言を記録しながら、教えることができるかどうか」

 です。

 もう少し具体的にいうと、

「誰が、どういう発言をしたかを記録しておいて、それを学習内容にいかに織り込んでいけるかどうか」

 です。
 いやはや、めちゃくちゃ地味な作業でしょう。でも、僕は、きっとこれが、特に大人を対象にした講義・ワークショップ等については、とても大切な要素になると思っています。

 つまり、ひと言でいうと「できる講師」の方とは「場の中からでてきた発言をリアルタイムに記録し、それをコンテンツ化すること」に長けている。「名前つきの発言内容」をしっかりと憶え、それを、学習内容の差し込むべきところで織り込んでいくことができる(Tayloring)。

「中原さん、先ほどは・・・と発言なさっていましたよね。この問題って・・・・・のことに関連しないですか」

「三浦さんの先ほどのご意見は・・・・三上さんのご意見と似たところがありますよね。それじゃ、この二つのご意見に関係する・・・・・を、これから学んでおくことにしましょう」

 研究柄、僕が観察させていただいたり、お話を伺ったりのは、企業で社内講師、社内ファシリテーションをなさっている方が主なので(いつもお世話になっております!情報感謝です!)、どの程度、一般化できることかわかりませんが、お話を伺っていても、本当にそう思います。

 ちょっとバタ臭く述べるとするならば

 リアルタイムドキュメンテーション(記録)
  そして、それに裏打ちされた
 リアルタイムコンテンツジェネレーション(内容構成)

 これこそが、僕ならば、「できる講師」とそうではない講師の分かれ道のように感じます。そして、これは一朝一夕で身につくものではありません。

 ▼

 それでは、これらが、なぜ、大切なのか。
 それは「ひとつの理由」があるからです。

 それは

 現場の人には、"現場の人の発した、名前つきの言葉"が、一番刺さる

 からです。
 どんなに「エレガントでワンダホーな概念」であっても、他者のつくりだした「他人の概念」「よその概念」は、仕事をしている人、現場の人には、なかなか刺さらない(エレガントでワンダホーな概念が無意味だといっているわけではありません。そうした言説には、また別の役割があるのです。その話は、またこんど)

 一方、「自分の組織の、一目置かれている人の意見」「自分の組織の本当に困っている人の意見」「自分の組織の、アクチュアリティあふれる意見」は、現場の人々に「刺さり」ます。そして、その「現場の人の素朴な言葉」は、心理的安全の確保されているような学ぶ現場、教える現場でこそ、発せされる。一般性はどの程度あるのかわかりませんが、多くの方が口にするのは、この言葉です。

 そして、現場の人の発した素朴な言葉は、そのまま、様々な議論や学習内容の「呼び水」になります。

 たとえば、あなたが、ある会社で研修をしている。
 そのとき、何グループかにわけて、同じ内容を講義しているとします。その最初の会で、あなたはあるテーマを皆になげかけ、いろいろな意見を得た。AさんはA"といい、BさんはB"といい、CさんはC"という。議論は、この3つに分かれて、一応の落としどころを得た。
 次の会では、あなたは、前の会ででた「AさんのA"という意見」「BさんはB"という意見」「CさんのC"という意見」を適宜、必要に応じて紹介し、さらに意見を深く掘り下げることができる。そのことで、以前の会にはでなかった、「DさんのD"という新たな視点」、「EさんのE"という新たな視点」がでてくる。
 最後の会では、AさんからEさんの様々な意見を用い、全員で議論をした。

 ここで行われていることは、「名前付きの発言」をしっかりと記録しておき、それを「コンテンツ化」したり、「議論の呼び水」にしたりすることです。そして、こういうことのすべての基盤は「記録をつけながら、教えることができるかどうか」ということに尽きます。

 ▼

 ですから、できる「教え手」の皆さんは、教えながら、発言した内容を「速記」する手法を、皆、それなりにお持ちであることの方が多いように思います。それなりのトレーニングをつんで、そうした自分なりのテクニックを、自分なりに工夫して、身につけておられる方が多いように思います。
 中には、「暗記できるわい」という方もいらっしゃいますが、多くの方々は、簡易ノートなどに座席表などを下記、名前と発言内容をメモなさっている方が、少なくないように感じます。

 これには、ある程度の時間をかけた練習と、それなりの能力が必要です。なぜなら、「目の前の数十人を前に剣をふるい、後ではしんがりをつとめるようなこと」ですので。いわば「ひとり合戦」状態ですので(笑)。

 そして、たまにご意見をうかがうのは、

 できれば、この作業を事務局の人には手伝って欲しい

 ということです。まぁ、なかなか口にだせないのでしょうけど。
 事務局の方で「うしろで内職をしているくらい」なら、どうか、ひとりひとりの発言に耳を傾け、それを記録しておいてほしい。それは、コンテンツにもなりえますし、評価やレポートを作成するときにも用いることができますし、次年度の計画をつくるときにも参考になる、ということをおっしゃいます。

 真偽のほどは、事務局をつとめていらっしゃる方のご判断におまかせします。

 ▼

 今日は、主にドキュメンテーションの話をしました。

 医者でも、看護師でも、教員でもそうなのですが、専門職にとって、ドキュメンテーションとは、多くの場合、仕事の中核に埋め込まれている作業です。
 それは「地味で面倒で骨の折れる作業」ではありますが、それは、提供するサービスのクオリティを、かなり大きく左右する内容だ、とも思います。
 その重要性は、これらの職業において「ドキュメンテーションがない介入行為」は存在しないことからも、おわかりか、と思います。だってね、あなたが患者だったら、カルテを書かない医者のところで、診察受けたいと思わないでしょ。
 程度の差こそはあれば、それは「学び」に携わる職業においても、同じことです。「華麗なファシリテーションテクニック」「わかりやすい教材作成のテクニック」「南極の氷すら溶かしてしまうようなアイスブレークテクニック」の前に、本来、問われるべき事は、ひとりひとりの声に耳を傾けているのか。そして、名前込みで、ひとつひとつの発言をつむぎとっているのか、ということです。

 何かを為す前に、見ること、聴くこと、そして記録すること
 地道な作業ではありますが、大切なことだと僕は思います。

 できるならば、現場の人に「刺さる言葉」を紡ぎ出したいものです。
 そして人生は続く

 ーーー

■追伸1
 次回、次々回の経営学習研究所、中原主催のイベントは「社内講師を育てる」と「ネオOJT宣言」を現在企画中です。かなりエキサィティングでいて、ガチ、実務直結の内容です。3月、5月あたりに続きます。どうぞお楽しみに!ご登壇いただける企業の方々には、心より感謝いたします!

 ーーー

■追伸2.
7月6日(土)開催の「対話の生まれる場をつくる:子どもの対話 × 大人の対話」の企画が進展しています。「子どもの対話パート」を担当いただける菊池省三先生に加え、「大人の対話パート」は、数々の組織で対話の実践をなさっている加藤雅則さんをお招きすることになりました!

「対話が生まれる場をつくる: 子どもの対話 × 大人の対話」 菊池省三先生をお招きして:7月6日(土)午後・東京大学本郷キャンパス
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/_76.html

 ーーー

■追伸3.
2/16(今週土曜日)「みんなで"プレイフルラーニング"を語ろう」UST中継をいたします。上田信行 × 中原淳 × 突撃愉快な仲間たちです。近刊「プレイフルラーニング」(三省堂)を小ネタに、ラーニングフルなトークセッションをします!どうぞお楽しみに21:30の予定です。

視聴はこちらから:NAKAHARA-LAB on UST
http://www.ustream.tv/channel/nakaharalab

投稿者 jun : 2013年2月14日 06:06


「ヒアリングの極意」をワンセンテンスで述べるならば!?

 Give your partner a good time.
 (相手に"よい時間"をプレゼントする)

 これは、即興劇(インプロ)の祖のひとりである、キース・ジョンストンさんが、「インプロの極意」として、よく引用する言葉だそうです。
 演劇教育がご専門の、東京学芸大学の高尾隆さんからうかがいました。高尾さんからは、いろいろなことを教えて頂いています(感謝!)。同期、いいねぇ。

 Give your partner a good time.

 この言葉を伺ったとき、僕の脳裏には、真っ先に、自分がいつも研究で行わせて頂いている「ヒアリング」を思い浮かべました。

 僕が考える「ヒアリングの極意」も、この言葉にまさに、ひと言で表現されると思ったのです。
 ま、「極意」って言ったって、小生みたいな「はなくそ」みたいな「研究者」のいう「極意」なんだから、それは、それなりに、割り引いて、それなりのものとして、受け止めてほしいのですけれども(笑)。真に受けなくていいよ。

 ヒアリングとは、「ヒアリングされるもの」と「ヒアリングするもの」のコラボレーションによって行われる即興的な行為でありますので、この言葉の意味するものが、ある程度あてはまるのは、あたりまえのことなのかもしれませんが、この言葉をきいて、まさに、「我が意を得たり」のひと言として、今でも非常に印象に残っています。

 ▼

 Give your partner good time!

 これがなぜ、ヒアリングにとって大切だと思うのかと申しますと、それは、僕の信念にも似た「人間観」が影響しているのかもしれません。

 人は、本当は、自分のことを
    語りたい生き物なのではないか

 人は、本当は、自分のことを誰かに
    伝えたい生き物なのではないか

 人は、もともとは、自分のことを
    表現したい生き物なのではないか

 これらの命題の「真偽」は検証不能ですが、僕は、この3つの命題をいわば、信念のように考えているところがあります。ま、信じるものは救われる、ということで(笑)

 人は、機会があれば、
 しゃべりたいし、伝えたいし、表現したい

 しかし、そういう、いわば、「あたりまえの状況」「自然の状況」が、様々に駆動する「社会的圧力」「抗しがたい権力」によって阻害されている状況が、世の中では、生まれます。
 そういう状況では、人は「鎧」をかぶって生きています。本来の自分を隠して、警戒して、悟られないように、人は生きています。そのような状況では、自分のことを表現しようとはしません。
 だって、危険でしょ。油断大敵、火がボーボーだからよ。

 しかし、もし聞き手が、「安全な時間」「よい時間」を提供することができるのだとしたら、「変テコなテクニック」「即物的なヒアリングのテクニック」などを使わずとも、人は思い出すこと、考えること、話すことを自然と行ってくれるのではないか、と思います。楽観的すぎるかもしれませんが、本当にそう感じるのです。

 ヒアリングでは、そういうアタリマエに生まれるよう、いつも努力したいと思いますし、Good timeが提供できるよう、考えているつもりです。
 小生、まだまだ修行中ではありますけれども。

  ▼

 Give your partner a good time.
 
 うまくいったときのインタビューというのは、面白いもので、いつも似たようなお言葉を、インタビュイーの方からいただきます。

「今日は、すっかり雑談ばかりしてしまいましたね。。。本当にこれでよかったのでしょうか」
「今日は、あっという間でしたね。。。本当に、これで研究のたしになるのでしょうか」

 という感想をいただくことがあります。
 そういう感想を頂いたとき、少し、僕はホッとします。
 そして、たいがい、そういうときには、ヒアリングとしての聴かなくてはならないことは、きちんと聴けているものです。つまり、ヒアリングを通した「情報収集」には成功している。

 いまだ小生修行中ですが、自分が行うヒアリングにおいて、そういう「あっという間におわる雑談」をつくれたとしたら、うれしいことです。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年2月13日 20:03


こちこちマインドを刺激する、クリエィティビティあふれるハンズオン展示:「デザインあ」展に行ってきた!

 巨大いくら軍艦に、巨大マグロ・・・
 モノには「大きさ」がある。
 どのくらいの「大きさ」が、「適当な大きさ」なのか?
 
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  ▼

 東京ミッドタウン「21_21 DESIGN SIGHT」で開催されている子どものデザイン思考を育てる番組「デザインあ」の展覧会に、家族で出かけてきました。

デザインあ展
http://www.nhk.or.jp/design-ah/

デザインあ展
http://www.2121designsight.jp/program/design_ah/

 結論から最初に申しますと、「とても面白かった!」。
 展示の多くは、モノの成り立ちを、分解したり、比較したりしつつ、組み合わせたりするようなハンズオン展示。家族3人で、どっぷり3時間、すべての展示を堪能させていただきました。

 TAKUZOがはまったのはこちらです。

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 こちらは、いわゆる「名作」の書名を分解したブロックがあり、それらを組み合わせて、自分の本、自分の本棚、をつくるというものです。「おじさん」が最後につく本は、どことなくユーモラスです。

 こちらの「お寿司ブロック」にもTAKUZOはハマっておりました。こんなブロック、市販されていたら、面白いのにね。

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 一方、小生がはまっていたのは、「教室づくりのブロック」です。面白いですね。いろんな人々が、このコーナーに集まり、自分の心の中にある教室をつくっている。
 また、ブロックを組み合わせるだけなのに、いろいろな社会的状況、場の雰囲気が表現できてしまうのも面白いところです。つまり、机と椅子、その配置によって、権力や社会的状況がつくられている、ということですね。

 たとえば、こちらは一斉授業?

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 こちらは何でしょうかね?

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 僕は「取締役会」のつもりでつくりましたが、人によっては、「最後の晩餐」と考えられた方もいました。

 じゃ、こちらは?

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 僕は、「非構成型のワークショップ」のつもりでつくりましたが(マニアック!)、「ハンカチ落とし」とおっしゃった方もいました。

 ほんじゃま、こちらは?

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 僕は、いわゆる「研修のグループワーク」を想定してつくりましたが、「給食場面」を想像した方もいらっしゃいましたね。「給食」と「研修」って同じなのかね。

 最後はいわゆる「オフィス」です。
 会場には、多くの子連れのお父さんがいらっしゃいましたが、こちらのコーナーで、自分のオフィスをつくっている人が多数いましたよ。

「えーと、ここは後藤さんで、ここは高橋部長」

 とかいって(笑)。

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 とにかく「デザインあ」展、とても愉しかったです。
 ふだん使わない脳の部分?をつかうといいましょうか。

「あー最近、こちことマインドになってしまっているな」とお感じの方には、おすすめですよ。子連れでも、たぶん4歳くらい以降は、十分愉しめるので、よろしければ、どうぞ!

写真(3).JPG

 そして人生は続く!

投稿者 jun : 2013年2月12日 07:39


スライド公開:Workshops in Organization

 日曜日、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。

 僕は、今日もお仕事です。
 午前中は、大学でひたすら仕事をしつつ、午後は、上野「東京都美術館」で開催されている「ワークショップと学び」に関するイベントで、ミニプレゼンをさせていただきました。

 こちらでは、「企業とワークショップ」というテーマをいただいたのですが、プレゼンをつくっているうちに、だんだんと脱線し(先日のブログ記事に書いた内容)、結局「ワークショップ疲れ」と「ワークショップへの希望と期待」をお話しすることになりました。

ワークショップ疲れという現象の背後にあるもの
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1948.html

 オーディエンスの方々に、うまく伝わったか自信はないですが、「ほんわか」とした雰囲気を、やや壊したとしても、このことはお話したいことでした。

 教条化・固定化・手法の手続き化にあらがい、「新たなものを生み出す意思をもつこと」が、「ワークショップが、ワークショップである」ためには大切であること。
 また、「ワークショップが、ワークショップであること」の重要性が、普及期にはいった現代、今さらながら問われている、ということをお話ししたつもりです。これに関しては、自戒をこめて、そう思います。

 繰り返しになりますが、僕は、「オルタナティブな学びの場」は、一定以上の重要性を今後も持ち続けるだろう、と思っています。
 フォーマルなもの、統制されたものの諸力が強くなればなるほど、そうした場の社会的意義はあがるでしょう。ここ最近、上田先生との共著を執筆させていただいたのも、そういう思いがモティベーションになったところが多いような気がします。

 下記に、スライドの一部を公開させて頂きますので、どうぞご覧下さい。

 明日は僕は参加できませんが(とても残念です!)、高尾隆君(東京学芸大学)が、「演劇ワークショップ」を「学校教育」に導入したときのコンフリクトについてご発表なさるそうですね。

「オルタナティブ」を導入すれば、学校という磁場にはたらく諸力、そこでつくられている制度・人工物の特殊性が「可視化」します。それらが、ことごとく「オルタナティブのもつ棘と毒」に反応するからです。こうしたことは、企業・組織でも起こりえることだと思いました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月10日 16:40


人材育成の言説は「極」がお好き!?:オレオレ、マッチョ、修羅場主義

 人材育成の言説空間というのは、ほおっておけば、「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」の方向に解釈され、染まっていく傾向があります。

 つまり、どういうことかと申しますと、

「自分一人でギリギリと自分を鍛錬し(オレがオレが)」
「できる個人が、さらに経験を積んで強くなればいい(マッチョ)」。
「そういう人を伸ばすために、組織は"修羅場"を用意すればいい(修羅場主義)」

 みっつあわせて「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」です(笑)。
 怒らないでね(笑)。
 真に受けないでね(笑)。

 もう少し真面目に、かつ、品のよい!?、アカデミックコレクト!?な言葉を使うのだとすると、とかく、人材育成の言説空間とは「個人還元主義」「経験至上主義」に解釈され、普及していきがちだということですね。

 「経験」を積むのも「個人」の力
 「内省」を行うのも「個人」がひとりでうんうんやるべきこと
  そういう個人に、組織は
 「とびっきりの修羅場」を与えればいい。
 「強い個人」が、さらに強くなる

 すべてとは言いませんが、その背後には、こうした「人間観」「組織観」「経営観」が透けて見えます。

 もちろん一概にこれが「間違い」であると否定することはできません。また、これは「経験・内省・個人を探究する研究」「生産された人材育成の言説」それ自体の問題ではありません。

 経験を積み、内省を個人として行うことは、人材育成の「基本中の基」であり、何も疑うことはありません。できる人にさらに面白い仕事を提供することは、人材マネジメント上間違っていることではありません。
 企業・組織は「学校」ではありません。「学校」とは異なり、「Equality」を追求することが、組織の倫理的基盤として位置づけられているわけではありません。

 それでも、やや問題だと思われるのは、人材育成の言説空間において、様々な研究・様々な事実が、多種多様な利害をもったステークホルダーに解釈されていくあいだに、それがバランスを欠いた状態で変質していく事態です。
 それは言説の生産者のせいではありません。それらの思惑を超えて、時には、その言説の一部を切り取る形で、大切な部分が意図的に無視され、様々なステークホルダーの解釈を通して、言説が変質して行くのです。

 たとえば、「経験からのリーダーシップ開発」を主張したMcCallらは、リーダーシップの向上のために必要なものは、「タフなビジネスの経験」であることに加えて、様々な要因をあげました。例えば、セーフティネット、メンタリングなどの支援、挑戦が公平に評価される評価基準であることなどを喝破し、それらへの言及を忘れませんでした。
 しかし、結果はどうでしょうか。
 人材育成の言説空間において、主に人口に膾炙しているのは「タフなビジネスの経験」だけであり、後者のような要因は、あまり省みられることがありません。「セーフティネット、メンタリングの機会、評価基準の公正性をともなわない、タフなビジネスの経験」って、どういうものかわかりますか? 挑戦して、ひとつつまづけば、落ち続ける、ということですよ。
 少し想像してみればわかると思うのですが、かなり「ブラ○クな状況」であることが想像に固くないでしょう。

 以上は、やや極端な例ですが、これに類する事態は容易におこりえるのです。
 言説の変質の過程、意図的な切り取りの過程においては、とかく、個人を支える社会的関係、社会的環境に対する「目配り」が、ときに失われ、「個人」が肥大化し、組織内における人材マネジメントのバランスがとれなくなる事態が生まれがちです。

 そうした個人が、どのような世代に属し、どのような時代背景のなかで生きていたことが忘れ去られ、それに対する必要な支援が省みられなくなる事態も、また生まれがちです。

 要するに、かくして「バランスを欠いた人材育成のあり方」が生まれてしまうのです。

 人材育成の言説解釈は「極」を好みます。
 「極」にふって解釈した方が
  世間には「わかりやすいから」です。
 
 「極」にふって解釈した方が、
  短期的には組織においては得であることも
  あるからです

 「極」にふって解釈した方が、
  それへの対処法を提供する「個人の経済的便益」
  につながりやすいからです

 そうした様々なステークホルダーの思惑のなかで、時に「バランスが崩れること」が僕の懸念です。

 ▼

 最近、人材育成の言説空間において、「僕だからこそできること」を考えます。

 それは、その言説空間の内部にいる覚悟をきめて、全体に目配りを行い、「極にふれた物事」に対する「対抗言説」を生産し続けることなのかな、と思います。

 先ほどの「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」の場合ですと、

 個人を支えるものに「職場」があったでしょう

 内省は「他者」を媒介として達成されるでしょう

 修羅場の経験には、支援やセーフティネットが
 必要でしょう

 修羅場といっても、若い世代に、何の支援もなしで、そりゃ、無理でしょう

 ということを敢えて主張することです。

 奇をてらっているわけではありません。それが自分の研究成果からしても「事実」であるから。先行研究の多くも、本来は、そうしたことをデータとして提示しているから。
「事実」「データ」をもとに、それらを相対化しつつ、崩れたバランスに目配りを行うことが、僕のなすべきことなのかな、とも思うのです。
 あまり「得」な役回りではありません(笑)。
 ぬるくて、わかりにくくて、煮え切らないから(笑)。
 
 先ほど述べましたように、人材育成の言説解釈とは「極」を好みます。どうしても、「オレオレ、マッチョ、修羅場主義」が強くなります。
 それは、ネオリベラリズム的な思想が少しずつ盛り返しつつある、今だからこそ、なおさらなのかもしれません。この考えは、いわゆる「自己責任論」と共振し、人々の人口に膾炙しやすい特徴をもっています。

 ▼

 面白いことに、1980年代以降の学習論の趨勢は、いかに「個人」を乗り越えるか。いかに「経験」を乗り越えるか、ということにありました。

 社会構成主義しかり、学習環境という概念しかり、この30年間、研究者が格闘してきたのは、こうした「個人還元主義」「経験至上主義」に対する知的チャレンジでした。
 マクロにみれば、人文社会科学の趨勢も、その延長上にあると考えて良いと思います。しかし、人材育成の言説解釈は、それらとは、時に「逆行」します。

 ▼

 まだまだこれからなのかもしれませんが、40歳ちょっと手前にして、ようやく、自分が果たすべき言説の特徴、依拠する人間観、めざす世界観みたいなものが、朧気ながらわかりかけているような気がします。

「遅い!」とお叱りをうけるかもしれませんが、ようやく、ようやく、「自分のやりたいこと」「自分のなすべきこと」がわかりかけているような気がします。

 そして修行は続く

投稿者 jun : 2013年2月 9日 07:50


現場粘着情報をすくい、現場粘着実感を聴く

 ここ数ヶ月、隙間時間を見つけては、ヒアリングで様々な企業・組織にお邪魔させていただくことが多くなっているのですが、やっぱり「現場」に伺い、「現場の方々」のお話しを伺うのは、愉しいですね。

 僕は、やっぱり人にお話を伺うのが、本当に好きなのだと思いますし、研究でも大切にしたいな、と思っています。
(このクソ忙しいときにヒアリングを受け入れてくださったみなさま、心より感謝いたします!ありがとうございます!)

  ▼

 現場には、いわゆる「現場粘着情報」と「現場粘着実感」があるな、と思います。

「現場粘着情報」とは、「現場にぴったりと張り付いている情報で、現場にいかなければわからない情報」のことですね。
「現場粘着実感」とは、「現場の現状にぴったりと張り付いている、現場の人々の生々しい実感・感覚であり、現場の人々の肉声」です。

 前者はきちんとした「アカデミックワード」ですが、後者は先ほど僕が捏造した「アカデミック風ワード」です(笑)。すいません、後者は使わぬように(笑)

「それって、現場粘着実感だよねー」

 とかいうと、周囲、ドン引きですよ(笑)。
 そんなやつ、いねーか(笑)

 それにしても、この「粘着」というメタファが興味深くないですか。
 この概念、先日、大学院生の町支君に教えてもらったのですが、伺ったときに、「ほほー」と思いました。素晴らしいメタファだな、と。

  ▼

 最近よく思うのですが、

 現場の人に「刺さる」のは、「現場粘着情報」と「現場粘着実感」なのではないか

 と感じます。

 いかなる表現よりも、やっぱり、「粘着ドロドロした情報」「現場に根ざした肉声」が一番ピンとくるし、目がキラッとする。

 こうした現場にねざした「情報や感覚」を、ともすれば、「パサパサになりがちな研究」に「織物」のように「織り込んで」いけたとしたら(茨木のり子さん風表現ですね)、うれしいことですね。自分の研究そして著作は、現場の人にもお読み頂きたいと思うからです。
 特に、組織研究は、定量的な研究、概念的な研究が多いですので、なおさらそう思うのかもしれません。

 せめて、お読み頂いた方が「ピン」とくるような研究、「わかる、わかる、そういうのあるよね」と思っていただける研究をしたいな、と思うのです。感覚的なことで、まことに申し訳ないのですが。

 というわけで、また隙間時間を見つけて、現場を訪問させていただきたいと思います。
 みなさま、お忙しい中、本当にすみません。お声がけさせていただきますので、どうぞよろしく御願いします。

 石を投げないでね(笑)。

投稿者 jun : 2013年2月 8日 07:13


【参加募集中】未来の大学教員を育てる : プレFDシアター「京都大学・東京大学の大学院生が授業をしてみる、議論する」

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未来の大学教員を育てる:プレFDシアター
京都大学・東京大学の大学院生が授業をしてみる、議論する

2013年2月22日(金)東京大学・本郷キャンパス
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このたび、京都大学高等教育研究開発推進センターおよび
東京大学大学総合教育研究センター共催により、
「未来の大学教員を育てる ―プレFDの挑戦」と題した
ワークショップを開催することとなりました。

大学教員の教育力向上が喫緊の課題となっている昨今、
プレFD―将来大学教員を目指す大学院生に向けたプログラム―
はこの課題に正面から取り組むプログラムといえます。

本プログラムでは、それぞれの大学のFDあるいはプレFDに
関する方向性についてご報告するとともに、両大学の大学院生が
プレFDの活動に取り組む様子(模擬広義を含む)も公開いたします。

プレFDといえば、もっとも先端をいくのは「京都大学」
京都大学からは、今年度「研究科横断型教育プログラム」で実施
した大学院生の授業の一部を公開します。
 そして、2013年からプレFDをはじめるのは「東京大学」
東京大学からは、来年度4月より開始されるプログラムの一部を
実施し、参加者の皆様とプレFDについて課題を共有し、今後の方
向性について考えたいと思います。

FDおよびプレFDに関係する方々のご参加、こころよりお待ち
申し上げております。

※申込みは、下記フォームより受け付けております。
事前登録が必要です。

未来の大学教員を育てる:プレFDシアター
http://ow.ly/huKGk

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【日時】2013年2月22日(金)14時から19時

【会場】東京大学本郷キャンパス・
    福武ホール地下二階ラーニングスタジオ
    http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/access/

【費用】無料

【プログラム】
14:00 - 14:10
  オープニング&本シンポジウムの趣旨
    中原淳(東京大学)
14:10- 14:25
  東京大学・京都大学のFDの方向性について
    吉見俊哉(東京大学)
    大塚雄作(京都大学)
14:25 - 15:05
  プレFDのプログラムの理念と内容
  「京都大学のプレFD」
    田口真奈(京都大学)
  「東京大学フューチャーファカルティプログラム」
    栗田佳代子(東京大学)
15:05 - 15:25
  カフェブレイク
15:25 - 16:50
  プレFDシアター
 (1) 15:25-16:05 京都大学(進行:田口真奈)
 ・模擬授業と検討会
   ・模擬授業 
    「次世代エレクトロニクスを拓く勇気デバイス」
     実施チーム「勇気デバイス」(宮田潔志・大山牧子・二ツ山達朗・蒲雲菲)
   ・検討会 (司会:松下佳代(京都大学))
 (2) 16:10-16:50 東京大学(進行:栗田佳代子)
   ・授業研究
    アクティブ・ラーニングのための仕掛け
    検討素材:「生理学:甲状腺ホルモン」女子栄養短期大学 渋谷まさと教授 

16:50 - 17:05 コメント
  木村孟(文部科学省顧問)
17:05 - 17:20 全体質疑
17:20      閉会
17:20 - 18:00 カフェブレイク
18:00 - 19:00 情報交換会

【留意事項】
お申し込みは下記に示す参加許諾について全てご許可いただけ
る方に限らせていただきます。また、参加申し込みが多数寄せ
られた場合は主催者の判断により、〆切途中であっても、申し
込みを停止させていただきますので、あしからずご了 承ください。

【参加許諾】
本イベントの様子は、予告・許諾なく、写真・ビデオ撮影・スト
リーミング配信する可能性があります。撮影した写真・動画は、
主催者が関与するWebサイト等 の広報手段、講演資料、書籍等
に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアによる取材
に対しても、許諾なく提供することがあります。

参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。
※申し込みの際の個人情報に関しては、本イベントの目的以外
には使用いたしません。

※申込みは、下記フォームより受け付けております。
事前登録が必要です。

未来の大学教員を育てる:プレFDシアター
http://ow.ly/huKGk


【共催】
  京都大学高等教育研究開発推進センター
  東京大学大学総合教育研究センター 教育課程・方法開発部門
  東京大学フューチャーファカルティプログラム

【問い合わせ先】
 fdtodai@gmail.com
 担当 東京大学大学総合教育研究センター
      特任研究員 藤本夕衣

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投稿者 jun : 2013年2月 7日 15:37


「対話が生まれる場をつくる: 子どもの対話 × 大人の対話」 菊池省三先生をお招きして:7月6日(土)午後・東京大学本郷キャンパス

 一応、これでも「ダイアローグ / 対話する組織」という本の著者のひとりですので(笑)、これまで、いろいろな場所で「対話の機会」を実践してきたつもりです。

 特に、僕の場合は、研究柄、対話を行って頂く対象は「大人:成人」ということになります。時には10人くらいの社会教育施設で、あるときは30人くらいの研修場面で、時には500人を超える大規模法廷研修場面でグループを数十個にわけて、「異なる考えをもつ人々が、それぞれの意見を鑑賞しあう」ということを実践してきました。

 そうした場合、参加者の皆さんに、御願いしていたことは、主に3つです。

「主語は"わたし"にしてみましょう」
「"違い"があっても、まずはその違いを愉しんでみましょう」
「積極的に"聴くこと"に集中しましょう」

 詳しく書くことは、あと17分でカミサンとTAKUZOを起こさなければならないので避けますけれども、多くの場合は、それまでの雰囲気作りが綿密におこなわれていますので、これだけのインストラクションで、うまくいく場合が多いです。

 しかし、ごくごく希に、対話で必要とされるようなコミュニケーションのモードにどうしてもはいれない方、入れないグループがある場合があります(本当に少ない、年に1度あるかないか、ですけれども)。
 自律意思で集まる場では、そういうことが起こる可能性は低いものです。「だって自分で好きで来てるんだから」。
 むしろ、強制的にやむなく来なければならない場面では、どうしても、対話できないグループというのが、生まれるリスクは少なからずあります。

 おそらく原因の半分は、僕の「ファシリテーション」や「問いかけ」のミスなのかもしれません。しかし、いくつかの場合において、そうした事例の原因は、「対話の機会」そのものよりは、その方々が歩んでこられた仕事環境や労働環境にある場合もあります。真偽のほどはわかりません。
 実践現場では、いくら「原因探し」をしても、今、目の前にあるものは、なかなか改善されません。どうしても、うまくいかない場合があることを受け止め、この問題とどう向き合うのかを考えていかなければなりません。

 起こりうる問題は、

「相手のいうことを聴けない」
「自分の考えを述べることがなかなかできない」
「違いがあったら、全否定モードに入る / 他人を押さえつける」

 ひと言でいえば「権力を傘にした文句たれ」です(笑)。

 他人の発話を静止し「それは、違うよ!」といいつつ、自分の意見は曖昧である。他者から問われて「自分の考え」を述べようとすると、まとまらない。最後に頼るのは、自分の「権力・年齢・経験」という、まぁまぁ「困ったちゃん」です。「権力・年齢・経験」は、他者が、おいそれと否定できないことを知っていて、最後は、そこに頼る(泣)。

 そういう方々がいて大きな問題が生じた場合、僕は、なるべくフォローに入りますが、そこでの会話を聞いていて、いつも2つのことを思っていました。

「大人になってからでは遅いのかなぁ・・・子どもの頃から、何とか対話する機会をたくさんもてないものだろうか」

 ということと、これに一見、矛盾する下記のことです。

「大人でもトレーニングを行えば、そういうコミュニケーションモードを、ある程度は、獲得できるのかなぁ・・・そのヒントは大人の領域よりは、むしろ、子どもの学習場面にあるのではないだろうか」

 前者に関しては、非常に「俗なことば」ですけれども、「鉄ははやいうちに打て」の発想です。アカデミックでなくてすみません。
 子どもの頃から、異質なもの、他人の考えの違いを受け止め、そのうえで、自分の言葉を発せられる学習機会をつくれないものだろうか、ということですね。
 多くの初等中等教育の教育場面では、すでにこの課題に取り組まれています。要するに、経営学習論や成人学習の世界も、ここに学ぶことはできないか、ということです。

 後者に関しては、かつて協調学習研究における実践場面では、Launch Session(打ち上げセッションとでもいいましょうか)というものがありました。
 なかなかグループワークに迎えない子どもたちを対象にして、まずは実践場面より易しい課題を与え、「グループワークとはどういうことか?」を教えていくセッションのことをいいます。こうしたセッションをへて、いざグループワークに向かうと、なかなかうまくいく場合があるという報告がなされていました。子どもを対象にした実践的な研究では、こうしたかたちで、じっくりと準備を積み重ねる局面が多いのです。ここからも、「大人の学び」の世界も、学ぶことができるのではないか、と思います。

 そんなとき、ふと、頭に思い浮かんだのは、ふたつの物事を関連づけて、その違いやその考える機会を持てないか、ということです。「今は別れている二つの領域の実践家・研究者」の方々にご参加頂き、相互に交流しあいつつ、「対話」という問題を考える場をもてないか、ということを考えていました。

 つまり、

「対話の生まれる場をつくる:子どもの対話 × 大人の対話」

 というタイトルでフォーラムなどを開催し、皆で、こうした問題を考えられないだろうか、ということですね。

 フォーラムには、「子どもを対象にした話し合い・対話を実践なさっている最先端の実践家や研究者」をお招きする一方、「会社組織で、大人を対象にした対話などを実践なさっている最先端の方々」をお招きして、エクササイズを踏まえつつ、この問題を考える。

 おそらく、子どもも大人も、ある程度は共通するところがあり、異なっている場面もあるだろう。まずは、そこを吟味すると、新しい地平が生まれるのかもしれない。こんなことを、ここ数ヶ月、ふつふつと考えていました。

 ▼

 思いついたら、すぐ動く!
 今やれ、すぐやれ、早くやれ!

 これは「銭湯あがったら、フルーツ牛乳!」に続く「中原家家訓」です(笑)。というわけで、この間、様々な書籍を拝見させて頂き、「子どもの対話」のセッションを御願いする実践家の方に御連絡させていただき、まことにありがたいことに、ご快諾のお返事をいただきました。

 ご登壇いただけることになったのは、小学校で教鞭を執られている菊池省三先生です。大変お忙しい中、本当にありがとうございます。この場を借りて、心より感謝いたします。

 菊池先生におかれましては、ご存じの方も多数いらっしゃると思います。コミュニケーションを大切になさった実践をなさっている大変著名な実践家の方で、2012年には、NHK「プロフェッショナル」で、その実践がご紹介されました。

プロフェッショナル「未来をつかむ勝負の教室」
http://www.nhk.or.jp/professional/2012/0716/index.html

 この間、先生のご著書は、すべて拝見させて頂きました。
「子ども」と「大人」は違うというご意見もありましょうけれども、「大人の学び」の世界も、先生のお考えに学ぶべき所は多い、というのが偽らざる感想です。また、逆もありえるのだと、僕は信じています。僕自身、先生から多くを学ばせて頂くことを愉しみにしています。

 後者の方、すなわち「大人の対話」のセッションをどのように構成するかは、実は、まだ決まっていません。
 できれば、企業・組織で、たくさんの実務を積み重ねておられる方で、「大人の対話」に関して概念的なこともお話しできる方にご登壇いただけたとするとよいかな、と考えています。

 菊池先生と僕とその方、そして会場の皆さんをまじえて、よい対話ができるのかな、と思いますし、またここから新しい地平が生まれるのだとしたら、これ以上の幸せはありません。こちらの方は、また考えてみます。

「対話の生まれる場をつくる:子どもの対話 × 大人の対話」
 二つの世界の「新結合」です。

 7月6日(土)午後、
 場所は東京大学・本郷キャンパスを予定しています!
 
 どうかお楽しみに! 
 面白くなってきたよ

投稿者 jun : 2013年2月 7日 07:10


「ワークショップ疲れ」という現象の背後にあるもの:「風呂敷的ムーヴメントとしてのワークショップ」の普及と変化

 これは僕だけが感じていることなのでしょうか、どうも、最近、人々のあいだに、「ワークショップ疲れ」というものが生まれているような気がします。

「げっ、また6人グループになんの?」
「またポスターとマジックと付箋紙かよ」
「どうせ、どんな提案をしても、落としどころが、最初から決まってるんでしょ」

「ワークショップ」というラヴェルで括られる「何か」に、人々が、疲れはじめている。
 もちろん「人々」といっても、どこまで一般性のある話かはわかりませんが、そんなことを、去年の秋頃から、とみに感じます(このことは、かつて、ブログ記事でもご紹介しました)。

 ▼

 これは、わたしの持論ですけれども(一部は、近刊「プレイフルラーニング」に描きました)、ワークショップとは「Alternative(オルタナティブ)」「Amature(アマチュア)」「Interactive(インタラクティブ)」、そして「Spontanous(スポンテイナス)」「Indivisual(インディヴィジュアル)」「Externalization(エクスターナライゼーション)」の6つの概念によって彩られている「何か」であると、思います。

 そして「それが何か」に関しては、「二つの視角」から「スポットライト」を「照射」して考えることができるのではないか、と思います。
 
 第一の視角は「学びの提供側」の視角。
 この視角に立って、ワークショップをながめてみますと、それは「オルタナティブな学び・活動の場」であり、その担い手は「アマチュア」であり、そこで展開される学習活動は「インタラクティブ」である、ということになります。
 ここでアマチュアとは「教育の専門家」ではない、という意味です。「教育とは異なる領域の専門性・経験をもつ人々で、教育の専門家ではない」人も、あえて、この中に含むものとします。別の言い方をすれば、Subject Matter Expert(内容に関する知や経験をもった人々)ではあるけれど、決して、「教育の専門家」ではない、ということになりますね。

 第二の視角は、「学びへの参加者からの視点」です。
 この視点によりますと、ワークショップとは、人々が「個人(インディビジュアル)として「自律意思(スポンティナス)」によって参加し、何かを「外化(外に出すこと・発信すること・表現すること:エクスターナライゼーション)」を通して、「共愉(コンヴィヴィアリティのある)学びや活動」を経験することができる機会である、ということになります。
 そして、場合によっては、「今は参加者」の自分ですら「ワークショップの提供側」にたつことができる。なぜなら、そこは「アマチュア」にって運営され、開かれた場であるから。

 ここまでの議論をまとめます。
 いずれの視角においても「着地点」は明らかです。
 それは、ワークショップとは、もともと「フォーマル・エデュケーション」ないしは「学校」に対する「アンチテーゼ」として立ち上がってきた、いわば「運動(ムーヴメント)」のようなものだということです。

 それは「手法」でも、ましてや「コンテンツ」によっても規定されるものではない。だって、「ワークショップ」という名称を関した場において、採用されている「学習手法」も、「学習内容」も多種多様でしょう? 
 造形、まち作り、アート・・・学習内容は、いろいろあるでしょう。ワールドカフェに、グループ学習、個人創作、ジグソーメソッド・・・学習手法だって、いろいろあるでしょう。
 それらの多種多様な要素から、「ワークショップとは何か」を形而上学的に規定するのは困難であると、僕は思います。むしろ、そうした物事から、ワークショップとは「語り得ぬ」ものである。

 むしろ「アマチュア」な個人が、それぞれの専門性や経験を活かして、自由意思によって提供する場であり、そこに人々が参加し、外化・表現することによって学ぶことのできる「ムーヴメント」である、というのが僕の結論です。

 この場合の、「フォーマルエデュケーション」ないしは、「学校」とは、第一の視角によれば、「教育のプロフェッショナルによって担われる、導管型の学びの場」であることが想定されています。
 第二の視角によれば、「フォーマルエデュケーション」や「学校」とは、「国家・社会の秩序維持のために行われる、第三者による学びの構造化・組織化」のことをさします。
 いずれも、ワークショップは、これらのものとは、時に「対立・対峙」し、それゆえに「存続」することができた「オルタナティブな学びのムーヴメント」であった、ということになります。
「オルタナティブ」とは、「対立できる何か」がなければ「レゾンデートル(存在証明)」はなくなるものです。

(上記の定義は、フォーマルエデュケーションや学校を、相当にマクロな視点からみたものです。あとに述べますが、一概に、フォーマルエデュケ-ションや学校であっても、アマチュアが参加する場合もありますし、インタラクティブな学びの場はたくさんあります。ここでは敢えて議論をクリアにするために、概念を対照づけて考察していることをお許し下さい)

 少し考えてみればわかるように、「学び」とは、決して、「フォーマルエデュケーション」や「学校」の提供するものに、限られるわけではありません。

 プロフェッショナルではなくても、アマチュアであっても、学びを提供できる

 学校ではなくても、市街地や路地においても、学びを提供できる

 第三者に強制されなかったとしても、人は個人で学ぶことができる

 そういう「フォーマルなもの」「学校的ではない」ものから抜け落ちてしまう学びとは、世の中に、実に、たくさんあります。
 つまり、人々が意識せずに実践しているものの中で、「学び」と関連づけられるものは、多種多様にある、ということです。
 僕は、そういう「既存の概念から抜け落ちたもの」を大きく、緩く、くるみこむ「風呂敷のようなもの(包括的概念といえばいいのでしょうか?)」として「ワークショップ」というラヴェルをとらえています。

 ひと言でいえば、

 ワークショップとは「風呂敷的ムーヴメント」である!?

 あるいは、もう少し、表現をかえていうならば、

 ワークショップとは「オルタナティブムーヴメント」に掲げられた「旗」

 である、ということになるでしょうか。

 あるいは、全く違う角度から、それを記述するならば、

 ワークショップとは、
 「誰もが教え手になることはできるのだ」
 「人は、自分の学びに自らイニシアチブをもてるのだ」
 という「実践的思想」である

 ともいえそうです。
 そうした「思想」をゆるやかに共有する「想像の共同体」が、「ワークショップという言葉を用いる人々の集団」ではないか、と僕は思います。

 ま、後者二つ「旗」とか「思想」は、まだいいけど・・・
 最後にでてきたのは「風呂敷」か。。。

 ごめん(笑)。
 怒らないでね。
 真に受けないでね。。。

 ▼

 しかし「事態」は変わってきました。
 それは「ワークショップのフォーマル化」「ワークショップのドグマ化」という事態の進行です。

 第一の「ワークショップのフォーマル化」とは、ひと言でいえば、「永遠のオルタナティブ」として存立可能 - 逆に言えば、フォーマルエデュケーションをアンチテーゼとして存立してきた - であったワークショップが、表舞台にでて、スポットライトを浴びることになります。

 しだいに、会社、組織、学校、病院様々なフォーマルな場面において、「ワークショップなるもの」が取り込まれ、実践されることになってきました。
 この事態は、先ほどの2つの視角でいう、後者を毀損する可能性が高くなります。
 なぜなら、それは「個人が自由意思で集う場」であったはずなのに、「組織によって、第三者によって、学びを統制される要素が生まれてきた」からです。

 第二の「ワークショップのドグマ化」とは、ワークショップを「手法・技術として固定化・組織化・確立」させ、それをしかるべきかたちで「知識配分」していく仕組みのことをいいます。
 こうした動向が固定化しすぎますとと、「荒々しい、アマチュアによるムーヴメント」であったはずのワークショップは「固定化」され、「秩序化」された手法として普及し、知識配分が開始されることになります。つまり「ワークショップの担い手のプロフェッショナル化」が進行します。

 これら二つの事態をまとめます。

 すなわちで、ここで述べていることは、上記6つの特徴で彩られていた「ワークショップなるもの」が、すべての特徴を失ったわけではないにせよ、少しずつ、「色褪せる可能性」をみせているということです。
 
 まずは、フォーマルなものに取り込まれる事態、ドグマ化していく事態がそれを加速させています。さらにそれらに加えて、「普及がはじまってきたこと」が相乗効果を生み出しています。
 「普及」に関しては、ワークショップが「イノベター」や「アーリーアダプター」によって担われている状態でしたら、そのスピードは緩やかだった。しかし、いまや、ワークショップという言葉は普及し、マス化しはじめてきています(このあたりはロジャースのイノベーション普及論をご参照ください)。

 こうした一連の動きのなかで、ワークショップがもともと持っていた諸特徴が、色褪せていく事態は、確実に早まっている。そして、そのことが、もともとワークショップがもっていた「コンヴィヴィアリティ」を失わせてくることになったとしら、それは少し厄介な事態です。

「げっ、また6人グループになんの?」
「またポスターとマジックと付箋紙かよ」
「どうせ、どんな提案をしても、落としどころが、最初から決まってるんでしょ」

「ワークショップ疲れ」は、まさにこのような「地平」に少しずつ生まれてるような気がします。

 ▼

 今日はどちらかというと、議論をクリアにするために、「フォーマルエデューケーション」や「学校」などの、様々な諸概念を、「ワークショップ」と敢えて対照づけて議論をしてきました。この点に引っかかる方がいるかもしれませんが、どうかお許し下さい。

「フォーマルエデューケーション」だって、いろいろあります。それが提供する教育の多くは、インタラクティブで、個人が光るものもあります。日本の初等中等教育において提供されている授業は、米国の授業と比較して、インタラクティブで仮説生成的であるという比較研究も、多々あることはよく知られている事実です(1980年代の教室比較研究ですね)。
 これまで学校教育が培ってきた経験・提供価値を、僕は十分承知しておりますし、むしろ、僕は、我が国のフォーマルエデューケーションや学校教育のクオリティの高さに(いろいろな問題があることは承知しているつもりです)、もっとプライドをもつべきだと思っている人間です。

 また、誤解を避けるために申し上げますが、僕は「ワークショップ的なもの」「風呂敷的ムーヴメント」は、現代社会において、とても大切だと思っています。
「オルタナティブ」「アマチュア」「インタラクティブ」「スポンテイナス」「インディヴィジュアル」「エクスターナライゼーション」に彩られる学びの場を、自らももっとつくりだしたいと願っている人間です。決して「ワークショップ的なもの」の価値を毀損したいと思っているわけではありません。むしろ、「ワークショップ的」な「風呂敷ムーヴメント」を大切にしていかなければならない、と思っています。

 けだし、世の中というものは、ほおっておけば、「オルタナティブ」「アマチュア」「インタラクティブ」「スポンテイナス」「インディヴィジュアル」「エクスターナライゼーション」とは「対局にある価値」が高くなっていくものです。

 管理、権力、体制。
 教条化、固定化、体系化。

 ほおっておけば、「スポットライトを浴びて、人々の関心を集めた物事」であればあるほど、そうした方向に進んでいく可能性が高くなります。
 ですので、そうしたものに「抗う諸力」を、社会が持つことはとても大切なことだと僕は思っています。要するに「バランス」なのです。

  ▼

 これは、「プレイフルラーニング」でも書いたことですが、「ワークショップは、今、岐路に立っている」と思います。

 固定化・教条化・秩序化を拒否し、新たなものを次々と生み出していく革新行動が、「想像の共同体」においておこるかどうか。
 つまり、「ワークショップ」が、本来の意味での「ワークショップ」であり続けることができるかどうか。

 そして、それを支える実践的コミュニティ、そして、実践的研究が生まれるかどうか。それらを通して、人々を魅了する、革新的な学びの場が、生まれてくるかどうか。そこに魅了される人々が、さらに新規参入してくるかどうか。

 「実験的(Experimental)」な精神を持ち続け、先達がつくりだしたワークショップ文法を超える努力を、その担い手たちが実行することができるかどうか。そして「永遠のカウンターカルチャー」としてのロールモデルを演じつづけることができるかどうか。そして、それを通して人々を魅了できるかどうか。

 「量的拡大は質的転換をもたらす」とは有名なテーゼですが、量的に拡大し、多くの人々が参加しつつある、今だからこそ - フォーマル化・ドグマ化がひたひたと進行しやすい今だからこそ - ポジティブな質的転換のサイクルに向かう必要があるように思うのは、僕だけでしょうか。

 「風呂敷的ムーヴメント」を「オワコン」化させないために、今、そのあり方が、問われています。

 そして人生は続く
 さ、はよ、寝よ。
 なんか、寒いぞ。

追伸.
 日曜日に、某所で「企業とワークショップ」についてお話ししなくてはならないのですよね。そのプレゼンをつくっていて、今日の話題にいきつきました。

投稿者 jun : 2013年2月 6日 09:00


一方向的なコミュニケーションの限界:「しかく」と「まる3つ」の簡単エクササイズを通して考える

 先日、映画「精神」を見ていたら、そこでご出演なさっていた医師・山本昌知先生が、ご自身の講演風景で、下記のようなエクササイズをしていらっしゃる様子が目にとまりました。

 簡単でシンプルなエクササイズだったのですが、「そうだよな」と妙に納得してしまったので、ここでも紹介させていただきます。非常に簡単で1分でできるエクササイズです。

  ▼

1.まず、皆さん、鉛筆と紙を用意して下さい。

2.紙に「四角(□)の図形」を書いてみてください

3.そのあとで「同じ大きさの丸(○)を3つ均等に書いてみてください

 じゃあ、それぞれ皆さん、鉛筆をもって、それぞれ描いてみてください。
 どんな図形ができがりましたか?

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 皆さんは、どんなカタチになったでしょうね。
 僕の場合は、こんなんでした。

Doc-13_02_05 10_59-page-1.jpg

 まず先ほどのインストラクションを聞いたとき、僕の場合、まっさきに思い浮かんだのは、「電車」だったのですよね(笑)。皆さんは、いかがでしたでしょうか。

 映画では、このあと、山本先生が

 「これが一方向的なコミュニケーションの限界です」

 と続けます。

 一方向的なコミュニケーションでは、なかなか「伝わるようとしたことが、そのまま伝わらない」。「伝えたと思っても、自分の思い通りのものがイメージされるとは限らない」と、ご講演なさいます。
 確かに、そうですね。だから、図形がいろいろに変化するわけです。少しでも説明をゆるめてしまうと、非常に多種多様な図形がうまれることになります。
 しかし、もし仮に、この場で、「質問することが許されていたり」、ないしは「お互いに話し合うことが許されていた」としたら、おおきく事態は変わるのだと思います。

 「四角のうえに、まるをかくの? それとも下にかくの?」

 というやりとりさえ実現されていれば、また、事態は変化したのではないでしょうか。教える現場、学ぶ現場に必要な「双方向のコミュニケーション」とは、こういうことなのかな、とも思います。うーん、シンプルですが、なかなか、つかみはOKのエクササイズでした。コミュニケーションのあり方を考える、最初の一歩としては、なかなか興味深いものがありました。

(今日はこの映画の内容自体はご紹介しません。この映画は、これまでタブーとされてきた精神科の診察風景、精神科の患者さん達を取材した観察映画であり、ドキュメンタリーです。僕は、視聴後、しばらく考え込んでしまいました。また別の機会に、この映画についてはご紹介します)

  ▼

 「学びの現場」において、「一方向的なコミュニケーション」を超える努力が、ここあそこではじまっていると思います。これまでも取り組まれてかたにとっては、「今さらジロー」の話でしょうが、昨日は、そんなことを感じる日でした。

 朝方は、某社の人材開発担当者の方々のヒアリングをさせていただきました。
 この会社では、5年前に、研修をすべて自社社員だけで行うことを決め、社内講師を養成し、多くの研修を社内講師の方々にご担当いただいて回していらっしゃいます。
 会社独自にTTTプログラムを立ち上げ(Training the Trainer:トレーナー養成プログラム)、実践し、70名の社内講師をデビューさせ、さらには、半年ごとのレビューを設け、自社教育の質保証を行っています。

「私たちは、顔が見える研修(社内の人同志が教えあう)をしたいのです」
「現場の方々は、確かに知識もスキルも経験も素晴らしいものをもっているけれど、それを伝える術を知らないこともある。いわゆる一方向的な講演スタイルになってしまう。でも、ご本人たちも、それを望んでいないけれど、どうしていいかはわからない本当にもったいないのです。そこをこういうやり方もありますよ、あれもありますよ、というかたちで自分たちも一緒にかかわりながら、コンテンツをつくっていくことが、(わたしたちの仕事です)」

 とおっしゃっていたのが(一部意訳・捕捉・加筆あり)、非常に印象的でした。
 この年度末の「クソ忙しい」なか、ヒアリングにお応え頂き、まことにありがとうございました。

  ▼

 夕方には、栗田佳代子先生、重田先生、大谷さんらと、東京大学フューチャーファカルティプログラムの準備のため、某女子大学をお邪魔させていただきました(ご多用中、まことにありがとうございました。見学撮影をご許可いただきました先生、学部生のみなさまには、この場を借りて感謝いたします)。

TODAI_FUCALTY.png
東大 × 学び × 革新
これから、大学の教壇にたつ、大学院生へ
東京大学 フューチャーファカルティプログラム、始動!

「教えることを教えるプログラム」がスタートします!:大学教員をめざす大学院生向け「東京大学フューチャーファカルティプログラム」今春から開講!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/01/post_1934.html

 この件は、ここで教鞭をとられている、素晴らしい先生の模擬講義風景を撮影させていただき、4月からはじまる、東京大学フューチャーファカルティプログラムに活かそうということで、栗田先生がおすすめになられている案件です。中原は、見学させて頂きました。

 授業は、某学問の基礎を教える内容でした。
 授業冒頭、最初、先生が冒頭で、丁寧に丁寧に、1歩1歩、基礎的概念についてお話しをなさいます。そのあとで、生徒がお隣同志で、「先生ごっこ」をおこない、今、先生が話した内容を、自分の言葉で語り直していきます。

 教えることとは、学ぶこと

 また

 教えることとは、気づくこと

 でもあります。

 わかっているはずのことが、他人に教えるということで、「わかっていなかったこと」に気づく。「曖昧だったこと」が、他人におしえることで、ハイライトしてくる。
 大学初年次の教育とは、ともすれば、大人数を「さばく」必要があるため「一方向的なコミュニケーション」になりがちですが、それを様々な制約がありながらも、少しずつ変えていらっしゃるところが印象的でした。

 ▼

 学びの場を支配する「一方向的なコミュニケーション」

 それ自体を、僕は「悪い」とか「いい」とかいうつもりはありません。伝えるべきことは、伝えなければならないし、学習者は、聞くときは聞かなければならない。それはケースバイケースであり、実践現場の判断に委ねられるべきだと、僕は思います。すべてを双方向に、すべてを一方向に、という二分法的思考をすることは、僕の本意ではありません。

 しかし、世の中はみな多忙で、学ばなければならないことは膨大です。このような状況下にあっては、ともすれば、世の中の多くの物事は「一方通行になりやすいこと」は、まず自覚的でありたいものです。
 そして、「あなたが伝えたと思っている内容」が、ときに「自分の思い通りにならないこと」を認識すること、そして、そのうえで、自分の「伝え方」のあり方を変化させていくことは、とても大切なことである、と思います。
 今日は、そんな話題でした。

 嗚呼、面白いものですね。
 最初の話題は「映画」、途中は「企業」、最後は「大学」
 みんな、つながっているんだよ

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月 5日 11:04


紋切り型で、ステレオタイプの新卒採用(会社説明会)がはらむ矛盾!?:「採用活動」と「学びの科学」の出会い

 経営学習研究所(Management Learning Laboratory)をともに経営しているJ-Centerさんのブログで、昨日、とても嬉しい記事を発見いたしました(心より感謝いたします、ありがとうございます!)。

プレイフルラーニング的会社説明会
http://jqut.blog98.fc2.com/blog-entry-1747.html

 J-Centerさんは、某社の人事責任者。新卒採用の会社説明会において、これまで導管型(一方向的コミュニケーション)で行われていた、同社の会社説明会(IT系)をインタラクティブで、プレイフルなものに革新した、という内容をお書きになられています。非常に興味深いことです。

 敢えて説明会会場を2つにわけ、参加者をA群・B群、二つの群にわけます。その後、それらの方々を集めてダイアローグ。その後、会社側から話題提供をしたり、ギャラリートークをしたりなどします。

 ジグソーメソッドをはじめとする「学びの科学」の知見からインスピレーションを受けた手法が、ここあそこに反映されていることがわかります。

 詳細は、上記のブログをご覧いただけますと幸いです。大変興味深い記事です。

 ▼

 何より印象的だったのは、下記のお言葉です。
 上記ブログより、下記に少し引用させていただきます。

「自ら発信できる人材を」とかいっている企業も会社説明会は / 一方的に会社が話をするというのがいまだに主流です。

「新しい価値を生むイノベーティブな人材を」などといいながら、横並びの解禁日を守って他社の同じような会社説明会をやっている企業もたくさんあるでしょう。

で、その流れを少し変えようということです。

 これは、常日頃から、僕も全く同じことを思っていましたので、とても嬉しく思いました。
 だってね、学生の立場にたって、あるいは、大局的な視点から、少し、考えてみてください。
 僕は採用の研究はしていないので、全くマトをはずしているかもしれませんが、ハタから見ていて、こう見える、ということで敢えてお話します。

  ▼
 
 まず、学生の視点から。

 本当に面白いことを考えている学生、よく考えている学生は、やはり、本気で面白いことを考えている組織、将来のことや今のことをよく考えている組織で働きたい、と願うものなのではないでしょうか?

 本当によく考えている学生は、企業が、新卒採用の会社説明会などで、明示的に発しているメッセージ以上のことを受け取っているものです。暗に発している様々なメタメッセージを、ひそかに解釈しているものです。

 採用活動で、これまで、企業は、どのようなメタメッセージを、学生に発していたでしょうか?

 学習の観点からいいますと、こういうことです。
 既存の企業の新卒採用活動は、これからエントリーしてくる学生に、どのような「ヒドゥン・カリキュラム」を提供していたでしょうか? そこでは、どのように振る舞うことが、学習されていましか?

「紋切り型の新卒採用活動」「ステレオタイプの新卒採用活動」では、紋切り型の、それなりの、ステレオタイプの採用しかできないと思いますが、いかがでしょうか?

  ▼

 つぎに、企業の競争優位と採用の関係をめぐる観点から。

「採用活動」も、競争優位を導くための「人材マネジメント」の重要な要素のひとつであろうとするなら、それに合致した独自性が求められます。

 しかし、僕は門外漢なので、詳細なデータをもっているわけではないのですが、「一見」したところ、企業の新卒採用活動は、非常に紋切り型に見えます。しかし、それは論理矛盾ではないでしょうか。

 本来独自性を持たなければならない「新卒採用活動」が「横並びであるということ」ないしは「外部のベンダーに智慧をまかせた採用を行うということ」は、いかなる組織論的意味をもつのでしょうか?

 だって「他社と同じ種類の新卒採用を行う」ということは、競争優位にはつながらないのではないでしょうか。ということは、そういう組織では、採用は、戦略や競争優位とは、「別」に行われている、ということでしょうか。

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 最後に、ひと言。
 敢えて、いつも持ち出している「再帰性」の話をするなら、採用活動に関しても、こういうことがいえないでしょうか?

 あなたは、主体的な学生が欲しいという
 あなたは、イノベィティブな学生が望ましいという
 あなたは、創造性豊かな学生がいいという

 そういう、あなたは、どうなんだ?

 あなたは、主体的な新卒採用を行っているのか?
 あなたは、イノベィティブな新卒採用を行っているのか?
 あなたは、創造性豊かな新卒採用を行っているのか?

 いつだって、「人にまつわる物事」には、「再帰性」があります。「他人に投げつけたブーメラン」は、必ず、「ブーメランを他者に投げつけた自分のもと」に戻ってくるということです。

 上記、僕は採用の研究をしているわけではないので、全く門外漢で恐縮ですが、いつもそんなことを思っていました。もちろん、会社によっては、独自性があり、かつ、競争優位を導くような、素晴らしいリクルーティングがすでに行われているのだと思います。マトをはずしていたら、本当にごめんなさい。

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 採用活動とは、組織が、外部環境の変化により、「迅速な組織社会化(なるべくはやく即戦力をつくること:Swift Organizational Socialization)」を目指さざるを得なくなればなるほど、とても大切な場面になります。
「どのように育成するか」も大切ですが、「誰を採用するか」も、また大切になり、それらを「トータルに設計すること」が、人材マネジメント上の最大の課題となります。

 採用は、はじめに組織と個人が相対する場所であり、かつ、組織がはじめて個人に対して、「心理的契約」を提示する場所です。そこは、組織の現状、ビジョンを「伝え」、参入希望者に対して、「理解」を促すための場であるはずです。本当に、非常に、非常に、非常に、重要な場所なのです。

 しかし、その場所は、これまであまり、「サイエンス」の力が導入されていたとは、少なくとも僕には思えません(実際に、他の分野と比べて、採用の研究は、とても少ないのです)。

 そこは、「社会人経験者 / 人材ビジネス経験者の経験論」「これまでの雇用慣行」が支配する領域であるように、僕には思えます。そんななかで、学生は右往左往しているように、僕には見えます。

 今後、新卒採用活動、ないしは、会社説明会のような場に関しても、「学びの科学」「経営学習論」の知見が、さらに導入されていくことを、心より願っていますし、素敵な「組織と個人」の「出会い」があることを祈っています。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月 4日 06:50


研修開発をするときに、何に、どの程度時間をかけるのか?:「経営的実践」「政治的実践」「教育的実践」としての企業研修

 この一ヶ月くらい、例のごとく、会社をお邪魔したりして、多くの実務家(ビジネスパーソン)の方々にお時間をいただき、ヒアリングを行わせて頂いております。

 今現在、行っているのは二種類の研究のヒアリングなのですが、そのうちの研究のひとつに「企業内において研修やワークショップの実務を担当なさっている方々の実践知を明らかにするプロジェクト」というのがあります(もうひとつの研究は、マネジャーを対象にしたものです)。

 そこで、これまでいろいろな場面でお会いし、信頼でき、力量ある人材開発担当者の方々に、このク○忙しい中(本当にごめんなさい)、貴重なお時間をいただき、ヒアリングをさせていただいております。この場を借りて感謝いたします。本当にありがとうございます。

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 以前にも申し上げましたが、「企業で研修・ワークショップを実践すること」といいますのは、「子どもを対象にした学びの場をつくること」とは少し異なりますし、また、「異なる企業につとめている人が、一時的に、組織外に集まり学ぶ場のつくりかた」とは、根本的に異なります。「根本的に異なる」といいましょうか、配慮するべき部分が異なるか、あるいは、多いのです。

 「企業で研修・ワークショップを実践すること」というのは、何よりも「経営的実践」でもあり、かつ、組織内のパワーゲームに配慮して行われる「政治的実践」でもあり、かつ、働く個人を対象にした「教育実践」でもあるのです。
「経営的実践」であり、「政治的実践」であり、かつ、「教育実践」であるという「3重のねじれ領域」こそが、ここで何かを為すときに最大限考慮しなければならないことです。
 
特に「研修は研修、仕事は仕事」という風な二分法にならない研修、すなわち「現場と連携した学習効果の高い研修」をめざせばめざすほど、現在の人材開発のトレンドをめざそうとすればするほど、その傾向は大きくなります。
 逆に「こうしたことに時間がかからない」=「社内調整が楽である」ということは、研修機会が「現場の関心」からは切れているか、ないしは、組織の意思決定が迅速であるか(軽い組織)のどちらかでしょう。

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 上記のことを少し感じてみるために、例えば、皆さん、今、仮にエクササイズをしてみましょう。

 今、仮にあなたが、自分の会社内において、研修やワークショップを実践するとします。「現場とは独立した研修」ではなく、「現場のニーズや問題関心にねざした研修」あるいは「研修実施後、現場で実践される研修やワークショップ」を、今、開発しているとします。

 そして、そのために必要な時間を、仮に100とします。「事前」準備から、「研修当日の実施」、「事後」のフォローアップまですべてにかける時間を、仮に「100」と表現しましょう。

 そのとき、皆さんでしたら、何に、どんな風に時間をかけますか?
 丸い円を描いて、研修開発の要素にわって、「円グラフ」を書いてみてください。皆さんは、どんな円グラフがかけましたか? どんな風にスリットをいれて、どんな活動を描かれましたか? あんまり細かいことを考えないでください、ざっくりとね(笑)。

Doc-13_02_03 7_52-page-1.jpg

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 このエクササイズに、唯一絶対の「答え」はありません。しかし、「ある力量ある実務家」のご呈示になった図は、下記に類するものでした(一部加筆・捕捉してあります。お時間をいただき、ありがとうございました)。

kenshu_jissen2013.png

 いかがでしょうか。
 研修当日の教育技術よりも、事前準備の組織的・政治的交渉にいかに時間がかけられているか、おわかりいただけると思います。先にも述べ真ましたとおり「現場と連携した研修」を行おうとすればするほど、この傾向は強くなることが予想されます。
 そして、そこにこそ、多くの「実践知」が駆動していることは、容易に想像できることです。
 そうした経営的実践、政治的実践にかかわる実践知を、わたしたちは、十分にすくいとってきたのだろうか、というのが、僕のニッチな問題感心です。

 もちろん、これはひとつの「事例」であり、くどいようですが、このワークに「正解」はありません。また、この議論に、どの程度一般性があるかは、ここでは問いません。でも、僕がいいたいことは、おおよそ、そういうことです。

 しかし、既存の言説では、そこのところがかなり「曖昧」でした。それは「教育実践」としてのテクネー(技法)は紹介していたかもしれないのですが、前者2つにおける配慮を、それほど十分な配慮を行ってはいませんでした。
 特に、現在の人材開発のトレンドである「研修機会の現場との連携」「現場の問題に根ざした研修」を実践する際、既存の言説では、不足であることが明らかなのではないでしょうか。
 そして、それに関する智慧は、大学の研究室でいくら教育や学習研究の理論を読んでも、決して生まれてこないことである、と僕は思っています。

 書をもって、街にでよう!

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 というわけで・・・「企業内において研修やワークショップの実務を担当なさっている方々」100名(目標値!?)にお話を伺い、そこでの「実践知」を明らかにするという、ニッチで、壮大なことに取り組んでいます。今回は、いつものヒアリングとやや趣を異にしますので、おひとりにつき、2時間程度お時間をいただき、じっくりとふだんの活動の話を伺っています。
 たぶん、僕以外には、絶対に、誰もやらないと思います。こんなニッチで、時間がかかり、かつ、ドロドロトーク満載なこと。
 今、時間を見つけてヒアリングにでかけていますが、ひたすら、毎朝頃にフィールドノーツをつけ、概念化を行っています。

 ひーこらこーこら、えんやこら、えんやこら。

 この結果は、「研修開発の実践知」本として、秋頃!?には出版できると思っています。。。たぶん。。。希望としては。。。願わくば。。。もしかしたら、冬!?

 もっと現場へ
 アクチュアルで生々しい問い

 これが正月にかかげた、僕の、今年のテーマです。

 そして人生は続く 

投稿者 jun : 2013年2月 3日 08:09


大学教育をめぐる「共犯関係」と「共創関係」

 かなり前のことになりますが、あるところで、ビジネスパーソンの方々と、大学教育について議論になりました。
 その方々が「大学教員の教え方はひどかった」「大学は全くなってない」とおっしゃるので、まずは、お話をうかがっていたのです。話は非常に面白く、また、大変盛り上がりました。

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 上記の方のように、自分が大学教育を受けた際のことを懐古し、「大学教員の教え方はひどかった」とおっしゃる方々は多々いらっしゃいます。これまで何度、ビジネスパーソンが集まるシンポジウムやフォーラムで、この手のクレーム(!?)をふっかけられたことか(笑)。
 その方が、いわゆる「大学生」を謳歌していたころ、僕は、まだ「小学生」なんですけどねぇ。その方が、やれジュリアナやら、やれドンペリだと興じている、そのとき、僕は「3桁のたし算」を習っていたのですけれどもね(笑)。その僕に、「大学のクレーム」がくるのですよね・・・おかしいですねぇ(笑)。
 年代や大学によっても、状況は変わるので、一概にはいえませんが、そうですね、そういうお話を伺っていると、確かに、そういう「牧歌的な時代」もあったのかもしれないな、なんて想像します。「真偽」のほどは、僕は知りませんし、知りたくもありません。くどいようですが、僕は、当時、なんせ「小学生」なんだから(笑)。

 まぁ、僕自身も、「どこの大学で?」とは口が裂けてもいいませんけれども(笑)、「惨い授業」「凄惨な講義」を受けたことはゼロではありません。真偽のほどはよく知らないけれど、そのお気持ちは「痛い」ほどよくわかります。確かに、そういうものもあったようにも思います。

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 ただしね、僕自身の胸に手をあてて、昔を懐古してみると、同時に思うこともあるのです。それだけの認識では、いわゆる「その時代の大学における教育・学習」を語るには「片手落ち」であると言わざるをえないんじゃないかな、と。そういう話を伺う旅に、ときどき、自分の過去のことを考えて、心が痛むときがあるのです。

 大学時代を懐古し、「当時は、大学の授業は惨かった」と口にするとき、それらの方々には、ぜひ、少なくとも一度は、思い起こして欲しいな、とも思うのです。そのうえで、大学時代を懐古してほしいとも思うのです。

 僕が「問いかけたい」のは、こういうことです。

 今から数十年前、大学の門をはじめてくぐった皆さんは「大学で、自ら意欲的に学ぼうとしていましたか?」。まさか「大学に入れば、あとは勉強しなくていい」と思っていませんでしたか?

 自宅でもこういう話をしていませんでしたか?
「大学はレジャーランド(レジャーランドって死語ですね!)みたいなものだから」。
「一にサークル、二にバイト、三四がなくて、五にバイト」
「大学に入りさえすれば、おれの人生は安泰!」

「授業にきたら、どのあたりに腰をかけていましたか?」。
 いえいえ、そもそも「授業にきてましたか?」
 いやいや、そもそも「大学には来てましたか?」

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 何が言いたいかは、明確です。
「きちんと教えていないこと」と「自ら学ぼうとしないこと」は、「共犯関係」の中にあったのではないでしょうか、ということです。
 学ぼうと思えば、もっと学べる。しかし、そうはしなかった。
 と、同時に、教えようと思えばもっと教えられる。しかし、そうはしなった。
 なぜなら、両者の思惑が一致していたから。
 両者が「共犯関係」にあったから・・・

 すなわち「自ら学ぼうとする学生がいないから、きちんと教えなくてもよい」「きちんと教えないから、学ばなくてもよい」という「自己に都合のよいロジック」をそれぞれ協働(!?)してつくりだし、「きちんと教えること - しっかり学ぶこと」には決して向かわない「Win-Winの共犯関係」をつくりだしていたのではないでしょうか。

 もちろん「教えるもの」「学ぶもの」のあいだに「非対称な権力」が存在し、かつ、大学には「教育の質保証」と「学位発行」の責任がある以上、前者が圧倒的にイニシアチブをもって、この問題を解決しなければならないことは承知しつつ、敢えて、述べています。
 また学問分野によっても、この状況は違うのだと思います。僕の話は、どうしても、僕の経験に偏る傾向があります。もしあてはまらないことがあったとしたら、どうかお許し下さい。

 しかし、おそらく「教える現場 - 学ぶ現場」で発動していたリアリティは、「共犯関係」の中から構築されていたのではないか、というのが僕の妄想です。しかも、そこにもうひとつのエージェントが、さらなるシナジーを生み出した。それは「大学教育の出口たる企業」です。

「ごちゃごちゃいわずに、くだらん色やら、しょーもない智慧はつけんでいいから、白紙で入社してこい」

 企業の「白紙信仰」は、今よりずっと強固であったと想像します。
 「悪意」はそれほどありませんでした。
 なぜなら、企業経営には、今よりもっと余裕があったのです。

 イケイケドンドン、つくれば、儲かる。
 職場に送り出しさえすれば、何もしなくても、人が育ち、働く。それを「OJT」という名前で呼べばいい。
 
 それは歴史的にみれば、戦後、ごくごく短期間生まれた「つかの間の幸福な時間」でした。
 そんな幸福がずっと続くわけはないのに、「永久に続く」とみんなが思っていた。

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 最近、いろんなところで告白していますが、僕は、大学時代の一時期、本当に「怠惰な学生」でした。少なくとも僕に関しては、大学時代の一時期、「学ぶ意欲」も「学ぶ姿勢」も、その「かけら」もありませんでした。僕は、完全に「学ぶこと」から逃走していました。
 その僕が、大学におり、大学教育を記事にしているのだから、世の中、ちゃんちゃらおかしいものです。本当にごめん。

 でもね、当時の僕は、しかし、そのくせ、文句ばかり言っていました。

「大学はきちんと教えていない」
「大学の授業は全くなってない」

 上記の「問いかけ」は、「自分への懺悔」なのかもしれません。
 
 嗚呼、でも、同時に思うのです。
 後世の世代は、どうか、こういう「紋切り型の大学教育の言説」に巻き込まれないで下さい。そういう「月並みなストーリー」を生きないで下さい。

 本当に、大学時代ほど、「自由に、大胆に、リスキーに学べる時間」、「何にでも挑戦できる時間」は、その後の人生では、なかなか訪れないのです。
 そういう時間をふたたび過ごすことに「憧れ」、しかし、「ため息」をつくことが、世の中の大人に、どんなに多いことか。

 「あのとき、もう少し学んでおけばよかった」と。
 「あのとき、もっと、チャレンジするんだった」と。

 たぶん、どんなに言葉を尽くしたとしても、今大学生の皆さんには、そのことの「真意」は伝わらないのかもしれないのだけれども、どうしても、敢えて言いたくなるのです。
 「大人は、みんな同じことを言いやがって!」と思うかもしれない。でもね、それは「本当のこと」だからだよ。

 ごめんね、オッサン、はいってて(笑)。
 すまんね、お節介で(笑)

  ▼

 今日の話は、決して、「教える側」「学ぶ側」のどちらか一方に、「教えないこと - 学ばないこと」の責任を転嫁したいわけではありません。
 先に述べましたように、前者には圧倒的な権力と責任が存在する以上、初動のイニシャチブは、まずは前者が行使しなければならない、と僕は思います。
 また、ここで描かれた「牧歌的な状況」は、決して、現在の大学の置かれている状況とは異なります。かつては、それでも「何とかなった」。しかし、就職の状況は変わり、学生も変わり、大学も変わりつつあります。

 今日の話題の根幹をなす「関係論的認識」とは、複数間の主体があるとき、それぞれ相手に「為すこと」「働きかけること」によって、関係を構成する主体に、それぞれ変化が生じることをいいます。
 そもそも、歴史的には、大学は、「教えようとする人 - 専門家を育てたいと思う人」と「学びたいと願う人々」のギルドでした。それは、そもそも、その起源において、「教えたい人」と「学びたい人」がつくりあげる「コミュニティ」だったのです。

 今、大学教育も、企業も「待ったなし」です。余裕も、残された時間的猶予も、そう多いわけではありません。
 そういう時代にあっては、「大学教育のクオリティを落とすネガティブな共犯関係」ではなく、「大学教育を創造するポジティブな共創関係」が生まれることが、今、期待されているのではないかと思います。

 嗚呼、今週は走りきったよ。
 もう休んでいいかい?
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年2月 2日 07:00


「教えられない指導役」「見せる背中のない指導役」「現場感覚のない指導役」という矛盾!?:「マネジャーがゴールではない世界」と「若手への知識技能伝承」

 定年延長の動き、それにともなって導入されている役職定年制の動きが広まるにつれ、「マネジャーになることが、名実ともに、ゴール」ではない」世界が生まれつつあります。

 かつて中央労働委員会(2007)が行った調査によりますと、45.7%の企業で、すでにこの制度が導入され、運営されているのだといいます。
 その運用の難しさは、至る所で指摘されており、すでに耳目を集めておりますので、ここでは再掲しません。

 ともかく、定年数年前に、マネジャーとして「一線を退いた」人が、「部下なしのマネジャー職」ないしは「部下なしの実務担当者」として働く世界が、もはや名実ともに「日常の風景」になりつつあります。多くのビジネスパーソンが、そのことを「肌感覚」で感じておられるのではないでしょうか。

 そこで多くの場合、元マネジャーに期待されているのは、「後輩育成」や「技能伝承」など、組織の中での知識・技能を、新人・若手に伝える役割です。すなわち「指導役」

 もちろん、指導役ではなく「単独プレーヤー」に戻ることもありますが、その場合であっても、新人・若手がつけられ、指導をゆだねられることが、まま、あります。
 ちょうど、「踊る大捜査線」のいかりや長介演じる「和久平八郎」のようなイメージですかね。

「正しい事がしたければ偉くなれ」
「俺たち所轄はなあ、あんた達が、大理石の階段昇っている時、地ベタ、這いずり回ってるんだ!」
「正義なんて言葉は口にするな・・心に秘めておけ」

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 しかし「指導役」と一口にいいますが、どんな人でも「指導役」になれるわけではありません。みんなみんなが「和久さん」になれるわけではないのです。
 そこには役割転換の難しさ、モティベーション維持の難しさが存在し、かつ、この制度が抱える「深い闇」が存在することは、先に述べたとおりです。

 給与が下がる可能性が高いこと、明確な部下もいなくなくなること、そして何より、マネジャーだった人がプレーヤに戻る、という急激な役割変化が、元マネジャーを襲います。それらのことに、心理的葛藤を憶えたり、あるいは、学習棄却できずに適応できなかったり、あるいは、モティベーションを失い腐ってしまうマネジャーは少ないわけではありません。
 その影響は個人だけではなく、職場全体におよぶことも事実です。最悪の場合には、職場全体のモティベーション・生産性が下がったりするケースがあることも「否めぬ事実」です。

 しかし、リーマンショック以降、雇用不安が深刻になり、なかなか「新たな働き口」を得ることも難しくなっておりますので、そう「腐って」もいられなくなる、というのが「大方の見方」であるような気がします。
 最近は、「再雇用をする人材」の選別も行われるようになりつつありますので、「プレーヤー」に戻ろうと思っても、「不適格者」にはそのポジションが与えられなくなる可能性も「ゼロ」ではありません。

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 ふたたび、プレーヤーへ
 そして後輩指導へ、知識技能伝承へ

 こうした場合、僕個人としては、最低でも、それを乗り越えるためには、下記のような5つの条件が必要ではないか、と思います。

 1)前向きに学習 - 学習棄却 - 再学習を行うことのできる人
 2)現場に根ざした知識・技能・感覚を持っていること
 3)教える技術・諭す技術
 4)職場に対する心配り
 5)新しいことを探究するマインド

 この5つです。下記に、これらについてご説明しましょう。

 まず第一、1)「前向きに学習 - 学習棄却 - 再学習を行うことのできる人」としては、定年前の急激な役割の変化を、まずは受け入れ、必要なことを学び直すことです。
 特に「これまで」の一部を棄却し、その中で役立つ部分を後世に伝えなければ成りません。そのために必要な第一の資質は、まず、その立場にたつ人こそが「学ぶこと / 学び直すこと / 学び捨てることのできる人」である、ということではないか、と思います。

 次に、第二のポイント「現場に根ざした知識・技能・感覚」をもっていること。
 この場合、後世につたえるべき知識・技能は、「現場に根ざしたもの」のはずです。しかし、シニア世代は、マネジャーになってからというもの、現場を離れて数十年たっている場合もままあります。そのプロセスの中で、現場の感覚が失われていることもないわけではありません。
 よく「プレイングマネジャー」と揶揄されますが、今の時代には、マネジャーになったとしても「プレーヤーであること」を放棄することは、あまりよろしくない結果をのちのち招くことになるのかもしれません。
「背中を見せよう」にも、「見せる背中がない」のなら、指導はできません。

 第三に必要なのは「教える技術・諭す技術」です。これがないことにはお話しになりません。「教えられない指導役」「諭すことができない指導役」は、形容矛盾であり、若い世代から見た場合、「迷惑」でしかありません。

「意識が低く、かつ、教えられない元管理職」を「指導役」として割り当てられ、絶望し、去っていくのが「できる若手」「これからの若手」であったとしたら、もう目も当てられません。
 しかし、そういう少なくない事例を、僕は、よく若い世代からききます。それが、どの程度、一般性のあることかどうかはわかりません。が、割り当てられているのは「教えることのできる指導役」ですか?

 第四に、このような役割変化の影響は、先に述べましたように、「個人の枠」を容易に超え、職場に広がっていきます。
 不適応をおこすシニアが増えていく場合、職場全体の生産性やモティベーションダウンにつながるこことも、容易に想像できます。また、「あれでもやっていけるんだ」という怠惰な指導役を職場メンバーが目にしたとき、職場自体が「ネガティブな学習」をし、やがて職場の規範が崩壊します。
 特に必要なことは、自分のもっている「影響力」「権限」に対する周囲の反応に、敏感に反応し、謙虚に振る舞えることです。さらには「職場に対する心配りができること」が、大切かと思います。

 最後に、5)「新しいことを探究するマインド」です。実は指導役として若手を育成するというときに、実際には、知識を「伝達」するだけではすまないのです。
 つまり、「元マネジャーの有する古い知識」を、あたかもパイプで流し込むように「若手」にそそぎこむことだけでは、たいていの場合は、指導役の仕事はすまないということのほうが多いのではないでしょうか。
 なぜなら、その方が、プレイヤーを離れていたその間、「外部環境だって、相当に変化」しているのです。つまり、過去の成功体験や、過去の経験が、直接、転移できる領域は、そもそも限られていることが予想されます。
 「外部環境の変化」をまっすぐに受け止め、若手とともに「新たなことを探究していく姿」「ともに学んでいけるマインド」が必要なのです。

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 ともかく、このような状況は、数年ないしは10年くらいは続くものと思われます。まさに「過渡期」に生まれている現象なのかもしれません。

 僕個人は、必ずしも、こうした状況が「望ましい」とは、様々な理由から思っていません。
 が、人事・組織運営には「惰性(イナーシア)」が働き、事態はすぐには改善しません。現制度を維持しつつ、何とか変化をなしていくためには、それなりの時間がかかります。

 中には素晴らしい指導役、若手も惚れ惚れするような技能や知識や経験をつたえてくれる年配者も多数おられます。そのような方が一人でも増えてくれることを願いますし、経営・人事の観点からは、そういう役割転換を促進できる人事制度のあり方、人材マネジメントのあり方を心がける必要があります。

 いずれにしても、「現場の感覚をもつ指導役」「教えられる指導役」「見せる背中のある指導役」が、今、求められているように思います。

投稿者 jun : 2013年2月 1日 07:29