論文が読まれなくなっている!?・・・研究のカプセル化

 先日、某所にて、人文社会科学から自然科学まで、いろいろな学問分野の先生たちが集まる機会があった。「僕以外」は、その領域で素晴らしい成果をあげている研究者の方ばかりで、第一線を走っておられる方ばかりだった。

 会合の休み時間、ランチを食べながら、ふとしたことから、みんなの話題になったことが、これである。

「最近、論文がだんだんと読まれなくなってきているよね。」

 誰かがふともらした、この一言に、異領域の先生方が、皆、一様に「うんうん、そうだよなー」とうなづいたのは、とてもびっくりした。ひとつの領域に固有に存在する問題ではなくて、みんなの問題なのかもしれないな、と直感的に感じた。

 ▼

 繰り返して言うが、彼らはそれぞれの分野で第一線を走る研究者である。決して、彼らが「怠惰であるがゆえに、論文を読まない」とか、「もう研究者として一線を退いたから論文を読まない」とか、そういうことでは断じてない。

 第一線を走るいろいろな領域の研究者が、皆が皆、同じように「論文が読まれなくなってきた」と感想をもらしているのが、非常に興味深いのである。

 理由は、いろいろあるけれど、要するにまとめるとこういうことだ。

 ▼

 現在の科学は、非常に細分化されてきている。その細かさは、数十年前の比ではない。果てない細分化を繰りかえし、そもそも、同じことを探求する研究者の数が、どんどんと減っていった。

 分野によっては、研究者同士が、なるべく研究領域が重ならないように重ならないように配慮するような動きが生まれる。そうすると、同じ研究テーマを選ぶ人が、そもそも少なくなる。

 さらに細分化した領域においては、ほんの少しの先行研究との差異を、研究テーマとして選ばなければ、なかなか論文として採録されにくい。

 Publish or perishの風潮が高まり、大胆な研究テーマを選ぶより、確実に論文として掲載される、非常にミクロな研究テーマを進めるようになった。
 ゆえに、一言でいうと「重箱の隅をつつくような研究」が増えることになった。投稿される論文数自体は、比較にならないほど増えている。いわば、論文インフレーションという具合に。

 しかし、細分化し、なかなか研究テーマが重ならず、重箱の隅をつつくような研究が増えれば、その研究は「カプセル化」しはじめる。
 論文として採録されるという意味での生産性はあがるものの、他者との通行や、オーディエンスを失い始める。

 そもそも重ならないように配慮して研究テーマを設定しているから、どんどんと研究の積分性(つみあげること)は失われ、論争が失われ始める。同じテーマで論争しているくらいなら、ほんの少しの他者との差異をつくりだし、自分の土俵で勝負していた方がよっぽど生産性があがる。

 おまけに現在の高度に発達し、スピードが求められる研究環境では、「追試」というものが、そもそも行いにくい。
 細分化した諸条件を、自分のラボで完全に再現するのも一苦労だし、「追試」を行っても、あまり評価されない。
 追試を行っている暇があったら、自分の研究テーマを探求した方が生産性があがる。

 かくして、論文が、オーディエンスを失う。科学者ひとりが提起した「わたしの問題」が、「みんなの問題」にならない事態が生まれる。

 ▼

 けだし、論文が読まれなくなる事態は、このように研究の高度化、細分化、さらには研究者のサバイバルストラテジー(生き残り戦略)などが密接に、かつ、複合的に絡み合って起こっている事態であるように思う。科学はさらに今後も高度化、細分化の度合いを高めていくだろう。ゆえに、このままでは、現在よりもさらに事態は深刻になることは容易に予想できる。

 誤解を避けるために言っておくが、この問題は、「研究者が社会のために役に立ちたいと思っているとか、思っていない」とか、そういう次元の問題ではない。また、細分化した領域において地道に積み重ねられる研究の価値がない、とか、あるとか、そういう次元の問題ではない。
 現在起こっている事態は、研究の高度化、細分化、そして研究者をとりまく社会的状況によって「必然的に引き起こされた結果」であると考えられる。

 もちろん、このような事態が起こっているからといって、明日あさってに論文というシステムが機能不全に陥ることはないし、論文を生産することが研究者の垂直的な発達の指標として機能することは、おそらく失われない。また、研究の生産性は今日よりも明日の方が重要になってくるだろう。

 こうした動きが、すべてのサイエンスの領域で起こっているかどうかは、僕は知らない。また、こうした問題が科学技術論や、科学技術コミュニケーションの領域で、すでに議論されているかどうかは、僕は専門外なのでよくわからない。あくまで、その場で、多くの先生方が共感した問題であった、というだけである。

 しかし、もしこの事態が、万が一、仮に様々な領域で進行している共通の事態であるとするならば、少し立ち止まって考えるべき問題であるような事態のように感じる。

 「結局、研究とは、何のために、誰のために存在するのか」

 深く考えさせられる。

投稿者 jun : 2010年1月30日 07:00


ツイートプロフェッサー:教師の方も学んでいる!

 青山学院大学大学院、集中講義が終わった。「組織社会化論」「経験学習論」「職場学習論」「組織学習論」「越境学習論」という5つのアプローチから、「働く大人の学び」について考える、という内容であった。

 今年は20名近くの社会人大学院生が参加した。民間企業につとめる方が最も多いけれど、現役の助産師さん、学校の先生などもいらっしゃって、非常に面白かった。

 授業は、

 1)冒頭10分程度で中原からのイントロダクション
 2)基礎的文献のグループ発表
 3)中原からの補足説明
 4)グループディスカッション
 5)教室内ディスカッション

 というかたちで、講義を進めた。

 今回の授業では、僕が授業中に思ったこと、気づいたことを「Twitterでつぶやく」というのをやってみた。
 実は、教員の方も教えながら、「学ぶこと」「気づくこと」が少なくないのである。授業にのぞむとき、「Teacher as learner(学習者としての教員)として関わっている側面もある。
 で、今回の授業では、その気づきをつぶやいてみることにした。「ツイートプロフェッサー:つぶやく大学教員」を体現するのである。

 一般に、通常の授業で、教員は常に授業自体の進行を考えているために(僕の授業はインタラクションが中心なのでなおさら、、、学習者がどこから意見やアイデアがでてくるかわからないから、ものすごく緊張する)、そうやって考えたことは、忘却のかなたに消える。
 あるいは、考えたこと、気づいたことは黒板に板書することはあっても、次の時間がはじまってしまえば、すべて消されてしまう。今回は、これらをツイッターでリアルタイム=ドキュメンテーションすることを試みた。

 Twitterをつかって「つぶやいた」おかげで、それはすべて残っているし、どこからでもアクセスすることができる。さらには、授業を受けていなかった人にもそのプロセスが見え、時にはコメントなどをもらうことができて、面白かった。

 僕のつぶやきの一部を見てみよう。

●大学院授業。私見では、組織学習論には2つの異なる理論系統が存在する。ひとつは、知識を"情報伝達プロセス"として見る組織学習論。ひとつは、知識を"社会プロセス"としてみる組織学習論である。

●元来、ウェンガーが提唱していたのは、Communities of practiceである。「Communities」という「複数」であることに注意が必要。人は、単一の組織Communityではなく、Communitiesという多層空間に生き学んでいる、という人間観がある。

●看護士さんの熟達。学生時代は、患者-看護師の1×1の看護しか行わず、また夜勤はない。しかし、現場にはいると、ナースコールが同時期に頻発し、1×nの多重課題を優先順位のもとこなすことが求められる。このリアリティショックを軽減させる取り組みがはじまっている。面白いなぁ、他人の職場は。

●「キャリア」という言葉は、アカデミアと実務の世界で定義が異なる。実務のそれは「昇進」「異動」「ポジション」。アカデミアのそれは「一生涯にわたる仕事の経験や活動や態度」(Hall 2002)。キャリアは第三者に認定されるものではない。あくまで個人が見いだし、考えるものである。

●大学院授業。文脈越境学習論。私見では、文脈越境による学習とは、「越境前の場所」と「越境先の場所」を行きつもどりつしながら、そのどちらの人にもならず、アイデンティティをうまく使い分けて、「越境前」でも「越境後」でもない、「第三の場所」を自らデザインすることである。第三の場所は、存在でも、認識でもない。越境するあなたが、デザインするものである。

 結構いろいろ考えてる風だよね(笑)、、、我ながら。
 とても面白いね。

  ▼

 来年度の青学集中講義は、夏に実施されるそうである。
 その頃、僕は何を「つぶやいている」のかな、、、と思う。

投稿者 jun : 2010年1月29日 09:29


学びの認知科学事典

 東北大学の渡部信一先生が編者、青山学院大学の佐伯胖先生が監修をなさった「学びの認知科学事典」(大修館)が、いよいよ発刊されます。大御所の先生たちの背後で、ひそかに、シレッと、小生も末席に加えていただき、1章を書かせていただきました。

 まだ、なぜか、AMAZONでは購入できないようですが、もしご興味がおありの方がいらっしゃいましたら、ぜひ、手にとっていただけるとうれしいです。

 編者をなさった渡部信一先生は、非常にご苦労なさったことと思います。この場を借りて御礼申し上げます。お疲れ様でした。

「学び」の認知科学事典
http://www.ei.tohoku.ac.jp/watabe/jiten.html

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もくじ                       

序章 「学び」探求の俯瞰図  渡部信一

《1》「学び」をどう考えるか
1.学ぶことの二つの系譜  松下良平
2.「学び」に関する哲学的考察の系譜  今井康雄
3.江戸の学び  辻本雅史
4.「ケアリング」としての「学び」  生田久美子
5.学習の実験的領域・学習の社会理論のための覚書 福島真人
 
《2》子どもの「学び」
1.生活での学び 学校での学び 浜田寿美男
2.遊びと学び 麻生武
3.仲間関係の中での学び 無藤隆
4.模倣と「学び」 佐伯胖
5.「学び」の発達・生きたことばは学びの世界を拓く 内田伸子        
6.障害のある子どもの学び 藤野博 

《3》生涯を通した「学び」
1.現代社会における大学生の学びとアイデンティティ形成 溝上慎一
2.大学における学びの空間 山内祐平 
3.大人の学び─熟達化と市民リテラシー 楠見孝
4.企業における学び 中原 淳 
5.老人の学び 権藤恭之

《4》「学び」のメカニズム
1.学びの脳科学・神経心理学から 山鳥重
2.学習における力学系/身体性/意識 池上高志
3.学びとワーキングメモリ 苧阪満里子・苧阪直行
4.言語の習得 辻幸夫
5.動物の学び 川合伸幸

《5》 関係と状況の中での「学び」
1.関係論的学び論・関係発達論の立場から 鯨岡峻
2.文化・歴史学派の理論とその展開 高木光太郎
3.生態学的学び:知覚と行為の相補的発展 三嶋博之
4.学びの評価 松下佳代
5.学びのデザイン・協調的な学び 三宅なほみ

《6》「学び」とテクノロジー
1.テクノロジ利用による学びの支援  大島律子・大島純 
2.「学び」と身体空間 阪田真己子
3.認知ロボティクスにおける「学び」小嶋秀樹 
4.リソースの中に埋め込まれた学び
  次世代ロボット創出プロジェクトの実践から 岡田美智男
5.超デジタル時代における「学び」の探求 渡部信一

おわりに 佐伯胖

投稿者 jun : 2010年1月28日 09:41


合コンで名刺をだしたときの一言

「うちの会社には2種類の人種がいると思っています。"合コンで名刺をだしたときに女の子からいわれる一言"で、その2種類の人種を区別できますよ・・・」

  ・
  ・
  ・

 ある研究のインタビュー調査で、先日、耳にした若手の言葉です。
 若手のビジネスパーソンを対象にしたインタビュー調査は、ずいぶん前にもやったことがあります。35歳くらいまでの若手の方々に「自分の職場」、あるいは自分の「仕事を通じての成長」についてインタビューをさせていただいているのです。僕の腹づもりでは、3月までに、30名ほどの方にインタビューをさせていただきたいと考えています。

  ▼

 インタビューをしていると、思わず「若手のリアルな本音」が漏れてくることがあります。その中でも、何人かの方から、「会社の中には、成功経験を共有できている世代とそうでない世代がいる」という話がでてくることがあります。

 典型的には下記のようなストーリーです。

「うちの会社には2種類の人種がいると思っています。成功世代と失われた世代です。つまり、バブル期に強烈な成功体験を経験した世代と、バブル後の何もかも灰色にしか見えない若い世代です。

成功世代は、合コンにいってうちの会社の名刺を出せば、女の子から、"キャー、○○さんの業界、すごいんでしょ」と言われた世代です。自分の会社や事業に絶大な自信をもっているし、それが揺るぎないものだと思っている。

でも、今、自分のような灰色世代が、合コンで、うちの会社の名刺をだしても、"最近、○○くんの業界って危ないんでしょ?、大丈夫?"としか言われません(笑)。こんな状況だと、若い世代は危機感をもたざるをえないんです。

でも、上の人には、そういうものがない。あと20年もあるハズのに、"自分だけはまだ逃げ切れる"と思っている。もっと上の世代はいいんです、、、逃げ切れますから。でも、自分とちょっと上の世代は、この時代の変化を逃げ切ることはできないんです。だって、冷静に考えても、20~30年もあるんですよ(笑)。

同じ会社でも、それだけ違うんです。でも、会社は一致団結して物事に取り組めという。でも、どうやって、みんなで、同じ未来を見据えろ、というのでしょうか」

 ・
 ・
 ・
 
 思わず言葉を失います。

 もちろん、こうした若手の意見に100%与するわけではないですし、それが事実かどうかはわかりません。当然、上の世代も言い分はあるでしょう。世代間ギャップはいつの時代に存在しており、それをことさらにあおることは、僕の本意ではありません。

 しかし、それが複数の若手ビジネスパーソンから語られる、典型的なモティーフであることは「事実」です。

 ここで重要なことは、おそらく「合コン」ではありません(笑)。まして、誰かだけが「悪く」て、誰かだけが「よい」ということではないように思います。

 そうではなく、

「ある時期に会社や業界が上り調子だったときの成功体験をもっている世代と、成功体験をもっていない世代のあいだのギャップをいかにするか」

 ということです。その違いが、職場で起こっているさまざまな事柄、たとえば、チームワークが保てない、めざすゴールを共有できない、といったような問題に影響を与えているのかもしれません。
 
 ここで、両者の違いは、Epistemology(認識)の違いです。そして、この認識は、若い頃の経験に深くねざし、そこから「学習」されたものです。それを学習棄却(Unlearn)することは、当然、容易なことではありません。
 両者の認識の違いも「経験」にねざしているだけに(合コンで、もてた、もてなかった、という経験だとしたら、さらにやっかいかも・・・笑)、やっかいなのかもしれません
 。なぜなら、「ある人の経験」は、なかなか否定できないものだからであり、反証されるべき類のものではないからです。経験は常に絶対化しやすく、あなたの視野を、あなたに気づかれるまもなく、縛ってしまいます。

 同じ会社につとめながら、「キャー」と言われつづけてきた世代、「あんたの会社、大丈夫?」と言われている世代・・・。

「僕は、自分とは"違う人種"だと思っていますから」

投稿者 jun : 2010年1月27日 09:33


コミュニケーション不全:職場の中の孤独を克服せよ:次回Learning barのお知らせ

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Learning bar@Todai 2010

「コミュニケーション不全:職場の中の孤独」を克服せよ!
社内に「楽しく、つながり、学べる場」をつくる!?
リクルートエージェント【ちゑや】の挑戦

2010年2月12日(金曜日)午後6時00分 - 9時00分
東京大学 情報学環 福武ホール B2F
福武ラーニングシアター
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おばんでした、中原です。

(僕の故郷・北海道では、夕方他人の家を訪問したときの挨拶
は"おばんでした"です。なぜか過去形で発話されるのです)

今年最初のLearning barのお知らせです。
最初のLearning barは、2月12日に開催すること
になりました。
 
テーマは、

 「コミュニケーション不全:職場の中の孤独」を克服せよ!
 社内に「楽しく、つながり、学べる場」をつくる!?
 リクルートエージェント【ちゑや】の挑戦

です。

リクルートエージェント【ちゑや】
http://japan.zdnet.com/sp/feature/09company/story/0,3800092607,20395872,00.htm

  ▼

成果主義の徹底によって、職場メンバーの「コミュニケーション」
「協力」が失われる...

中途採用が急拡大し、顔の知らない人が職場に増えていく...

ネットの浸透によって、1メートル先のメンバーも
メールでしかやりとりしない...

昨今、「職場におけるコミュニケーション不全」の問題が
取り上げられることが多くなりました。
「職場の中の気付かぬ孤独」・・・程度の差こそはあれ、
誰もがこれを経験しています。

若手の成長の問題、知識の移転の問題、イノベーションが
生まれない・・・現在、企業で生まれている課題の「根」
には、この「コミュニケーション不全」の問題が横たわっ
ていると感じます。

...とはいえ、、、この問題を何とかしようとして、

 さぁ、皆さん、コミュニケーションをしましょう!
 みんなで、和気藹々と話しましょうよ!

と声高に叫んでも、いまいち集まりは悪いですし、
盛り上がりません。

多大な費用をかけてリラックススペースやコミュニケー
ションスペースをつくっても閑散としてしまうことが少
なくありません。

誰もが、日々の雑事に追われ、「終わりなき日常」を
過ごしています。そのような人々の心を魅了する施策とは
いったいどのようなものでしょうか。
 
コミュニケーション不全・・・いったい、私たちは
何に「乾いている」のでしょうか。そして、わたしたち
には、何ができるでしょうか。

社員が集い、つながりを深め、さらには学ぶこと、
変わること、変えることのできる「場」を、いかに
社内につくりだすことができるのでしょうか。
 
今回のLearning barでは、リクルートエージェントで
【ちゑや】とよばれる活動をなさっている中村繁さんを
お招きして、この問題に対して、皆さんでディスカッション
する機会をもちたいと思います。

【ちゑや】は、社員同士が部署・肩書き・経験の差を乗り越えて
活発にコミュニケーションができる非公式の場でありながら、
会社の公式の組織図にも存在する活動です。

【ちゑや】は、「コミュニケーションしましょう!」というかけ声でも
なければ、「コミュニケーションスペース」でもない、もちろん
「研修」でもないアプローチで、この問題に迫ります。

 ▼

参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、1月30日までに
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまでご連絡
下さい。抽選の結果、1月31日までに参加可否をお伝え
いたします。

下記の要項を必ずご一読いただき、ご応募をお願いいた
します。

  ▼

 なお、最近、Learning barは満員御礼が続いており、
参加登録いただいても、すべての方々の御希望にはお応
えできない状況になっております。

 会場を変えて、何とかこれに対応していますが、限ら
れたスペースと人的リソースの中で運営し、かつ、参加
者のバックグラウンドの多様性を確保する必要がある関
係上、すべての方々のご要望にはお答えできません。

 主催者としては心苦しい限りですが、なにとぞお許し
ください。
 
       主催:中原 淳(東京大学・准教授)

※Learning barは、NPO法人 Educe Technologiesが
主催、東京大学大学院学際情報学府 中原研究室が
共催する、実務家と研究者が集まる学術イベントです。
 
 ---

○主催
 NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
 エデュース・テクノロジーズ
 http://www.educetech.org/
 
 EDUCE TECHNOLOGIESは、「学び」に関する調査
 研究開発、コンサルティングを行う非営利特定
 活動法人(NPO)です。
 
 企画担当
 副代表理事 中原 淳
 
 
○共催
 東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
 - 大人の学びを科学する研究室 -
 http://www.nakahara-lab.net/
  
 
○日時
 2010年2月12日(金曜日)
 午後5時30分 開場
 午後6時00分より午後9時00分まで実施
 
 ※時間が限られておりますので、定刻通り
 に始めます。本郷キャンパスは意外に広い
 です。くれぐれも、迷子になりませんよう。
 
 
○内容(案)

 □ウェルカムドリンク
 (5時30分 - 6時00分)
  ・今回のLearning barでは、軽食、ソフトドリンク、
   ビール等をご用意しています。
 
 □イントロダクション
 (6時00分-6時10分)
   ・中原 淳(東京大学)
 
 □パート1
 【ちゑや】の「場」で起きている事は何か?
始めたキッカケは何だったのか?
 (6時15分 - 6時45分)
 (30分講演)
  ・中村繁さん(リクルートエージェント)

 ・・・会社の中に存在する様々なコミュニケーションの壁
 を乗り越える【ちゑや】の活動をご紹介します。

  <ようこそ先輩!><ココロとカラダの元気術>って?
  <海老原塾><のりお食堂><実践「匠」道場!>って?
  <ちゑや食堂><介在価値LIVE><夜会>って何?
 Before~On~Afterに拘る理由。「動脈」ではなく「静脈」。
 自然職「しかるべき姿を一緒に考え 自ら乗り越える」とは?

 --- bar time (15min.) ---

 □パート2
 「場」が意味する:仕事 - 自分- 職場
   一緒に考え 自ら乗り越える。
 (7時00分 - 7時30分)
 (30分講演)
  ・中村繁さん(リクルートエージェント)

 ・・・【ちゑや】の運営をどのように行っているのか、
 そして、【ちゑや】はどのようなインパクトをもたらしているのか
 をご紹介します。

  「職場の中の気付かぬ孤独」
  「教育担当者は半年前の先輩」
  「やるべき事をやってから言おう!?」
  「公私混同は×!?」
  「必要に迫られた会話」
  『人となり』がコミュニケーションの密度とスピードを数百倍上げる」
  「○○屋」「非日常」「LIVE」に拘るのは何故か?
  「ちゃんとやらない」事が大事。
  誰もが本来持つWants(>Must)がエンジン。
  越え難い壁とココから先の【ちゑや】。

 --- bar time (15min.) ---

 □お近くの方とディスカッション
 (7時45分 - 8時20分)
 (35分)
 
 □質疑
 (8時20分 - 8時50分まで)
 (30分)

 □ラップアップ
 (8時50分 - 9時00分まで)
 (10分)
  ・中原 淳(東京大学・准教授)
 
 
○場所
 東京大学 情報学環 福武ホール
 地下2F 福武ラーニングシアター
 http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/access.html

 地下鉄丸の内線本郷三丁目駅から徒歩15分程度
 地下鉄南北線東大前駅から徒歩10分程度
 
 (赤門の横です)
  
  
○参加費
 4000円(1名さま 一般・学生)
 (講師招聘費用、会場費、飲み物、食べ物、
  運営費等に支出いたします)

 本イベントで剰余金が発生した場合は、NPO法人 Ed
 uce Technologiesが企画する、組織人材育成・組織
 学習に関係するシンポジウム、研究会、ワークショ
 ップ等の非営利イベント等の準備費用・運営費用、
 および、研究費用に充当します。
 
 
○食事
 ソフトドリンク、ビールなどの飲み物、および
 サンドイッチ、ベーグルの軽食をご準備いたします。
 
 
○参加条件

 下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
 申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
 いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は写真・ビデオ撮影します。
写真・動画は、NPO Educe Technologies、東京大学
中原研究室が関与するWebサイト等の広報手段、講演
資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供
することがあります。

2. 欠席の際には、お手数でもその旨、
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
ご連絡下さい。
人数多数のため、多数の方の参加をお断りしている
状況です。繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。

3.本イベントで剰余金が発生した場合は、NPO法人
Educe Technologiesが企画する、組織人材育成・
組織学習に関係するシンポジウム、研究会、ワーク
ショップ等の非営利イベント等の準備費用・運営費
用、および、研究費用に充当します。


○どうやって参加するのか?
 
 下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 1月29日までにお申し込み下さい


〆ココカラ======================================

 参加申し込みフォーム
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 1月29日までにお申し込み下さい
 
 抽選の上、1月31日までに参加の可否をご連絡
 させていただきます

 ---

 上記の参加条件を承諾し、参加を申し込みます。

○氏名:(            )
○フリガナ:(          )
○ご所属:(            )
○メールアドレス:(       )

○業種の選択:下記の11つの属性から、あなたに
最も近いものをひとつお選びください

 1.研究者
 2.学生
 3.民間教育会社勤務
 4.民間コンサル会社勤務
 5.事業会社勤務(人事・教育部門)
 6.事業会社勤務(事業部門)
 7.個人事業主(教育・コンサル)
 8.経営者
 9.初等・中等教育の学校勤務
 10.公務員・公益法人等勤務
 11.その他

○もしあれば・・・一言コメント
(                )

〆ココマデ======================================

投稿者 jun : 2010年1月24日 23:07


小林弘人著「新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に」を読みました!

「新世紀メディア論-新聞・雑誌が死ぬ前に」を読みました。

 著者は、インターネット文化をつたえる「ワイアード」日本版を創刊し、有名人ブログ、ブログ出版などに火をつけた小林弘人さん。
 本書は、新聞社の業績不振、雑誌の相次ぐ休刊などの、いわゆるメディア不況を背景に、今後のメディア・出版業界がどのようになっていくのかを、インターネットの側面から論じたものです。

  ▼

 その主張を、僕なりに、僕の印象に残ったところを中心にまとめるとこうでしょうか(時折僕の言葉も入っています)。
 
 まず、著者は、インターネットの時代にあっては、「あらゆる組織がメディア化していく」と断言します。これを「誰でもメディア」という言葉で表現します。いわゆるマスメディアでなくても、個人から事業会社にいたるまで、あらゆる組織が「メディアになる可能性」を秘めているのです。

 そのうえで、マスメディアとパーソナルメディアの真ん中にあるような、いわゆる「ミドルメディア」、本書においては「マジックミドル」が勃興してくることを予測します。いわゆるロングテール理論でいえば、ちょうどグラフの中心あたり、トルソーにあたる部分のメディアです。

 ミドルレベルの「誰でもメディア」は、特定の分野、特定の領域を専門にした、数千人を対象としたメディアです。これまでのマスメディアが「一方的に情報を垂れ流すブロードキャスト」を志向していたのに対して、「誰でもメディア」は「ターゲットキャスト」を志向します。

 このメディアは、この数千人を対象としたコミュニティを組成し、コミュニティの「温度」を察知したうえで、コミュニティに「刺さる」コンテンツを生み出すことが求められます。また、関連する分野のメディア同士が、お互いをモニタリングしあい、ときにアライアンスを組むことが求められます。こうした連携によって、マスではなく、インフルエンサーをねらい、アテンションという資源を確保します。高度に情報が発達した時代にあっては、アテンションこそが「資源」なのです。

 他にもいろいろと面白い指摘、ハッとするようなインターネットのサービスについて書かれてありますが、だいたいこんなところでしょうか。

  ▼

 著者の指摘は、僕自身のメディアやインターネットに対して思っていることにかなり近かったですし、また、今、自分の身の回りで起きている「出来事」を説明しているような気がして、非常に共感できました。

 僕自身は、この本で取り扱っている「新聞や雑誌の死」というものには、実は、あまり興味はなく、本書を「誰でもメディアの時代を生き抜くための個人の生き方本」として読みました。

「誰でもメディア」の時代にあって、メディア化するのは、必ずしも「組織」ではなく、まさに「個人」であります。それでは、そういう時代を走り抜ける人々は、どのようなことに留意するべきなのでしょうか・・・僕自身は、本書をこういう視点から読んだということです。

 蓋し、特に「誰でもメディア」の時代にあって、さらに必要になるのは、高度な情報処理を行う能力、いわゆる「編集の力」であり、また、企画から配信までをトータルに行うことのできる「デジタルの能力」なのかな、という感想を持ちました。

  ▼

 これまではメディアというと、いわゆるマスメディアの人々だけの問題でした。しかし、「誰でもメディア化」した世界では、メディアやテクノロジーとどう向き合うのか、それをいかに利用するのかは、今を生きる「誰でも」の問題だと思います。

 自分や自分の仕事をどのようにメディア化するのか

 今、そのことが問われている気がします。

投稿者 jun : 2010年1月23日 05:28


いよいよ明日です、サードプレイスコレクション2010

 明日は、青山学院大学大学院での集中講義です。今年はなにやら20名近い受講生の方がいらっしゃるようで、うれしい限りです(去年は2名)。ありがとうごぜーますだ。

青山学院大学 社会情報学研究科 ヒューマンイノベーションコース
http://www.gshi.aoyama.ac.jp/index.html

 明日から早速、人材発達支援論、職場学習論の基礎的文献を読みます。どんな発表がなされるか、非常に楽しみです。

  ▼

thirdplace_logo.jpg

 ところで、明日、いよいよサードプレイスコレクション2010が、六本木のスーパーデラックス(Superdelux)というクラブで開催されます。
 六本木スーパーデラックスというと、現在、ノリにのっている「ハコ=クラブ」ですね。クラブっていっても、そのクラブじゃないのよ、、、お父さん、気をつけてね、僕も気をつけるから(笑)。
 このクラブは、多くのクリエーターが集まる「ぺちゃくちゃナイト」を実施していることでも有名です。

 サードプレイスコレクションを構想しはじめたのが去年の8月。いよいよ、ここまできたか、という感じです。

 現在、ワークショップ部の舘野君、安齋くん、牧村さんが、ヒーヒー言いながら、最終準備をしているようです。まだ大学だって・・・これから夜を徹するのでしょうか。。。でもね、かつて、学び系のイベントで、六本木のクラブで開催されたイベントがあったでしょうか。これは、彼らの挑戦でなのです。明日のイベントのハッシュタグは「#tpc2010」です。ぜひ、彼らに激励のメッセージをお願いします。

 僕も、プレゼンをつくり、衣装を注文したけれど、まだこないんだよね・・・。
 まぁ、まだまだ、いろいろやることがあります。

ワークショップ部
http://utworkshop.jimdo.com/

サードプレイスコレクション2010
http://utworkshop.jimdo.com/2009/12/31/thirdplacecollection2010/

六本木スーパーデラックス
http://www.super-deluxe.com/

 明日が楽しみです。

 明日のサードプレイスコレクション2010は、ハッシュタグは、「#tpc2010」にてリアルタイム実況中継がなされるようです。すでに、前夜から、いろいろつぶやいている人がいますよ!

 それでは、明日、六本木でお会いしましょう。
 おやすみなさいませ。

投稿者 jun : 2010年1月22日 21:55


三島亜紀子著「社会福祉学の科学性:ソーシャルワーカーは専門職か」を読んだ!

 三島亜紀子著「社会福祉学の科学性:ソーシャルワーカーは専門職か」(剄草書房)を読んだ。

 専門職を支えるためには、科学的で網羅的な知識体系が必要だと言われている。たとえば、医者・弁護士などの専門職では、それが確立している。
 
 ソーシャルワーカーにおいても、それを確立しようとする動きがかつてあった。本書は、ソーシャルワーカーが専門職として自律しようとするプロセスを歴史的に読み解こうとする。ミシェル・フーコーのアルケオロジーを社会福祉の領域に重ね合わせようとしているようにも読める。個人的には「専門職とは何か」について考えるための良著だと感じた。

  ▼

 ソーシャルワーカーの専門職樹立は、当初、「医学」をモデルとしながら、「知識の体系化」「技術の科学化」を両輪に進行する。しかし、ポストモダンの学問的潮流(本書では、反省的学問理論)を受け、その試みに軌道修正がはかられはじめる。

 反省的学問モデルは、医学モデルを継承しようとしたソーシャルワーカーの立ち位置に、文字通りの「反省」を迫った。専門家と利用者のあいだは対等な関係とされ、両者が紡ぎ出すナラティブこそが治療と位置づけられる。

 しかし、治療とは「リスク」を抱えることである。そこに「リスク」が存在する限りにおいて、「治療」は科学的に適切な処遇を求められる。この処遇の適切性を担保するために生まれたのが、いわゆるEBM(根拠に基づく治療:Evidence-Based Medicine)であった。

 現在ソーシャルワーカーをささえる理論群は二分化されている。著者の言葉を借りるならば「片手に反省的学問理論、片手にデータに基づく権限を手にした専門家」といった具合に、一人の人間の中に拮抗する理論体系を保持しながら、日々、実践にあたっている。そして、その理論群の境界、いわゆる閾値は常に揺れ続けている。

 本書の僕なりの理解は、だいたいこんなところだろうか。

  ▼

 三島氏の「片手に反省的学問理論、片手にデータに基づく権限を手にした専門家」という指摘には、非常に共感できるところがある。僕自身がその典型的な一人だと思う。
 また、やや拡大解釈を行うのなら、自分が研究対象にしているビジネス領域の専門家像、あるいはマネジャー像においても、ソーシャルワーカーほど明示的ではないものの、両者の理論群が拮抗し、時折葛藤を起こしている状況にあるように感じる。

 「片手に物語、片手に科学をもった専門家」

 科学「だけ」を抱える、物語だけを紡ぐ「だけ」なら、矛盾や葛藤を引き受けなくてもよかったのに。しかし、もう、元いた場所には戻れない。

投稿者 jun : 2010年1月21日 09:42


「他者からのフィードバック」を自らデザインする

 近況。
 
 早朝、大学研究室へ。
 せっせと自分の仕事をこなす。ここしか、僕の時間はない。

「職場学習論」(東京大学出版会)は書き殴り状態。何とかかんとか6章まで書き殴る。あと1章書いたら、1週目終わり。2週目以降は、加筆・修正モードに入っていく。ここまで書くと、以前の章で直さなければならないところが多々でてくる。何とか走り抜きたい。

 組織科学会、夏の学会発表の投稿原稿をつくる。手堅いけれど、結構、よい結果がでた。ようやくコツをつかんできた。

「経営行動科学ハンドブック」「学び学」(東京大学出版会)の原稿は、いまだ手つかず。引き続き頑張るしかない。

  ▼

 センタースタッフ会議。
 試験のCBT(Computer Based Test:コンピュータテスト)化が起こった場合の大学・企業へのインパクトについての議論。テストの変化は、「人物選定基準」の変化を意味する。そして、それは教育課程の内容にも、当然影響を与える。遠くない将来、大きな社会変動が起こるのかもしれない。

  ▼

 お昼、大島先生(静岡大学)とパワーランチ。大学と企業の関係のあり方などについて話をした。

 企業が必要な「人材スペック」を定義して、大学がその人材育成を「下請け」するような関係には陥らないためにはどうするか。大学が自信をもって教育的価値を社会に提案するにはどうするか、について。その場合の大学経営のあり方について議論をした。
 
 大学には、「社会に適応する人を育てる」という役割と、「社会には存在していない破壊的イノベーションを生み出す人を育てる」という、一見相反する二つの役割を担っているのかもしれない、なと感じた。どちらかひとつと言われれば、僕は後者に興味がある。

 考えさせられたランチであった。
 それにしても、この手の「大きな問い」を、信頼できる研究者の方、企業の方と、パワーランチで話すことが多い。
 そうやって、自分で機会をつくらないと、「デイリーなオペレーション」に追われてしまうから。
 残念なのは、時間が限られていることだろうか。もちろん、時間が限られているからこそ、真剣に話す、というのもあるのかもしれないけれど。

  ▼

 某大手IT企業、新人研修担当者の方が来研。数十名の新人を対象にして、自ら個別にコーチングを実施した結果、仕事をこなす能力が格段に向上した感触を得た、とのことであった。

 研修事務局として、新人の「頭」を後ろから眺めるのではなく
 新人の「顔」と向き合いたかった

 という言葉が印象的だった。
 
  ▼

 口に出せないシャドーワーク×2

  ▼

 夕方、大学院中原ゼミ。舘野君、脇本君、研究発表。

 英語文献、Bransford & schwalzの論文。専門家の熟達化と転移に関する総論を読んだ。

 ひとつの領域で熟達者になることは、その専門知識や技術を他の人に教えることにも長けていることを保証しない(Nathan & Petrosino 2003)。つまりは、専門性の高い人は、必ずしも、その専門性を教えることに得意ではない、という一文が印象的だった。

 もうひとつ印象的だったのは、専門家がフィードバックループ(自分の活動を修正するためのフィードバックを誰から得るのか)をいかにデザインするか、という話。

 よい学習者とは、自分自身の活動に対する他者からのフィードバックの機会を、自らデザインし、そこで得たフィードバックを自己の活動の変化に役立てることができる人をいう

 のかな、と思う。他者からフィードバックをもらう機会や関係を意図的に自分でデザインしなければ、自分の活動には、なかなか修正がかからない。

 ・・・ここまで考えて、これは、どこかで聞いたことがあるフレーズだなと感じた。

 自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ。

 某R社創業者の言葉である。
 厳密にいうとちょっと違うけれど、まぁ、細かいことは気にせず、学習研究とR社の理念に「つながり」のようなものを感じた。
  
  ・
  ・
  ・

 フィードバックループといえば、そういえば、自分も昔、こんなことをブログに書いていた。自分は「緊張屋」「情報屋」「熟慮屋」という3タイプの人たちと一緒に仕事がしたい、という話。

緊張屋、情報屋、熟慮屋 : あなたの周りには「どんな人」がいますか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2009/05/post_1502.html

 今となっては「安息屋:ホッとさせてくれる人」という人にもいてほしいな、と漠然と思う(笑)。

 ゼミ修了。
 
  ▼

 大学院ゼミの飲み会へ参加。
 先日、修士論文を提出した皆さんの慰労をかねて、一献。

 そして人生は続く。

 明日は早朝、西へ移動。

投稿者 jun : 2010年1月20日 07:03


Twitter能力論!?:トイカケラビリティ、ツッコマラビリティ、ツナゲラビリティ、マメラブル

 Twitterというのを本格的に使い出して、2週間くらいになります。正しくいいますと、ずいぶん前から使っていたのですが、その間はフォローなどをなるべくせず、また発言などもなるべくせずに、READ ONLYでした。時折、「みかん食ってます」とか、しょーもないことを、まさにつぶやいておりました(笑)。

 年があけて、「一年の計は元旦にあり」ということで、本格的に使うようになりました。で、2週間くらいたって、ようやく、何となく、この世界がわかってきたように思います。

 使ってみて、いろいろ思うところがあります。わたしはメディア論の専門でも、社会学者でもないので、Twitter論を論じる気はありません。それは誰かやってください。その能力はわたしにはありません。またもや、いつものように、勝手気ままに、責任をもたず、言い放ちます。

 僕が最も印象深いのは「Twitterを愉しむために必要な"能力?"とはどのようなものか」ということです。

 こんな風にいうと、

「愉しむ」とは何を意味するんじゃ、ボケ!
「能力」とは何のことじゃ、わりゃ!

 と青筋をたてた人がでてきそうですね(笑い)。でも、ごめん、僕のブログごときで、真に受けないでください。世の中には他に、もっともっと、まじめに考えて、憤らなくてはならないことが、たくさんあるはずですから(笑)。

 何が「愉しむ」なのか、何が「能力?」なのかを、精密に議論することはさておき、ここではそれを、「フォロー数・フォロワー数がある程度いて(孤立しているわけではなく)、Twitterの利用がある程度生活に浸透し、そこでのインタラクションから、何らかのメリットを享受していること」と仮に定義します、あくまで「仮」に。

 上記の定義が、本当に「愉しむ」なのかどうなのかはひとそれぞれです、いろんな「愉しむ」があってよいとわたしは思います。またこの定義は、ややプロダクティブな感じがします。ここに息苦しさを感じる人もいるかもしれません。あとで何度も述べますが、Twitterの利用は人それぞれですから、「愉しむ」も人それぞれであってよいと思います。

 ただ、「それぞれ」が続くと、話は先には続きませんので、ここでは「仮」にこの定義にしたがったとして、考えてみることにしましょう。

   ▼

 結論から申しますと、僕は、Twitterでインタラクションから何かを得たいと思うのなら、

 1.トイカケラビリティ(問いかける能力:問いかける+ability)
 2.ツッコマラビリティ(つっこまれる能力:つっこまれる+ability)
 3.ツナゲラビリティ(つなげる能力:つなげる+ability)
 4.マメラブル(マメにレスをかえすこと:まめさ+able)

 が重要だと思います。なんで怪しい英語?日本語?なのかは、問わないでください(笑)。なんか、この方が、僕の感性には、しっくりきただけです。

 さて、先ほどの4点が重要だな、と思ったのは、なんてことはない、Twitterとは、僕の言葉でいうのならば、「問いかけるメディア」「つっこまれるメディア」「つなげるメディア」、加えて、「マメさが可視化するメディア」だからです。

 つまり、相手の心や思考にいかに「問いかけ」、いかに、ここちよく「刺激」するのか。これが「問いかけるメディア」という意味です。
 あるいは、敢えてボケて相手の反応を生み出すこと、つまりは「つっこまれること」を生むこと。これが「つっこまれるメディア」という意味です。
 あるいは、この人の発言を敢えて取り上げて(RT)、他の文脈の話題と「つなげる」。これが「つなげるメディア」という意味です。上記3点を「マメ」に行うことが、まずは、求められているように思います。

 そして、これら一連の「活動」によって、ツイートの連鎖、つまりは「多くの多様な人々が参加するインタラクション」を生み出すことができるかどうかが、たぶん、その「おもしろさ」のキモではないかな、と思います。

  ▼

 一般に、Twitterでつくられるかかわりは、非常に「ゆるい」、と言われています。フォローし、フォローされることの敷居は徹底的に低いです。
 また、もし、あなたが、どうしてもあわない人がいるのだとすると、そのかかわりを相手に知らずのうちにブロックすることもできます。「フォローはしているけれど、ブロックしている」という曖昧な関係を相手に知られることなく保ち、直接的なかかわりを避けることができる。このあたりが「現代人的な感覚」、あるいは「やさしい!?人々の感性」にマッチするのかもしれません。

 Twitterのコンテンツも非常に敷居が低く「つぶやき」に他なりません。きちんと意味のまとまっていないこと、断片化していることでも、「つぶやき」として投稿することがよし、とされます。
 対して、ブログは異なります。ブログは、ある程度の長い文章を書くことを求められます。起承転結といったら、大げさかもしれませんが、いちおう、ツカミとオチのある文章を書かなくてはなりません。ヤマなし、オチなし、じゃつらいでしょう、ブログは(笑)。

 しかし、Twitterは、「ゆるやかさ」の背後に「厳しさ」ももっています。フォロー数、フォロワー数というかたちで、自分にかかわる関係が「定量化」されます。また、興味深いつぶやきには、すぐに多くのフィードバックがかえります。これも「数」でババーンとかえります。

 その「ゆるやかさ」と「厳しさ」の中で、いかに「140字」という短い言葉で、相手の思考を促すのか、相手の興味を刺激するのか、あるいは、相手の「つっこみ」を受けるのか、あるいは、あるものとあるものを「つなげて」、ケミストリーを生み出すのか。
 そうした「問いかけ」やら「つっこまれ」やら「ケミストリー」やらを「マメ」に生み出すことが重要なのではないかな、と思います。もし、あなたにとっての「愉しむ」が、人々のインタラクションを促すことや、そこから「何か」を積極的に得ようとすることにあるのだとすれば。


 だから、僕は

 1.トイカケラビリティ(問いかける能力:問いかける+ability)
 2.ツッコマラビリティ(つっこまれる能力:つっこまれる+ability)
 3.ツナゲラビリティ(つなげる能力:つなげる+ability)
 4.マメラブル(マメにレスをかえすこと:まめさ+able)

 なのではないかな、と思うのです、まとめると。「トイカケラビリティ」「ツッコマラビリティ」「ツナゲラビリティ」が高く、「マメラブル」な個人ということになるのですね(笑)。
 
 最後に、誤解を避けるために行っておきますが、もちろんTwitterをどのように使おうと、その人の自由です。 誰も、なんらその利用を制限することはありません。人生いろいろ、Twitterの利用もいろいろです。

 「トイカケラビリティ」「ツッコマラビリティ」「ツナゲラビリティ」が低く、「マメラブル」じゃない個人、、、でも、そこは全然問題ありません。そこがTwitterの包容力であり、敷居の低さです。
 事実、わたくしがそうでした。ちょっと前まで「今、みかん食ってます」ツイートの連発で、愉しんでおりました(笑)。そのようなわたくしも、排除されず、時折利用できたことが、Twitterのよいところなのかもしれません。

 でも、このメディアから、あるいは人々のインタラクションの中から「何か」を得たいのだとすれば、もしかすると、上記のような能力!?が必要になってくるのかもしれませんね、、、と僕は思うのです、、、なんちゃって。

  ▼

 さて、今日は、のっけに宣言したとおり、言い放ちました。なんだか、こう書くと、このリストにあがっている「能力?」は、Twitterだけに言えることではない気もしてきました。うーん、どだろね(笑)。

 もしかすると、この4つ以外にも他にもあるかもしれないですね、、、ていうか、あるね、これは(笑)。絶対にあるよ。

 あるいは、敢えて対照をつくって、ブログに必要な能力を考えてみるというのも面白いかもしれませんね。

 というわけで、、、「皆さんの思考」を刺激したところで(笑)、わたくしめは、そろそろ仕事に戻ります。

 今日も一日健気に生きてみようと思います。

投稿者 jun : 2010年1月19日 08:24


クリス・アンダーソン著「フリー」を読んだ!:出版は今後どうなるのか?

 話題の書籍、WIRED編集長クリス・アンダーソンが著した「FREE」を読んだ。クリス・アンダーソンは5年ほど前、「ロングテール」というコンセプトを世に送り出したジャーナリスト。今度は「フリー」あるいは「フリーミアム」というコンセプトをひっさげての凱旋である。

 この本ではフリーの歴史から、最新のITビジネスモデルまで様々なことが述べられている。その主張は多岐にわたるが、枝葉を落とし、おおざっぱに、かつ大胆に、僕の言葉でまとめると下記のようになる。

 ---

1.ITテクノロジー(サーバの能力、ストレージの容量など)の限界費用は、限りなくゼロに近づいている

2.1を背景にして、デジタルのものは、たとえばデジタルコンテンツなどは、遅かれ早かれ、無料になる、つまりは「フリー」になる運命にある

3.2にあがなって、課金を行ったり、コピー防止技術などを整備しても、無駄である。そして、高度にデジタル技術が発展する現代では、遅かれ早かれ、多くの事業ドメインで、「フリー」と戦うことになる。

4.しかし、「フリー」から利潤をあげる仕組みは、確実に存在する。

5.フリーから利潤を生み出すビジネスモデルには、1)フリーではないものを販売し、そこからフリーを補填する直接的内部相互補助(携帯電話は無料、通話は有料など)、2)第三者がお金を支払うけれど、多くの人にはフリーとして提供される「三者間市場」(女性は入場無料、男性は有料など)、3)フリーによって人を引きつけ、有償のバージョン違い、機能向上版を用意する「フリーミアム」などがある。

 ---

 こんなところだろうか。
 この本の核心である「フリーミアム」については、下記の専用サイトに詳しく説明されているので、ぜひごらんいただきたい。

フリーミアム
http://www.freemium.jp/about

 要するに、フリーミアムと、は「フリー(無料)」によって人を広くひきつけて、そのうちの一部に(数パーセントであってもよい)、基本サービス以上のサービスを有償で買ってもらうというビジネスモデルをいう。

 一般的な商品であれば「フリー」で提供する商材には限界がある。なぜなら、商材の単価が確実にかかってくるからである。

 しかし、テクノロジー維持の費用も、コピーに関する費用もほぼゼロに近いデジタル商材の場合には、フリーで配布できる商材の量が、非常に大きい。よって有償のサービスに移行してくれる顧客が、わずか数パーセントしかいなくても、もともとの母数が大きいだけに十分成り立ってしまうのである。

 ▼

 本書を読んで真っ先に脳裏に浮かんだのは(というよりも空想したのは)、今、最も動いている、という「電子書籍市場の未来」についてである。このフリーという動向は、「現在の電子書籍の市場の混乱」を、さらに混沌としたものに変えかねないなと、専門外ながら、思った。

 周知のとおり、今、電子書籍の市場は、AMAZONのキンドルが市場投入されたことをきっかけに、第二次電子書籍戦争が勃発していると言われている。水面下では「出版社」「取次」「書店」そして「著者」をめぐって、「静かなる戦い」が勃発している。

 一般的なリアル書籍の収益構造は、下記だと言われている。もちろん、この数字は一概には言えない。

 ・著者印税が10%くらい
 ・出版社が25%くらい
 ・取次が15%くらい
 ・書店が15%くらい
 ・製品原価は35%くらい

 今、起こっている静かな戦争は、この「配分をめぐる戦い」と「誰が著者を押さえるのか」という戦いである。

 本の流通が電子書籍が中心ということになってしまえば、「出版社 - 取次 - 書店」というこれまでの流通チャネルが壊れる。そのような状況になれば、結局は「著者」を上流で押さえたものが勝つ。

 もちろん、著者だって黙って指をくわえて見ているわけではない。条件のよいところと組むことができれば、印税をさらにあげることができる。
 勘のよい著者は既に動いている人もいると聞く。
 自らブログやTwitterなどのマーケティング手段をもち、編集者とデザイナーのネットワークをもち、さらに電子書籍の会社との関係さえもっていれば、これまでの著者印税を大幅に増やすことも不可能ではない。

 要するに、「出版」に関係するそれぞれのステークホルダーが、他を「中抜き」しようとして争っている、のである。
 しかし、この戦い、非常に厳しい戦いである。既存のビジネス、既存の関係を維持しつつ、つまりはリアル書籍を出していたころの関係を維持しながら、新しいモデルを模索しなければならない。たとえていうならば、「一方でしんがり戦をやりながら、新しい覇者をとらなければならない」のである。特に、これまで関係の深かった書店、出版社、取次にとっては、厳しい戦いであろうと想像する。

  ▼

 こうした出版業界の群雄割拠の動きに加えて、「フリー」の動きが「さらなる混沌」を生み出すのではないか、というのが、専門外の僕の「勝手きままな空想」である。

 電子書籍といっても、結局は「デジタルのもの(ビット)」である。ということは、たとえフリーになるとはいかずとも、価格の低下は避けられないのではないだろうか。アンダーソンの議論を敷衍して考えれば、そういうことになる。

 だとすれば、どのように利潤を上げるか、だ。

 僕が思ったのは、本による収入低下を補うために(あるいはさらなるマーケティングを加速させるために)、一部の著者や、著者を押さえた出版社(もう出版社という名前ではないかもしれない・・・)が中心になって、「著者」と「読者」がメンバーの「場づくり」「イベント」を仕掛けてくるのではないか、という予想である。

 極端に言えば、要するに、こうである。

 本は限りなく安くなってくる。だから、それだけで必ずしも利潤をあげることは考えない。むしろ、著者が中心になって行われる「コミュニティ」などの、フェイストゥーフェイスの「場」や「イベント」を有償とし、利潤をあげることを考えるのではないか・・・。
 
 要するに、極論を言えば、「コンテンツは無料、インタラクションは有料」ということである。

 そうすると、従来の「著者」の「概念」が変わる。
「著者」とは「コンテンツを生み出す人」というよりは、「コンテンツと場をもつことができる人」ということになるのではないだろうか。
「編集者」の「概念」も変わる。「編集者」とは、コンテンツメイキングを支援する一方で、著者の場作りを演出する、プロデューサー的役割を担うのではないだろうか。

 そんな感じで、空想は続く。

  ▼

 以上に書いたことは「白昼夢」に近いかもしれない。また、僕は専門外なので、責任なく、勝手きままに言い放つ。
 また、すべての本で、そのような動きは起こらないだろう。ビジネス書は近いかもしれないが、純文学や学術図書などでは、このような事態は起こりえないだろう。
 さらに、消費者のメディア接触頻度、あるいは、デジタルデバイドの問題を考えると、すべての書籍が電子書籍に変わることは想定しにくい。本は相変わらず、「本」として存在し、書店で売られるのであろう。

 問題が、それが、マーケットのどの程度を支配するか、である。

  ▼

 しかし、今、水面下で動いている「動き」から、勝手気ままに推測するに、僕がここで書いたような動きの可能性はゼロとは言えないような気もする。

 書籍の電子化とフリー化

 今、わたしたちは、グーテンベルグ以降の活版印刷の発明以降の、「変革」のまっただ中にいるのかもしれない。そうだとするならば、「歴史の生き証人」ということになる。

投稿者 jun : 2010年1月17日 13:42


新連載:あなたの知らない学びの現場

 今度、雑誌「人材教育」で、わたくし、新連載をはじめることになりました。これまでにも「ラーニングイノベーション」という2ページの連載を、密かに(!?)持っていたのだけれど、その「続編企画」ということです。

 今までは書き下ろしの原稿をひーこらひーこら出していましたが、ページ数が多くなること、「あまりに多忙」ということもあって、人材開発系ライターの井上佐保子さんとのタッグをくんで、原稿をつくっていきたいと思います。

 今日は、その打ち合わせが、お昼頃、本郷キャンパスでひらかれました。同社編集部の高田さん、吉峰さん、宮川さん、デザイナーの高岡さん、ライターの井上さんとのミーティングです。

  ▼

 新連載で大切にしたいと思っていることは、

 1.あなたの「知らない世界」
 2.学びは「現場」で起きている!
 3.「突撃」! 隣の晩ご飯!?

 です(意味不明)。

 要するに、人事・教育の人々が、通常は、なかなか目にすることのない職種(あなたの知らない世界)の、仕事の現場(学びの現場)を訪問し(突撃!)、そこから、「みんなで考えるべき重要な問い」を抽出するというかたちです。
 一言でいうと、、、あなたの知らない学びの現場に突撃しよう!

 具体的には、、、

 寿司職人
 病院
 テレビ局
 美容室
 ITベンチャー
 スポーツチーム
 料亭
 アニメスタジオ

 などなど、様々な「学びに満ちた仕事の現場(Learningful work)」を訪問する予定でいます。そうした場所には、僕を含め、一般的な人事・教育の方々が気づかないようなポイントがあるのではないか、ということですね。
 もし、こんなところに訪問してほしい、というリクエストがありましたら、ぜひ、お寄せください。あとタイトルも、、、困っております(笑)。なんていう連載タイトルにすればいいのでしょうか。。。

  ▼

 あと、実現するかどうかはわかりませんが、連載を終える「ラーニングイノベーション」では、最後に有終の美をかざる「大きなサプライズ企画」を考えています。いずれにせよ、お楽しみに。

投稿者 jun : 2010年1月16日 07:44


コミュニケーション不全を克服せよ!?:Learning barのタイトルの話

 Learning barのお知らせ文章を、今、書いています。
 既に前々から告知していたように、次回Learning barは、2月12日に開催します。

 テーマは、、、

 "コミュニケーション不全を克服せよ!
  社内に「楽しく、つながり、学べる場」をつくる!?
  リクルートエージェント「ちゑや」の挑戦"

 になる予定です。

 ちゑやについては下記をご覧ください!

ちゑや
http://japan.zdnet.com/sp/feature/09company/story/0,3800092607,20395872,00.htm

 日時:2010年2月12日(金曜日)午後6時00分 - 9時00分
 場所:東京大学 情報学環 福武ホール B2F 福武ラーニングシアター

 ぜひお楽しみに!

   ▼

 それにしても、めちゃくちゃ考えるのは、このテーマというやつです。

 今回のタイトルは「コミュニケーション不全」というコンセプトでまとめようかな、と思いましたが、皆さん、どうでしょうか? ビビビと刺さりました?

 通常、「人事施策」「教育施策」というのは、個人レベル・職場レベル・組織レベルで、さまざまな効果をもたらします。また、その解釈も非常に多義的にならざるをえません。ですので、こういうイベントの広報を行う際には、「人事施策」「教育施策」の「どの側面にスポットライトをあてるか」が決定的に重要です。

 あたりまえのことですが、「どこかにスポットライトをあてること」は、「どこかにスポットライトをあてないこと」と同義です。スポットライトで光をあてられる面積は限られています。だから悩ましいのですね。せっかくご登壇いただくのですから、主催者としては、最も面白い演出を心がけたい、と思っています。

 本Learning bar、先日、リクルートエージェントの中村繁さん、石田広見さんとの最終打ち合わせが終了しました。内容に関してディスカッションを行い、非常に楽しい時間を過ごすことができました。非常におもしろい会になると思います。

 正式アナウンスは金曜日、あるいは週明けになると思います。
 どうぞお楽しみに!

投稿者 jun : 2010年1月14日 18:07


「変わり続ける研究室」:大学院ゼミの英語文献購読のやり方を変える!?

 昨日は大学院ゼミ。
 ゼミでは、医学教育におけるPBL(Project-Based Learning)に関する論文を舘野君が、アンダースエリクソンの熟達概念に関する論文を木村君が報告した。研究発表は、島田さんが「元留学生新入社員の組織社会化」に関して報告した。

  ▼

 今年度の大学院ゼミも、もう終わりに近づいている。ゼミの回数は、残すところ、あと数回。この頃になると、教員としては(小生はなんちゃって教員だけど)、少しずつ、来年度のゼミ運営のことを考えなければならない。

 来年度に関しては、ゼミの英語文献購読のあり方を、大学院生の意見を聞いた上で、少し変えようと思っている。
 具体的には、課題を「自分の研究にとって"最も影響を与えた英語の実証雑誌論文"を紹介する」という内容にしようかな、と思っている。

   ▼

「自分の研究にとって"最も影響を与えた英語の実証雑誌論文"を紹介する」という課題は、簡単なようでいて、実はなかなか難しい。
 なぜなら、この課題をこなすためには、下記のような下位課題をクリアする必要があるからだ。

 ●しっかりとした論文誌を見極め、
  その中から、しっかりとした論文を選ぶことができるか?
 ●論文を要約することができるか?
 ●なぜ、その論文を選んだのか?
  なぜその論文すごいのか?を主張できるか?
 ●どのような影響を自分の研究に与えたのか?
  をきちんと言語化できるか?
 ●その研究がゼミの他のメンバーに与える
  サジェスチョンも、きちんと言語化できるかどうか?

 これらすべてを満たすためには、実はその論文だけを読んでいたのでは不足である。その文献に関連する内容、あるいは自分の研究に関係する先行研究の全体像を大枠でつかんでおく必要がある。

 ▼

 実は、この課題、僕がオリジナルで考えたものではない。先日、神戸大学の金井壽宏先生とお話ししていた際、僕が大学院教育の「悩み」を述べたら(あのね、結構、悩むのですよ)、アドバイスをくださったものだ。非常にありがたいことである。

 僕が研究指導を行っている東京大学大学院・学際情報学府という大学院は、非常に多様な年齢構成、多様なアカデミックバックグラウンドをもった、多様な人々が集う大学院だ。それらの学生に完全にフィットする英語文献の購読というのは、非常に難しい。
 今までは、僕がイニシャチブをとって英語文献を決定していたが、それを変革し、大学院生にイニシアチブを渡そうと思う。

 うまくいくかどうかはわからない。
 でも、やってみなけりゃ、わからない。

 中原研究室は「自ら変わり続ける研究室」である。

投稿者 jun : 2010年1月13日 09:14


「ざらつきとスキマのある学びの場」をいかにデザインしうるのか?

テレビ   54分
ラジオ   0分
新聞    2分
雑誌    0分
PC    2時間30分
ケータイ  1時間30分

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 このデータは、博報堂DYメディア環境研究所が実施した「メディアライフ密着調査」の結果。神奈川県の公立学校に通う、ふつうの16歳の女の子の一日を、朝起きてから、夜ねるまでビデオカメラで追いかけて算出した数字だという。
(なんという調査手法!)

 この女子高校生が成人するのは、もはや数年後。家庭をもち、子どもをもつのはいつの日か。そのとき、私たちは、どのようなマーケティングを行えばよいのか。

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 先日、博報堂のプロジェクトミーティングの帰り、同社の百合岡さんから、一冊の本を献本いただいた。
(百合岡さんは、慶応MCCでの僕の授業「ラーニングイノベーション論」Class of 2009のアラムナイの一人でもあられる。)

「自分の会社の本ですけど、僕は面白いと思うので、ぜひ、読んでみてください」

「僕は面白いと思う」とおっしゃっていたのが非常に印象的だった。百合岡さんが、面白いと思うのだから、きっと面白いのでしょう、と思った。
 手渡された本が、博報堂DYグループエンゲージメント研究会著「自分ごとだと人は動く」(ダイヤモンド社)である。

 本書は、博報堂DYグループの有志達が次世代型のコミュニケーションモデルを模索した本である。文体は一般向けに書かれており非常に読みやすい。

  ▼

 新聞やテレビが非常に大きな力をもっていた1970年代のマス広告の時代。
 私たち消費者は、いわば「大衆」であった。企業から生活者へのコミュニケーションモデルは、いわば「導管モデル」である。企業が圧倒的な力をもっていた時代であった。

 80年代、時代はキャンペーンの時代に入る。経営学では「競争戦略論」がもてはやされ、そこに「市場」が誕生し、マーケティング手法は「選択」と「差別化」の時代を迎える。
 この時代の消費者は、いわば「分衆」であった。いかに消費者をターゲッティングし、セグメント化するのか。そして、商品の差別化するのか。

 差別化せよ!、差別化せよ!、差別化せよ!

 これが時代のメッセージであった。

 しかし、時代は2000年に突入する。インターネットが普及し、双方向メディア環境があらわれる。「分衆」は、それぞれの興味や関心のもとに、ゆるく、人と人を介してつながり、出会いはじめた。「分衆」は「網衆」と変化する。

 「網衆」時代の人間関係は、「タグ」と「検索」に支配されている。人々は自らに複数の「タグ」を付与し、その「タグ」のもとにつながることを覚えた。
 また、さらなる情報環境の発展によって、「情報爆発」がはじまった。人々は、押し寄せるビットストリームの荒波を生きる個人になる。

 日々押し寄せ得る「情報の大海」の中から興味のある情報を見つけ、それを、自分につながる人々と「シェア」する一方で、「情報を拒否すること」「情報をスルーすること」が重要になりはじめた。
「気づかない」「見切る」「放っておく」ことが、大切な情報スキルになりつつある。目立たないもの、関心のないものはすべて「スルー」される。

 このような状況にあって、次世代のマーケティングは、いかにあるべきか。本書で提案しているキーワードのひとつが「To CからWith C」である。

「To C」とは「To customer」のこと。いわば企業から消費者に「導管」が伸びている状態、そのようなコミュニケーションモデルに基づいたマーケティングを彷彿とさせる。

 そうではなく、この本が提案するのは「With C」である。
 With Cとは、消費者とコラボレートしたり、消費者の参加をうながすマーケティングである。あえてツッコミドコロをつくり、「自分事」として感じてもらい、参加してもらう。新たなマーケティングのあり方が模索されつつある。

  ▼

 個人的に非常に興味深かったのは、本書で紹介されていた、最近のクリエィティブの人々が口にする言葉である。

「あえて、ざらつきを残すようにする」
「スキマをつくっておく」
「パッケージにしないようにする」

 クリエィティブの人々から、こういう言葉が語られることが多くなっているのだという。「ざらつき」があり、「スキマ」があり、かつ、「パッケージになっていないプロダクト」とは、かつてのマーケティングではタブーとされたことだろう。その時代の常識とは、全く異なる発想だろう。

 ざらつきがあり、スキマがあり、パッケージ化しないもので、かつ、テーマが秀逸であれば、人は関与してくれるはずである。
 生活者が興味や関心をもつような「凸」のあるテーマをつくり、一方で、生活者が共振・参加してくれる装置「凹」を確保する。
 マーケティングに、いかに「凹」「凸」をつくるのか。クリエイターやプランナーと呼ばれる人々は、そのことを考え始めているのだという。

  ▼

 アタリマエのコンコンチキだけど、僕は「マーケター」でもなければ、「広告研究者」でもない。その領域の専門知識はゼロなので、ここで展開されている議論の詳細は知らない。
 でも、本書はマーケティングの本ではあるけれど、僕は、実は、全くそのようには読まなかった。自称「学習バカ」の僕の目には、この本が「学習の問題」を扱っているようにしか見えなかった。

 人をいかに動かすか?
 人にいかに参加してもらうのか?

 近年の学習論においては、学習とは「参加」であり、「移動」であり「越境」である。人は、様々なコミュニティやネットワークに参加・関与し、あるいはノットワークをときおり形成しながら、その境界を越境しつつ学ぶ。

 そういう目で見るならば、そこで紹介されているアイデアは、この不確実きわまる時代に、いかにして「学びの環境」をつくるのか、ということにつなげて読むことができるのではないか、と思う。

人々が参加してくれる、「ざらつきのある学びの環境」とは何か?

人々が関与してくれる「スキマのある学びの環境」を、どのようにつくりだすことができるのか?

人々が自らデザインすることのできる「他人にパッケージ化されていない学び」とは何か?

 僕は、こんな風にこの本を読んだ。

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 最後になりますが、博報堂の百合岡さんに心より感謝いたします。
 すてきな思考をありがとうございました。

投稿者 jun : 2010年1月 8日 17:00


冬の味覚を愉しむ:渋谷「蛇の健寿司」に出かける!

 先日、冬の味覚を味わいに、映像ディレクターの大房さんと、渋谷「蛇の健寿司」に出かけた。

 蛇の健寿司は、僕が、もっともおすすめする、渋谷のお寿司谷さん。渋谷にあるとは思えない静かな場所に、ひっそりと、それはある。のれんをひとたびくぐると、気さくなご主人と女将さんが出迎えてくれる。

 お品書きはある。それを頼んでもいい。ご主人の健さんに、お任せすることもできる。刺身から寿司にいくのか、それとも寿司からはじめるのか。どちらでもかまわない。

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 いずれにしても、その季節にもっとも美味しい旬のものを、リーゾナブルな値段で、食べさせてくれるのが、この店の魅力だ。

●蛇の健寿司(夜のみ)
住所東京都渋谷区道玄坂1丁目20-4
電話番号03-3461-4288
(英語メニューもあり)


大きな地図で見る

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 今日のお相手、映像ディレクターの大房さんとは、折に触れ、仕事でご一緒することがある。
 このあいだはロケ現場でお会いした。その前はシンポジウムの会場での撮影を依頼した。いずれにしても、仕事現場でお会いするときは、仕事の話以外、ぐだぐだと話をすることはない。

 ここ1~2ヶ月は、特に、すぐに決めなければならないことがあるわけでもないし、差し迫った用事があるわけではなかった。

 今日は、いわゆる、「ゴールとアジェンダのない会話」を楽しんだ。話題は現代アートの話から、テレビメディアの将来、大学の未来にまで及んだ。それは、それは楽しい時間であった。

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 早速、今日の蛇の健。

 突き出しは、「なまこ」。
 これである。

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 なまこは、コリコリとした食感と磯の香りがたまらない。キュッとしたまった身に、まずは一杯。

 そして、なまこの腸である「このわた」である。「このわた」は、日本の珍味のひとつとして名高い。

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 なまこにせよ、このわたにせよ、どちらも、いわずもがなの「冬の味覚」である。これを食べると、冬を感じざるを得ない。

 同じく冬の味覚、とこぶし、あかがいなども。

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 進む、進む、これが、進む。

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 今日のお酒は、もちろん、冬の代名詞「荒走り」である。
 通常のお酒よりもアルコール度数が高く、白く濁っていて、甘いのが特徴であろうか。これも、冬にしか飲めない。この季節だけの一品。

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 刺身を食らう。
 まずは「寒ブリ」。

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「これは、トロですか?」と思わず間違えてしまうほど、脂が乗っていてうまい。特に尾の身は舌にとろける。

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 おつぎは、しめさば。

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 よくあるしめ鯖の、つんとつくような酢の臭いはない。とろけるような鯖の身に、さらに酒が進む。嗚呼、蛇の健にきたな、と思わせる。

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 このほかいくつかの刺身をいただき、そして握りへ。
 お任せにて、旬の握りがゆっくりとでてくる。

 鰺、烏賊、小鰭。

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 烏賊は、角が凛と立っており、それでいて、身がねっとりとして甘い。

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 珍しいところでは、かわはぎの上に、その肝をのせた、「かわはぎスペシャル」をいただく。かわはぎの肝という珍味が、かわはぎの身にからんで、うまい。

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 ちなみに、○○スペシャルは、この店のご主人が、時折やってくれる贅沢な一品だ。大トロスペシャル、というのもある。

大トロスペシャル
http://www.nakahara-lab.net/blog/2007/05/post_882.html

 もうひとつのスペシャル、つぶがいスペシャル。活きのいいつぶに、肝をのせて。

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 鮪(まぐろ)。
 最近は、めっきりとれなくなってきているので、価格が高騰している魚だ。なじみの寿司屋のご主人によれば、「鮪はお客様へのサービス品」とのこと。
 市場の価格があがった分を、そのまま値段に反映してしまえば、ぐんと価格があがってしまう。それはできない。よって、いくら売っても、利幅は少ないのだそうである。

 今日の鮪は、メジと本マグロのちょうどあいだの「チュウボウ」。その「大トロ」をいただく。これも極上の味覚であった。

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 〆には、大房さんのおくさんの名前を冠した巻物、「アケミ巻き」と、ねぎま汁をいただく。アケミ巻きは、カブ、タマゴ、カンピョウ、キュウリを巻いた蛇の健寿司の巻物の最新版。カブのシャッキリ感がいい。

 ねぎま汁は、ねぎとマグロのトロが入っているお味噌汁である。昔は、これが、市場のまかないの食事だったようだ。今から考えると信じられない贅沢である。

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 嗚呼、今日も、馳走になりました。
 その他、今日つまんだお寿司たち。

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 最後に、妻と子どもへのおみやげをつくってもらう。もちろん、さび抜きである。明日は、TAKUZOとカミサンには、朝っぱらから寿司を食らってもらおう。

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 サザエさんの磯野波平が如く、折り詰めの「ひも」の部分をちょんとつまんで、陽気におうちに帰る。

「おおい、帰ったぞー、おみやげ買ってきたぞー」

 これが、「寿司食い」の作法である。
 飲んだら波平、これ基本。

 家内安全、健康祈願。

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 ちなみに、この日は偶然、ダイヤモンドの永田さん、間杉さんらと出会った。本当に、本当に、偶然に。昨日は、同社、石田さんがいらっしゃったようだ。
 来週は、松尾先生(神戸大学)、長岡先生さんら、また、酒井穣さんと、ここを訪れる予定である。

 みんなで広げよう、「蛇の健」の輪!

 というわけで、はじめての方も、きっと、ご主人の健さんも、オカミさんもよくしてくださると思いますので、ぜひ、どうぞ。

渋谷「蛇の健寿司」 Yahoo グルメ!
http://gourmet.yahoo.co.jp/0000926003/0002911080/ktop/

 嗚呼、こんな夜は、文句なしにいいよ。
 生きているって、素晴らしいことだ。
 今日がいいなら、明日もいい。
 そして人生は続く。

 ---

追伸.
 ちなみに、先日、TAKUZOも蛇の健デビューしました。

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 土曜日のはやい時間、6時前後あたりは、他にあまりお客さんもいないので、子どもがいても、カウンターで大丈夫だと思います。
 もし不安ならば、上に10名程度まで入るお座敷がありますので、そちらでいただくことができるでしょう。

 大好きな「いくら」を「お船」のかたちにしてもらったり。

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 とにかく、TAKUZO、大喜びでした!

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投稿者 jun : 2010年1月 8日 00:00


「でもでもラーニング」と「だけだけラーニング」

 おまけですけどね、全くの余談ですけどね、そこのオクサン、ちょっと聞いて(笑)。昨日の科研会議で、中原、ビビビときたことがありました。

 三宅なほみ先生によりますと、あるロボットサイエンティストがこんなことをおっしゃっていたそうです。

  ---

 これからは「でもでもロボット」の開発ではなく、「だけだけロボット」の開発がフィーチャーされる時代になる。

 今までのロボット開発は、いつ「でも」、どこ「でも」、どんな目的「でも」使えるロボット、つまりは一般的なロボットの開発がめざされていた。つまりは「でもでもロボット」が開発されていた。

 でも、これからは、この場「だけ」で、このとき「だけ」に、この目的「だけ」に使えるロボットの開発がめざされるようになる。つまりは「だけだけロボット」である。

 そういうロボットじゃないと、本当の意味で、人を支援することはできない。

  ---

 この話を聞いて、僕は、ピンときたのよ、オクサン。
 ロボットのことは、あんまりわかんないのですけどね、でも、この話は、ラーニングにおいても、あてはまることなのかな、と。

 つまり「でもでもラーニング」から「だけだけラーニング」がフィーチャされる時代になるのかな、と。前者が後者に置換されるとか、そんなんじゃなく。後者がフィーチャーされる時代がきているのかな、と。

  ▼

 いわゆる一般的なeラーニングの目的は、「いつでも、どこでも」ですね。これが典型的な「でもでもラーニング」。

 でも、今一部で注目されているPlace-based learningの概念にしても何にしてもそうなんですけど、「でもでも」よりは「だけだけ」をめざしているのですね。

 つまりは、「学びってひとそれぞれ個別だよね」「学びってin situで、その場でその時におこるんだよね」ということを前提にして、そういう「個別化」「局所化」したところで起こる学びを、いかに支援するか、ということに世界の研究者の目が向いている、ということです。

  ▼

 もちろん、「でもでもラーニング」と「だけだけラーニング」の区別は、企業人材育成にだって、適用できると思うんです。

「いつの時代でも、どの人でも同じように受けていた階層研修」といったような学習機会が、少しずつ減っていき、仕事の現場のそこ「だけ」で、そのとき「だけ」に起こる学び - workplace learningに注目が集まっていると感じるのは、僕だけでしょうか。

 これ、論理飛躍しすぎ? こじつけ王子?
 自分のことを「王子」って呼ぶなって?
 じゃあ、「こじつけオヤジ」?
 すまんね、悪いね、申し訳ないね。

 でもね、僕はピピンときました。今、きっと、僕はLearning researchの変革のまっただ中に自分はいるんだ、と。個人的には「でもでもラーニング」と「だけだけラーニング」の今後に目が離せないな、と思います。

投稿者 jun : 2010年1月 7日 11:08


あなたのリフレクションを促してくれるロ、ロ、ロボット!? : ロボットワークショップやります!

 自分の研究は、すでに全開である。昨日も分析、今日も分析、明日も分析。

 このところ相手にしているのが「数字」だらけである。思い通りの結果なんて、100回やって1回もでない。あっちがたてば、こっちがたたない。まるで、社会そのもののように感じてしまう。
 いつのまにか、分析結果のグラフや表をみて、「チッ」とか「チキショー」「かわいくないやつだ」「おーよしよし」とか、つぶやいている「自分」を発見する。ちょっと危なく、そして怪しい。

 でも、分析は楽しい。好きである。
 やっていると時間を忘れる。
 こういう状況を「フロー」とかいうのかな。あるいは、「Hard fun!」とかいうのかもしれない。

 ▼

 共同研究。僕は、今年、国の共同研究、産学の共同研究を含めて数本の共同研究に参加している。
 昨日は、そのうちのひとつ、国の科学研究費の共同研究の会議があった。本郷キャンパスで三宅なほみ先生の科研会議である。メンバーは三宅なほみ先生(東京大学)、白水始先生(中京大学)、大島純先生(静岡大学)と中原の4名。

 科研の研究タイトルは、なんと「人ロボット共生学」である。「人とロボットの共生による協創社会」を実現することをめざした非常に大きな額のグラントで、国内外の研究者が数多く加わっている科研である。僕は計画班A03の末席に加えてもらっている。

人ロボット共生学
http://www.irc.atr.jp/human-robot-symbiosis/

計画班A03
http://www.irc.atr.jp/human-robot-symbiosis/category/plan#a031

 科研のタイトルが、「ロボット」とはいっても、もちろん僕がロボットをつくるわけではない。「企業人材育成に資するロボットの開発と評価」という研究も不可能ではないが、もし研究するとしたら、もう少し(!?)先になるのかもしれない(笑)。

 この科研にいうと、僕の担当は、一言でいうと、「学習者のリフレクションを促すロボットのあり方」を模索することである。「ロボットを活用して学習者のリフレクションをいかに促すことができるのか」であると理解している。

 具体的には、実際に、ロボットを活用したワークショップを開発する。学習者とロボットを出会わせ、学習者のリフレクションの「聞き手」になってもらったり、「話し相手」になってもらったりする。
 そうしたプロセスの中で、学習者とロボット双方が「知的」になってくれるといいよね、ということを考えている。一言でいうと、「Robot as reflective partner」である。

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 このアイデア「Robot as reflective partner」はトリッキーなように聞こえるかもしれないけれど、認知科学や学習科学の歴史をふりかえると、そうトリッキーなわけではない。かつては、「Computer as a cognitive partner」と言われていたわけだから、その「Computer」が「Robot」に変わっただけである。

 こちらは2010年11月に中間評価があるので、夏8月には、実証実験(ワークショップ)を終わらせる必要がある。三宅先生の話によると、近いうちに本郷キャンパスにロボットルーム(いつでもどこでもロボットとお話しできるお部屋)ができるそうなので、最初は、そこでロボットに何ができるかを模索することになるのだと思う。

 というわけで、、、わたしに関係する方で、ロボットが好きそうだと思える方には、「ねーねーねー、今、暇? あのさー、君、前に、ロボット好きって、言ってたよね」とお声がけさせていただくかもです、、、フフフ。
 声をかけたら、ちゃんと目をあわせてお話しようね、、、石を投げないでね。

 あと、夏頃に、ロボットがうようよしているワークショップを実施しますので、もしよろしければ、ぜひ、お越しください。実験的なワークショップですので、必ずしもうまくいくとは限りませんが、絶対に面白いと思います。
 
 大学は「未来の実験場」です。
 今は当たり前になっているインターネットだって、Twitterだって、iPhoneだって、20年前は夢のまた夢でした。

 ヒューマノイド型ロボットが、「あなた」と共生する社会だって、「夢」とは限らないかもですよ。だって、「夢しか実現しないんだから」。

  ▼

働く大人の学び論・成長論
仕事の経験を積み重ね、内省する
リフレクションをアクションにつなげる
マネジャー研修で用いられているそうです

中原淳×金井壽宏 「リフレクティブマネジャー」光文社新書!

投稿者 jun : 2010年1月 7日 07:58


象さんと僕

 いわゆる「教育研究の中で語られる企業」と、「僕がもっている企業のイメージ」のあいだには、「違い」があるように感じ始めています。ここ数年の、企業をあつかった教育学研究系の論文・書籍を斜め読みしていて、その内容云々よりも、そのことが非常に気になりました。

 教育研究の文献の中で語られる、一言でいうえば「企業が求める人材」とは「安い給料で、文句を言わず、働いてくれる個人」です。人事担当者とは「そういう都合のよい人をリクルートする個人」ということになります。これらが典型的な語られ方であるように思います。
 明示的ではありませんが、そうした研究の背後仮説には、「搾取する企業」と「搾取される個人」という構図が見て取れます。そして、シンプルに進めると「搾取される個人」には、それに抵抗するための手段や武器をもたせるべきだ、という風にロジックが進みます。

 なるほど。

 人件費削減の問題は、極めて大きな経営の課題であり、それを目指さない企業などありません。
 また、人生いろいろ、企業もいろいろです。いわゆるブラッ●な企業、搾取系の企業も少ないわけではありませんから、そういう事態が起こっていても、何の不思議もありません。そういう企業に搾取されない個人、搾取に抵抗するための武器 - どういう武器かはわかりませんが - を育成することは意義があることのように思います。

 しかし、一方で、そういう語られ方の意義を認めながらも、僕の心に「違和感」が残ることを正直に吐露せざるをえません。

 ふだんお会いしている人事担当者、経営層の方々が抱えておられる問題、悩んでおられるような問題、解決したいと思ってる問題と、上記で掲げられてるような「ステレオタイプ」や「構図」が、僕の中で、うまく重ならないのです。

 僕が訪問している企業の担当者にそういう方が、たまたまいらっしゃらないのかもしれません。対象にしている問題群も異なっているようにも思います。また、「まだお前は勉強がたらん」と言われれば、それまでです。でも、どうにもわかりません。

 ▼
 
 もしかすると、すでに「企業」という「ひとつのカテゴリー」で括って、企業と人材の問題を論じること自体が、難しくなってきているのかもしれません。それだけ企業が多様化しており、それが抱える問題も多岐にわたっているということです。
 企業といっても、中小から大企業、ベンチャーから老舗、親会社から子会社、さらにはコンプライアンスすれすれの企業まで、いろいろあります。先に述べたように、人生いろいろ、企業もいろいろです。

 また「人材」も多様化しています。一口で育成といっても、経営人材の育成なのか、中堅社員の育成なのか、新人社員の育成なのかさらには非正規雇用の方々の人材マネジメントなのか、によって問題が異なります。

 しかし、このことは、研究する側からすれば「頭の痛い問題」を抱えることと同義です。
 だってそうでしょう。
 ひとつのカテゴリーで括れるからこそ、抽象化・一般化・モデル化をめざすことができます。そうでないのならば、局所的かつ、即時的な現象を、そのつど、その場所ごとに追うことしかできなくなってしまいます。

 嗚呼、こんな時、僕は人文社会科学の「ややこしさ」に頭を抱えます。
「ラジウム」といえば「ラジウム」を差し示し、それ以上でも、それ以下でもないような自然科学の世界、物質の世界であるならば、このような「ややこしさ」は生まれないのに、と泣き言を言いたくなるのです(まぁ、そんなこともないのでしょうけど)。

 ▼

 「溝」やら「違和感」やら「ややこしさ」やら。
 研究の世界は、もう、「わからないこと」だらけです。
 このような「わからなさ」の中、時に、僕は「錯覚」を覚えることがあります。

 自分はもしかすると「象という生き物を手探りで言い当てようとする盲人」の一人なのかも、と。
 今、仮に、「巨象」を囲んで、生まれてこの方、象を見たことのない数人の盲人たちが、「象」がどのようなものかを言い当てようとしているのだとします。

 あるものは、象の牙をさすり「象とは尖っている生き物」だと主張します。あるものは象の腹をパチパチと叩いて「象とはぷにょぷにょしている生き物だ」と主張します。
 誰もが、「自分の立ち位置」と「自分のやり方」で象を言い当てようとしています。もちろん、誰一人として「ウソ」は言っていません。彼らの発見した「事実」は「真実」です。
 しかし、その真実は全体ではありません。皮肉なのは、誰一人、「象の全体イメージ」を持てていないのです。彼らが互いのイメージを相互に交換できたとするならば、象の全体イメージをつくることができるのかもしれませんが・・・。

 僕が追いかけているものも、この「象」に似ているのかもしれません。
 そうであるとするならば、今僕にできることは、自分の立ち位置から自分のやり方で象をさぐることなのかもしれないな、と思います。さらには、「違った立ち位置にたつ人々」とのコミュニケーションを失わないことなのかな、とも思います。

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 今日は、実質的な仕事始め。
 「巨象」を前に、さて、一年、頑張ります。

投稿者 jun : 2010年1月 6日 09:29


正月リハビリ中

 今日から仕事をはじめました。とはいっても、正月の暴飲暴食で3キロ太ってしまいましたので、重い体をひきずったままです。また、休みが長かったので、どうも、スラスラと言葉がでてきません。まだ本調子とは行かないようですね。しばらくリハビリが必要です。

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 年明け早々の仕事は、年末に返ってきた査読結果の検討です。査読結果を見直すというのは、どうして、こんなにもグルーミーになるのでしょうか。あべし。冷静な他者の指摘を受けると「どうして、こんなにオレはアホなんだ」と思わされます。しょぼーん。

 査読者にご指摘いただいた点は「そりゃ、そう言われるのも、もっともだよな、、、なるほどな、こりゃ勉強になったな」と思うところが多々ありました。お忙しい中査読を引き受けてくださった方に感謝ですね。自分も査読をたくさんするので、その負担は創造できます。
 しかし、一方で「ひぇー、それは、小生の能力では無理でありんす、堪忍しておくれやす」と、泣き言をいっております。僕は「弱い人間」です。このあたりが、実に悩ましい(泣)。

 今回ご指摘を受けたポイントを満足するには、大幅な書き直しになるでしょう。今、それが可能かどうか、追加分析をしています。いくつかの点でクリアできれば、再投稿となるでしょう。もし難しければ、他の可能性を探らなくてはなりませんね。

 嗚呼、出口は近いんだか、遠いんだか。
 まぁ、粛々、淡々とやるしかないですね。

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 どうでもいいことですが、今年の大河ドラマが「龍馬伝」ということで、年末、いくつかの坂本龍馬本を読みました。小生、みーちゃんはーちゃん、いわゆるミーハーですので。
 
 坂本龍馬については、こっ恥ずかしながら、あまりこれまで勉強したことはなかったのですが、なるほど、この人が人を魅了する意味がわかりかけています。

 本を読んでいて印象深いな、と思ったのは、坂本龍馬は「A or B」という二つの選択肢を提示された際、決して、そのどちらかだけを採用する、ということをしなかった人なのかな、ということです。

「A or B」という選択肢を提示されたら、「Aでもない、BでもないC」、つまりは「第三の道」を探求した人、それが坂本龍馬なのかな、と思いました。勝手な解釈ですんません。印象です。

 上士か下士、薩摩か長州、尊皇か攘夷、親幕か反幕・・・荒れ狂う時代の波にもまれ、明治維新を生きる人々は、様々なダイコトミー(二分法)に揺れ続けます。そんな中で、冷静さと熱いハートをもちつつ、「第三の道」を探求したのが、彼なのかな、という印象を持ちました。

 龍馬伝、楽しみにしています。

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 正月明けはそんな感じです。
 今年もよろしくお願いいたします!

投稿者 jun : 2010年1月 5日 11:28


樋口美雄(編)「転換期の雇用・能力開発支援の経済政策」を読んだ!

 お正月は、時間がありましたので、いろいろな本を読みました。その中で、もっとも印象的だったのは、樋口美雄(編)「転換期の雇用・能力開発支援の経済政策」(日本評論社)です。

 この本では、成人の人材育成、能力開発の問題を、よりマクロな視点から論じています。少子高齢化、産業構造化転換、グローバル化といったマクロな構造変化に対応して、いかに人材育成、能力開発はあるべきか。わが国が、効率的かつ公平な人的投資の仕組みをいかに社会の中にビルトインするべきなのかを論じておりました。

 僕の研究は「企業」さらには「職場」といったようなミクロな問題を扱っています。自分の研究を位置づけるためにも、こうしたマクロな研究にも目配りをしておかなければならないな、と思いました。本書は専門書ですので、記述は専門的です。わが国の雇用環境が今後いかに変動していくのかを考えてみたい方には、おすすめです。

  ▼

目次

序 章 能力開発のための新たな社会支援の必要性と政策評価

第1部 多様化する就業形態
第1章 人材ビジネスの社会的機能と課題
     ――雇用機会創出とキャリア形成支援
第2章 若年層の雇用の現状と課題
     ――「ダブル・トラック」化にどう取り組むか
第3章 ニート、フリーター、若年失業とマクロ的な経済環境
第4章 企業内人材育成における現状と課題
第5章 人事担当者から見た企業における若年層

第2部 諸外国の事例
第6章 EUにおける若年者雇用と若者政策
第7章 フランスの雇用政策・人材育成政策とその評価制度
第8章 イギリスの雇用政策・人材育成政策とその評価
第9章 デンマーク及びEUの雇用政策とその評価
第10章 欧米と日本の組織モデルの違い
     ――なぜ日本ではプロフェッショナルが育たないのか

第3部 多様な就業形態と経済・財政政策
第11章 若年を中心とした雇用形態の多様化が社会・経済に及ぼす影響について
第12章 税・社会保障制度と労働供給
第13章 人的資本蓄積と税制を考える
第14章 雇用を取り巻く環境の変化に対応した制度や政策のあり方
     ――「多元的雇用・勤労福祉型システム」の創出に向けて

投稿者 jun : 2010年1月 4日 10:30


新年明けましておめでとうございます!

 日頃からお世話になっているみなさまへ
 新年、明けましておめでとうございます。

 2010年も、「大人の学びを科学する」をコンセプトとして、働く人々の学習、成長、コミュニケーションの関係を探求する研究を進めたいと考えています。
 今年は、研究者として働き始めて、丁度10年になります。そろそろ、キャリアの節目の年でしょう。今年は、ここ数年の研究成果をまとめることに注力したいと考えています。

 本年も、ご指導・ご鞭撻のほど、どうぞ宜しくお願いいたします。

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 2010年元旦
 中原 淳

投稿者 jun : 2010年1月 1日 07:54