今年最後のブログ:北の実家にて、TAKUZOとスキーに出かける!

 2012年、最後の日、12月31日、大晦日です。
 皆さんは、いかがお過ごしですか?
 我が家は、今年も、またまた、1週間の北海道(僕の実家)・奈良(カミサンの実家)のツアー!?(帰省)の真っ最中です。北へ南へ、1000キロ(!?)。

 今、前半戦(!?)。
 北海道旭川、僕の実家で、年末を過ごしています。

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 北海道は、例年以上の寒さです。雪も多く、下記のような様子。
 TAKUZOが、下記の写真でつかんでいるのは、「公園のブランコの上の部分」ですね(笑)。なんで、身長110センチのTAKUZOが「ブランコの上」をつかめるかは、予想通りです。今、たぶん積雪は1.5メートルくらいあるのかも(僕の実家は田舎ですので・・・)。

IMG_9684 のコピー.jpg

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 今日は、自宅から15分くらいの「本格的なスキー場」に出かけ、TAKUZOはスキーに挑戦。「途中でイヤになって、ママーと、泣き言をぬかすかな」と思っていましたが、なんとなんと、意外や意外、スキーの面白さにハマったようです。

 スキーってのは、はじめた頃が、本当に辛いんですよね。「コケるわ、寒いわ、痛いわ」で、「まー、まー、ロクなことがない(泣)」。

 僕も、幼稚園の頃、親に、無理矢理スキー場に連れて行かれて、正直、「スキーを発明した人を恨んでいました」。我ながら、発想がいっちゃってます。誰なんだろうね?、スキー発明した人。

「てめー、しょーもないもん、発明するんじゃねーよ。コケるわ、寒いわ、痛いわ。おかげで、ふんだり、けったりじゃねーか」と(笑)。

IMG_9780.JPG

 TAKUZOも、さんざんコケました。
 でも、意外や意外、へこたれなかった。

 TAKUZO曰く

「ソリは80点くらい好き。スキーは1万点くらい好き」

 ということですので(笑)、今シーズン中に、もう一度くらい、連れて行こうと思っています。これは意外だな。

IMG_9798.JPG

(小生も久しぶりに滑りましたが、ウェーデルン3ターン目くらいで、「小回りをこれ以上やると、腰がはずれて、360度回っちゃうかも・・・」と突然怖くなり、大回りですいすい滑ることにしました。恐ろしく体が動きません。やばいね、このままじゃ・・・泣)

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 明日の12月31日まで北海道で過ごします。
 1月1日には、カミサンの実家である関西に出かけます。

 皆さん、それでは、よいお年を!
 そして人生は続く!

投稿者 jun : 2012年12月31日 00:00


【満員御礼・募集停止しました】「身体という"メディア",学習装置としての"舞台" 即興劇・マイムを体験しつつ,学習理論を探究する」

(↓ 下記満員御礼、すでに募集を停止いたしました : 2013/01/08 Update)

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2012年度 冬の合宿研究会のご案内(一般募集開始)
テーマ「身体という"メディア",学習装置としての"舞台"
即興劇・マイムを体験しつつ,学習理論を探究する」
日時:2013年02月16日(土)~17日(日)
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 近年,初等中等教育においてはコミュニケーション能力の開発の
文脈において,高等教育・企業教育の分野においては,イノベーシ
ョン創発などの文脈において,「身体を用いた学習機会の可能性」
が注目されている.

 具体的にはインプロ(即興劇)やマイムといった身体活動を通し
て,他者とコミュニケーションを営んだり,日常に関するリフレク
ションを深めるといったことがめざされている.新商品の開発や,
新たなデザインのあり方を模索するために,それらの身体活動を利
用している事例なども,枚挙に暇がない.

 私たちにとって「身体」は, もっとも「身近」にありながら,
しかし,それでいて, 改めて省みることのない,もっとも「縁
遠い」メディアである.それはソーシャルメディア等の情報メディ
アが高度に発達し,「身体性」が失われはじめている「今」だか
らこそ注目され,かつ,そこには,新たな学びの可能性があると
考えられている.私たちは,「メディアとしての身体」を通して,
他者と,どのようなコミュニケーションを営み,何を学び,何を
内省し,何を生み出すことができるのか.

 冬合宿では,インプロの専門家として東京学芸大学准教授 高尾
隆氏,マイムの専門家として藤倉健雄氏(ウィスコンシン大学・
演劇教育学Ph.D)をお招きし彼らのファシリテーションのもと,
参加者全員がインプロを行ったり,マイムに挑戦する.その上で,
近年注目されている学習理論 - ヴィゴツキー心理学の影響を受け
た「舞台」を用いた学習実践に関する解説を岡部大介氏(東京都市
大学)からいただきます.

 本プログラムは,体験と理論を架橋しつつ,「身体という"メデ
ィア",学習装置としての"舞台"」の可能性について探究を行う
2日間をめざします.どなたでもご応募できますので、ふるってご応募
下さい.

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■ファシリテータ
○高尾 隆先生
東京学芸大学 芸術・スポーツ科学系音楽・演劇講座演劇分野 准教授.
研究テーマ:演劇教育・インプロ.

○藤倉健雄先生
Ph.D (ウィスコンシン大学・教育演劇学博士).アメリカマイムの巨匠,
トニー・モンタナロ氏に長年師事し,米国内の様々な大学にてマイム
や教育演劇のクラスを指導する.マイム歴36 年.アメリカ教育演劇
協会・最優秀論文賞受賞.カンジヤマ・マイム主宰.

○岡部大介先生
東京都市大学環境情報学部情報メディア学科准教授.
研究テーマ:状況的学習論・サブカルチャー

○中原 淳
東京大学 大学総合教育研究センター 准教授.
研究テーマ:経営学習論(Management Learning)

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■日時
 2013年02月16日(土) ~ 17日(日)

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■会場
 株式会社内田洋行 東京ユビキタス協創広場 CANVAS
 http://www.uchida.co.jp/company/showroom/canvas.html
 東京メトロ 日比谷線「八丁堀駅」
 東京メトロ 日比谷線・東西線「茅場町駅」

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■対象
 教育実践者,研究者,学生,その他
 参加者は,下記の参加条件をすべて満たす方とします.

1.2日間で実施されるインプロ,マイムといった身体活動にすべて
参加できること.
2.1に参加した上で,参加者全体 / グループでの議論・対話に参
加できること.
3.本ワークショップの様子は,予告・許諾なく,写真・ビデオ撮影
を行い,企画者ないしは本学会の関与するWeb,ニューズレターの著
作物・刊行物に利用します.メディアによる取材に対しても,許諾な
く提供することがあります.

※ なお12月25日(火)までは学会員を優先して募集を行いましたが、
まだ残席に余裕がありますので、一般の方から参加者を募集します.
学会員の方は,お早めにお申し込み下さい.

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■参加費 12,000 円(予定)
実施費用・資料代・昼食2回・夕食・飲み物代等を含みます.
プログラム準備の都合上,02月01日(金)以降にはキャンセル
できません.全額参加費を申し受けます.
プログラムの都合上,人数を制限せざるを得ず,第一報・第二報とは
参加費がかわっております.

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■準備等
当日はジャージや運動靴などの動きやすい服装でお越し下さい.
タオル,飲料等も各自ご準備下さい.
運動を行うことによる保険等は各自で加入下さい.

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■宿泊
宿泊施設を各自でご手配お願いします.宿泊等のご案内・ご紹介・
斡旋等はいたしませんので,各自ご了承下さい.1日目の終了時間
が比較的遅いので,東京駅近辺の宿泊施設の便がよいかと思います.

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■お申し込み方法
上記の内容・参加申し込みの条件をよくお読みになった上で,
下記のWeb ページから必要条項を記入し,学会員の方は12 月
25 日(火)までにお申し込み下さい.申し込みの時点で,参加
条件は満たしていると判断します.申し込み多数の場合は,早くに
応募を締め切る可能性がございますので,お早くお申し込み下さい.

1月05日(土)には,再度,すべての参加可能な方にこちらから
ご連絡差し上げます.

申し込みページはこちら
http://ow.ly/gqy5o

■スケジュール
【1日目】02月16日(土)10:00~18:00(受付09:30~)
10:00 - 10:30 Overview(中原 淳)
10:30 - 12:30 Inpro Session : (高尾 隆)
12:30 - 12:45 Comment and Driving Question 1(岡部大介)
12:45 - 13:45 Networking Lunch
13:45 - 15:45 Mime Session : (藤倉健雄)
15:45 - 16:00 Comment and Driving Question 1(岡部大介)
16:00 - 17:00 Networking Cafe
17:00 - 18:00 Lecture of Learning Theory and Reflection
         (岡部大介・中原 淳)
18:00 - 19:30 Dialogue! Dialogue! Dialogue!(中原 淳)
19:30 Party

【2日目】02月17日(日)09:00~15:30(受付08:45~)
09:00 - 09:10 Introduction(中原 淳)
09:10 - 11:10 Parallel Session(藤倉健雄・高尾 隆)
11:10 - 11:20 Break
11:20 - 13:20 Parallel Session(高尾 隆・藤倉健雄)
13:20 - 14:20 Lunch
14:20 - 15:30 Dialogue and Reflection(中原 淳・岡部大介)

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投稿者 jun : 2012年12月30日 08:01


3N(長い・眠たい・中身がない)の研修を超えて:90分、講演時間をもらったら、90分話してはいけない!?

 研修は「3N」ですよね。
 長い(N)、眠たい(N)、中身がない(N)

 先日、ある現場の方が、こう漏らしました。

 そのときは、自分が、いわゆる研修をした「後」だっただけに、ちょっと「なぬ、オラのことか?」と「ドキっ」としましたが、話の前後を総合すると、そういう意図ではありませんでしたので少しホッとしつつ(笑)、「どうして長く、眠たく、中身がなくなるのかなぁ・・・」と考えていました。

 仕事柄、これまでたくさんの「研修」を見てきましたが(研修のレビューとか観察とか)、たぶん、僕が観察させていただいているものには、そういうものはあまりなく、いわゆる「3N」の「それ」を、僕は、あまり経験がないのだな、と思いました。

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「3つめのN」、つまり「中身がない」ってことは、こりゃ、対応できないこともないけれど、本質的には、いろいろ考えなくてはならないことが多すぎるのですが、最初2つの「N」は、いわゆる「小手先のテクニック」で何とか解決することも不可能ではありません(本質的な解決法ではありません)。

「いまさら教授設計のイロハを語ってんじゃねー」とツッコミを受けそうなことを覚悟して、ひとつだけプチテクニックをご披露すると(時間が全くありません)、こんなやり方があります。

 たとえば、90分の時間をもらって、あなたが話をするとします。
 その場合は、「90分を話そうと思わないこと」です(笑)

「は?」・・・何いってんの?と思われるかもしれませんが、「90分を話してはいけません」。むしろ「30分1ユニットのかたまりを3回話すんだな」と思って、話の内容を組み立てます。
 簡単にいうと、「90分かけて話さなければならない内容」を3つに小さくブレークダウンしてわけて話す、ということですね。

 で、そのうえで、30分1ユニットのうち、最後の5分ー10分は、学習者に「問いかけ」たり、学習者に「作業」をしてもらったり、学習者に「話し合ってもらったり」、「学習者 - 教授者と対話」してみたりしてみてください。つまり、正味1つのユニットで話せるのは、正味20分から25分くらいということになります。

「えっ、そんなに少ないの、それじゃ、伝えたいことが伝わりきらないじゃん」

 とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんが、たぶん、「仕事をしながら学ぶ人」が本当に集中していられるのは、経験上、そんな感じだと思います(夜になるともっと短いです)。

 研修は、学校教育でも、大学でもありませんので、こうした時間の短さ「学習者の所与の条件」として受け入れざるをえないのかな、と思います。
 むしろ、その時間で話せる内容になるまで、話を焦点化する必要がありますね。でもね・・・経験上、「本当に必要なこと」は「20分」で話せると思います、たぶんね、責任持たないけど。

 以上、プチテクニックでした。
 これは「万能」なものではないですし、いわゆる古典的理論そのものですし、他にもいろいろあると思います。ただ、これは、僕がいつも社会人の方にお話しするときに心がけていることのひとつです。たぶん、これだけで、同じ90分でも「長い」「眠たい」と感じる率は、グッと下がるはずではないか、と思います。

 もちろん本質的には、もうひとつの「N」である「中身」がなければ、「長い」「眠たい」は防止できないと思いますが、しかし、ちょっとしたTipsで、「長いなー」「眠たいなー」と「感じること」は防止できるのかもしれません。
 くどいようですが、最後は「中身」です。その精選の話は、今日のように時間に追われてはかけませんので、また書きます。

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 先日、ある研修の冒頭で、「人件費含めた本日の研修コストは450万円!」というスライドを見ました(笑)。
 アタリマエダのクラッカーですが、大人が集まり、何かを学ぶことには、コストがかかります。たとえばね、「全国から100名を集めて・・・研修」ってことになりますと、人件費を含めれば、ハンパではないお金がかかります。

 お金がかかるから、というわけではないのですが、せっかく現場を離れて、時間を設けるならば、願わくば、意義のある時間にしたいものですね。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2012年12月28日 08:32


「方法知を伝えること」を考える : 世阿弥「風姿花伝」を読みながら妄想していること

 最近、寝る前、横になりながら、世阿弥の「風姿花伝」を夜な夜な読んでいます。

 小生、それほど、古典・古文に強くないので、やや難解な古語に出会うと、すぐにウトウト眠くなってしまい、さっぱり読書が進まないのがタマに傷です(笑)。ただですね、そのせいで、一行一行かむように読むことができるともいえますね。1日1膳ならぬ、1日1行。いや、もうちょっと読めるかな? ま、これはこれで、よしとしましょう。

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 「風姿花伝」で、個人的に特に興味深いのは、申楽者の発達段階をといた「年来稽古條々(ねんらいけいこのじょうじょう)」の章、能を演じることに関して具体的な方法を解いた「問答條々(もんどうのじょうじょう)」、そして「花」とは何かを解いた「別紙口伝(べっしくでん)」でしょうか。

 まず「年来稽古條々」。
 こちらをを読んでおりますと、小生などは、どきっとしてしまいますね。小生、ちょうど今が、いわゆる「人生の正午」を過ぎて、下降の頃なのだそうです(泣)。
 
 曰く
「このころは、過ぎし方をも覚え、また行く先の手立てをも覚る自分なり」

 おいおい、「まだやりたいことはたくさんあるのに、もう下降かよ」といいたくなるのですが、そこはそういうもんなんでしょう(泣)。でも、数百年のあいだ封印されてきた秘事口伝を読んでおりますと、そういうつっこみも「おこがましいな」と思うようになってきます。そして、素直に「行く先の手立て」を考えなあかんな、という気になってくるから不思議なものです。

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 「問答條々」は、ひと言でいえば「能にかんするQ&Aコーナー、世阿弥先生に聞いてみよう!」でしょうか。ここは「誰もが悩む問い」と「世阿弥の答え」がセットになって進行していくことが特徴です。

 例えば、

「あのさー、当日、開演前の客席みたら、その日の能の成功が占えるって聞いたんだけど、マジ? ねーねーねー、どやってやんのー」

 というノービスちゃんの問いに対して、世阿弥先生はこう答えます。

「先づ、その日の庭を見るに、今日は、能、よく出で来べき、あしく出で来べき、瑞相あるべし」
(そうだなー、会場みちゃったら、今日の能が成功するかどうかなんて、一発でわかっちゃうよ。そういう予兆あるもん)

 で、このあと、具体的にどのように「観客」をのせていくかを綴っていきます。

「会場がざわざわしているのなら、とにかく観客が静まるのをまつのだ。観客はいつはじまるかはじまるかと思って、だんだんひとつの心になってくる。意識がどんどん集中してくる。そのときが、チャンス。一声をあげるのは、そのときなのだよ」

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 ここで世阿弥が解いているのは、要するに方法知(Knowing how)です。ひと言でいえば「ハウツー」。そして、ここで僕は、「方法知を伝えること」に関して、少し、ぐだぐだと考えてしまいます。

 一般に、「ハウツー」というものは「低級なもの」だと考えられています。俗によく言うでしょ。

「何、ハウツーに、頼ってんだよ?」
「すぐに、方法に飛びつくんじゃない」
「これって、いわゆるハウツーですよね」
「ハウツーなんて語ってどうするの?」

 特に、マネジメント業界、学習の業界!?・・・いわゆる「現場をもつ領域」では、方法知というものは、事実知と比べて、「一段と低いもの」に考えられています。
 例えば「マネジメントとは何たるかを小難しく語る本」の方が、「マネジメントのやり方を語る本」よりも「高級なもの」と考えられるでしょ。
 僕も、学生時代から、ずっと、そうやって教えられてきましたし、自分でも、そのように考えていたきらいがあります。

 でも、一方で、「風姿花伝」を読んでいて、思うのです。

「誰もが悩み、つまづくことの方法を語ること」は、本当に「低級なこと」なんだろうか、と。そりゃ、コンテキストから離れて文字としておこされた「方法知」は、「コンテキストの中で行われる行為」とイコールとはとても言えない。
 そこで「書き起こされる方法知」とは、「つまづき」を防止するくらいの、「ミニマムなレベル」のものかもしれない。でも、現場では、それが「ある」のと「ない」のでは、大違い、とても助かる、ということもあるよな、と。

 もしかすると「書き起こされた方法知」自体が悪いのではなくて、それが、「コンテキストの中にある知」と「同等」のものと考えられてしまい、その制約が認識されないことが問題なのではないだろうか。
 そして、ともすれば「読み手を思考停止させてしまうこと(この方法に頼っていれば、あとはOK!)」「方法知自体を教条化してしまうこと(この方法が正統よ、その他の方法はアカンで!)こと」に問題があるのかな、なんて。

 だとすれば、多くの人々に流通可能で、しかも、その制約がよく理解されていて、それでいて、人々の思考を停止させず、むしろ、その方法自体が更新され発展していくような知の公開の方法はないものかね、と(そんなもん、あるのかよ?)。

 ここまで考えたときに、かつて骨董通り法律事務所の福井健策先生に、著作権に関する勉強会・研究会でお話しを伺ったときに、福井先生がたしか、こうおっしゃっていたことが記憶に残っています。

「方法、アイデア、着想というものに、法律は、著作権を認めませんでした。それは、私たちの文化を発展させるために、それらは流通させた方が、社会全体のためになると法律が考えているためです。そのことで、「不利益を生じるかもしれない個人」が、もしかすると、生まれるかもしれません。でも、社会全体の功利を考えれば、方法、アイデア、着想は流通した方がよいのです」

著作権、文化、そしてマネタイズ : 【fʌ'n】第二回目「ラーニングデザインと著作権」が終わった!
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/02/post_1829.html

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 うーん、もやもや(笑)。
 自分でも、どうして、こう思考がぶっ飛んでいくのかわかりませんが、わかりませんが、とにかくそんなことをゆるゆると考えているのは、愉しいものです。そして、だんだんと意識がとおのき、眠たくなってくるのです。

 おやすみ3秒、のび太君。

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 風姿花伝は、芸能論としてはもちろんのこと、キャリア論とか、学び論とかに興味のある方でも読むことができると思います。皆さん、この年末は、年賀状を無事出し終わったら(まだ書いてない・・・)、古典を読んでみることにチャレンジしてみてはいかがでしょうか。なかなか素敵な年末が過ごせるのではないか、と思います。
 おらは、古文は苦手だっぺよ、という方には、原文と現代語訳を二つあわせて読み合わせるといいかもしれませんね。

花とは、珍しさをひとの心に喚起するもの、
一所常住せぬもの
そして、秘するからこそ花
(別紙口伝より抜粋)

 そして人生は続く

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追伸.
「方法知」を扱った本には、「これさえ読めば、他人と差別化できて、絶対成功するみたいな方法」が紹介されてる場合、よくありますよね。でも、「これさえ読めば、他人と差別化できて、絶対成功するみたいな方法」をマスに広く広めようとする行為は、論理矛盾じゃないかなぁ。だって、広まれば広まるほど、差別化できなくなんない?

だってね、「他人と差別化でき絶対に成功する方法」を会得している人たちが、ご対面したら、「他者を差別化」できるわけないよねぇ。みんな「同じ方法」で戦おうとしているんだから。

たぶんですね。「差別化に成功する人」は、絶対に、そういうものをありがたがらないと思います。むしろ「こうやってはダメなんだな」「自分はこうやんないどこ」と考えると思いますね。
 

投稿者 jun : 2012年12月27日 06:04


森の中、子どもは遊び、親も遊ぶ : KEEP自然学校「森のようちえん」に行ってきた

 この三連休は、山梨県・清里にあるKEEP自然学校の「森のようちえん」に家族で参加していました。
 僕は保育は専門外なので、詳細はわかりませんが、「森のようちえん」は、「北欧ではじまった野外の保育活動」だそうです。日本でも、ここKEEP以外でも、多くの街で、同様の取り組みがなされているそうです。

PC220012.JPG

KEEP自然学校
http://www.keep.or.jp/ja/shizen_school/

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 KEEP自然学校の「森のようちえん」は、子どもと大人は別々に過ごします。

 子どもは、森でソリ遊びや探検をしたり、薪をきったり、雪合戦をしたり、ミニかまくらをつくったり、外で絵本を読んだり・・・まぁまぁ、一日中遊びに遊んで、ここまでやるか、というほど派手にドロンコになって帰ってきます。まぁま、恐れいったわ。

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 一方、大人の方は、かまくらをつくったり、オーブンで料理をつくったり、ハイキングにでかけたり、ホットワインを飲んだりします。いろいろなプログラムがありますが、参加は基本的には任意です。

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 最終日には、たき火をたいて、「大人のクリスマスの絵本」を読むというのもやりました。
 クリスマスということもあるのでしょうか、まわりは暗く、炎がともっているというせいもあるのでしょう。いつもの雰囲気とは異なり、興味深いです。

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 子どもたちが寝静まった夜10時には、その日一日、子ども達が体験したことを、写真で様子を教えていただけます。親30名くらいが、一室にあつまり、我が子の意外な側面を知り、スライドショーを通した語りに耳を方向けます。

 実は、子どもたちのツアーには、プロのカメラマンの篠木真さんと、小西貴士さんが、カメラを携えて、一日中子どもと遊びながら、写真をとり続けられているのですね。いわゆる「ドキュメンテーション(記録)」です。

 今回のスライドショーの中には、我が息子TAKUZOの「意外な側面」も含まれていて、なかなか興味深いことでした。スライドショーで用いた写真は、希望者には実費で、後日、DVDでおおくりいただけるそうです。

「自分の子どもが、子ども達の中で、どのように過ごしているのか」・・・意外に親は、それを知らないものですね。実際のスライドショー・写真のイメージは、下記のブログや書籍をご覧下さい。

  

小西貴士さんのブログ
http://ameblo.jp/gorilla-tarou/

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 かくして、愉しかった3日間は、あっという間に終わりました。最後に、TAKUZOは、小西さんに帰り際に手にマジックで、「おまじないのマーク」を書いてもらいました。

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 小西さん曰く

「今日の夜、おうちのお風呂に入って、手をゴシゴシ洗ってみて。これが消えたら、また逢えるからね」

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 夜、「手にあったおまじない」は消えました。
 また行くからね。

 最後になりますが、KEEP自然学校でお世話になった皆様、本当にありがとうございました。素敵な3日間のクリスマスプレゼントに感謝いたします。

(ちなみに自然学校の食事は有機のものだけを使用なさっているので、最高です! いつもここにくるたびに、僕は体重が増えて帰ってきてしまうのです。それは悩みかもしれません)

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追伸.
 僕は保育は門外漢ですが、個人的に興味深かったことがいくつかあります。

 まず、ひとつめ。
 それは、スライドショーでの語りが、小西さんをファシリテータとして、黒田さん、篠木眞さん、里恵さんご夫妻ら4名によって、行われていたことです。
 それぞれの方々が、「自分の見た子どもの出来事」を語っていること。そして、「誰が、どの子どもの物語を知っているか」を、それぞれの方々が知っていることが印象的でした。素晴らしいチームなのだな、と思いましたし、興味深いのは、そうした自然発生的で、即興的で、協働的な保育ができるようになるプロセスとは、どんなものなんだろうな、と考えていました。


 ふたつめ。
 今回の「森のようちえん」でのプログラムが、「子どもの時間」と「大人の時間」が、時に離れ、時に出会い、時に交差しながら、進んでいくことです。二つのストリームが、出会っては離れ、離れては出会うような感じで、ダイナミックな感じがしました。

 みっつめ。
 それは、時折、自然学校の皆さんが読んでくれる絵本が、時節はもちろんのこと、そのときどきの状況、子どもの体験に近いものをお選びになっておられたことです。
 プログラム全体も、インプロヴィゼーションで進むところが多いのですが(なにせ自然・天候は先が読めない)、こうしたかたちで、「コンテクストにゆるく関連して読まれる絵本」というのは、素敵なものだな、と思いました。

 いずれにしても、素晴らしい時間をありがとうございました。

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 そして人生は続く

投稿者 jun : 2012年12月25日 09:32


Amazon Kindle ダイレクト・パブリッシングを「ちら見」してみて、妄想したこと:バイトサイズコンテンツへの少額課金、リアルタイム出版、配布コストの低減

 Amazon の電子書籍作成サイト「Amazon Kindle ダイレクト・パブリッシング」のサービス内容、先日、のぞき見してました。このサイトは、AmazonのKindleストアで、本を出版し、販売するためのサービスです。

Amazon Kindle ダイレクト・パブリッシング
https://kdp.amazon.co.jp/self-publishing/signin

 僕は、まだこのサービスで本を出版したことはないので、それが比較的に簡単かどうかはわかりませんが(!?)、見た感じの印象では、「それほど困難ってほどではないようなコスト」で、自分で原稿をつくり、編集を行い、ここに登録することで、Amazonで、本を売ることができるような気がします。

 なかなか興味深いサイトです。

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 Amazonの電子書籍というと、IT業界や書籍業界では、やれ「印税が何パーセントだ」とか、ほれ「ロイヤリティが何パーセント」だとかいうところに、もっとも、記事の興味が向くようです。

 僕も、いくつかの書籍の執筆者・著者であり、そうしたことに全く関心がないわけではないのだけれども(笑)、どうせ、今回だって「他者のプラットフォーム」に「のる」のだから、そのことに、こちらに「意思決定の優先権」はあるわけではありません。
「既存の出版社」よりもマシか、そうでないか、ということくらいで、どうせ、多かれ少なかれ、他人の都合の良いように、ある日突然ルールは変わる可能性が高いんじゃないでしょうか(泣)。

 それが「公共の観点」「文化成熟の観点」から良いことかどうかは、また別の議論にいたしましょう。
 ただし、「リスクをとって、グローバル社会に通用するプラットフォームをつくる」とはそういうことです。そして、「他人がリスクをとってつくったプラットフォーム」に「のる」ってことは、そういうことです。その是非は、また別の機会にお話ししましょう。

 ともかく、そういうマニーな観点からの批評やレビューは他の方にまかせ、今は、僕は、こうしたサービスを使って「学びの観点から何か面白いことができないかな」と考えたり、妄想・白昼夢を見ることにいたしましょう。
「これまではできなかったこと」、「紙の本を超える」ではできないような「何か」ができないものかな、とかね。そんなこと、ありゃいいね。

  ▼

 例えば、「コンテンツの追加」という観点から。
 今まで本というのは、一回書き上げてしまうと、なかなかそれに内容を追加を行うようなことは、改訂版をださないかぎり、難しいものでした。

 辞書や事例集のような内容の場合、時がたつにつれて、興味深い事例が生まれたりするのですが、それを追加することはなかなか難しいです。まさか、年がら年中、改訂版をだすわけにはいかない。

 しかし、一見したところ、Kindleストアには、「10ページくらいの薄い本で、100円」「20尾ページくらいの本で300円」という本がいくつか並んでいます。場合によっては、タダの本もある。ここが興味深いな、と思いました。

 つまり、Kindleストアの有力な点のひとつは、

「従来なら、本として流通しようもなかった、「(Bite size:ひと噛みの大きさのコンテンツ)バイトサイズの小さなコンテンツに対して少額課金できる」

 ということに、まずあるのかな、と思いました。

 でも、もしそれが仮にあっている場合、っちゅうことは、たとえば、少しずつ事例や項目をたしていくような学習コンテンツの場合、そこだけを執筆して、少額課金することができるのかな、とも思いました。

 つまり、コンテンツの内容を、常に「追加」しつづけることができることが、すごく魅力的です。「終わりがない教材」「常に追加し続けられる事例集」などをつくれるのかもしれない。それがビジネスとしてうまくいくかどうか、儲かるかどうかは知りませんけど(笑)。

  ▼

 次に思ったのは、「出荷までのリードタイム」です。
 こちらも、「コンテンツ登録から、販売開始までの正確なリードタイムがどのくらいあるのか」、僕は、試してないので、よくわかりませんけど(笑)、もしそれが比較的「リアルタイム」に近い場合、「紙の本」とは、差別化できる用い方があるようにも思います。

 つまり、「コンテンツの開発から販売までのリードタイムが短いこと」「リアルタイム出荷、リアルタイム出版が可能になること」が、kindleの優位であるような気がします。もし可能ならね(笑)。

「紙の本」の場合は、校了から販売までのリードタイム、マジ短くて編集者が白目むいて1ヶ月、平均的には2ヶ月、正確性を求められる学術出版の場合は半年くらいはありました。

 しかし、それほどの正確性を求められない、かつ、緊急性・速報性が高いコンテンツの場合、「出荷をリアルタイムで行える」のなら、なかなか興味深いことができそうな気がします。

 たとえば、専門性の高いイベント、勉強会、学術イベントなどをやるとします。そこの開催報告や議事録を、解説を含めて、その日のうちに、Kindleストアで販売することができたとしたら、購入する人は「マスではないです」が、0ではないような気もします。

 自分の行ったイベントの内容は、きっちり残しておきたい、さらに理解を深めたい人はいるような気がする。もしかすると、そうしたところで、ただでさえ苦しい、「イベントのマネタイズ」にポジティブな影響を与えることができるかもしれない。
(会場費の高い都内の場合、よほどの人数をこなさなければ、イベントは赤字の危機と、いつも、となりあわせです・・・これはやったことのある人ならわかるはず・・・泣)

 これは、実は、音楽業界で現在取り組まれている「ライブのビジネスモデル」の水平移行ですね。
 市販のCDは、いまや売れない。だから、「リアルタイムで顧客と接することができるライブやコンサート」を実施して、そこできっちりマネタイズする。さらには、その音源を、その日のうちにCDでまとめて、帰りの入り口付近で売る。これが二度目の「マネタイズ」です。

 先ほど妄想したのは、要するに、この「電子書籍版」です。これをKindleを使って実施するということになりますね。

 うまくいくか?
 わかんないですよ。
 だって、やってないんだから(笑)。

  ▼

 最後は「流通」です。
 
 もしすべての学習者が電子書籍端末を持っていれば、ということになりますが、研修やら、セミナーやらでなんせかんせ面倒くさいのは、「教材の配布」です。特に、先ほどのようなバイトサイズのコンテンツの場合、とにかく面倒くさい。

 なぜなら、これまでは、こうした「バイトサイズコンテンツ」は、小さすぎてなかなか、「一冊の本」としては流通しません。ということは、小さなコンテンツが集まり、「大きなコンテンツとして束ねることができるようになる」のを待つか、あるいは、「小さなコンテンツ」のまま、事務局がひーこらひーこらコピーし、さらには「配布」して、対価を徴収することになる。

 もし、すべての学習者が電子書籍のプラットフォームにのっているのであれば、もしかすると、この「流通」 - 「配布のコスト」を低減できるかもしれません。

 ただし、問題もあります。
 現段階では、コンテンツへのアクセシビリティを、クローズドなメンバーに限定することは難しいと思いますので(Kindleストアで公開されたものは、すべてのサイト訪問者に見られ、買うことができるのですよね?)、コンテンツの内容を「隠したい」場合には、たぶん、このメリットはありません。

 もし可能であるならば、今後、コンテンツの登録の際に、「このコンテンツは、このURLを知っている人しか購入できません」というようなオプションとして選択できると、いろいろな「流通」が可能になると思います。

  ▼

 というわけで、以上は、Amazon kindleを一度も触ったことがなく、かつ、「Amazon Kindle ダイレクト・パブリッシング」で一度も本を出版したことがない、ドシロウトの妄想でした。おつきあいありがとうございます。多少、「こうなりゃいいな」という「願望」らしきものも混じっているような気もしますが、あまり気になさらないでください。

 いずれにしても、それで何が可能になるかどうかはいまだ詳細につかんではいませんが(笑)、駒場の僕と重田さんの授業「メディア創造ワークショップ」で、現在、学部生らが開発している電子書籍「東大発2013」は、今年はAmazon kindleストアで無償配布いたします。
 そんなこんなもありますし、年明けあたりから、少しずつ触っていきたいと考えています。まずはね、自分で使い倒す。そこからでしょう。


東大発2012 - 昨年の作品(学生たちのインタビュー集)

http://www.he.u-tokyo.ac.jp/2012/04/2011itunes_u.html

 あ、ちなみに今日の話は、行きがかり上、Amazonで話しましたが、小生は、Amazonだろうが、コボチャンだろうが、ibookだろうが、実はあまり違いはわかってないし、詳しいことは知りません。プラットフォームに特にこだわりはありませんので、あしからずご了承ください。

「僕的に、学びの観点から、面白いこと」ができれば、それで嬉しい事です。
 そして人生は続く。

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Happy Christmas!
I wish you have great holiday!

小生、しばらく山に籠もります。
そっとしといてください(笑)。
またお会いしましょう!

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 ーーー

上田信行 × 中原淳(著)(2012)「プレイフルラーニング:ワークショップの源流と学びの未来」こんな方々に読んで頂けると幸いです。経営学者・金井壽宏神戸大学教授をお招きした鼎談を収録。金井先生曰く「僕は、もう、ゾクゾクしましたね。10年に1度くらいのインパクト!」

●ひと味違った研修・ワークショップのデザインに興味をお持ちの方
●学びのデザイン研究に関心をお持ちの方
●勉強会、交流会などを主催することに興味をお持ちの方
●ワールドカフェ、オープンスペーステクノロジーなどの組織開発に興味をお持ちの方
●学習空間デザイン、学びの場の建築、家具などに興味をお持ちの方

投稿者 jun : 2012年12月21日 17:14


大学と企業のつながり、10%の可能性 / 現代大学生の価値観「何事もほどほどに族」の今後

 先日、「大学生研究と企業研究をつなぐ」をコンセプトにしている共同研究、東大中原研究× 京大溝上研の共同研究打ち合わせがありました。

 大学生研究をなさっている溝上慎一先生(青年心理学)と、不肖中原の研究チーム(経営学習論)がタッグを組むことで、高等教育研究 × 組織研究のシナジーが生まれる!?かもしれない、ということで、ここ数年、ひそかに、地道に、シコシコと、取り組んでいる活動です。
 中原研からは、中原・舘野さん、木村さん、保田さん、溝上研からは溝上先生、河井さんが参加しています。

 研究会では、昨年行った調査データをもとに、いろいろな分析結果が示されました。そのどれも興味深いものでしたが、僕個人としては、特に2つ印象深い議論がありました。

  ▼

 ひとつめ。
 それは、「大学での生活・学習・経験」などが、「会社入社後のキャリア・パフォーマンス」に与える影響は、おおよそ「10%」前後であることがわかってきたことです。これは先行研究においてもおおよそ確認されていますが、本研究においても、輪郭が明らかになってきました。

 だとするならば、この「10%」を高いと見るか、低いと見るか。もちろん「10%」でOKということはなく、この値を高めていくことが社会的には要請されていることなのでしょうけど、現段階の「10%の可能性」を様々な角度から検討することが、研究会では行われました。

 一般にはね、、、「10%」といいますと、「すごく少ない」「無視してよい数字」のようにも感じます。だって、残りは90もあるんだぜ。10なんてよ、おいおい、という感じです。

 しかし、よくよく考えてみますと、「企業の中でのキャリア・パフォーマンス・行為の質」という「複雑怪奇・魑魅魍魎・七転八倒的な不条理な世界」の10%を説明する(予測する)というのは、そうそう「低い数字」ではないようにも感じます(10%で満足であるというわけではありません)。

「企業の中でいかに働けるか、生きうるか?」を説明する要因の、残りほとんどは言うまでもなく、職場要因、組織要因です。
 どんな組織に入るか、そこでどのようなマネジャーに出会い、どのような環境で、どのような仕事をまかされるかで、その人のパフォーマンスは決まりますよね。あたりまえのことですね。それがもっとも大きな要因ですね。

 個人的には、「大学教育の説明率」が「10%」前後というのは「そんなもんだろうな」とも思いましたし、むしろ現段階で「へー、そんなに高いんだ」という印象がありました。

 先ほども述べましたように「魑魅魍魎、伏魔殿、複雑怪奇な不条理な社会(しつこい?)」での行為を、現段階で10%「も」説明しうるのは、そんなに低い数字ではないと思えましたので。

 ふりかえってみますと、確かに最大要因である「職場要因」は確かにパワフルです。しかし、これは外部からコントロールすることはほぼ不可能です。
 現場で、どのようなマネジャーに出会い、どのような仕事を任せられるかは、そのときどきの状況に応じますし、ひと言でいえば、「運」です。

 大学教育は、大学改革?の結果によりますが、それが意図的な試みである限りにおいて、外部から「統制」は可能かもしれません。おそらく、この値を高めることは、今後、ますます大学に求められるようになるのではないか、と推察します。

 また、学生が、どういう大学を選ぶかで、そこで自分が受けられる「教育の質」は変わると思われます。大学生は、長い大学生活4年間を通じて「いかに学ぶか」「いかなる経験を積むか」を自分で決めることもできます。そこに発揮される主体性は決して少なくない、とも思われます。

 なお、この研究、詳細な分析は、まだまだこれからですが、初期キャリア(1年目から3年目)に限れば、この説明率は、もう少し変化するかもしれません。

 あたりまえのことですが、大学教育が就職・初期キャリアを規定し、就職と初期キャリアが、その後の実務担当者としての活躍、マネジャーとしての活躍を規定すると思いますので、それぞれごとに別のモデルを立てうるのかもしれません。

 まー、要するにだね。
 まだ、現段階で、詳しいことは、わがんねー(笑)。
 今後の分析をとても愉しみにしています。

  ▼

 ふたつめ。
 それは、研究会の席上で、「現代大学生の有する価値観」について議論になったことが、印象的でした。これは僕個人的なヒットかもしれません。他の方は、「中原さん、なんで、そんなにツボにはいってんすか?」という感じでしたので(笑)。

 研究会では、「現代大学生のもつ価値観」でもっとも多いのは、第一位「勉学第一」、第二位が「何事もほどほどに」であることが話題になりました。

 歴史的には、80年代もっとも多かった大「学生の価値観」は「対人関係重視」で、90年代にはいってから「対人関係重視」は減少し、この2つ「勉学第一」「何事もほどほどに」が台頭してきたそうです。

 このうち「勉学第一」はわかります。ま、そりゃ、「まんま」だよね。勉強してちょ、学生なんだったら。でも「何事もほどほどに」のイメージが、最初、僕にはつかめず、研究グループで議論になりました。
「何事もほどほど」には、勉学、サークルなど、いろいろなことをちょこちょこと行い、しかし、どれにも「敢えて熱はいれない」、という価値だそうです。うーん。

「何事もほどほど族」は、「何事もほどほど」にしていて、「そこそこの仕事」について、「そこそこ幸せ」になれればいいと思っているそうです。
 いろいろな ことをやっているのに、「敢えて、どれにも熱をいれない、敢えて入れ込まない」というのが興味深いな、と個人的には思いました。

 だってさ、「敢えて!」なんですよ(笑)。あのー、おもしろがってるのは僕だけすか。
 たぶんね、僕はふだん、研究室で「前のめり気味の大学院生」ばかりにあってるから、感覚がズレてるのです。
 学部の授業で学部生にあうこともありますが、僕の専門に興味をもつ学部生は(社会にでていないのに、企業・組織の中の人材育成に興味を持つ人は少ないでしょう)、一風、変わっている方が多いようにも見受けられます。

 ともかく!「主体的に熱をいれない」、「主体的に入れ込まない」というかたちで、「主体性を発揮する」ことが、芳醇でアイロニカルな香りが漂い、興味深いことで、ダバダーですな(ネスカフェのCM的に読んでください)。それは僕個人が学生だった頃の価値観とは、すこしズレるので、個人的に興味があったのかもしれません。

 しかし、個人的には、同時に「危ういだろうな」とも思うのですね。
 「何事もほどほどに」という価値観をお持ちの方が、「そこそこの仕事」を得て、「そこそこの幸せ」につながるとよいと本当に思うのですけれども、昨今の経済状況・企業の経営状況を見ていて、「微妙だな」とも思います。
 「そこそこ幸せ」ってのは、どのレベルなのかっていう問題もあるんだろうけど、常識的に考えれば、自分の親の世代の家計くらいってことなのかなぁ。だとしたら、なおさら「かなり危うい」だろうなぁ。でも、人は、なかなか生活レベルおとせないよねぇ。

 仕事柄、人事・経営企画の方々によくお会いしますが、「現在、そうした仕事に従事なさっている皆さんが、5年後の人事課題としてお悩みになっていること」から(怖くて口に出せません・・・)、「今後、近い将来の雇用・給与・処遇」を想像するとき、正直、「厳しいな」という印象を持ちます。

 それは「何にもコミットしません」ので、一見、「失敗するリスクがない」ように見えます。「敢えて」「主体的」に何にも挑戦しないのだから、「失敗の可能性」は下がります。
 ただし「何にもコミットしない」ということは、一見「リスク」がないようでいて、「もっともリスキーな生き方」であるかのようにも、僕は感じます。まだデータを示せていないので、印象論なのですけれども。

 このあたりを、今後、数年かけて、実証していくことに興味を感じます。「何事もほどほどに族」のその後を、ぜひ、探究していただきたいものです(これは木村君が担当でしたか)。

  ▼

 なお、この共同研究の知見は、来年、中原・溝上の編著にて、研究専門書を2013年に出版の予定です。どうぞお楽しみに!

 僕個人としては、現在行っている研究の中で(単独研究:マネジャー研究、単独研究:グローバル関係研究、共同研究:大学・企業研究の3本柱)、自分に土地勘がなく(大学生研究は僕の専門外でした)もっとも「先が読めない研究」ですが、もっともよい勉強になっている研究です。
 溝上さんとは、今後、長い時間をかけて、この研究を推進していこうという話になっています。溝上さんから多くを学ばせて頂きたいと思います。

 ちなみに、これが進行していくと、僕の研究ですと「大学生 - 新入社員 - 実務担当者 - マネジャー - グローバルの活躍」までの「学習プロセス」が、一気通貫的に、かつ、オボロゲながら、見えてくることになるのですね。知りたいよねぇ、この一気通貫的学習プロセス。ツモりてーぜ、ドラ2くらいで。
 人事プロセス的にいうと、「採用 - 配置 - 育成 - 昇進」くらいに、学習の観点から、いろいろなことが言えるようになるのではないでしょうか。

 また、個人的には、近いうちに「採用の研究」や「Swift Organizational Socializationの研究(迅速に新人を組織適応・即戦力化するためには何が必要か)」のヒントが見えてくるんじゃないか、とひそかに願っております。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2012年12月20日 06:00


新刊「プレイフルラーニング:ワークショップの源流と学びの未来」(上田信行×中原淳)のお知らせ

 新刊のご案内です。
 いよいよ、上田信行×中原淳「プレイフルラーニング:ワークショップの源流と学びの未来」が、出版されました。めでたい!

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プレイフルラーニング
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4385365644/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=nakaharalabne-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4385365644

 ●ひと味違った研修デザイン
 ワークショップのデザインに興味をお持ちの方
 「お仕着せのワークショップ」や「落としどころの決まった研修」
 に飽き飽きしている方へ

 ●学びのデザイン研究に関心をもつ方

 ●勉強会、交流会などを主催することに興味をお持ちの方

 ●ワールドカフェとか
 オープンスペーステクノロジーなどの
 コミュニケーションデザイン、組織開発などに
 興味をお持ちの方

 ●学習空間、学びの場の建築、家具・空間デザイン
 などに興味をお持ちの方

 におすすめの内容だと思います。

 本書は、「ワークショップ」という言葉を普及させ、これまで数十年にわたり、様々な実践を行ってきた上田信行さんの足跡と、学習研究の歴史をおいながら、そのような学びの場をどのようにデザインしたら良いのかを考えている本(一般向けの書籍)です。
 実際のワークショップデザインの裏側を伝えるルポもございますし、経営学者金井壽宏先生との鼎談も収録されています。

 下記が目次となりますので、もしよろしければ、手に取っていただけますとうれしいことです。目次の最後には、僕の執筆した「はじめに」をご紹介しておきます。
「オルタナティブ」「インタラクティブ」「アマチュア」による学びの場について、短く論じ、本書の構成を述べた文章です。

 ーーー

◇第1章 プレイフル・ラーニングの旅
■1970年代の学びのデザイン 「教えることのデザイン」
●「あの頃、ギターがパソコンだった!?」
●「道を究める」求道的ラーニングの時代
●「教育って楽しくてもいいんだ!」
 セサミストリートとの出会い
●セサミストリートのスタジオで
 「ワークショップの原点」に触れる
●世界一贅沢な!? ハーバード大学の授業
●「セサミストリート」が大成功した秘密
●制作プロセスそのものがワークショップ
●評価できなければ教育じゃない!?
●NHK「おかあさんといっしょ」とセサミストリート

●1970年代の学びのデザインを振り返る
●効率的かつ魅力的に知識を伝達するためのデザイン
●教授設計理論
●人間はからっぽな容器!?
●教育番組「セサミストリート」

■1980年代の学びのデザイン
「学びに没頭する環境のデザイン」
●始まる前からゴールが決まっている
 授業なんて面白くない!
●コンピュータが教育を変える!?
●僕がやりたかったのは、「学習環境」だ!
●ボストン・チルドレンズ・ミュージアム
「don't touchからplease touchへ」
●「ものの見方」が「やる気」を変える!?
●面白ければ「やる気」は出る
●日本の子どもは中学1年で
 固定的知能観へ変わる!?

●1980年代の学びのデザインを振り返る
「教授」から「構成」へ
●ピアジェの構成主義とパパートの構築主義
●学習環境
●動機論

■1990年代の学びのデザイン
「他者とのつながりと空間のデザイン」
●明日の可能性をひらいていく他者の存在
●教えないピアノ教室LMT
●ステージが学びを広げる
●プライベートミュージアム構想
●展示事のミュージアムをつくろう
●ネオミュージアム建設

●1990年代の学びのデザインを振り返る
「学習環境」の拡張、ヴィゴツキーの再評価
ヴィゴツキーの理論「発達の最近接領域」
コミュニティの中で学ぶ、協調して学ぶ
学習における真正性 

■プレイフル・ラーニングの実践
●人力コンピュータ実験
Human-Powered Computing Experiment 1993
●ラーニング・デザインへの挑戦
●メディアとしてのcube
●展覧会という名のカンファレンス
●ワークショップルームのあるマンション

●プレイフル・ラーニングの実践を振り返る
●モード2の科学

◇第2章 プレイフル・ラーニングへようこそ
(井上佐保子)
●始まりは1通のメールから
●人は動きながら語り合う
●名札づくりを通して自分を表現
●オープングリッド
●新しいスタイルのカンファレンス
●何が起こるかわからない...脱予定調和
●女子大生からのおもてなし
●祝祭のはじまりは22時のロッケンロール
●そして前夜祭はつづく...
●舞台としてのネオミュージアム
●プロトタイプ、リファイン!
 プロトタイプ、リファイン!
●語り合うためのデザイン
●つながりのデザイン
 振り返りのデザイン
●「ハナシタイコト」を話し
「キキタイコト」を聞くアンカンファレンス
●1人1人の体験を共通体験にする
 リフレクション・ムービー
●終わらないアンカンファレンス

Column 1 
リアルタイム・ドキュメンテーション
(曽和具之)

Column 2  
「予定調和を超える場づくり」の系譜とその特徴
(舘野泰一)

Column 3
学びを触発するディバイスのデザイン
(三宅由莉)

◇第3章 プレイフル・ラーニング 旅のあとさき
鼎談 金井壽宏×上田信行×中原淳

●真剣に学び、真剣に遊ぶ
●「遊び」とは人々が動いているさま
●ワークショップと日常
●ネオミュージアム
●セオリーは自分でつくる
●学びはアウトプット
●アイスブレイクと言わずに氷を解かす
●振り切る勇気と思い切り
●ワークショップ・デザインで本当に大切なこと
●アンカンファレンス
●祝祭と日常 ハレとケ

◇エピローグ プレイフル・ラーニングの旅はつづく
●プレイフルに、リスキーにいこう!
 ── 問いに生き続けることを願って
●旅の原動力は「憧れ」

 ーーー

プレイフル・ラーニングの旅へ出かけよう
中原 淳

 「学び」や「教育」の言説空間において、ここ十数年で起こった変化を、3つのワードで端的に表現するとしたら、あなたは、何という用語を選びますか?

 もし、読者の皆さんが、こうした「問い」を突然投げかけられたとしたら、どう答えるでしょうか。

 この問いに「唯一絶対の正解」はありません。問いを投げかけられた人々が、それぞれの専門性や置かれている立場で、答えるしかないと思います。読者の皆さんならば、どういうキーワードを脳裏に思い浮かべますか?

 仮に、僕が、この問いを投げかけられたとしたら、こう答えるかもしれません。それは「オルタナティブ」「インタラクティブ」「アマチュア」の3つのワードです。 「オルタナティブ」とは「既存のものとは別の」という意味であり、「インタラクティブ」とは「双方向性」、そして「アマチュア」とは「教育の非専門家」を示します。

 3つのワードを選ぶことで僕が描き出したい、この10年の変化は、こういうことです。

 つまり「教育の非専門家(アマチュア)が、自分の専門性や経験をもとに、既存の(学校)教育ではない、"オルタナティブな学びの場"を組織するようになってきた。そこに志や興味関心を同じくする人々が集い、双方向(インタラクティブ)のコミュニケーションを取りつつ、学ぶようになってきた」ということです。誤解を避けるために断言しておきますが、教育専門家の役割が低下したということではありません。むしろ彼らの専門性はさらに高度なものが求められています。教育の専門家と 連携/ 補完/ 役割分担するかたちで、教育の非専門家による学びの場の創出が増えてきているのです。

 具体的には、組織外で開催される様々な勉強会や交流会。はたまた、キャリアやイノベーションなど、各種のテーマに基づき開催されているワークショップなどが想定できるでしょうか。近年「朝活(早朝に行われる勉強会)」という言葉も生まれました。都市全体を「大学」に見たてた自主的な学習共同体も出現しています。

 子どもを対象にしたワークショップも全盛期を迎えています。アートや造形を行うワークショップ、プログラミングを行うワークショップ。様々なものが提唱され、実践されています。

 これらの隆盛を支えた要因は、多種多様です。しかし、おそらくインターネットやソーシャルメディアが引き起こした「動員の革命」は、こうしたオルタナティブな学びの空間への周知に一役買っています。

 かくして―現在では主に都市部が中心ですが―様々な人々が、自分の専門や経験を活かし、「単位にも学位にもつながらない学びの場」を組織するようになってきました。いわゆる「ワークショップバブル」と呼ばれるような様相を呈しているのが「現在」であると思います。

 これまで教育機関や専門家の手によって提供されてきた「学びの機会の創出」に、市井の人々が積極的に参加し、量的拡大をしたことは喜ぶべきことです。特に、教育のリソースが減少していく中で、教育の専門家と連携 / 補完 / 役割分担するかたちで、社会に学びのリソースが増えることは望ましいことであると僕は思います。それは「learningful society(学びに満ちた社会)」の実現に重要な役割を果たすでしょう。

 しかし、一方、このバブル状況において、憂慮するべき事態も生まれてきているようにも思います。最大の憂慮すべき事態は、「クオリティが玉石混淆である」という点です。誰もが「教え手」になれるということは、必然的に「クオリティの格差」が生まれることを意味しています。ひと言でいえば、「それぞれの専門性や経験にねざした素晴らしい学びの場」が生まれる一方で、「学びを生み出す以前のレベルの場」も存在する、ということです。

 学習内容がそもそも不明確なまま、参加者に学びを強制し丸投げして、主催者側が自己陶酔しているパターンもありえます。不適切なファシリテーションによって、学習者を必要以上に混乱させていたりする事例は枚挙に暇がありません。活動を詰め込みすぎて、内省を行う時間がないこともあります。また、ある所で自分が経験した教育手法を絶対化・教条化・固定化し、学習者に息苦しい学習機会を提供している場合もありえます。それらは「オルタナティブ」「インタラクティブ」「アマチュア」の3つのワードが必然的に抱えざるをえなかった負の部分です。それら3つの概念は、素晴らしい学びの機会を創出する一方で、他方、闇を生み出しうるものなのです。

 さて、少し話題を変えましょう。

 時代をさかのぼって、1990年代前半に時計の針を戻してみることにします。ワークショップという言葉が流行・消費されはじめるちょっと前、この頃、「オルタナティブな学びの場」をつくりだすための社会実験を繰り返し、そうした一連の試みを「ワークショップ」と呼んだ人物がいます。それが、本書の共著者である上田信行さんです。

 上田さんは、大学卒業後、紆余曲折をへて、ハーバード大学・教育大学院で博士号を取得し、当時の「学びの科学研究」から様々な着想を受け、自らも「実験的で、先端的で、革新的なオルタナティブな学びのあり方」を探究していました。

 上田さんは、留学中に目にした様々な理論や学びの空間にインスピレーションを受け、「多くの人々が集まり、出会い、相互作用する中で、様々な気づきを得ることのできる学びの場」をつくることを夢見て、それを実践する私的ミュージアムまで建設し始めました。

 自分のワークショップのために、自腹でミュージアム(ワークショップ空間)まで建築する。そうした破天荒とも思われる研究・実践の果てに、本書のテーマである「プレイフル・ラーニング」という概念を生み出します。上田さんは数々の社会実験を繰り返し、この概念にたどり着きました。

 上田さんが探究し続けたことでもあり、かつ、本書のテーマでもあるプレイフル・ラーニング(playful learning)という言葉は、一般には聞き慣れない言葉かもしれません。

 プレイフル(playful)とは、ひと言でいいますと、「楽しさのこと」。それに続くラーニング(learning)は「学び」のことですので、プレイフル・ラーニングとは、「楽しさの中にある学び」という風にも解釈できそうです。おそらく、この概念は、「アカデミックな辞書」には掲載すらされていません。むしろ、上田さんが、様々な学習理論にインスパイアーされながら、自ら現場で実践を積み重ねる中で、少しずつ輪郭をあらわにした「概念」であるからです。しかし、それはアカデミックなフォーマルセオリーよりも根拠が薄い、ということを意味しません。現場での経験の蓄積と、それを活かしたアブダクション(仮説形成)の果てに、この概念が生まれているのです。それはおいそれと否定できるものではありません。

 一般に「楽しさ」と「学ぶこと」は相容れない言葉です。「学び」「ラーニング」という言葉からは、「辛くて、堅苦しい、受験勉強」を想定してしまう人もいるかもしれませんので、「楽しく学ぶ」ということを訝しがる方もいらっしゃるかもしれません。

 プレイフル・ラーニングの細かな理論的背景は、こののち、おいおい論じていくものとして、ここでは「プレイフル・ラーニング」を、「人々が集い、ともに楽しさを感じることのできるような活動やコミュニケーション(共愉的活動・共愉的コミュニケーション)を通じて、学び、気づき、変化すること」と、ゆるやかに考えておくことにいたしましょう。

 プレイフル・ラーニングは、まず「人々が集う場」におこります。そして、そこには「楽しさを感じられる活動」がある。つづいて「学び」や「気づき」や「変化」が予期されている。この3点が、どうやらプレイフル・ラーニングを構成する要素のようです。

 さて、ここまで読まれた読者の方々で、勘の鋭い方は、もうおわかりかもしれません。

 本書の目的は、様々なオルタナティブな学びの場づくりの実践を繰り返してきた、上田信行さんの実践の歴史、彼が影響を受けてきた理論や思想の歴史を紹介することで、クオリティの高い、革新的な「オルタナティブな学びの場」をつくりだすために必要なことを紹介することです。もちろん、オルタナティブな学びの場づくりやワークショップには、多種多様な理論的源流がありますので、ここで紹介しうるのは、あくまで上田さんの実践やプレイフル・ラーニングを裏打ちする理論群です。

 本書の趣旨をひと言で述べるならば、「オルタナティブな学びの場づくり」は、「プレイフル・ラーニングの創発する場所である必要がある」、ということであり、「プレイフル・ラーニングを生み出すためには、本書で紹介する理論・思想を押さえておく必要がある」ということです。「よい理論ほど実践的なものはない」といったのはグループダイナミクスの祖 クルト・レヴィンです。骨太の理論・思想は、素晴らしい実践を生み出す土壌です。

 ともにこの本を記す、上田さんと僕は、今から15年ほど前、関西で出会いました。それ以来、一緒にワークショップや研究会をしたりしてご一緒させていただいています。僕と上田さんは、息子と父親ほどに年齢が離れていますが、ふだん、僕自身は、そのことをあまり意識することはありません。上田さんには失礼な話かもしれませんが、「同僚とほぼ同じような関係で、ディスカッションをしたり、情報をシェアしたりすること」のできる間柄です。

 僕は、上田信行さんは「この50年で最も社会に影響を与えた学習の実践的研究者の1人であると思っています。実際、今となっては「ワークショップ」という言葉は、誰もが使う言葉となっていますが、わずか20年前には、その言葉は「作業場」以上の意味はありませんでした。上田さんが、プレイフル・ラーニングの実践を積み重ね、ワークショップという言葉の輪郭をつくりあげていったのです。

 このように上田さんは、大きな影響を与えた実践的研究者ではありますが、上田さんは論文や書籍のかたちで、あまり自らの実践を語ることをしません。ですので、その研究プロセスや業績に関しては、あまり知られていないのが現状です。

 俗に研究者のあいだには「記録に残る研究者になるのか、記憶に残る研究者になるのか」という二者択一を含む問いがありますが、上田さんは後者には間違いなく属するものの、前者の研究者ではありませんでした。僕は、こうした状況を、横から勝手に憂慮していました。「父親のように大きい人」の存在を「記録」に残したい、という思いがふつふつとこみ上げてきました。

 本書を執筆するにあたり、僕は、先達の「聞き役」に徹しました。上田さんが経験してきた実践の歴史、上田さんが影響を受けてきた思想・理論を聞き取り、それをそのまま伝えることをめざしてきました。

 オルタナティブな学びの場にしのびよる教条化・固定化の影、クオリティへの懸念に対して、上田さんの追求してきたことを、読者の皆さんに伝えることが、今、必要だと僕は思っています。そうすれば、「オルタナティブな学びの場」は、プレイフル・ラーニングのインキュベーション装置になりうるはずなのです。そんなビジョンのもと、本書は編まれました。

 最後に本書が想定している読者層と本書の構成について述べます。 

 本書は、ビジネス、教育の現場などでラーニングデザインを実践している人、あるいはラーニングデザインに興味がある人を対象にしています。

 上田さんのプレイフル・ラーニングの歴史を追いつつも、ラーニング理論についての基礎も学べるようになっているので、ワークショップ等の、いわゆる「場づくりの実践」をなさっている方にはぜひ読んでいただきたい内容です。

 とかく、ワークショップに関する本は、いわゆるHow toや技法の紹介、ないしはワークショップ批評にとどまる傾向があります。それもワークショップデザインにとって必要なことではありますが、一方で忘れ去られがちなのは、その背後に横たわる理論的背景・思想的背景です。そうした内容について常に意識的である必要はないのですが、ある程度のことができるようになったあとは、ぜひ意識しておいておくとよい内容です。 

 第1章では、上田さんにその半生を振り返っていただき、上田さんの「プレイフル・ラーニングを追求する旅」をたどります。上田さんの歴史は、ラーニングデザイン研究の発展の歴史そのものです。各節の終わりには、その時代背景をより理解していただけるよう、それぞれの時代のラーニング・デザイン研究についての解説を入れました。

 第2章では、2011年12月4,5日に吉野にあるネオミュージアムで行われた実験的なラーニング・イベント「経験のREMIX unconference@neomuseum」をルポ形式でご紹介します。このイベントは、上田さんと僕とで主催し、120名の参加者を得て、無事終わりました。私たちは「オルタナティブな学びの場づくり」を、今もなお、行っています。それは「完成」してはいけないことなのです。こちらでは、「経験のREMIX unconference@neomuseum」で生まれたプレイフル・ラーニングを追体験することができます。

 第3章では、「経験のREMIX unconference@neomuseum」後、ゲストとして参加してくださった神戸大学大学院経営学研究科の金井壽宏先生を迎え、金井×上田×中原による鼎談を収録しました。「経験のREMIX unconference@neomuseum」を振り返りつつ、今、この時代にプレイフル・ラーニングの持つ意味とその可能性を探ります。

 僕たちは、上田さんの実践や彼が影響を受けてきた思想や理論から、多くを学べるような気がします。「お仕着せのワークショップ」や「落としどころの決まった研修」を拒否し、「楽しさの中で異質な人々、物事が出会い、その出来事がきっかけで、変化や気づきが生まれる学びの場」をつくりだしたい、と願う人々は、上田さんの歩んできた旅路を、僕と一緒にたどってみませんか。

Are you all set?
Welcome to the journeys of playful learning!

投稿者 jun : 2012年12月19日 06:50


学ぶこと、別れること、綺麗さっぱり送り出すこと

「学ぶ」とは、いつか「別れること」を前提に「他者と出会う」ことであり、「教える」とは、その時がきたら、「綺麗さっぱり送り出すこと」です。

「学び」と「別離」というテーマは、あまり論じられないマニアックなテーマではありますけれども、冬になり、寒い季節を迎えると、そのようなことを思います。

 大学には、毎年、多くの学生が集い、そして、そこを巣立っていきます。
 毎年、学生を社会におくりだし、「またひとつ年をとったな」と窓の遠くを見る。「めそめそ帰ってくるんじゃない」と学生の背中につぶやく。これが、僕の「歳時記」となっています。

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 このように「学び」と「別離」は不可分のテーマであるものの、一方で、この「別離のプロセス」が、なかなかうまくいかないパターンというのもあります。

 一番よくあるケースというのは、「送り出し側が、綺麗さっぱり、学習者を送り出そうとしない」という問題です。これは、一般の会社組織にも十分あることなのではないでしょうか。

 例えば、師やメンターとなっている人がいて、それに支持している学習者がいるとしましょう(会社の場合だと、上司・メンターと部下の関係になりますね)。それまでたくさんの支援を受け、何とかかんとか、成果をだせるようになり、能力を向上させた学習者は、今や、「巣立ち」のときを待っているとします。

 しかし、メンターになった側からみた場合、ここで「巣立たれて」は困る。教育投資を行い、ようやく一人前にして、自分を助けてくれるくらいになったのに、ここで逃げられては、今まで行ってきた投資を回収できない。
 要するに、教育投資を行った以上に、労働力を回収するまでは、「学習者を離さないこと」が容易に起こりうるのです。

 キャシー・クラムのメンタリング研究では、メンターリングの最終過程には、メンターとメンティ間に緊張感の走る「別離のプロセス」が存在するといいます。

 この時期に、うまく「別離」を行えば(上手に別れられれば!)、メンターとメンティ(学習者)は、また新たな関係を築くことができる。
 逆に、この「別離」に失敗すると、メンティが本当の意味で、一人前になることはできないか、またメンターとメンティの関係は破綻する。

 男と女の関係ではないですが - 小生、そういう方面は苦手なので、よくわかりませんけれども(笑) - 「綺麗さっぱり別れること」は、やっぱり大切なことなのかもしれません。ま、ぐずぐずしなさんな。経験上、ロクなことがないから(笑)

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 もうひとつのケースは、「学習者側の問題」です。つまり、メンターの方は「送りだそう」としていても、いつまでたっても「学習者の側が離れようとしない」。
 いつまでもグズグズしていて、師の庇護のもとに、師の課題を引き受けることで、師のハイアラーキカルな構造の中で、生きていこうとする。

 僕はよく思うのですけれども、「巣立ちを迎えた学習者」は、一時的に師やメンターを「上書き保存」するくらいの気概をもって、彼らといったん離れた方がいいのではないか、と思います。

 それまで一緒にものを考え、一緒に行動してきた師やメンターを、一度は「相対化」して、同じ「土俵」にたってみる。そのあとには、きっと、実社会にでて、たくさんの苦難を経験するでしょう。なぜなら、そこにはメンターの庇護はないから。

 しかし、そういう「別離」と「苦難」のプロセスを体験したうえで、しばらくすると、学習者とメンターの間には、新たな対等な関係が生まれるような気がするのです。逆に、そういう「別離」と「苦難」がなければ、学習者とメンターの間には、ぐずぐずした人間関係が残る。

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 以上、「師・メンターの側」からと「学習者の側」からの2つの方面から、「学びと別離」の問題を述べてきました。この問題は、実際の現場では、二つに分かちがたく存在しています。
 つまり、「教育投資を回収したいメンター・師の思惑」と「師の庇護のもとで安穏としていたい学習者の思惑」は「共犯関係」を結んでしまいます。

 そして、グズグズと時間が過ぎる。師・メンターは「都合のよい労働力」を手に入れる。学習者は、いつまでたっても、師の庇護のもとで、「ルーティンな仕事」をこなす。それは両者にとって、悪い気持ちはしない。しかし、確実に言えることは、「学習者の能力は伸びない可能性が高い」。
 かくして、さらに学習者は、師・メンターとは別れがたくなる。最後には、愛憎極まる、そう簡単には解除できないドロドロの人間関係が生まれるのです。

「愛憎」か、、、僕は、そういう方面は得意じゃないので、これ以上は、述べませんけれども(笑)、やっぱりね、「きちんと別れること」ですよ。ぐずぐずしなさんな。

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「別れのあと」「巣立ちのあと」、学習者は実社会に出て、一時的に苦労をします。その苦労は、師・メンターの行ってきた支援が質量ともによいものであればあるほど、大きくなるはずです。

 なぜなら、自分のついていた師・メンターが「よい支援」を行っていればいるほど、「師・メンターの支援のある世界」と「実社会」のギャップが増すからです。それはもしかすると、「リアリティショック」「カルチャーショック」とも形容できるかもしれません。
 社会に出るとは、「道理のある世界」から「不条理な世界」への移行なのです。このトランジションには、時に「痛み」が生じる場合もある。

 しかしね、出会ったときから、師・メンターと学習者はいつかは「別れる運命」にあるのです。学習者は、いつまでも「学習者」ではいられません。いつかは社会にでて「分離」と「ショック」を経験しなくてはならない。そして、何かを成し遂げなくてはならない。
 
 ま、ぐずぐずしないことです。

 たとえ別れたとしても、自分の納得のいく仕事をしていれば、また出会えるはずだから。それに、「別れ」の先には、あなたの活躍を待っている「新たな世界」があるはずだから。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2012年12月18日 08:38


「社内にロールモデルとする人物がいないこと」は、そんなに嘆かわしいことなのか?:古典的ロールモデル論に対する違和感

 週末は、経営学習研究所(MALL)・板谷理事のラボ「働く女性ラボ」が主催する、Lカレッジ第一回「ロールモデルってそばにいる?」に参加させて頂きました。

 板谷さんの主催する「Lカレッジ」は、「働く女性が参加なさる学びの場」です。
「仕事で輝く自分を実現するための、情報収集、意見交換、人脈づくりの場」であり、ワインを片手におしゃれに、緩やかに学ぶというスタイルを、これまで実践なさってきました。

 当日スタッフとして活躍なさっていた牧村理事が、当日の報告をなさっているので、詳細は、下記の記事をご覧下さい。

経営学習研究所(MALL)働く女性ラボ「ロールモデルってそばにいる?」終了!
http://maholab.net/?p=382

 先日のLカレッジは『働く女性の24時間』(日本経済新聞社刊)の著者、野村浩子さんにゲストにお越しいただきました。
 
 野村さんは、かつてWOMAN OF THE YEARなどを立ち上げ、2003年からは「日経WOMAN」編集長をつとめられておられた方です。現在は、日経BP社で日経マネーの副編集長としてお仕事をなさっています。

 野村さんには、多くの女性たちの取材を通して得られた知見や、ご自身のご経験について、「ロールモデル」という切り口からお話しいただきました。

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野村さんのお話しは、僕としても、非常に首肯できる部分が多く、とても興味深く聞かせて頂きました。「キャリア論」や「ジェンダー論」に関しましては、専門ではないので、責任をもったことは言えないのですが、考えさせられることが多かったです。ありがとうございました。

 野村さんは、「ロールモデルを過剰に求めすぎる傾向」を「ロールモデル症候群」とよび、懸念を示される一方で、「様々な人々から、こうなりたいな、と思える部分を探してくる」、いわゆる「モザイク型ロールモデル」を提唱なさっておりました。講演では、野村さんが自らロールモデルとしてきた複数人の方々をご紹介なさっていました。

 「モザイク型ロールモデル」とは、つまり、「Aさんのこういうところ」、「Bさんのこういうところ」、と都合よくピックアップし、自分のめざす人物像を「編集」することが大切であるということですね。「編集」というところが、野村さんらしいネーミングであるように感じます。

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 野村さんの話を聞きながら、個人的に、自分の経験にてらして、勝手気ままに、ロールモデルについていろいろと考えていました。

 世の中でよく聞くロールモデル論、いわゆる「古典的ロールモデル論」とは、

「自分の社内に、職場内に、ロールモデルとなる人をひとり探して、そういうひとりが見つかったときに、その人に近づこうとすることで、自分のキャリアをひらくことができる」

 という論調のように思います。こういう議論を、確かに、よく聞きます。

 しかし、この論調は裏返すと、

「自分の社内、職場内に、ロールモデルとなる人はいないので、自分は開花できないのだ」

 という論理を生み出します。それが過剰になる場合には、いわゆる「他責(自分以外の他者に責任を転嫁する態度)」の態度が強化されていきます。つまり、「わたしが開花できないのは、自分の周りにロクな人物がいないからだ」ということになるということです。
 そして、永遠に「いつか出会えるはずのロールモデル」を探すことになります。まるで、「青い鳥」を探すかのように。

(ここには皮肉があります。本当は青い鳥は見つかってしまっては、自分が変わらなくてはならないので、困るのです。そういう意味では、皮肉なことに、他責のマインドでロールモデルを探し続けることに固執してしまう方々は、青い鳥を探しつつも、意識的であれ、無意識的であれ、それを見逃す行動、つまりは矛盾した行動をとるのではないかと思います)

 個人的には、この「古典的ロールモデル論」!?に、下記の3点から違和感を感じます(野村さんも疑義を提案なさっていましたね)。僕は、キャリア論やロールモデル論?は専門ではありませんが、以下は自分の経験からてらして考えたことです。

1.「ロールモデルは社内にいなければならない」ということに関する疑義
 ロールモデルは社内であっても、社外であってもよいのではないでしょうか。そりゃ、社内に身近にいるのなら、それにこしたことはないのかもしれません。でも、むしろ、社内でロールモデルがいないことは、特に不幸なことではないような気もします。組織の外部にめざすべきものがあることは、それほど変なことではないでしょう。

2.「ロールモデルは「ひとり」でなければならない」ということに関する疑義
「理想とするひとりの人間」に近づくことが、キャリアをひらくことなるのでしょうか。むしろ、「単数のロールモデル」ではなく、「複数のロールモデル"ズ"」を対象に、自分のなりたい姿を、自らつくりあげ、実践していくというイメージの方が、僕には肌に合います。

3.古典的ロールモデル論は、「ロールモデルに近づくこと」だけが強調されているような気がします。
 むしろ、ロールモデルは「そこから離れるタイミングをいかにもつか:分離プロセス」が重要なのではないでしょうか。
 といいますのは、どんなに、憧れようとも、人は「他者」にはなりえません。また自己イメージは、めざすべき他者イメージとは重なりません。それは、あなたと他者が「違う人間」だからです。
 キャリアの初期段階において、目標とする複数の人々の仕事の姿を参照することはよいかもしれませんが、いつかは、そのイメージから「分離」し、自分を形成していかなければならないのではないだろうか、と思います。

 野村さんのお話を伺いながら、その主張に首肯しつつ、僕はこんなことを考えていました。

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 個人的にロールモデルということに思いをはせると、若い頃の、いろいろな思いがよみがえります。あの頃は - 今も七転八倒ですが - それなりに苦闘していたな、と思うのです。

 といいますのは、研究者というのは、仕事柄かもしれませんが、「他者と同じ事をやっていては存在意義がありません」。その意味では「ロールモデル」に自分が重なってしまってはダメなのです。少なくとも僕の専門にするような分野では。

 自分の駆け出しの頃を考えてみますと、先達研究者、いわゆるロールモデルズに憧れつつも、絶対に、それらの人々とは「同じようにはならない」ように、僕は生きてきました。
 重ならないように、新たなかたちをつくることを、常に意識してきたような気がします。

 そういう意味では、僕のロールモデル"ズ"は、「自らが近づきたい対象」というよりも、「自分が重ならないように意識する方々」であったように感じます。そういう他者を、自分なりにひそかに持てたことは、自分としては、幸せなことであったと感じています。

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 最後になりますが、今回のイベントを共催いただいたコクヨ株式会社WORKSIGHT LAB.の金森さん、山下さん、ありがとうございました。そして野村さん、板谷さん、牧村さん、田中さん、お疲れ様でした。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2012年12月17日 09:20


「利益率の高い学習手法」とは何か? : 大人数一斉講義の最大受講者数は何人か?

 経営学習研究所を立ち上げ、ここを母体に、様々な「人事・人材開発に関係するイベント」を、社会で行うようになってから、半年以上がたとうとしています。

経営学習研究所(MAnagement Learning Laboratory : MALL)
http://mallweb.jp/

 どちらかというと「ドンブリ感情」、失礼、「どんぶり勘定」万歳!的で、お金のことにはトント弱い小生ですが、一応、これでも、経営学習研究所の「なんちゃって代表理事」ですので(笑・・・ほんとうにこんな僕でいいのか疑問!)、さすがに「経営」っぽい視点で物事を考えるようになりました。

 それは、確かに僕にとっては、貴重な学習機会になっています。「経営とは何か」「キャッシュフローとは何か?」「PDCAをまわすとは何か?」「組織学習とは何か?」を、すべて、次々と勃発する「具体的なデキゴトレベル」で、身をもって感じるきっかけになっていいます(笑)。だって、ひとつ間違えば、支払いできなくなるんだもん。悪いけど、ガチです。
 その中でも、まぁま、頭が痛く、つくづく思い知らされることが「学習とコストの問題」です。今日は、その話を少しいたしましょう。

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 先日も申し上げましたが、経営学習研究所は、非営利の一般社団法人であり、利益をあげたとしても、誰かが得するわけでは1ミリもありません。
 ひとつのイベントで利益があがったとしても、それは、すぐに投資に回されます。
 ひとつのイベントであがった利益は「前衛的で全く利益すらあがらない、ど赤な、イノベィティブな最先端プロジェクト」に利益が投資されるだけで、そういう意味では、「儲かることができない」構造になっています。
 しかし、わたしたちは、積極的にリスクをとって「人事・人材開発の世界で、新しいことを為しつづける」ためであれば、それでよいと思っています。

 しかしながら、くどいようですが、「前衛的で全く利益すらあがらない、ど赤な、イノベィティブな最先端プロジェクト(こうかくと、)」を為すためには、どうしても、一時的に「利益」を生まなければならないのです。
 そして「利益」を出すためには、いったい、何をすればいいのか。経営学習研究所が得意とする「学びの場の創造」という観点からすると、づいう学びの場をつくれば、利益があがるのか。
 実は、非常に単純で、簡単で、誰にでもできる方法があります。それは、みなさん、何だと思いますか?

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 それはね

「大人数一斉講義を、ガンガンすること」

 です。

 なんじゃ、そら!とお思いになったかたもいらっしゃるかもしれませんが、本当のことなのだから、しかたがありません。
 経営学習研究所のイベントでは、さすがに「大人数一斉講義」は行いませんが、いろいろなイベント運営のあり方を経験して、「大人数一斉講義」という形式が、ものすごく「利益率が高い学習手法」であることを、深く学びました。

 大人数の方に対して同じコンテンツを同時配信でき、かつ、個別のケアを必要としません。部屋も大きな部屋をドカーンと借りればよいだけです。教材もたかだか印刷物くらいです。また一斉授業なので、講師一人で行うなら、打ち合わせもたいした必要ありません。時間的コストも非常に低くなります。
 それをもって「(少人数授業と同じように)学習させた」とみなしてくれるのなら、大人数の方が、少人数よりコストは圧倒的に低く、利益は高くなります。
(学習者は決して学べてはいなくても、"情報伝達したこと"をもって"学んだ"とみなしうる権力が存在しうるのなら、上記は可能です)

 まぁ、よく知られているように「一斉授業」というのは、産業革命期のイギリスで発明された「発明品」です。それは太古の昔から、人類に存在していたものではありません。
 一斉講義は、産業革命のまっただ中において、大量に必要になった工場労働者たちに、安価に知識を届け、労働力化するための手法として開発されたものでした。だから、「利益率が高い」というのは、アタリマエのことといえば、あたりまえです。

 反面・・・・反対に「利益を生み出したい」のなら、「絶対にやってはいけない方法」があります。それは「ワークショップ」などの、少人数規模の学習形式で、ファシリテータやT.Aなどをたくさん必要とする学習手法です(経営学習研究所のプロジェクトの多くはこちらに属します)。

 少人数が対象ですので、部屋も人もたくさん必要になり、かつ、材料費やら何やらいれていくと、もっとも利益がでません。
 少人数になればなるほど、また個別のケアを多く行い、活動を魅力的にしていけばいくほど、コストがかさみます。多くの方々が集まるのなら、打ち合わせコストもバカにはなりません。
 こうしたことを積み重ねていくと、少人数形式は、利益はほとんど出ず、採算もトントンに近くなっていきます。

 これらのことは、このブログを読んでいる「学び業界?」の方々には、「あたりまえ」のように感じられるかもしれません。僕も、研究者として、これらのことは、頭ではわかっていたつもりでした。
 しかし、自分たちが、実際に様々な学習機会を創造し、その原価計算をしていくと、頭ではわかっていたことが、実感知として再確認できました。なるほどね、、、と。

 そして、同時に、こうも思いました。「コスト」のことを度外視して、「理想的な学習手法」を論じることは、どうも「片手おちの議論」を積み重ねることになる、と。
「理想的な学習手法」を片方の頭で考えていく上で、もう片方では、常にコストや実現可能性のことを視野にいれておかなければならないのだな、と。

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 誤解を避けるために言っておきますが、今日は、利益率の高い学習手法として大人数一斉講義を紹介しましたけれども、僕は、「これからは、少人数の学習機会を避けて、大人数一斉講義をしよう!」と言いたいわけでは全くありません。あのね、そこんとこ、間違えないでね。タイトルだけ読んで早とちりする人、最近増えていますので(笑)。

 むしろ言いたいことは逆です。考えておかなければならないことは、少人数の学習効果の高い学習機会を創造するときには、かなり意識的にコストのことを考えなければならない、ということです。

 また、同時に、こうも思います。

 世に、「大人数一斉講義」がいまだに支配的なのは、「コストを下げて、利益をだしたい欲望」と経営側の事情とセットなのだな、と。

 これを考える上で、すこし関連があり、かつ印象深い経験を、先日しました。
 先日、ふとしたことから、複数のの大学教員の方々と、ある話題で盛り上がったのですね。
 その話題とは、自分の大学で行われている最大の「大人数一斉講義」は、どのくらいの人数を対象にしているか?ということです。ここで集まられた方は、大学教育のあり方に真摯に問題を感じておられる方々で、かつ、様々な実践をなさっている方です。このときは、やや自嘲的に、この話題に参加しておられました。

 さて、このときの、話題に出た、大人数一斉講義の最大収容人数は何人だったと思いますか? 

 大人数一斉講義の最大キャパシティとはどのくらい?

 みなさん、予想してみてください。

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 答えは1000名です。

 さすがに、どこの学校とは言いませんが(笑)そういう授業が、ゴロゴロしているのだそうです。

 なんという利益率!

 本当に1000名を対象にした授業が、講師ひとりで成立するのかどうか、僕には(少なくとも僕は無理)、はなはだ疑問ですが、たとえば、1000名を対象にしたこの講義と30名くらいを対象にしたゼミナール形式の授業があった場合、同じ2単位取得の教育機会で、いかに前者がコストが低く、利益率が高いかがわかるでしょう。

 学生の皆さんは、自分の教育機関の「大人数一斉授業の数や割合」をぜひカウントしてみてください。そうすれば、いくら美辞麗句を並べていても、その背後に何が蠢いているかはわかるのではないでしょうか。

( 1000名の大規模一斉授業は、リアルの対面状況下における数字です。さらに、思考をすすめ、オンラインなら、どういう人数になりますか? 原理的には、おそらく無限大まで人数は増えていくのではないか、と思います)

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 話がすこしそれました。しかし、今日、皆さんとお話ししたかったことは、以前にもお話ししたことです。

「学ぶ側」においても
「学びを提供する側」においても
「学びに付随するコスト」は
 意識にのぼりずらく、ときおり「度外視」される

「学び」と「コスト」 : ソリがあわず、意識にのぼらず、語られないもの
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/11/post_1900.html

 そして

「学び」を考えるときには、そこに駆動する「コスト」の問題を見ないわけにはいかない

 ということです。

 経営学習研究所の(のっぴきならない?)経営状況は、もうしばらく続くとは思いますが、そんなことを学びながら、日々、面白いことを為すために、邁進しています。

 たとえ、コストが高くても、実験的で、前衛的で、イノベィティブなことを為し、同時に、それらの実現可能性を高めていくことが、わたしたちのやりたいことです。

 そして僕らの旅は続く・・・。

投稿者 jun : 2012年12月13日 16:14


「プレイングマネジャー」と「マネジングプレーヤー」の狭間で:マネジャー・移行・学習

 最近、ひそかに思っていることのひとつに、「マネジャー学習研究」に「移行(Transition)」という概念を強調し、かつ、このプロセスを詳細に見ていく必要があるのではないかな、ということがあります。

 かつてのマネジャー研究の前提になっていたのは、ざっくりいうと、つまり、こういうことです。

 マネジャーとは「ソロプレーヤー」とは異なる「固定的な役割」をもつ人であり、その役割を会社・組織から付与された人は、その瞬間から「プレーヤーとしての役割」を棄却し、「マネジャーという役割をパフォームするのである」ということです。

 つまり、「プレイヤーであった自分」と「マネジャーとしての自分」の間には、大きな「断絶」があり、そこはあたかも「ゼロイチの世界(digitな世界)」である、という前提です。多くの研究は、この前提を共有していますし、それに基づいて構築された研修やセミナーなどの学習機会は、カリキュラムの背後に、この前提を持っています。

  ▼

 しかし、僕の研究(調査やヒアリング結果)に関するかぎり、このような「完全なる役割転換モデル」は、「現代組織を生きるマネジャーの仕事の実状」には、あまりあっていないような気がするのです。ていうか、もっと、ドロドロしてる。

 よく言われることですが、現代のマネジャーは、0と1のディジットな世界に生きているというよりは、「ソロプレーヤーとしての時間」と「マネジャーとしての時間」をやりくりしながら、そこにときに矛盾を感じ、あるときには、それを利用しながら、生きている。

 最近の調査結果によると、9割以上のマネジャーが、何らかのかたちで、「ソロプレーヤーとしての時間」をもっていることがわかります。つまり、マネジャーといいつつも、「成果をだす自分」の部分を棄却できないでいるということです。

 これらの結果は、「多忙化」「業務負担」「二重役割」といったキーワードとともに、ネガティブな結果として語られがちです。もちろん、過剰な多忙感・業務負担は、人を苦しめ、永続的に働くことを不可能にしますので、絶対に避けられなければなりません。
 特に昨今の組織においては、ミドルマネジャーに期待される役割が、年々高まっています。組織の中で生じるあらゆる問題を解決する存在として、ミドルマネジャーが位置づけられることが多いということです。あたかも「問題のゴミ箱」のように。繰り返しになりますが、そうした現状は、反省されるべきだと僕派思います。

 一方で、マネジャーがマネジャーでありながら「ソロプレーヤとしての仕事」をもつことは、すべてが「ネガティブかことなのか」というと、過剰な労働・業務負担に苦しまない限りにおいて、そうとはいいきれない側面もあります。

「マネジャーになることの不満・不安」でもっとも多いのは「現場を離れる不安」であり、「仕事がわからなくなること / マネジメントしかできなくなることへの不安」です。

 やっぱり、多くの人にとって「現場」が、一番面白いのです。また「現場から離れることは怖い」のです。いろいろな出来事が即興的かつ連続的に起こる「現場」には、しんどさがあります。しかし、同時にその現場はやっぱり面白い。現場から離れることの辛さや喪失感は、ある程度の年齢をへた方なら、おわかりいただけるかもしれません。

 そして、ソロプレーヤーとしての側面を少しでももつことは、この不満や不安を軽減する可能性もないわけではない。それがカタルシス(感情浄化)に果たしている役割も、見過ごすことはできないな、と思います。

 まして、今の時代は、マネジャーになったからといって、この先、ずっと「マネジャーとして長期雇用される可能性」は、かつてよりは低くなっています。
 だとするならば、もし「雇用不安」に陥ったときでも、「マネジメントしかできない自分」というよりは、「ソロプレーヤとしても働ける自分」を維持していたい、と思うのは、当然のことのようにも思います。

 また「プレーヤーとしての時間」を生きることは本人以外にも影響を与えます。で、それこそ「部下が背中を見て学ぶ」「部下と同行して学ぶこと」が可能になる側面もある。また、職場の雰囲気やロールモデルをつくるため、マネジャー自身が率先垂範することも求められることもあるかもしれない。
 つまり、マネジャーでありながらも、部下や職場を動かすために「ソロプレーヤーとしての役割」を利用している可能性もあるのです。

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 もちろん、大局的かつ俯瞰的にみれば、マネジメントをはじめてから、少しずつ、「シングルプレーヤーとしての時間」は減少し、徐々に「マネジャーとしての時間」は増加していくのでしょう。しかし、それは、おそらく従来のモデルが想定していた「ゼロイチの世界」ではない。

 つまり、「マネジャーになる」ということは、

 プレイングマネジャー(プレーヤーとしての時間が長いマネジャー)
 マネジングプレーヤー(マネジメントに費やす時間が長いプレーヤー)

 の間のどこかの中間地点に、居場所を見つけて生きることなのかもしれないな、と思うのです。

 だとすれば、マネジャーは、自らの役割をいかに再学習し、移行を果たし、中間点を見つけていくのか。またあるとき見つけた中間地点をはなれ、いかに新たな一点を探すのか。このプロセスに潜む、生々しさが興味深いな、と思っています。

 上記は、思っていることを、つらつらかきました。まだ、僕自身もモヤモヤしています。「モヤモヤしたわからないこと」を、理論とデータに基づいて「言葉」にかえるのが、「研究」という営為なのですが、今、僕は、自分自身が考えていることの1%も、きちんとした「言葉」にできた気がしません。まだまだ研究途上といった感じです。

 もう少しデータと対話しながら、このあたりを考えていきたいものです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2012年12月12日 14:29


ビジネスパーソンに「教えるとき」に気をつけておきたい3つのポイント:「位置づけ」「構造」「到達点」

 僕の場合、仕事柄といいましょうか、研究の性格上といいましょうか、実務担当者・マネジャーをとわず、いわゆるビジネスパーソンなどを対象に、研修やセミナーなどで、お話しする機会が、たまにあります。

 あまりに多忙で、かつ、教育研究・学内業務を最優先しなければならないことから、ご依頼のほとんどはお断りせざるをえない状況が続いていますが(大変申し訳なく思っております)、でも、大学教員としては、おそらく、一般のビジネスパーソンの方にお話しする機会は、少なくない方だと思います。

 この10年、そのような生活をしてきて、その中で、様々な失敗を繰り返し、学んだことはたくさんあります。
 拙い講演やプレゼンテーションをお聞き頂き、ご迷惑をおかけしたかもしれない方には、まことに申し訳ない限りなのですが、その中で、僕も確実に学んできました。以下は、その経験から学んだことを少しだけ紹介したいと思います。

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 大人を対象にした研修やセミナーなどでお話しする際、大切なポイントは数々ありますが、特に、特に、特に、「クソ忙しいビジネスパーソン」が学習者である場合、必ず、留意しておきたい、必ず話しておかなければならないことがあるのですが、それは、皆さん、何だと思いますか? 

 もしかすると「留意する」とか、「話す」とかいうレベルでは、不足しているのかもしれません。
 むしろ「しつこいと思われない程度に、折に触れて、何度も何度も、繰り返し述べなければならないこと」、そういうプロセスを通して「学習者とにぎっておかなければならないこと」が3つあるのです。
 さて、それはなんでしょうか? ぜひ、皆さんも考えてみていただけますでしょうか?

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 僕の経験に関する限り、それは「位置づけ」「構造」「到達点」の3つだと思います。

 研修やセミナーには、短いものも、長いものもありますが、僕は、折に触れて、この3つを何度も何度も繰り返して述べます。時にはパワーポイントを繰り返したり、口頭だけで述べたり。あの手この手を使って、これら3つのことを学習者の意識にのぼるようにします。

「えーい、おのれ、くどいわい」と言われない程度にね(笑)。

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 第一に「位置づけ」とは、要するに、「この研修が、なぜ存在するのか?」ということを、「学習者のコンテキスト」にあわせて、きちんと最初に「意味づけておくこと」です。

 たとえば、マネジャーを対象者とした研修をする場合には、「昨今、マネジャーがおかれている状況・課題、マネジャーの興味関心をおさえたうえで、それをのべ、それとこれから「学習する内容」の関連を述べておくこと」です。

 こういっちゃうとね、そんなもん、アタリマエダのクラッカー(!?)のように聞こえますが、この「位置づけ」が行えていないプレゼンテーションというものが、いかに多いか! 位置づけのはっきりしない情報提示は、すべて忘れ去られる運命にあります。そのあとに、どんな情報提示を行っても、「なぜ、この話を聞く必要があるのか」がさっぱりわからないので、なかなか耳に入ってこないのです。
 おそらく、皆さんの研修・セミナーをレビューしてみると、そのことに気づかされるはずです。

 逆にいうと、「位置づけを行えない」ということは、どういうことでしょうか。それは「学習者を知らないこと」か、ないしは、「学習内容がふさわしくないこと」になります。

 先ほどの例で申し上げますと、「マネジャーがおかれている状況・課題、マネジャーの興味関心」がわかっていなければ、位置づけは行うことができません。つまり、大切なことは「学習者を知ること」になります。
 また「学習内容」が「学習者の状況」に関連していなければ、同じように「位置づけ」は行えません。学習者と無縁なコンテンツ提示を行おうとすれば、位置づけができないのです。

 このように考えますと、要するに「位置づけ」とは「学習者のこれまで / 今」と「これからの学習内容」に意味的連関をつくりあげる行為なのです。

 皆さんのプレゼンテーションは、きちんと「位置づけられて」いますか?

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 第二に「構造」というのは、学習内容をきちんと組織化・構造化しておくということです。

 多くの研修やセミナーでは、講師の方は、パワーポイントをお使いになる場合が多いと思うのですが、パワーポイントでも、キーノートでも、この種のツールが、もっとも苦手なことは、「情報提示が線形に行われることであり、提示内容の関係がわかりにくくなること」です。
 
 たとえば、今仮に、情報Aという大カテゴリの下に、サブカテゴリである情報B、情報Cがあるとします。また情報Bのサブカテゴリーには情報D、情報Eが存在し、情報Cのサブカテゴリーには、情報F、情報G、情報Hがあるとします。

 注意深く考えますと、上記の関係図を描くことができない人はいないはずです。要するに、Aの下にBとCの二つがある。Bの下にはDとEの2つがあり、Cの下にはF・G・Hの3つが存在する。たった、それだけ、はい、それまでよ、です。
 上記の文言では、大カテゴリー、サブカテゴリーという言葉を敢えて今は使っていますので、たぶん、この関係を間違う人はあまりいません。

 しかし、これをもし、何もしらない、初見の学習者に、パワーポイントなどで線形に情報提示し、講師がすらすらと話すだけだとしたら、学習者は、皆さんが、今あたまの中に描いた図と同じ図を、書くことができるでしょうか。
 おそらくそれぞれの情報の関連性はあまり意識できず、提示された情報の中で興味深いところをひろうだけになってしまうはずです。また、BとCのサブカテゴリー下にある情報の関連がわからなくなってしまうはずです。

 過去数十年にわたる学習研究の知見として、もはや原則といえるものの中に、「学習内容の構造化は、「学習の質」や「学習内容の現場への適応」に大きく影響を与えることが知られています。

 さて、皆さんの「教えるための資料」は、構造化されていますか?

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 最後に「到達点」というものは、言うまでもないことです。
 つまり、研修やセミナーを経験した後で、結局、学習者には「どのような状況になって欲しいのか」を明示しておくということです。

 研修やセミナーでは、多様で、異種混交の情報提示が行われます。そのような中で、到達点については、ともすれば忘れ去られがちなものなのです。うそー、というかもしれませんが、これが意外に見失われます。「あれ、結局、なんのためにここにいるんだっけ?」ということになりがちです。

 作業の合間、折に触れて、どのような状況になっていることが、目指されるべきことなのかを明示しておくことが大切ではないか、と僕は思います。

  ▼

 以上、今日は、人前で教える前に留意しておきたいポイントを、敢えて3つにしぼりお話ししました。

「位置づけが明確でないプレゼンテーション」
「構造がわからないプレゼンテーション」
「到達点が不明瞭なプレゼンテーション」

 というものは、なかなか人に「伝わらない」ものです。

 また、この3つが不明瞭であると、急に、「ビジネスパーソン」は「そわそわ」しはじめます。「お○っこ、したいのかな?」みたいな感じで(笑)。でも、それは違います。彼らが欲しているのはトイレではなく、位置づけ、構造、到達点です。
 自戒をこめて、こうしたプレゼンテーション(情報提示)を行わないようにしたいものですね。

 もちろん、これら3つは「絶対いつも必要なのか、コラ!」というと、そういうわけではありません。
 このうち、いくつかを不明瞭にしてしまうティーチングテクニック、ファシリテーションテクニックというのも存在しますが、それは、教える方が、また別のプロフェッショナリティが必要になります。 
   
 また、この3つをおよみになった方は、もしかすると、「堅苦しさ」をお感じになることもあるかもしれませんね。
 でも、特にこの3つ「以外」の点は、自由に、フレキシブルに、してもいいのです。あくまで、これらは、学習者とコントラクト(契約)しておきたい、ミニマムなポイントとお考え下さい。

 というわけで、今日は敢えて3つに絞りお話しをしました。もちろん、ポイントは他にもあるでしょう。ぜひ、皆さんも考えてみていただけますと面白いのではないかな、と思います。

 そして人生は続く。

追伸.
一応、小生、大学では「教育課程・教育方法部門」の准教授(なんちゃってですが)ですので、この種の原則、過去30年の研究知見のうち、メタ分析をへた、いわゆる原理・原則は腐るほど、あげることができそうです。
 でも、そんなに多く述べても、それこそ、伝わりませんよね。「情報を絞る」ということも、大切なポイントかもしれません。
 

投稿者 jun : 2012年12月11日 10:08


「研究」と「実践」の関係を考える場で起こりがちな3つのパターン:「あるべき論型」「オマエが悪い型」「情報交換型」

「実践現場をもつ学問」にとって、「研究者と実践者(実務家)の関係は、いかにあるべきか?」という問いは、「古くて新しい問い」です。

 定期的に、学会などで、そのような話題のシンポジウムが組まれ、学会員同士で、振り返りの機会をもったりされることが多いと思います。あるいは、同様の趣旨のフォーラムなどが、市井で開催されることも少なくありません。
 そうした議論自体は、とても貴重で意味のあることなのですが、議論の内容を聞いていて、時に、思うことがあります。

 それは、誤解を恐れず断言すると、

「本当に、両者の関係を踏まえ、何かをしようとしている人が、この中に、何人いるのか?」

 ということです(あーあ、言っちゃった)。

 ひと言でいうと、

「本当の本当に、マジのマジで、この難問を"問題"だと思って、何かをしようとしているのか?」

 ということです。

 小生、あまり意地悪い方ではないと思うのですが、思い切り無理をして敢えて「意地悪く」言えば、どうも、「実践現場をもつ学問」が、そのような機会を、「忘れた頃」にシンポジウムやフォーラムのかたちで持ち、

「一応、そういう、ややこしいことも考えていますよ。研究だけやってるんじゃないですよ。そういうことも、きちんと、ふまえていますよ、(あなたも、実践のことも)忘れていませんよ」

 という風に「体裁」をとるために「ポーズをしめしている」ように感じないところもないわけではありません。
 もちろん、そうした機会は、学会員などに内省を迫る、貴重な機会なのでしょうけれども、どこか背後に、そのような「牧歌的な雰囲気」を感じざるを得ないところがないわけではありません。

 なぜなら
 そこには
 対話がないから。

  ▼

 といいますのは、そのような場には、注意深く聞いておりますと、会の進行に「一定のパターン」があるように、僕には感じられるからです。その「パターン」に、僕の触覚は、ビビビときてしまい、どうも違和感を感じます。

 まず「あるべき論型」。

 これは「研究者と実践者の"あるべき理想の姿"を、とにかく語ることが求められており、それぞれの研究者が「自分の考えている規範」を語ります。それが「中空」になげられ、多くの議論は時間切れで終わります。

「研究者と実践者の関係論は、永遠の問いですね。今日は時間切れになりますので、また折りにふれて考えましょう。それでは解散です」

 こういう感じに終わります。

 議論の結論の多くは、「みんな違って、みんないい」になりがちです。
 もちろん「人生いろいろ、研究者いろいろ」です。各自の結論はそれぞれ「首肯」できるものなのですが、ここに「対話が起きない」ところが、まことに「面白いところ」です。
 もちろん、対話が起こって、たとえ、ひとつに「わかりあえなくてもいい」のです。そこには合意に達しませんでしたが、「対話」が起こりました。そして、その「対話」は、少なくとも「違いを把握する」機会にはなるはずです。
 しかし、多くの場合は「対話」すら起こりません。
「みんな違って、みんないい」です。

  ▼

 次に「オマエが悪い型」

 これは研究者と実践者それぞれが、同一のシンポジウムなどに登壇した場合に起こります。
 つまり、双方が、お互いに「おまえがケシカラン、だから、オマエが変われ」という風に非難・批判しあうタイプです。あまり見たことはありませんけれども、時にラディカルな登壇者が集められたときに、こういう一方通行のコミュニケーションが起こります。

「研究者が、実践のことに興味がないのがケシカラン」
「実践者が、もっと研究知見に興味をもつべきだ」

 という具合に、お互いを批判します。このパターン、実践者から研究者になった方で、かつ、ラディカルな方がいらっしゃる場合も、この場合が多いような気がします。そういう場合、「どっちの立場にたっているのか」よくわらからないのですが、いずれにしても、「研究者が・・・」「実践者が・・・」と「がの応酬」を続きます。
 行き着く先は、結局「あるべき論型」と同じです。つまりは「時間切れ」

「やっぱり、研究者はわかっていない」
「やっぱり、実践者がわかっていない」

 というかたちになります。相互の理解は深まりません。

  ▼

 一番多いのは、「情報交換型」です。
 これは、研究者と実践者が登壇した場合に起こります。お互いが、お互いの最新の研究知見、実践現場の動向(経営学習研究でいうならば、例えばA社の人材育成事例)などを、それぞれがそれぞれに語ります。

 典型的には語尾に「では」が多用されることが多いので、すぐにわかります。

「研究の現場"では"・・・・・なのです」
「最近会社"では"・・・・・です」

 それぞれの領域を相互に侵犯しないよう"では"という語尾が多用されます。もちろん、それぞれに興味深いお話しは聞けるのですが、「研究者と実践者の関係を考えている」わけではありません。あくまでなされているのは、情報交換です。

 結論は

「今日は、それぞれの現場の最新の事例が聞けましたね。というわけで、今後の研究者と実践者のあり方を考えるうえで、深い示唆が得られたのではないでしょうか。というわけで、今日は時間切れです。ありがとうございました」

 で終わることの方が多いように思います。「最新の事例」については共有できましたが、会場の中で「研究者と実践者のあり方を考えた人」は決して多くはないはずです。

  ▼

 上記3つは典型的なものでしたけれども、いかがでしたでしょうか。もちろん、特に「これらが悪い」といっているわけではありません。それぞれに「貴重な学習機会」になるのでしょうけど、「研究と実践者の関係を問い直す」会には、だいたいこういうパターンが多いように感じるのは僕だけでしょうか。

 また、ふたたび、コリもせず、「便所スリッパで後頭部をパコーン」と、ぶったたかれることを覚悟していうと、

 つまりは、

「何の変化も生み出さない会」

 になりがちだということです。

 なぜ何も生み出さないか? 理由のひとつとしてかかげられると思われるのは、そこが、

 「対話がない会」

 だからです。

 繰り返しになりますが、それは「貴重な学習機会」にはなるかもしれませんが、ラディカルに研究者と実践者の関係が問い直されることは少ないように思います。

  ▼

 この問題に対して、個人的には、最近、とみに考えてるのは、

「研究者と実践者(実務家)の関係は、"語り""議論"するだけでよいのか?」

 ということです。「研究者と実践者の関係を「議論すること」が、当該問題を考えるための定型化されたパターンである」ということ自体が、「妥当なこと」なのか?ということです。

「あるべき姿」が語られる
「相互への不信や期待」が語られる
「相互の最新情報」が語られる

 それらはそれで貴重な機会なのですけれども、若ハゲの至りで(!?)、僕個人としては、もう一歩、踏み込みたくなる衝動を抑えられません。

 つまり、

「研究者と実践者(実務家)の関係は、お互いの興味関心・利害を認識したうえで、対話し、何かを協同で"為すこと"によってしか考えることができないのではないか?」

 ということです。

 学会やフォーラムなので「規範系や責任論を語り・議論すること」も確かに大切な機会なのでしょうけれども、どうにも15年以上、同じような業界にいて、これでどうも、議論が前進した気がしません。

 といいますのは、自分がまだ若い学部生だった頃に聞いた話と、今聞く話に、それほどの変化が生まれていない気がするからです。
 
  ▼

 僕個人としては、すでに志を同じくする研究者と実務家の方々とともに、「新たなモデルの模索」に入っているつもりです。それが「経営学習研究所」という研究者と実務家のプラットフォームです。それが成功するか、どうなるかは1ミリもわかりません。が、とにかく、一歩踏み出したところという感じです。
 
mallwebsite_image.png

経営学習研究所(MAnagement Learning Laboratory : MALL)
http://mallweb.jp/

 それは、興味関心をともにする研究者と実践者が、「(本当に)自腹」で、自分たちの知的探究を可能にする組織・プラットフォームをつくり、相互に交流し、議論し、さらには「何かを為す」ことです。

 興味関心をともにするといいましたが、ベクトルや興味関心は、大筋でそろっていつつも、全く同じではありません。しかし、「その違い」を隠さず、対話し、「何かを為すこと」に挑戦しているつもりです。

 すなわち、

 経営 × 組織 × 学習 × デザイン

 の交差する領域に、理事それぞれが、仲間をつのりながら、協働するプラットフォームをつくり、何かを「成し遂げる」。

 誤解を避けるために言っておきますが、これは非営利型の組織・プラットフォームであり、理事は全く「収入」を受け取っていません。いくらイベントを開催しても、一銭も儲かりません。それは次の「知的探究」を可能にする資源として投資されるだけです。経営学習研究所は、そういう組織です。

 理事全員が「一人1ラボ」をもち、経済合理性から離れ、とにかく「面白いことを為す」。その中から、新たな関係を模索する。もちろん「経済合理性を一瞬でも離れるため」には、組織に中には、お金を含めたリソースが循環しなくてはなりません。「面白いこと」を継続的になすために、「経営」をしなくてはならないのです。

 今年、皆さんとつくった「経営学習研究所」では、次々と、実務家・研究者の方々から面白いイベントが開催・提案され、様々なコラボレーションが生まれています。今後にぜひご期待ください。来年度には、さらに枠を外し、またさらに面白い「プラットフォーム」として生まれ変わることを、個人的には期待しています。

  ▼

 何時の日か、「研究者と実務家で、ともに為したこと」から、「古くて新しい問い」を探究することが可能になるのかもしれませんが、それは、もう少し先のことのようです。

 そして人生は続く。

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投稿者 jun : 2012年12月 7日 10:33


学習者がアクティブに学んでいる場は、「意図的」か「非意図的」か?

「学び」にロマンティシズムを感じてしまう方々がよく犯してしまうある種の「錯誤」が、「学習活動に対する学習者の参加の程度」と「学びの場をオーガナイズする側の意図の有無」をトレードオフで考えてしまうことです。つまりそれらを整理して考えず「ごった煮」にしてしまうことです。

 ここで「学びの場をオーガナイズする側」とは、場合によっては、研修講師でもよいですし、ファシリテータでもかまいません。いずれにせよ、「学びの場」をつくりだす、いわゆる「サプライサイド(提供側)にいる方とお考えください。

 先ほどの「錯誤」をもっと平たくいうと、つまり、こういうことです。

 学習者が、自らの興味関心に応じて、積極的に活動に参加したり、アクティブに議論に参加している場であるならば、すなわち、そうした場には「学びをオーガナイズする側」の「意図は反映されていない。

 と考えてしまうということですね。

「学習者が、自らの興味関心に応じて、学ぶことができる」「学習者が、積極的に活動に参加したり、アクティブに議論に参加できる」というのは、講師やファシリテータが「意図的でないから」こそ可能になる。

 つまりは、

 教え手の「意図がない」ところでこそ、学び手は十全に自ら学ぶことができる

 という「思い込み」とも言えるかもしれません。

 さらにラディカルな場合は、「意図がある学びの場」こそは、もっとも忌避されるべきものであり、「意図がないこと」はAnything OKである。あるいは「サプライサイドの意図がない学びの場」は、「サプライサイド側の意図がこめられた学びの場」よりも価値の高いものである、と位置づけられることもゼロではありません。

 場合によっては、

 学びのあり方は、学習者たちの自己決定にすべてまかせればよい
 学びをどうするかは、学習者たち自らが、責任をもって決めればよい

 というかたちで、「第三者の意図的な介入をすべて放棄するパターン」もゼロではありません。
 どうにも、近年、人材育成の言説空間においても、こうした言論傾向が、過剰に強くなっているような気がして、僕は、とても気になっています。

 ▼

 学びの場は多種多様。様々なものがありますので、ここで上記に僕が述べた「錯誤」が、本当に「錯誤」であるかどうかは状況によります。それはケースバイケースです。
 
 しかし、一般的に考えて、

「どんなに学習者が目が輝いていても」
「どんなに彼らが自らの興味関心に基づいて学んでいても」
「学習者がどんなにアクティブであったとしても」

 そうした場が、「自然発生的かつ創発的的に構築された場」で、かつ、そこには「個人の、完全なる自発的意志によって、人々が集っている」状況で「ない」限りにおいて、そこには「学びをオーガナイズする側の"意図"」が駆動します。

 このことを僕に教えてくれたのは、ちょっと古い文献になりますけれども、社会学者のピーター・ウッズです。たしか学部3年の頃だと思いましたが、ひょんなことから、彼の著作を読んで、衝撃を受けたのですね。僕自身が、もっとも「学びにロマンティシズムを感じていた学生」の一人でしたから、その衝撃は、とてつもないものでした。

 ウッズは、「実践が進歩主義的なものであるか、保守的なものであるかというダイコトミーは、実践現場に駆動する意図の問題を隠蔽する」といってのけました。
「学びのサプライサイド側」の意図とは、ほとんどの場合、「常に」学びの現場に駆動しているというアタリマエのことを、彼は指摘したわけです。アタリマエのことなのですが、ともすれば見えなくなってしまうことです。

 ▼

 今日の話をまとめます。

 要するに何が言いたいかというと、「学びのオーガナイザー側の意図がある / 意図がない」という問題は「あまり問題ではない」ということです。もちろん、その「意図」の強さや、質などの「あり方」は問われる必要がある。しかし、いずれにしても、程度の差こそはあれ、どんな学びの場においても「意図」は介在する。

 むしろ「意図がないこと」を至上主義的に「よいもの」とみなし、「本来、必要な準備や介入を放棄してしまうことがよいことである」と感じてしまうことの方が、僕は望ましくない結果を生むことが多いような気がします。
 特に「学び」に過剰なロマンティシズムを感じてしまう傾向が強い場合には、この問題は深刻になりますので、注意が必要です。

 また、もうひとついいえることは、「学びの場のあり方は学習者のアウトプット」で問われればよいのであって、「意図がある空間 / 非意図的な空間」であるかはあまり問題ではない、ということです。

 自らのもつ「意図」が「自信のもてるもの」であり、かつ、他者のまなざしに触れ、自らの内省を経ているものであれば、自信をもって「意図的」に振る舞えばよいと僕は思います。

 何にも臆することなく、自信をもって、意図を持てばいいのです。
 それを隠すこと、無化する必要なんて、これっぽっちもない。

 もちろん、どう考えてもヤヴァイ意図、ペンペン草もはえない意図を自分勝手に振りかざされても困りますので、「意図」の内容とあり方は、定期的に問い直される機会をもつことが必要です。

 しかし、一般に起こりえる懸念は、下記のようなことの方がが、ずっと、多いような気がします。

「意図がないこと」を夢想して、必要な準備をしないこと
「意図がないこと」を夢想して、必要な介入をしないこと
「意図がないこと」を夢想して、学習者を投げ込んでしまうこと

 これらの方が、運悪く重なりあってしまったとき - サプライサイドとしては、「これらを(学びの観点から)よかれと思ってやっている」だけに- よっぽど、望ましくない結果を生むような気がしています。ですので、とても注意が必要なのかもしれません。

 そして人生は続く。

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■2012/12/05 Twitter

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■2012/11/30 Twitter

  • 05:58  優れた講師が、「研修運営」や「答えが決まっているタスク」に費やす時間は、そうでない講師に比べて15%少ない。一方で「双方向のアクティビティ」に費やす時間は50%多い(Ellis et al 1994)
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■2012/11/29 Twitter

  • 12:22  「研究としては成立します。でも、それ、誰に刺さるの?」「カリキュラムとしてはまとまっています。でも、それ、どんな驚きがあるの?」「イベントの企画としてはスムーズに流れると思います。でも、それ、何が新しいの?」・・・日常のルーティンをいかに超えるか。
  • 02:39  「専門バカ」で何が悪い?「ただのバカ」よりよっぽどいい。すこし社会人に言われたくらいで、いじけて帰ってくるんじゃない。
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投稿者 jun : 2012年12月 6日 10:19


ビデオで見る「工場で本がつくられていくプロセス」

 今まで本を何千冊、何万冊は買ってきたと思いますし、自分も何冊も本を書いてきたのですが、一度も、「工場で本が作られるプロセス」を、この目で見たことがなかったのは、考えてみれば「迂闊なこと」でした。まさに「うっかりはちべえ的失態」です。

 でも、たぶん、本をたくさん買われる方でも、また著者の方でも、僕と同様に、その様子を見たことがない方は、少なくないと思われます(僕だけ?)。また、いわゆる「工場萌え」な方々の中にも、書籍の製造プロセスは見たことがないよ、という方もいらっしゃるかもしれません。

 というわけで、下記に、本製造ビデオを公開させていきますので、もし「ブックラバー」or「オーサー」or「工場萌え」な方がいらっしゃいましたら、ぜひご覧下さい。なかなか面白いです。

  ▼

 このビデオ、もともとは、新刊「プレイフル・ラーニング:ワークショップの源流と学びの未来」(三省堂、上田信行・中原淳共著)の三省堂・編集者の石戸谷さんが、「新刊」ができていくプロセスを、プライベートにFacebook上でご報告いただいたのが、きっかけでした。石戸谷さんらのご許可をえて、ここでも公開させていただきます。
 とりあえず、プロモーションのことはさておき(笑)、でも、こうして見てみると、なかなか面白いですよね。

 まずは、カバーの印刷のビデオからいきましょう(三美印刷さま)。

 爆音をたてて、カバーが印刷されていきます。職員の方が、ルーペ?をもって、刷り上がりをチェックしているところが興味深いですね。

 次に製本プロセスです(福島製本印刷さま)。
 刷り上がったページが、裁断されていきます。スパン、スパンと紙を切っていく裁断機がちょっと怖いですね。ここだけは、小生にも増して、「おちつきなく」で「うっかりはちべえ」な愚息TAKUZOを近寄らせたくないものです。

 最後は、製品が、ベルトコンベヤにのって流れていきます。あたりまえのことですが、こうやって、一冊一冊つくられているのですね。

 これらの映像、まことに著者冥利につきますが、また、同時に身が引き締まる一瞬でもあります。アタリマエのことですが、責任あるものを、きちんと書かなければならないな、と思いました。

 さらには、本は著者だけの努力でできるものでは全くなく、編集・構成・印刷・営業など、様々な方々のご苦労によって、完成していることを改めて感じさせます。まことにありがたいことです。心より感謝をいたします。

  ▼

 最近、書籍の市場は、電子書籍の登場で、また大揺れに揺れておりますけれど、こういう映像を見ると、やっぱり僕は「紙の本はいいな」と思ってしまいます(小生、電子書籍を有料で購入したことはまだありません)。

 というわけで、今日は、「工場で、本がつくられていくプロセス」でした。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2012年12月 6日 06:46


【経営学習研究所・イベント参加者募集中】「〈対話型鑑賞〉を人材育成に活かす」:チームビルディング、相互理解を促す!? 、正解探し症候群を打破する!?

taiwagatakansho.jpg

 経営学習研究所(MAnagement Learning Laboratory)がお届けする新年企画「ギャラリーMALL」!。同研究所平野理事による新企画「対話型鑑賞を人材育成に活かす!」の募集がはじまりました。

 京都造形芸術大学教授の福のり子さん、阪急阪神ホールディングスグループの人材採用・育成担当である岡崎大輔さんらをお招きしての、新年「新企画」! どうぞふるってご応募ください!

「チームメンバー同士の相互理解が今ひとつすすまない・・・」
「プロジェクトにかかわる人たちのお互いの理解を進めたい」
「うちの職場メンバーは、すぐに正解を求めてしまう・・・」

 な方におすすめです!

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ギャラリーMALL:対話の場づくり入門
〈対話型鑑賞〉を人材育成に活かす
2013年1月11日 SHIBAURA HOUSE
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「チームメンバー同士の相互理解が今ひとつすすまない・・・」
「プロジェクトにかかわる人たちのお互いの理解を進めたい」
「うちの職場メンバーは、すぐに正解を求めてしまう・・・」

 このような問題を抱えていらっしゃる方は、経営学習研究所
(Management Learning Laboratory : MALL)のラーニング
イベント、年明け第一弾「対話型鑑賞×人材育成」がおすすめかも
しれません。

ニューヨーク近代美術館で学んだ対話型鑑賞の第一人者である
福のり子先生と、阪急阪神ホールディングスグループの人材採用・
育成担当である岡崎大輔さんとともに、近年、とみに注目されている
対話型鑑賞の手法を活かした人材育成の可能性を考えてみたいと思い
ます。

  ▼

対話型鑑賞とは、ひと言でいえば「アート作品を前に、皆で対話を
行いながら鑑賞すること」です。こう表現してしまえば、非常に
シンプルな鑑賞法ですが、実は、ここには様々な相互理解、チーム
ビルディングの可能性がひらけています。

いうまでもなく、アート作品には正解・不正解はありません。
作品をみたときに感じる印象が隣の人と違うのもアタリマエです。
それを用いて行われるコミュニケーションは、いわんや、多種多様に
なります。
よって、アート作品は、人が多様な意見をぶつけ合うためのベースに
なります。この多様な意見をぶつけ合う場がつくられることで、アート
作品の対話型鑑賞の場は相互理解やチームビルディングへと向かって
いくことになります。

「うちの上司、これまで気難しい人だと思っていたけど、
 意外とロマンチックなところもあるんだな」
「同じ職場のあの人、全然話したことがなかったけど、
 実は感覚が近いかも?」
「はじめは納得できなかったけど、確かにあの人の言うことも一理あるな」

のようなことが起こる可能性もあります。

・人材育成に関わっている人
・アートは知識がないのでわからないと思っている人
・同僚や仕事仲間のことをもっと理解したいと思っている人
・職場のチームづくりに悩んでいる人
・対話の場づくりをしてみたいが、やり方に困っている人

ぜひご参加ください!

  ▼

ギャラリーMALLは経営学習研究所(通称 MALL)が主催する
新しいタイプのラーニングイベントです。ギャラリー(gallery;画廊)
というメタファーから展開していくこのイベントは、

「学びに関する"作品"(場;コンセプト;ツール)
 を限られた人数で深く味わう」

ことをねらいとしています。凝った「仕掛け」や 過剰な「非日常性」
を追求せず、落ち着いた空間(過剰に演出されていない空間)で、
学びに関する"作品"をナビゲーターや作者とともに、ゆっくり鑑賞
していく、「ギャラリー・トーク」のような場をつくりたいと思います。

企画:平野智紀(経営学習研究所理事)

==================================================

□講師
福のり子(ふくのりこ)
コロンビア大学大学院で美術教育学を学んだあと、ニューヨーク
近代美術館(MoMA)にて研修。90年代はじめより、アメリカで
唯一の日本人インディペンデント・キュレイターとして活躍。
主に現代写真の展覧会を、日米およびヨーロッパにて多数企画。
日本の美術関係者を対象に、鑑賞教育の必要性とその基礎を説く
講座をMoMAと共同で開催するなど、作品と鑑賞者のコミュニケー
ションの重要性を唱えてきた。2004年度より京都造形芸術大学教授。

岡崎大輔(おかざきだいすけ)
(株)阪急阪神ビジネスアソシエイトにて阪急阪神ホールディングス
グループの人材採用・育成担当として勤務するかたわら、
ワークショップデザイナー育成プログラム大阪大学3期講座、
京都造形芸術大学ヴィジュアル・シンキング・ストラテジー(VTS)
セミナーStep1~3を修了し、ワークショップやアート作品の対話型
鑑賞を用いた人材育成の可能性を模索している。

□主催
一般社団法人経営学習研究所

□共催
京都造形芸術大学アート・コミュニケーション研究センター

□会場
SHIBAURA HOUSE
JR田町駅・芝浦口より徒歩7分
http://www.shibaurahouse.jp/about/info/

□日時
2013年1月11日(金)
18:30-21:00
開場は18:00から

□参加費・募集人数
おひとりさま4000円を申し受けます。
定員50名

□内容(変更の可能性あり)
18:00    開場
18:00-18:30 ウェルカムドリンク「ギャラリーMALLへようこそ」by 平野
18:30-18:55 〈対話型鑑賞〉を体験する(1)by 福
18:55-19:25 食事
19:25-19:55 〈対話型鑑賞〉を体験する(2)by 福・岡崎
19:55-20:00 休憩
20:00-20:10 〈対話型鑑賞〉とは by 福
20:10-20:40 ダイアローグ〈対話型鑑賞〉を吟味する
20:40-20:50 ラップアップ「対話の場づくりのヒント」by 中原
21:00    クローズ

========================================

□参加いただく条件
1. 本イベントの様子は、予告・許諾なく、写真・ビデオ撮影・
ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所ないしは、
経営学習研究所の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、
講演資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、事務局(小池)までご連絡下さい。
人数多数の場合には、繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。
admin [半角のアットマーク] mallweb.jp

3.人数多数の場合は、抽選とさせていただきます。
12/21(金)までにお申し込みをいただき、
12/24(月)には抽選結果を送信させていただきますので、あしからずご了承下さい。

以上、すべての項目にご了承いただいた方は、
下記のフォームよりお申し込みください。
http://ow.ly/fQs3v

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投稿者 jun : 2012年12月 6日 00:03