謹賀新年、明けましておめでとうございます!

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 みなさま、新年明けまして、おめでとうございます!
 僕は、30日に2013年の仕事をすべて終了(p400の書籍原稿を完成!)。今は、カミサンの実家で過ごしています。とはいえ、TAKUZO、KENZOがおりますので、そりゃもうご想像にお任せするとして、新年早々、割と忙しく過ごしています。


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 個人的な話で恐縮ですが(いきなりマジになる!)、新年ですので、今年の抱負を述べさせて頂きます。
 今年の研究テーマは「Expanding(拡張)」にしようと思っています。
 これまで行ってきた研究を「足がかり」にしつつ、さらに発展させながら、未だ研究を行っていない対象、領域、時間へと、研究を「拡張」しようと思っています。
 今年は「拡張」というよりも、「拡張のための仕込み」に近いかもしれません。そうやって、今後の足がかりをつくっていきたいと思います。

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 第一の拡張は「組織の拡張」です。
 これまで僕の研究の多くは、「人事の専門部署が置かれるような企業」を中心に、展開されてきました。
 人材育成研究は、多くの場合、企業との共同研究になります。その場合は、企業側にも、研究を理解し、コミットしていただける研究マインドのある人材開発担当者の方に御協力をいただく必要があります。
 で、研究のために必要な諸条件をクリアできるということになると、最低でも、人材開発に専任の人材を準備できる企業規模が対象になってしまいます。

 企業規模に関しては、当然のことながら、分析のときなどは、それを加味した処理を行うのですが、そうはいっても、それで完全にクリアできる部分とそうでない部分もあります。
 このことが10年以上、ずっと気になっていました。しかし、自らの研究の基盤が安定化するまでは、拡張はなかなか難しいことです。
 それは「外部から指摘するのは簡単」なのですが、実際に研究の実現可能性を考えますと、極めて困難な課題を抱えることもあるのです。

 しかし、研究をはじめて10年以上たち、そろそろ、諸条件が整ってきました。今年は、様々な方々と連携しながら、これまでより小規模な企業規模での人材育成の研究を開始したいと考えています。具体的な成果が見えるのは、2年後くらいからでしょう。今年は仕込みです。

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 第二の拡張は「時間的拡張」です。
 これまで僕の研究は、主に、「若年層からマネジャー層に至るまでの職域における能力形成」を対象にしていました。こちらを正式に変更します。
 変更後は、「大学生の経験ー就職ー初期キャリアー実務担当者としての成長ーマネジャーへの承認」にまでを視野にいれた「プロセス」を研究の対象にしたいと思います。
 こちらの構想は3年前から徐々に準備をしていました。第一弾は春に専門書が出版されます。来年は、いよいよ本格的な探究を開始し、成果を発表していきます。こちらは、中原研の大学院生有志との研究、京都大学、電通育英会との共同研究です。

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 第三の拡張は「単位の拡張」です。
 これまで僕の研究は、育てられる側に焦点を絞ることが多かったように思います。これを「育てる側」にもスポットライトをあてていきたいと思います。育てることで、育てる側に、どのような変化が起こるのかを、中原研OBの関根さんらとの共同研究を通して分析していきたいと思います。

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 第四の拡張は「ツール研究への拡張」です。
 これまで僕の研究は、実証的な調査研究をコアにしながら、場合によって研修やワークショップの開発を行ってきました。これにツール開発の要素をさらに加味していきます。
 今年は、様々な組織と連携しながら、様々なツールを創ります。
 
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 今年もNAKAHARA-LABをどうぞご笑覧ください。
 どうぞよろしく御願いいたします。

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投稿者 jun : 2013年12月31日 07:49


今年最後のブログ記事!:2013年もNAKAHARA-LABをありがとうございました!

 本日27日をもちまして、本年のブログ更新の最終とさせていただきます。本年の仕事、まだすべて終えているわけではないですが、今日から移動等がおおくなりますので、更新が滞る可能性があります。本年も、NAKAHARA-LAB.NETブログをご覧頂き、まことにありがとうございました。

 振り返ってみれば、本年は、僕にとって「第二の創業期」でした。ちょうど、一年前くらい前、2013年1月1日のブログに、僕は下記のようなことを書いています。

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 今年の僕のテーマは「アクチュアリティ」です。「なんで、新年早々、カタカナなのよ」というツッコミがきそうですけど、まーいいじゃない。気にしないでください(笑)。

「アクチュアリティ」とは、「現在進行している現実」であり、「関与している人が自分自身のアクティブな行動によって対処する以外ないような現実」のことをいいます。もともとはラテン語の「Actio(アクチオー)」に起源をもつ言葉です。

 そして、今年は、この「アクチュアリティ」を前面にかかげた活動を行っていきたいと思います。「経営と学習」、いわゆる「人材育成」の領域、また高等教育の教育現場で、人々が「まさに今」悩んでいる問題に、現場の方々とともに、答えを模索していくような「生々しい活動」をしていきたいと感じます。今年は、「今まさに、多くの方々が格闘している問題」と取り組みたいと思います。「誰もが今悩んでいること」を、アカデミックな切り口で、なるべくわかりやすく、平易に、分析し、語ること。これが今年の目的です。

(中略)

 というわけで、今年2013年の中原の活動は、「3年後」「5年後」に必要になること、というよりは、「今まさに起きている問題」に焦点をしぼっていきたいと考えています。

 ーーー

 この目的のもと、今年も様々な新たな活動に励んできました。その成果は、2月、3月、4月、6月と立て続けに出版される書籍でご覧頂けることになると思います。2013年現在、実務の現場で悩まれている問題に対して、現場の方からの声をまじえ、そこに科学的知見を踏まえつつ、何とか書籍を編んできたつもりです。どうぞおたのしみいただけますと、幸いです。

 また、ほぼ毎日ブログを書いたのも今年の特徴でした。それは、現場のアクチュアルな問いに悩む方々に、何かしらのコンテンツを日々お届けしたい、という願いからはじめました。
 数日間は体調不良などの理由でやむなく書くことができませんでしたが、ほぼ毎日書くことを達成できましたことは、応援してくださったみなさまのおかげです。ありがとうございました。なお、2013年は、全部で316万PV、121万人Visitでした。ありがとうございました。

 2014年の目的は既にたっています。その詳細は、元旦1月1日に発表させていただきますが、今年とは、またひと味違ったかたちで、新たなことに挑戦してきたいと思います。
 来年は、30代最後の年です。
 キャリア論でよく言われるように、40歳は「人生の正午」に喩えられます。人生の正午を、新たなかたちで迎えることができるよう、来年は大きく研究の方向性を拡張したいと思っています。

 それではみなさま、よいお年を!
 NAKAHARA-LABを今年もありがとうございました。

 そして人生は続く!

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追伸.
 先日より、Yahooニュース個人に記事転載しています。過去の記事で比較的アクセスが多かったものを当面のあいだ、こちらに転載させていただく予定です! どうぞよろしくご笑覧ください。

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YAHOO個人 中原 淳のページ
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/

投稿者 jun : 2013年12月27日 17:03


本を書くこと:編集者と著者

 先だって、僕が、著書などでこれまでお世話になってきた各社の編集者さん、ライターさん、カメラマンさんの中で、今もまだ接点のある方々が、一同に会して、「忘年会」が開催されました。

「編集者同士って、あんまり、横のつながりがないよね」という某飲み会でのひと言がきっかけとなって、プレジデント社の九法さん、ライターの井上さんが声をかけてくださって、この会が実現しました。お二人には心より感謝いたします。

 お集まりいただいた方々の中には、Facebookやメール等ではやりとりはあるものの、10年以上お逢いしていなかった方もいらっしゃって、大変に懐かしいことでした。

 みなさまとお話させていただきながら、つくづく感じたことは、これまでの著書一冊ごとに、僕自身に「挑戦課題」があり、また、それを編集者の皆さんとつくりあげていくプロセスでは、「忘れられないストーリー」があったな、ということです。

 一冊の著書もない頃、まさに「駆け出し」の頃の僕の企画書を熱心に読んでくださった思い出。読者のことが想定できず、論文のような文章を書いてボツをもらった思い出。思わぬトラブルに、国際電話で対応した思い出。今となっては、懐かしい思い出です。
 思うに、本をつくっていくプロセスは、バトンを渡し、渡されて、編集者と著書がマラソンをしているような状況に似ています。それは本当に「長い旅」のようなものです。先だっては、そんなことを思い出しながら、家路につきました。

 今、まさに僕は併走中です。
 何とかゴールまで完走したいと思います。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年12月26日 08:33


今年は「採用研究会」で仕事納めです!:The Oxford handbook of Recruitmentを揉む会

 明日は、今年最後の仕事として、首都圏近郊で開催される「採用研究に関する研究会(採用研究会 :別名The Oxford handbook of Recruitmentを揉む会!?)」に参加します。
 採用研究会は、組織論、社会化研究などに関心をもつ若手?(僕もまだ若手?)研究者が集まって、先だって出版されたThe Oxford handbook of Recruitment(採用研究に関するハンドブック)を1日で読む、暴挙的研究会!?です。

 先だって10月頃でしたでしょうか、刊行されたばかりの分厚いハンドブックを手にした中原のつぶやき「あー、誰か研究会してくれないかな・・・」に快くお答えいただいた、中原研OBの関根さんの声がけで、実現しました。関根さんにも、ご参加頂けるみなさまにも、心より感謝しております。
 研究会でのディスカッションも、また、若手研究者の方々とお会いすることも、とても愉しみです。

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 今日は朝からレジュメをシコシコとつくっておりました。僕に任せられた役割は、「研究会のイントロダクションとオーバービュー」ということです。
 しかし、単に、この本のオーバービューをするのはつまらないので、ちょっと工夫をしてみることにしました。

 試みてみたのは、「採用研究の採用プロセス」を敢えていったん「トランジションプロセス(学校領域から職業領域)」として、ニュートラルに見なし、この中空領域に、既存の学問・研究領域が、どのような言説を形成しているかをオーバービューしつつ、そこに経営学における採用研究の特徴を炙り出しつつ、担当章を紹介することです。

 こう書くと、なんか難しいことのように感じるかもしれませんが、たいしたことはしていません(!)。

 要するに「学生から社会人になるプロセス」に対して、これまで、どんな研究が生産され続けてきて、何を主張してきたかを概観したあとで、1章紹介してるだけです。
 最初から、簡単に書けよ>自分。

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 研究会のオーバービューとして、このように敢えて、いったん大きな地図を描くことを試みようと思ったのは、実はワケがあります。
 といいますのは、少し考えてみますと、この「トランジションプロセス」は、一般的な組織論と全く異なる特徴をもっていることに気がつかされます。
 このトランジションプロセス、企業の観点からみれば「はい、採用ですね!」で済むのですが、そのプロセスを、異なる視点で見詰めるステークホルダーが数多くいるということです。
 ひと言でいえば、「採用に関係するステークホルダー」が膨大だということです。

 だって、そうでしょう。
 たとえば、人材育成研究をとりあげましょう。人材育成研究であれば、そのステークホルダーは、組織の内部の人、とりわけ、人事関係の方、現場のマネージャー、経営者、従業員です。それ以外にもいるけれど、議論を簡単にするために、そこは今はオミットしときましょう。
 しかし、人材育成(社会化)の「直前プロセス」である「採用」ということになるとどうでしょうか。
 すぐにわかるように、この「トランジションプロセス」には、人材育成研究と比べて、膨大なステークホルダーがかかわり、それぞれのステークホルダーに関係する学問分野が存在しています。

 ざっくりいうと、「経済学的・社会科学的観点からは国家の公正な資源配分と労働力確保」「高等教育の観点からは学歴効用論」「大学達成度研究の観点からは、大学教育の改善」「キャリア教育の観点からは学生個人のキャリア」そして「経営学的観点からは、有能な人的資源の調達」・・・要するに、国家、大学、個人、企業、そしてそれに付随する言説空間が、トランジションプロセスを異なる目で見つめているのです。
 それはなぜか。
 端的に述べるのであれば、グローバル化や情報化に代表される社会の変化は、トランジションプロセスという、「継ぎ目」になるような脆弱空間にこそ、最もはやくあらわれ、そしてそこには、看過できない様々な「ねじれ」や「歪み」が生じているからです。

 で、採用研究の知見をじっくり読む前に、これらをオーバービューしておく必要は、もうおわかりだと思いますが、企業が「経済合理性」のみを優先して、採用活動を行ったとしても、必ずしも「意図通りの効果」をあげることは難しいこともありえる、ということです。
 そこにはいろんな人がいて、それぞれの思惑から、いろんな言説が生産されている。そして、社会の矛盾は「トランジション」のプロセスにこそ、色濃くあらわれる。だから採用研究を概観する前に、「目配り」をしておこうね、と思いました。

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 個人的に、このトランジションプロセスを、人材開発研究と結びつけようと思い始めたのは3年前です。3年前、舘野さん、木村さん、保田さんなど研究室の有志をつのって、京都大学の溝上慎一さんらと共同研究を行ってきました。

 いやー、Recruitment研究は、格段に難しいです。
 でも、明日の研究会から、何らかのブレークスルーが生まれることを願っています。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年12月25日 09:23


「自分のキャリアを「小さな雑誌」にする実験的ワークショップを開催しました!

 12月21日、「自分のこれまでとこれから」を伝えるリトルプレス(p12の小雑誌)を、なんと1日でつくってしまい、さらに、それをつかったダイアログパーティまでやっちゃおうという、世界初!?の超キワモノのワークショップ「PPP : Playful work Press & Publishing」を、牧村真帆さん、見木久夫さんらと開催させていただきました。
 
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 PPPは、1日に全てを盛り込んだワークショップです。
 ワークショップの前半部(午後1時ー5時)では、見木さんから、リトルプレスの作り方に関するワークショップがありました。

 1)お互いのつくりたい作品のイメージをグループで共有する
 2)カット割り(12pのどこに何を描くかを考える)
 3)実際につくりあげる

 の3つのプロセスで、写真や雑誌の切り抜きをブリコラージュしながら、リトルプレスをつくっていきます。

 皆さんの制作活動を見ていて(今回、僕は何もお手伝い係・カメラ係?です)、おそらく大切なことは、自分の人生を、どれだけ「短縮表現」できるかという点だと思いました。
 たとえば、38歳の参加者の方がいたのだとして、わずか12pのリトルプレスに、その38年間を表現することはできません。要するに、38年を「縮約」することのできるテーマ、そしてコンセプトが必要になってきます。それをどのようにつくるかが、非常に興味深いな、と思いつつ、作品づくりのプロセスを拝見させて頂きました。

 後半部は、牧村さんのファシリテーションで、皆さんでつくったリトルプレスを「読んでもらうための売り場づくり」をします。POPを書いたり、マスキングテープなどでデコレーションしたりしながら、後半部のパーティで、お互いに作品をシェアする場をグループでつくりました。興味深いのは、POPです。ここにも、先ほどの「短縮表現」が活かされます。
 3時間、非常にハードファンな時間を過ごしてつくった作品でしたので、シェアは、非常に盛り上がりました。お食事やワインを飲みながら、お互いの作品を鑑賞する時間が、続きました。
 かくして、PPPは終了です。みなさま、本当にお疲れさまでした。

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 今回のワークショップは、「キャリアを表現すること(Expression)」を通して、「振り返る(Reflection)こと」、お互いに「これまでと今を祝福すること」、さらには「未来へのエンパワーメント」を実現することをめざしていたように思います。
 それが成功したかどうかは、今後、皆さんのご感想をうかがいながら、考えていこうと思いますが、超実験的ワークショップの割には、何とか、無事、トラブルなく、一人も作品が創れないという方がでることなく、終えることができました。みなさま、御協力ありがとうございました。

 この手のワークショップで、「表現」というと、よく知られているのは「イキイキチャート」とか「LEGOブロック」とかでしょうけど、ーそれでもいいのですがー やはり、僕たちとしては、「新たな可能性」と、そこに開かれる「興味深い学び」に関して、今後も、様々な「実験(Experiment)」を繰り返していこうと思っています。
 今回、僕たちは、様々なことを学びました。次に、もしこれがあるのだとすると、配慮した方がいいことをたくさん見つけることができました。また機会を見て、お話しできるといいな、と思います。

 今回のワークショップは、見木さん、牧村さん、本当に大変だったと思います。ありがとうございました&お疲れさまでした。また、Kurkku Homeという素敵な場所をお貸しいただいた松田さん、そしてご参加頂いたみなさまにも感謝いたします。

 下記に、僕のとった写真やビデオをおいておきます。
 ビデオは、僕、今、マジに!?、いや、ガチで!?時間がなくって、先ほど、「本当に適当につないだ」だけで、キャプションすらもはいっていないのですが、雰囲気は、おたのしみいただけるのかな、と思っています。感じてください、雰囲気を。

 写真の方は、本当は補正をかけたいのですが、こちらも時間がありません。牧村さんのおつくりいただいたFacebookページにのっけておきます!

リトルプレスのFacebookページ
https://www.facebook.com/playfulwork.press.party

 今日はクリスマスですね!
 Wish your happy X'mas!
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年12月24日 08:15


就活と内定と新人育成をつなぐ研究!?:「多種多様な人だらけ、好き勝手、言いたい放題ワールド」を密かに探究する!?

 現在、研究室の有志で進めている研究に、「就活ー内定ー組織参入ー社会化」の一連のプロセスを視野にいれた「縦断研究(longitudinal method)」があります。

 縦断研究は、ちょっと前から人文社会科学のトレンド?のようなものになっているので、それこそ、あーた、いろんな「縦断研究」がありますが、僕らがやっているのは「教育機関から離脱し、会社などの組織参入・定着」に至る短いプロセスの縦断研究です。要するに「就活と内定と新人育成をつなぐ研究」ということでしょうか。

 言葉をかえるならば

「就活で、どんな行動を取っている人、どんな社会的ネットワークを持っている人がおり、それが企業に入ってから、どのような影響をもたらすか?」

「企業は内定者に対して、どんな施策をうっているのか? それは、職業選択、および、組織参入時の社会化プロセスにとって、どのような影響をもたらしているか?」

 といった問いに対して、数年のスパンをかけて、回答者をおっかけて調査を行う研究をしているのです。東京大学中原研、京都大学溝上研、電通育英会さんとのコラボ研究です。ありがとうございます、感謝です。

 もともとは、3年前から京都大学・溝上研と進めていたプロジェクト「大学生研究ー企業人材研究のコラボ研究」の成果が「躍進するビジネスパーソンの探究:大学時代の経験をさぐる」として来年3月に東京大学出版会から出版予定で、「あー、やれやれ、一山越えたかい?」って感じなので(!?)、既存のメンバーに、さらに研究室の新メンバーを巻き込んで、その第二弾プロジェクトを立ち上げることになりました。

 この第二弾プロジェクトでは、2月に調査を予定しているので(電通育英会×東大中原研×京大溝上研)、現在、質問項目の選定を行っています。今日は、その会議でした。

 今日は教養学部後期の学生さんT君が、研究室訪問に来る日だったので、彼にも、研究会に参加してもらい、学部生ならではのフレッシュな?意見をもらいました。突然巻き込まれてくれてありがとう。

 それにしても、このプロジェクトを進めていてつくづく思うのは、「組織参入」から少し「前倒し」て、「就活・内定」というフェイズに「研究のスコープ」を広げただけなのに、そこには信じられないくらいのステークホルダーと、得体が知れない言説がうねうねと存在し、異様なまでの「多要因世界?」が待ち受けていることです。

 組織の中の、特に職場研究ならば、「上司」「先輩」「同僚」などが主要なエージェントですが、そこから6ヶ月時計の針を進めただけで、「大学の先生」「大学の友人」「バイト先の友人」「父親」「母親」「キャリアセンターの先生」「人事採用担当者」「企業の現場マネジャー」「企業の経営者」とあれよあれよ、と人が増えていき、うねうねと、トグロまいてる世界があらわれます。

 採用、内定の言説空間には、「怪しい言説」もあるかもしれませんね。
 学生よりもほんのちょっと前に「企業で働いたことがある」「採用業界で働いていた」という根拠だけで「おれの語る就活経験マンセー」「今年のトレンド、これで決まり!」という感じの物言い含めてね。好き勝手、言いたい放題、根拠レスワールドが広がっているように見えているのは、僕らのプロジェクトメンバーだけでしょうかね? うーん。

 考えてみれば、就職活動している学生って、この「人だらけ、好き勝手言いたい放題ワールド」を乗り越えなきゃなんないんですよね。言い方難しいけど、真に受けちゃだめですよ、スルー力も必要なときはありますよ、本当に。嗚呼、本当に大変ですよね。まことにお疲れさまです。

 僕たちの研究が「節操なき、多要因、言いたい放題ワールド?」と「仕事の世界」の関係を本当に解明することができるかどうかわからないのですが(言いたい放題言説は相手にしないとして、これら多要因空間が、サイエンスになりうるのかどうかわからないよね、現段階では。でも、わからないからやるんだよ)、僕が究極的に知りたいのは、「仕事を通じて人が育つプロセス」なので、何とか、既存の人材開発研究とうまく接合していくと面白いな、と思っています。

 まぁ、何が起こるかはわかりませんが、志ある大学院生たちと、走り抜けたいですね。それはハードですが、愉しいことです。
 
 そして人生は続く
 
追伸.
 今日の話は「新人育成の前倒し」ですが、縦断のスコープをあとにとっていく研究もスタートさせます。つまり「新人育成ーマネジャー発達」を論じる研究です。これで、就活からマネジャー発達まで一気通貫できるかなぁ。。。
 まぁ、これに限らず、来年度の研究室の研究戦略を今練っているところです。リソースは無限ではないので、どこに資源配分を行うか。ガチに考えています。そのことは、またお話しします。

投稿者 jun : 2013年12月20日 16:04


海外勤務から帰ってきた人が「離職」する理由とは何か?

 昨日で大学院中原ゼミは、年内の営業を終了。今年最後の発表は、舘野さんによる英語発表と、来年修士課程に入学なさるお二人の研究プロポーザル発表でした(突然振ってしまい、すみません)。
 
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 前者、英語論文は、海外派遣帰任者の帰任後のケアに関する論文でした。
 Lazarova and Caligiuri(2002)によれば、多国籍企業にとって、海外派遣帰任者をいかにRetaintion(雇用持続)させるか?は、非常に大きな関心事だといいます。多国籍企業にとって、海外派遣は、事業継続のために必要なことである一方、従業員の能力形成の手段として用いられるからです。

 しかし、海外派遣は「諸刃の剣」でもあります。行ってバリバリ仕事をしているときはよいのですが、帰任後、問題を抱える場合が少なくないのです。最悪の場合、離職につながることもあるので、注意が必要です。先だっての論文には、海外派遣帰任者の12%は年内に辞める。次の俊に辞める13%。要するに25%は離職する、というデータが紹介されていました。
 興味深かったのは、このことをTwitterでつぶやくと、某人材開発部長のOさんから、こんなメッセージをいただきました(O
さん、ありがとうございます)。

「結果的に離職しなかったものの、帰任後にこのままでいいのかという思いが湧き上がった人も入れると相当数が離職を考えたと思います」

 そうだよなぁ、、、わかる気もしますね。
 自分を振り返っても、自分の周りの友人の様子を見ても。。。

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 離職につながる要因としては、この論文内、論文外でも、様々に述べられています(海外帰任研究というカテゴリーですね)。

 1)海外に比べて挑戦性のない仕事がわりあてられる
 2)海外で培った経験やスキルが活かせない
 3)海外にでているあいだに昇進機会の喪失
 4)海外のように自律的な仕事を行うことができなくなる(降格のように感じる)
 5)キャリアが不透明になる
 6)同僚からのやっかみ
 7)同僚、本社の人的ネットワークからの離脱
 8)本国文化への逆適応への失敗
 
 などです。
 ちなみに、同論文では、「帰任後の組織からの各種の支援」を独立変数に設定し、従属変数:リテンションとの回帰を行っておりました。「帰任後の組織からの各種の支援」といいましょうか、帰任者に対する目配りは、やはり大切なようです。

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 ゼミでは、その後、いろんな議論を行いましたが、この状態は、なかなかシンドイな、ということになりました。

 事業規模や経緯にもよりますが、海外の事業をうまく回すためには、それなりの人材を派遣しなくてはなりません。でも、たとえば、エース級(As)人材を割り当てた場合、それで離職につながってしまうのだとすると、やはり、そこには「躊躇い」が生じます。しかし、ビース(Bs)!?、とか、シース(Cs)級人材では、海外の事業を安心して任せられない。Blackさんらの一連の海外帰任研究の知見によりますと、帰任後の離職もそうですが、赴任中の離職も、3割程度と言われています。特に、初期適応の失敗、能力不足が問題になるケースが多い印象です。

 ということは、やっぱり、海外事業を行うのであれば、帰任後のキャリアとか視野にいれて、海外派遣をしなければならないことになりますね。覚悟をしなくてはなりませんね。
 一方、また、ゼミの中では、As人材をリテンションさせるというのは、そもそも難しい、のであきらめるのも選択肢だ、という意見も聞かれました。だから、どうせやめるのだから、思い切って、挑戦の舞台を海外に与える、ということです。

 皆さんはどう思いますか?

 そして、人生は続く?

投稿者 jun : 2013年12月19日 08:23


大学生研究フォーラム2014でお会いしましょう!? : 世界初!?のジグソーカンファレンス?

 昨日は少し体調を崩したので、ブログ更新をお休みさせていただきました。少し、よくなりましたので、今日は復活です。

 いやー、師走ですねー。僕ごときが「師」というのも、ちゃんちゃらおかしいのですが、本当に「師走街道、爆走中、パラリラ、パラリラ」という感じです(!?)。

 ただでさえ、年末をひかえ大学の業務が最も忙しい時期に(この時期は、来年度の事業計画、概算要求、予算などの折衝があるんです、、、この話はここではできません)、今、4冊の本をジャグリングしながら書いている、というのが、我ながら、「阿鼻叫喚アワー」です(!?)。

 嗚呼、こんなハズじゃなかった。。。
 予定では、こんなに集中的に執筆が重なるとは思わなかったのですけれど、あちらが少し遅れ、こちらも少し遅れ、そちらも少し遅れ、要するにすべてが押せ押せしているあいだに、気がつけば、4冊を同時に書くことに。。。「嗚呼、四面楚歌、あべし状態」になってしまいました。まことに不徳の致すところです。

 しかし、これも僕に与えられた「試練」です。なんとかこの苦境を切り抜け、フレッシュな研究の成果を「お届けしたい」と願います。とりあえず、年末まで走りきりたいと思います。どうぞよろしくです。

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 あっ、そうそう、来年度の「大学生研究フォーラム」の企画が、そろそろ固まってきました(京都大学×東京大学×電通育英会の共催)。大学生研究フォーラムは、高校、大学関係者、企業関係者500名が一同に介して、年に一度開催される「学びとキャリア」のシンポジウムです。

 来年度は、溝上慎一さん、京都大学が開催校となりまして、7月26日、27日に開催されます。1日目は主に「大学生と企業」をターゲットにした議論。2日目は、河合塾も加わり、「高大連携」をさぐる予定です。

大学生研究フォーラム2014
2014年7月27日(日曜日)9:30-17:45 京都大学
(2日目28日(月)は高大連携をメインとします)

大学生研究フォーラム2013
http://www.dentsu-ikueikai.or.jp/forum/2013.html

 来年は、中原、溝上さんで相談して、世界初のカンファレンス運営を行うことにしました。その名も、「ジグソーカンファレンス」。
 どっかで聞いたことがありそうな名前ですが!?、500名規模のカンファレンスで、これを実行するのは、世界初!?じゃないかな、と思います。いいんです、言ったもん勝ちなんだから。

 ものすごいことになりそうです。
 今からどうか、スケジュール帳に予定を書き込んでいただけますと幸いです。

 どうぞお楽しみに!
 

投稿者 jun : 2013年12月18日 08:23


OJTにまつわる「スレ違い」!? : 指導か、仕事か!? やりながら学ぶか、学んでからやるか!?

 昨日はサンデーワーク!?です。朝から本の編集作業。午後は、指導学生の島田徳子さん(D3)の学会発表におともし、代官山で開催されていた「人材育成学会」に参加させていただきました。

 島田さんは「元留学生外国人社員の組織社会化を促進する 日本人上司による支援と本人の経験学習行動との関係」というタイトルで発表をなさいました。「日本の大学を卒業して、日本の企業に就職した元留学生社員が、日本の組織にどのように適応していったのかを実証的に分析した研究」です。

 分析の結果、元留学生社員をマネジメントする上司のかかわり、それも、「文化的なかかわり」が大切であり、しかも、上司のかかわりを引き出すのは、元留学生自身の「ソーシャルなプロアクティブ(能動的な)行動であること」を明らかにしたのだと思います。
 島田さん、まことにお疲れさまでした。今後の島田さんの研究も愉しみにしています。

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 残念ながら所用があり、人材育成学会は中座させていただきましたが、帰りがけに興味深い発表をお聞きしました。
 九州大学大学院の原山有希さんのご発表で「大卒外国人留学生を採用する企業の社会学的一考察」というタイトルでした。

(以下、中原の主観で勝手に要約しています。もし間違っていたら、ごめんなさい。ご指摘ください。また詳細は予稿集をあたってください)

 原山さんは、大卒外国人留学生を採用している一企業を対象にして、質的分析手法を用い、外国人社員と日本人社員、日本人上司と外国人社員の組織適応の様子(すれ違いの様子)を明らかにしておられました。

 その内容の詳細に、ご興味があられる方は、ぜひ人材育成学会の予稿集などを入手して、直接原稿をご覧頂きたいのですが、興味深かったのは、「日本人社員と外国人社員のOJTのとらえ方の違い(OJT観の違い)」と「日本人上司と外国人社員の育成観の違い」です。
 これらOJT観や育成観の違いによって、元留学生社員が日本人、日本の組織と「すれ違っている」というご指摘が、非常に面白く感じました。

 具体的にいいますと、前者「OJT観」に関して、日本人社員は職場で行われる「OJTを指導だ」と思っているのですが、外国人社員は「OJTを仕事だ」と意味づけている。

 後者「育成観」に関しては、日本人上司は「やりながら憶える」という育成観をもっているのに対して、外国人社員は「いったん学んでから、やる」という育成観をもっている。

 かくして、このような「観(Perspective)」の違いによって、外国人社員の方々と日本人とのすれ違いがおこります。興味深いことですね。今後のご研究がまことに楽しみです。

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 妄想力を働かせ考えて、このファインディングスに関する実践的インプリケーションは何になるでしょうか?

 ひとつは、グローバル化していく職場では、組織が有する人材育成施策やその方針について、これまで以上に、丁寧に組織が個人に「説明」をしていていかなければならないというアタリマエの事実です。

 文化を共有していない方々に対して「ただ何となくOJT」「ただ何となく配属」ということでは、「すれ違い」が生まれてしまいます。もはや「あうん」は通じません。ひとつひとつ説明し、意味づけていく努力が必要であると観じました。

 もうひとつは、今回のリサーチは外国人の組織適応を対象になされていますが、そこで得られた知見の一部は、必ずしも、外国人だけに当てではなくなるだろう、という予感です。
 長期雇用を前提にしにくくなっている、現在の就労環境においては、日本人の新人・若手においても、人材施策の「説明」や「意味づけ」はさらに重要になるのではないでしょうか?

 管見ながら、様々な職場でヒアリングをさせていただいておりますが、現在、教育機関を卒業し、組織に参入していく若い人にとっても、「いったん、学んでからやる」という育成観を持っている方々は少なくないと想像します。先だって、経営学習研究所で開催されたイベントでも、OJTを取り上げましたが、博報堂大学の白井さんも、そんな若者の変化を、述べられておりました。

 であるならば、「ただ何となくOJT」「ただ何となく配属」ではなく、そこには一定の説明や意味づけが必要になるのだと思いました。

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 以上、今日のブログは、昨日の人材育成学会の参加の感想でした。嗚呼、今週も、非常に多忙です。

 そして人生は続く

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追伸.
過去にこんな記事も書いています。ご興味あられるようでしたら、ぜひご笑覧ください。

「OJT信仰・手放しのOJT礼賛」を超えて : OJTの脆弱性・成立条件を考える
http://bylines.news.yahoo.co.jp/nakaharajun/20131216-00030679/

投稿者 jun : 2013年12月16日 07:40


居酒屋でお酒を飲むのは「コミュナル(共同体的)」か!? : とりあえずビールにはじまり、みんな頑張ろうに終わる!?

 先日、ある外国人の先生と、80年代のマネジャー研究(管理者行動研究)について話しておりましたところ、ひょんなことから、話題が「居酒屋」にうつりました。

 高業績課長のコミュニケーション特性が、「組織外の対面状況下での、部下等との直接コミュニケーションの多さにあらわれる」という研究知見を見ていて、「組織外の対面状況下での直接コミュニケーションの多さ」っていったら、そりゃ、居酒屋?だよね、それしか、ないんでないの、ということになったのです(笑)。

「組織外が居酒屋」かどうか、その真偽はわからないのですが(!?)、「マネジャーが直接コミュニケーションを好むこと」は、他の管理者行動研究の知見においても、よく指摘されていることです。

  ▼

 さて、話題が「マネジャー研究」から突然「居酒屋」にうつり、またあーだこーだ話していると、

「IZAKAYAって飲むのって、コミュナルだよね(Communal:共同体的だよね)」 

 という話になって、盛り上がりました。主な理由は以下の3点です。

1.「とりあえずビール!」がコミュナル!?
 居酒屋での注文は、多くの場合、"とりあえずビール"からはじまることが多くないでしょうか。A先生によると、この慣習は「戸惑い」があったそうです。彼によると「個人が好きなものを頼めばいいじゃない」と思うみたいです。
 でも、飲めない人は別にして、みんな最初は、同じものを飲もうとしますね(これは挨拶を早く迎えたいからでしょうけど)うーん、コミュナル!?

2.小さな皿の少ない料理を分け合うところがコミュナル!?
 大きなプレートにドカーンと料理がもられて、それを個別に一人ずつ食べることが慣習になっている西欧から見ると、「居酒屋の小さなお皿の少ない料理」は不思議に見えるらしいです。
 A先生曰く、「小さなお皿の料理なのに、みんな少しずつ、小分けにして食べるでしょう? 大皿ならわかるけど、居酒屋の料理って、そんなに大きくないでしょう。それをたくさん頼んで、少しずつ食べるっていうのが、不思議です」
 もしかしたら、ここには意味があるのかもしれませんね(妄想気味)。小さなお皿にもられた少しの料理でも、分け合って食べるということは、コミュナルなこと?
 あと、居酒屋で頼むときって、いきなり最初から「カニ汁!」とかって頼まないですよね。「カニ汁は、みんなで分けられない」でしょうから。てことは、オーダー自体も、コミュナルなのかもしれませんね。

3.挨拶にはじまり、挨拶に終わるのがコミュナル?
 これは1に関係しますね、おそらく。居酒屋で飲むときって、特に職場単位でなんかでいくと、最初と最後に挨拶がありますね。
 最初の挨拶の主要なメッセージは、"お疲れさまでした"、最後の挨拶は"お互いに頑張っていこう"だよね。挨拶にもいろいろあるでしょうけど。これって、共同体維持・強化を意図しているのかもしれませんね。
 A先生曰く「最初、サンボンジメは、何がはじまるのかと思いました! パニックです」だそうです。

  ▼

 てなわけで、僕とA先生の会話は、猛烈な勢いで、「研究」から「ガチ雑談」になり、最後は、面白いねぇ、面白いねぇ、で終わりました。もちろん、行きすぎたCommunalは、息苦しさや排他を生む素地になりますので、注意が必要ですけれども。
僕は人類学が専門でも、社会学が専門でもないので、IZAKAYAがコミュナルかどうか、ここに書いてあることの真偽は知りません。もしかしたら、宴会とか飲酒という習慣が、そういうものかもしれません。またここで「コミュナル」といっても、いろいろなので、ここでの議論は雑談に過ぎません。いや、本当に雑談なんです(笑)。

 ただ、少しそういう目線でIZAKAYAでの飲酒の様子を見ていると、なかなか面白い習慣が見つけられるようにも思います。

 忘年会シーズン、今日は金曜日です。
 そんな愉しみ方もいかがでしょうか?

 そして人生は続く

 

投稿者 jun : 2013年12月13日 08:20


巷のシンポジウムで繰り返される「惨い質疑応答」を問い直す!?:あさって、オレオレ、ソクラテス質疑!?

 大人数が参加するシンポジウムの運営で、僕が、まことに個人的に、どうしても「受け付けないもの」がひとつあります。

 それは何かと申しますと、「講演者の講演のあとに、司会者がフロアに質疑応答を求めて、参加者全員で、その質疑応答を聞く、あのシーン」です。アレですな、アレ。チマータで、よく目にする、アレですがな(笑)。

 シンポジウムで、たとえば、基調講演があるとします。で、講演者が話しますね。そのあとで、たいてい司会者やファシリテータの方が、フロアに「質疑応答はありませんか?」と投げかけます。で、どなたかが手をあげて、講演者に質問をなさります。この「一連の流れ・作法」が、僕が、今日のブログの話題にしたい「アレ」ですね。

 いや、誤解を避けるために申し上げますが、質疑をしてくださる方が、講演自体にご興味をもってくださること、またご質問をいただけることは誠にありがたいことですね。個別に質疑いただくか、あるいは、工夫したやり方ならば。

 が、しかし、ただ、、、この「フロアに質疑応答を求めて、参加者全員で、その質疑応答を聞く」ような「質疑応答のよくある"方法"」だと、その中身やクオリティを「スクリーニング(精査)」ができません。そして、この方法だと、スクリーニングされない質問内容を、全員がシェアし、聞かなくてはなりません。暴走しても、静止することはほぼ不可能。何が語られても、聞くしかないのです。

 そして、個人的な経験上、この方式ですと「とんでもない質問」がくることが少なくないのです。
 「とんでもない」とは「鋭く、思わず、唸ってしまうような良質の問いかけ」というわけではありません。そういう経験もないわけではないですが、非常に限定的です。多くは、むしろ、「何聞いてるの?」「えっ、何が質問?」「どう答えていいの?」と思ってしまうような「とんでもない質問」が飛び出します。もちろん、悪気はない?、無意識なんでしょうけど。

 でも、その「とんでもない内容」を、講師は衆人環視の中で「答えなくて」はならず、かつ、参加者全員で黙って「聞かなければならない」。
 これは、かなり「惨い質疑応答シーン」になりがちです。そらー、貞子以上だわ。というわけで、まことに個人的に、僕は、あまり好きではありません。

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 この質疑応答文法だと、具体的にはどういうことになりがちか。といいますと、こんな感じです。名付けて「あさって」「オレオレ」「ソクラテス」(笑)。

 要するにね、こういうことです。

1.あさって質疑
「えっ、今のご質問で、何のことを聞いているのですか? そもそも質問の意図が"あさって"すぎてわかりません・・・」

2.オレオレ質疑
「あのー、今のは、質問なのでしょうか? あなた、今、質問なさっているのですか? それとも あなたの主張をお話になっておられるのでしょうか? わたしはそれにどうお答えすればいいんでしょうか?」
 要するに、全然「質疑」じゃないんですね、その実は(笑)。言いたいことはただひとつです。「ヒュー、オレ、イカしてるだろー」「オレマンセー」(笑) 「オレのご高説を聞け!」

3.ソクラテス質疑
「その質問って、人類の永遠の課題じゃないですか。昔、ソクラテスも同じようなことで悩んでいましたよ。そんなことを聞かれてもねー、あなた、答えられるわけないじゃないですか? あなたはどう思っているんですか? 逆にお聞きしたいですよ」

 聴衆にはいろいろな方々がいらっしゃいます。同じ話を聞いても、人の感じ方・考え方は様々です。人がいろいろな疑問をもつことはあたりまえのことですし、それはそれぞれにリスペクトされてしかるべきです。

 ですが、そこには、ともすれば「誰がどんな発言をしてもいい」という「疑似民主的な理念!?」が働くことが、ままあるのです。
 また、ラーニングという観点からいうと、「全体の最適」をめざすならば、「全体でシェアして、考えたいような良質の問いかけ」というものを事前にスクリーニングしたくなるのですが、これが、このやり方だと、なかなか難しい。
 そういう場合に、「惨い質疑応答:あさって、オレオレ、ソクラテス」が生まれがちなのですね。

 そして、少なくとも僕個人はですよ、僕個人としては、シンポジウムの質疑応答で「ためになったなー」「聞けてよかったなー」と思うことは皆無に近い、ということです。それは「やり方の欠陥」ではないか、と思っています。
(もちろん、ブリリアントな質疑応答もあるんでしょうね。そういう知的にエキサイティングな質疑応答をぜひ聞いてみたいとも思います)

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 今日は「シンポジウムなどでよく見受けられる質疑応答は、惨い質疑応答になりやすいカモね」というお話をしました。
 くどいようですが、質疑応答をする側というよりも、僕が問題にしたいのは、「質疑応答というシンポジウム文法」は、いかがなものなのか、ということです。

 ひと言でいいます。

 もう「あの形式」での、シンポジウムの質疑応答やめませんか?

 逆に、なぜ、「あの形式」なのでしょうか?

 そういえば、以前、この話を、ある高名・著名な方にしてしまい、ご機嫌を損ねてしまったことがあります。

 その方曰く、

「質疑応答がないとは何事だ。ケシカラン。質疑応答がないなんて、民主的じゃない!。非民主的なやり方だ!中原を呼んでこい!」

 でもね、、、あのー、まことに失礼ながら、お言葉なのですが、、、以前のある会合で、質疑応答の時間をすべて使いきって、それでも話し続けているのは、「あなた」だけなんですけれども。。。参加者の皆さまは、黙って、それに耐えていらっしゃるのですけれども。それが「民主的」ですか?

「あなたに、参加者全員の前でしゃべる機会がないこと」が「非民主的」なのでしょうか? そもそも、「民主的」って何ですか?

「民主的≒会の趣旨に全く関係しない、あなたのご高説を、自由に参加者全員の前でしゃべくり倒し、誰もが黙らざるをえない自体をつくること」ではないんですよ、ご高名な方なので、重々、おわかりだと思いますけれども。

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 もちろん、僕自身、こうした「文句言い」を続けているだけではなく、それを乗り越える努力を続けてきました。なるべく多くの人々に、多種多様な意見を寄せて欲しい。なるべく多くをとりあげたい。
 Learning barのコメントカードスタイル、携帯電話のメール機能を使ったフィードバック、Twitterを使ったバックチャネル、付箋紙を使ったコメント。
 いろいろ「新しいシンポジウム文法=ラーニング文法」を、大学院生とともに試行錯誤しながら、つくってきたつもりです。 皆でシェアし、考えるにたる質問を、なるべく多く、かつ多様に取り上げ、コンパクトに質疑応答を繰り返しつつ、全体で参加している感を高めていく、もっとよい方法が、何か、ないのかな、と(無茶だよね)。それについては詳細をまたお話します。

 あと2分で7時。
 時間がない!
 今日はここまでといたします。

 そして人生は続く

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追伸.
 今、お昼12時26分です。この記事にたくさんの方から、朝からFacebook、Twitterなどでご意見をいただいております。最も多いものは「どなたか質問ありませんか?」「シーン」というケースの方が多いというご意見です。そうですね。おっしゃるとおりだと思います。
 でも、だからこそ「講演者の講演のあとに、司会者がフロアに質疑応答を求めて、参加者全員で、その質疑応答を聞く」スタイルは、考え直す必要があるのではないでしょうか? 
 コメントシートなどで全員に出してもらい、スクリーニングを行う。携帯電話やソーシャルメディアで意見を集めるなど、そうした方が、こういうリスクを減らすことができるような気がします。

投稿者 jun : 2013年12月12日 07:00


異なる年代、3つの研修の参与観察 : Folk TheoryとFormal Theoryが出会う場

 先だっては、誠にハードファンな日でした。
 それぞれ、異なる組織で、実施されている、異なる階層への「研修」を3つ参与観察させて頂く機会に恵まれました。まさに朝から晩まで、です。

 仕事柄、研修や仕事の現場を参与観察・見学させていただく機会は、少なくないのですが、1日に3つ、異なる組織、異なる階層というのは、はじめてでした。機会を与えてくださった方々に心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

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 1つめの研修は、一般の社員に関する「おもてなしの顧客サービス」に関係する研修でした。この研修の詳細は、雑誌の連載記事にもなりますので、細かい説明は差し控えます。
 が、この研修を見ていて、つくづく感じたことは、「おもてなしの身体作法」とは、実にディテールに、その秘密が隠されている、ということです。

 まずは「相手を見ること」。
 そして、身体に擦り込ませた「相手を迎え入れる身体技法」を、そのつどそのつど選択し、柔軟に、実践すること。

 一見、非常に単純な動作の繰り返しのようにも見えるかもしれませんが、まことに、その実践は「創造的」に感じました。実際、研修中、講師の方は「おもてなしの所作」は、「パフォーマンスに似ている」、とおっしゃっていたことが、非常に印象的でした。
 研修は、ロールプレイングなどをふんだんに取り入れた、実にインタラクティブなものでした。

 ありがとうございました。
 記事の詳細は、人事専門誌「人材教育」の僕の連載「学びは現場にあり」でご紹介させていただきます。今回も吉峰さん、井上さんとの珍道中でした。お疲れさまでした。

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 2つめの研修は「管理職研修」に関するものでした。

 異なる組織から集まってきた70名の管理職の方々が、時折、インタラクティブな意見交換をしつつ、学んでおられる様子が見て取れました。
 研修のアーキテクチャーは「コンセプトの提示ー問いのなげかけーグループでの意見交換ーソリューションの紹介ーエピソードの提示」の順番で進んでいるように見受けられました。

 最も印象的だったのは、年代が上になった、この研修では、講師の方々の語り方、用いられている語尾が、微妙に変化していることでした。
 たとえば、何かを教えるときにでも、「〜を紹介させていただきます」「〜を確認させていただきます」という語尾が増えていっておりました。

 おそらく管理職ということになると、それまでの持論や自分のノウハウができあがっており、研修中では、それらを「立てつつ」「受容しつつ」も、一方で「マネジメントの原理原則を提示すること」が求められます。
 
 年代が上がった研修とは、このように「フォーク理論:Folk Theory:人々が個の体験によってつくりだした、その人なりの理論」と「フォーマルな理論:Formal Theory:一般化された概念」が出会い、時に衝突・葛藤を起こす場なのかもしれません。Folk TheoryのFormal Theoryのどちらがよいとか、悪いとか言えるものではありません。
 そこで求められていることは、おそらく、フォーマル理論を、いわば「鏡」にして、Fork Theoryを「デザイニング(Designing)」ー常につくりつつ、状況に応じてかたちを変えていくことなのかな、と感じます。「Design」という風に、いったんつくっては終わるイメージではありません。むしろ、常に、それは場合によって変化することを求められる点において、「Designing」なのかもしれませんね。

(かつて、組織論者カールワイクは、静的な組織(Organization)という概念に胃をとらえ、それを進化形に-ingにとらえました。つまり、組織とは組織化(Organizing)であるということです。ちょっと、これにヒントを得てみました)
 
 どちらが「〜を紹介します」といったような、しかし、はっきりとした物言いからは、その微妙なニュアンスを感じ取りました。お疲れさまでした。そしてありがとうございました。

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 3つめの研修は、社長に対する研修でした。
 30名の社長の方々が、自らの経営を振りかえりつつ、経営を学んでいました。

「社長が経営を学ぶ」というと、何だか変な気もしますけれども、たぶん、それは違うところもあるのでしょう。

 つくづく思ったのは、社長は、困ったり、判断に迷っても、なかなか社内でなかなか相談できないだろうな、ということです。だって、すべての社員は、ステークホルダー(利害関係者)なのだから。ラッキーなことに、そういう人的リソースに恵まれたときはよいでしょうが、なかなかそうはいかないものです。
 まして、社長は忙しい。この日のご参加頂いた社長の方々も、そのあとに会食などがセッティングされている方もいらっしゃるそうです。スキマの時間を使って、学ぶ必要があります。

 こちらの研修も、相互にプレゼンテーションあり、コンサルティングありの誠にインタラクティブなものでした。異なる年齢の社長同士が、相互にプレゼンを聴き、コンサルしている様子が印象的でした。

 年代が上の研修でありますので、ファシリテーションも微妙なさじ加減が求められます。「98点ほぼ正解ですが、他にありますでしょうか」といった語法からは、「相手をたてて、受容しつつも、他を探る」ニュアンスが見て取れました。

 お世話になりました。そして、ありがとうございました。

 ▼

 年代、組織の異なる3つの研修を見て、つくづく思ったことは、研修と一口でいいつつも、様々な手法や目的があるということです。
 先だっても述べたことですが、それをひとつの統一したイメージ、コンセプトで語ることには無理があります。

 次に、最後に参加者の方々がエンパワーされたな、と感じて帰ることのできる研修とは、Management & Learning(経営学習論)の観点から、きちんとした原理・原則に基づいていることが多い、ということです。それは「成果を出すために」、必然的にそうなっている、といえるでしょう。
 
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年12月12日 06:30


「ルンバ的寝相の悪さ」により、小生、寝不足(泣)!?

 最近、僕は「寝不足」です。
 なぜって? それは愚息・TAKUOと「同じベッドで寝ている」からです。


 第二子KENZOが生まれ、ほぼ2週間。夜泣きは、まだ続きます。カミサンが気をきかして、KENZOは、彼女が別の部屋で寝かしてくれています。ありがとう、カミサン。で、僕とTAKUZOが一緒のベッドで寝ることになったのですが・・・。

   ・
   ・
   ・

 TAKUZOの寝相の悪さは、想像を絶していました。今まで別のベッドで寝ていたので、わからなかった。

 突然、狭いベッドの上を、縦横無尽に「ほふく前進」。我が息子ながら、なんちゅう、寝相の悪さ。たとえば、昨日は、こんな感じ。どんなに僕が逃げても、追ってきて、追突されるのです。で、そのたび事に、起こされてしまうわけです。

nezou_ga_waruizo.png
(ベッドはこんなに広くないですね)

 深夜3時、思わず、僕は叫んでしまいました。

「お前は、ルンバか!」
※ルンバはロボット掃除機です。部屋を縦横無尽に動き回り、掃除をしてくれます

  ▼

 というわけで、今日は寝不足です。
 まともなブログを書けそうにありません。

 というわけで、今日は、これで終わり(笑)

 明日も寝不足は続く!? 
 くる、きっと、くる。

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追伸.
 朝っぱら、しょーもないコラージュ写真を創っていて、家人には呆れられました。先ほどのTAKUZOの写真で、今日1日のクリエィティビティを使い果たしてしまったような気がします。

投稿者 jun : 2013年12月11日 08:48


「文章を書くこと」に潜む「あるがまま信仰」:君が「書けない」のは「思っていない」から、「感じてない」からだ!?

 齋藤美奈子著「文章読本さん江」を読みました。
 本書のタイトルに掲げられている「文章読本(ぶんしょうとうほん)」とは、谷崎潤一郎、三島由紀夫といった希代の大小説家などの手によって綴られる、いわゆる「文章の書き方講座(私の文章作法論)」のことです。

 我が国には、古今東西、様々な名文家・大小説家によって、おびただしい数の「文章読本」が執筆されてきました。その無数に存在する文章読本を「読み解くこと」が本書のテーマです。

 本書「文章読本さん江」は、この種類のジャンルの書籍を、ざざざーとレビューし、筆者独特のユーモアーと一流のアイロニーによって、ばったばったと切り込み、批評・整理した本です。本書のリサーチクエスチョンは、秀逸です。それは「文章を書く際に、何が大切なのか?」を追求することではありません。そうではなく「なぜ、この世の中にはおびただしい数の文章読本が存在し続けるのか」です。

 文章読本に含まれる名文家の慢心や自己欺瞞や保身をオモシロおかしく茶化し、皮肉たっぷりに論じる。著者の文章力、論理構成力には舌を巻きます。さすがは文章読本をレビュー・批評するだけはありますね。これはよほどの向こう見ずさと、勇気がないと出来ない(笑)
 心からリスペクトすると同時に、この本の出版後、新たに文章読本を書こうとする人は、よほど「腹をくくって、のぞむ必要がある」と思いました(笑)。本書は、そういう本です。

 ▼

 ところで著者・齋藤さんの指摘において、僕が、最も興味深かったことは、我が国の文章読本、そして、作文教育が「あるがままを書け」、すなわち、「思ったとおりに書くこと」「感じたとおりに書くこと」を、価値として保ち続けてきた、という指摘でした。
(時代によっては形式が重んじられる時期もあります。詳細は本書、ないしは作文教育の専門書をごらんください)

 反面、そうした価値に対応して軽視され続けてきたことは、「文章のジャンルに応じた書き方」を教えること。
 たとえば、文章には「ジャンル」というものがあり、それがエッセイでというジャンルであるならば「結論を最初に書き、その後、根拠・流を複数明示したうえで、もう一度総括する」という、いわば「文章の型」を教えることを「忌避」する傾向があったのだといいます。

 僕は、国語教育も作文教育も、全くのドシロウトなので、過去現在にどのような議論やイデオロギーが作動していたかは知りませんし、今後もその予定はありません。
 しかし、「全くの専門外」「ドシロウト」であることをいいことに、自らの経験を振り返り、まさに「感じたまま」を述べさせていただくのだとすると、齋藤のこの指摘は、「僕自身の被教育歴」を振り返っても、そして、「自分の子どもの学習している様子」を傍らで見ていても、かつてはもちろんのこと、今なお、当てはまるような気がします。

 ーあるがままを書けー

 このことは、裏返せば、すなわち「思ったならば、そのまま、書けるはずだ」「感じたならば、そのまま、書けるはずだ」ということを意味します。それは、さらにいうならば「書けないのは、思っていないからだ」「書けないのは、感じていないからだ」ということにつながります。
 そこに潜む、ある意味の「感情主義」というのか、「あるがまま信仰」に、僕は、違和感を感じますし、まあ、窮屈さを感じます。あ、この「窮屈な感じ」なんだよ、「文章を書くとき」に、子ども時代の僕が嫌っていたものは。

 もちろん、「思ったことを、そのまま、書くこと」も「感じたことを、そのまま、書くこと」、一面では大切なのかもしれません。 
 が、どうも、僕は、そこに違和感や窮屈感を持ちます。また、教員になってからは、学生のレポートを見るたびに、もう少し「型」を学んできて欲しいな、と感じてしまうようにもなりました。

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 どうやら、今日の話題は、僕自身のルサンチマンに触れているようです(笑)。
 ブログでは何度か話題にしておりますので、繰り返し目にした方もいらっしゃるのかもしれませんが、今でこそ、本や論文を著し、ブログを毎日書いている僕自身、小学校・中学校の頃は、本当に「文章が嫌い」でした。

 実際、僕の文章は「惨かった」と思います。絵日記を書けば「今日は味噌汁を飲みました。おいしかったです」という文章になってしまうし、読書感想文を書けば、「アンクルトムの小屋とは・・・・・の内容でした」と本をひたすら要約してしまいます。
 思ったことを書けたことも、感じたことを書けたことも、記憶の限り、一度もありませんでした。

 今になって思えば、そこに足りていなかったのは、「ジャンルを意識すること」ではなかったかと思います。もっといえば、「なぜ書くのか?」「誰に届けるのか?」を考えることではなかったかと思います。そのことに、自ら、はやく気づくべきでした。

 その上で、「型」を意識したうえで、書くことができたのだとしたら、逆説的になりますが、僕は、もっと文章を「自由」に書けた気がします。
 いや、うまく書けた、書けないはいいにせよ、「文章に苦手意識をもったまま大人になるまで過ごすこと」はなかったのかな、と思います。

 もちろん「型」を過剰に意識しすぎることは、「伸びやかな自由な表現」を奪ってしまう、といった批判も理解できます。
 実際、著者の齋藤さんは、世に流布する「読書感想文」に含まれる定型的なフォーマットは、1)書籍の要約、2)それに関連した自分の生活経験の記述、3)自己変革のストーリーの提出という、ステレオタイプに陥っていることを指摘しています。
 子どもたちが、これらのフォーマットに逃げこみ、思考停止するのだとしたら、それはそれで問題なことなのでしょう。

 しかし、僕のように文章を書けない、苦手意識をもつ人々の多くは、むしろ「それ以前」であるようにも思います。はっきりいって、そんなレベルじゃない、もっと初期的なところで、何に躓いているのかもわからず、躓いているような気がするのです。

 それ以前に、なぜ書くのかわからない。どう書いていいかわからない。そして、誰に届けていいのかわからない。こうした場合に、ジャンルや型を意識させることは、「自由に書くためにこそ」、大切なのではないか、と感じました。全く専門外の意見なので、真に受けないで結構ですが。

  ▼

 今日は、少し感情的になってしまったかもしれませんが(真に受けないで下さい・・・先ほど述べましたように文章は僕にとってオルサンチマンを抱えたことなのです)、「文章を書くこと」について書いてみました。

 ちなみに、僕が「文章を書くこと」に目覚めたのは大学時代であり、そこでリハビリをつみましたが(話が長くなるので、この話は、また別の機会にします)、世の中には、文章に苦手意識をもつ人は大人になっても多いような気がします。

 考えてみれば、ホワイトカラーの仕事とは「文章」とは切り離して考えることは難しい場合が多いものです。少しこういう視点からManagement and Leanringのフィールドで、何か面白いことができないかな、と考えています。

 そして人生は続く

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追伸1.
本日紹介した書籍は、先だってのゼミで、中原研OBの舘野さんが紹介してくれたものです。大学院生から多くのものを学ばせてもらっています。心より感謝いたします。

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追伸2.
ちなみに「文章読本(文章作法)業界の5大心得・教訓」とはこんな感じだそうです:1)わかりやすく書け、2)短く書け、3)書き出しに気を配れ、4)起承転結にのっとって書け、5)品位を持て(齋藤 2002)

反対に「文章読本業界の三大禁忌」とはこの3つ:1)新奇な語を使うな、2)紋切り型を使うな、3)軽薄な言葉を使うな(齋藤 2002):文章読本とは「小姑」に似ている、とのこと。

で、「文章読本が推薦する三大修行法」はこちらです:1)名文を読め、2)好きな文章を書き起こせ、3)毎日書け(齋藤 2002):よく目にしますよね、このありがたい教えを・・・冷や汗。

デジタル時代の文章作法の5大心得はこんな感じ:1)魅力的な見出しをつけろ、2)改行を多くせよ、3)長いテキストは小見出しをつけろ、4)漢字を減らせ、5)ここぞという場所は色・サイズを変えろ(齋藤 2002)。

ね、しこたまレビューされて、ここまで言い切られたら、もう、「グーの音」も出ないでしょ(笑・・・紋切り型を使うの禁忌を破る)。新たに文章読本を書こうとするときには、よほどの勇気と腹くくりが必要かもしれませんね。
 

投稿者 jun : 2013年12月10日 13:36


「経験バラバラ放置病」を防止するために!?

「学生時代には、NPOで活動をしていました。あとは、学生団体のリーダーをやっていました。あと、社会人とともに朝活してました」

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 ちょっと前のことになりますが、あるところで、「ハイパーアクティブな学部生」の方に、お会いしたことがあります。
 そのパワーは、誠にすごいもので、学生のうちから、多種多様な活動をなさっていることが、非常に印象的でした。

 学部1年ー2年生の頃の僕自身は、「ハイパーダメポな学生」!?でしたので、「あらためて、すごいなー」と思うとともに、その活動の詳細をうかがっていました。
 それぞれの活動は非常に興味深いもので、それを可能にした若さが羨ましく思いました。いいなぁ。

 しかし、同時に、ひとつだけ感じたことがあり、アドバイスも、させていただきました。
 活動そのものについては、僕にアドバイスできることは、ほとんどありません。が、それを「他者に伝えるとき」には、どのように伝えればよいか、ということについて、思ったことがありました。オッサンの独り言ですが、もしかすると、少しだけ役に立てるのかな、と。

  ▼

 僕自身が、学生さんの話を伺っていて思ったこと。

 それは

 「経験が、バラバラの状態になっていること」
  そして
 「経験が、"現象"のまま放置されていること」

 でした。

 学生さんは、非常に多種多様な活動をなさり、多くの経験をしていました。しかし、それは、そのときまでは「バラバラ」の状態になっていました。
 ひと言でいえば

「あれもしたし、これもしたし、それもした」

 という状態になっているということですね。僕には、それが少し残念に思えました。相互の経験が、等価のまま、併置されている状況でしょうか。せっかく、いろいろやっているのだから、そのままバラバラにしておくのって、もったいないよね、と思いました。

  ▼

 もうひとつは、多種多様な経験が「現象のまま」放置されていることでした。

 つまり、

「あんなこともあった、こんなこともあった、そんなこともあった」

 の状態になっているということです。

 もし可能であるならば、少し時間をとって、「あんなこと」「こんなこと」「そんなこと」という「現象」を、いったん上から見つめ直し、「意味」を考えてみるとよいなと感じました。
 願わくば、「あんなこと」や「そんなこと」を「現象レベル」のまま放置せず、「意味レベル」に昇華させるということです。

 いろいろやったことは、よくわかるし、僕は、本当にすごいと思う。
 でも、だから、どうだったんだろう?(So what?)

 何をわかったのか、わからなかったのか。
 何ができたのか、何ができなかったのか。
 何を得て、何を得られなかったか。
 自分にとってはどんな意味があったのか、なかったのか。

 それらを考えなおして、語りなおしてみると、さらに他人には伝わるし、興味深いことがわかるような気がしました。
 それは「自分のしてきた別々の経験を、つなぎあわせて、ストーリーにすること」に似ていることなのかもしれません。

  ▼

 ハイパーアクティブな学生さんは、世の中では、上げられたり、下げられたり、するようですね。こうした学生を「意識の高い学生」と十把一絡げに括り、批判する動きもあるようです。まぁ、わかるといえば、わかる。

 でも、僕自身は、そうした「既存の議論」に興味がありません。というよりも、、、、他人が、どんな生活をおくろうが、僕には1ミリも興味がありません。

 ただし、ひとりの教員として、一人のアクティブな学生を目の前にして話を伺ったときに思うことはあります。
 僕の脳裏に浮かんだことは、「何もせず、のめり込まず」とか「何事もほどほどに」という価値観で、貴重な学生時代を漫然と過ごすのなら、多少「痛く」ても、活動していた方がいいんじゃない、ということくらいです。

 もしかすると、そのハイパーアクティブさが、いつか通用しなくなるときもくるかもしれないし(組織社会化のときのリアリティショックは、きっと、通常の学生より大きいことが予想されます)、いつか、振り返ったときに、自分自身で反省するときもくるかもしれません。
 でも、それでいいんだと思います。今は、そのアクティブさが「資源」でしょう。
「いつか通用しなくなること」を恐れて、「何もしない」よりは、「何かして、あとから振り返る」の方が、少なくとも僕は好感をもてます。
 嗚呼、僕自身も、今から考えてみれば、たくさんの「お痛」を繰り返してきました。ていうか、40近くなっても、いまだに「痛い」で(笑)。「痛いオッサン」か、、、本当に痛いな。

 しかし、同時に、感じたことは、多種多様な経験は、そのまま放置しておいたり、バラバラの状況で放置しておくには、もったいないなということです。
 少し整理しておけば、もう少しはっきり自分の為してきたことを「他者に伝えること」ができるよ、と思いました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年12月 9日 08:51


研修とワークショップは何が違うのか? : ワークショップ型研修!?という不思議なもの

「研修とワークショップは何が違うのか?」

 先日、ある機会に、この問いが話題になりました。
 以下の話は「研修」を「授業」と読み替えても、たぶん、読むことができると思います。もしご興味がおありな方は、ぜひ、読み替えいただき、下記のお話をお読み頂ければと思います。

  ▼

「研修とワークショップは何が違うのか?」

 この問いを目の前にして、自らが「ワークショップを研修と対象づけることで差異化させたいと願う場合」、当然のことながら「研修とワークショップは違うよね」という結論が導かれることになると思うのです。
 その後、「なぜなら、研修は一方向だけれども、ワークショップは双方向」とか「研修には答えがあるけれど、ワークショップにはない」とか「ワークショップは創造をめざすけれど、研修は学習をめざす」という根拠を提示しそうになりがちだと思うのです。

 ただ、僕の認識に関する限り、この結論と根拠には、少し違和感が残ります。正しく言えば、違和感というよりも、多くの例外がありすぎて、安易にこれらを分節化することはできない、という結論を導き出さざるをえません。

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 なぜなら、最近の研修は、グループワークやダイアログなどが組み入れられる場合が少なくないので、学習のあり方、たとえば「双方向性」をもって、研修とワークショップを分節化することは、なかなか難しいものがあります。
 研修といっても、いろいろなものがあります。研修は、特定の作業を憶えるとか、マナーを憶える、といったものばかりではありません。

 また、研修もワークショップも、企業内部で行われる限りにおいて、ある意味でも「落としどころ」が決まっており、「落としどころなさ」ということをもって、それらを分節化することも、また難しいことになります。
 人材開発とは、組織の戦略実現・目標実現のために実施される営みです。つまり「落としどころ」「めざすもの」は絶対にある、ということです。それから遊離することは、そもそもの目的を失います。

 また、ワーショップは「創造」を行い、研修は「学習」をめざすというのも少し違和感が残ります。研修の中には、ビジョンをつくったり、新規事業提案を行うものもあります。
 活動自体も多様です。研修も、身体活動を取り入れたもの、創造をめざすものが多々あります。オブジェをつくったり、作品をつくったり、そのプロセスの中では、様々なことが行われます。
 このようなことから「創造」と「学習」を対象づけて、研修とワークショップを分節化することも、また難しいのだと思うのです。

 要するに、「よくデザインされた研修、ないしは高次な内容を扱う研修は、多くの人々が頭に思い描く、いわゆるワークショップ」になっていくし、「配慮がたりないワークショップは、多くの人々が脳裏に思い描く、いわゆる研修」に近くなる、ということです。
 
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 このような事態が生じる理由・背景を、さらにほじくり返していくと、ワークショップという言葉も、また、研修という言葉も、いわゆる「アンブレラワード(多くのものを包摂してしまうような傘のような曖昧な概念)」であることに気づかされます。要するにどちらも「ザクっとした曖昧な大風呂敷概念」なのです。「曖昧なもの」を2つ重ねたところで、でてくるものは、余計曖昧になるだけです。

 まず、前者に関して。
 こちらに関しては、以前、どこかで書いたような気がするのですが、ワークショップとは「アマチュア性:誰もが教え手になり、誰もが学び手になることができる」という思想、「アンチフォーマル性:学びとはフォーマルな場で必ずしも起こるものではない」という思想、そして、「個人は学びの主導権をもつことができる:イニシアチブ性」群によって、ゆるく、やんわりと大風呂敷的に包まれた「オルタナティブなムーブメント」のようなものであると僕は理解しています。
 対して、一般的には、ワークショップを規定するときに、「手法」や「コンテンツ」で規定することが試みられますが、それでは多くの例外が生まれてしまうのです。
 だって、冷静に考えてみれば、これはなかなか難しいことがわかります。「ワークショップ」という名称を関した場において、採用されている「学習手法」も、「学習内容」も多種多様でしょう? 
 造形、まち作り、アート・・・学習内容は、いろいろあるでしょう。ワールドカフェに、グループ学習、個人創作、ジグソーメソッド・・・学習手法だって、いろいろあるでしょう。

 何がいいたいか、というと、研修とワークショップを、1)学習の手法や実現される学習のクオリティ、2)めざす目的、3)アウトプットで分節化することは、多くの例外を生み出してしまいます。

 ワークショップという言葉は、その背後に流れる思想、歴史的背景を考えると(1900年代初頭のプラグマティズム、60年代アメリカのヒッピーカルチュア、人間性回復運動)、「社会・秩序の秩序維持のために行われる、第三者による学びの構造化・組織化」という思想に対する強烈なアンチテーゼとして用いられたと解釈することの方が、妥当であると考えられます。
 すなわち、ワークショップとは「アマチュアによってつくられ、人々が自発的に参加した、インフォーマルで、オルタナティブな学びを包括するムーヴメントであり、大風呂敷概念である」ということです。端的にいえば、そこには「メインストリームじゃない感」「すこし怪しい感」がつきまとうということですね。

 また、次に「研修」という言葉はどうでしょうか。こちらも完全なるアンブレラワードです。
 経営学的に述べるのであれば、研修とは人材育成の下位概念です。それはOJTと対照づけて用いられます。すなわち、「仕事場から離れて行われる学習」をすべて研修というワードで包括しているに過ぎません。えらい、ざっくりやなー。
 そして、大切なことは、こちらは、「フォーマルな機会であり、経営という観点から、他者の学習を構造化する」という感覚が漂っているということです。その手法やコンテンツは自由です。双方向性ばりばりのものがあったり、創造が行われる場合があったりします。

 すなわち、ここまで考えたうえで導き出される結論は、ひとつです。

「研修とワークショップは何が違うのか?」
 
 という問い自体が、考えるに値する問いなのかを逆に問いたくたる問いであること。そして、そこに手法やアウトプットの点から差異を導き出そうとすること自体が、ナンセンスだということです。

 以上でした。。。

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 今日は、研修とワークショップについて書きました。

 最近は不思議なことに、「アンチフォーマル性」をもっているワークショップが、「フォーマルなもの(すなわち、組織が公式に認める研修)に導入されていく」という事態が、進んでいます。

 ネーミングなので、どうでもいいっちゃいいんですが、つまり

 ワークショップ型研修

 とか

 ワークショップスタイルの研修

 とかいう言葉が生まれている、ということですね。
 アンブレラワード同志の結合なので、もう、何がどうなってもいいのですが、その思想的背景に思いをはせるとき、それにしても、一瞬、目眩がクラクラしてしまうことを正直に吐露いたします。リンダ困っちゃう!

 そして人生は続くのさ

投稿者 jun : 2013年12月 6日 08:33


「恋チュン・社員ダンス」をどう考えることができるのか?:雑誌プレジデントでの連載記事

 雑誌「プレジデント」さんの連載記事に「恋チュン社員ダンスをどのように解釈するのか?」ということに関する記事をまとめさせていただきました。プレジデントオンラインでも、Web公開されておりますので、どうぞご覧下さい。

koichun_danse.png

プレジデントオンラインの記事「恋チュンダンス」
http://president.jp/articles/-/11359

 わたしはタイトルなどは決められないので、それが「職場活性化の特効薬」かどうかはわからないですが!?、「組織」にひきつけて解釈すると、こういう感じになるのかな、という感じです。こちらは、編集者・九法さん、ライター・井上さんとの仕事です。

 興味深かったことは、私たちの取材のなかで、現場の方々が口にした言葉です。

「職場の連帯感が生まれた」
「普段はあまり話さない同期と話ができ
 仕事のモチベーションが上がった」
「今まで話したことがなかった人と話すことができた」
(神奈川県庁)

 興味深いですね。

 そして、ダンスは国も超えます。サイバーエージェントのジャカルタオフィスからは「PVに参加したことで、現地社員のグループ内での一体感が増した」という声も聞かれたそうです。

 先だってブログで紹介したように、「非日常性」と申しますものは「常態化」しますと「効果が限定的」になってしまいます。

先だってのブログ記事
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/10/pv_1.html

 この動きがいつまで続くのかわかりませんが、いずれにしても、組織の目的やつながりが、ともすれば、失われやすく、またグローバルに仕事が分散してなしとげられる現代においては、いずれ、それに替わるものが求められるのも事実なのかもしれません。それにしても、「やれされ感満載の社員ダンス」があったのだとしたら、痛々しいね。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年12月 5日 07:32


「大規模」でありながら、「双方向」であること!? : 参加者のエンゲージメントを高める工夫

「大規模に人を集める講演」だから、「双方向のやりとり」はできない

 一般に、「大規模」と「双方向」は二律背反の事柄だと思われています。大規模な講演スタイルでは、「講演者ー参加者」「参加者ー参加者」間のやりとりは、なかなか難しいのではないか、と。
 僕自身も、今から十年くらい前までは、同じことを思っていました。

 しかし、その「思い込み」が崩れるきっかけがおとずれます。それは2004年のフルブライト奨学生としての米国留学でした。
 かの地で目にした、いくつかの出来事や経験が、そのきっかけになります。今日は、そのうち、3つを紹介します。

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 ひとつめ、それはActive Learningとよばれるスタイルの胎動を目にしたことでした(Active Learningは、伝統的な講義スタイルをアンチテーゼとした双方向重視の学習を形容する、いわゆるアンブレラワードです、細かいことは、また)。

 僕がボストンに留学していた頃、客員研究員として籍をもたせてもらったMITでは、Active Learningというスタイルでの実験的授業がはじまっていました。 

 初等物理の大規模授業を、いかに参加者ー参加者間のコミュニケションを確保しながら、実施するか。

 たまたま隣室になった方と仲良くなり、その彼が、Active Learningの実践をなさっていました。同室には、この授業で論文を書いた方がいました。
 
 そうか、大規模なスタイルでも、工夫一つで参加者ー参加者間のやりとりを確保できるのだ。
 Active Learningに出会ったのは、たまたま、でしたが、なるほどな、と思いました。

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 ふたつめは、大学院での授業でした。

 当時、僕は、時々、大学院の授業を受けたりしていましたが、教授が問いを投げかけ、それに対して学生が答える、というような授業スタイルが、とられることが、ままありました。

 著名なマイケル・サンデル先生とまではいかないのですが、近くの人と少し意見を交換してみて、とかは、結構たくさんあった気がします。

 もちろん、そうした双方向スタイルの授業に耐えるためには、学生は事前にかなりの予習を余儀なくされることは言うまでもありません。当時、同じ部屋をシェアしていた友人(某省庁の官僚です)は、その予習に、夜な夜な取り組んでいました。本当に大変そうでした。

 へー、大学院の講義でも、双方向のやりとりがあるんだ。そのために、たくさんの準備をするんだ。当時の僕は、そんなことを考えていました。

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 みっつめは、人材開発系のカンファレンスに出たときの経験でした。
 経営系よりのカンファレンス、人事系のカンファレンス、当時の僕は、とにかくたくさんの国際会議に参加していましたが、「一方向的」に情報提供されることの方が「希」でした。

 日本でよく目にする「全く話がかみ合わないパネルディスカッション」という安易な講演スタイルが組まれることは、あまりなかったですし、とにかく参加していて、油断している暇がない、という印象を持ちました。なぜなら、すぐに参加者に活動が振られるから。

パネルディスカッションの5つのトホホ文法 : 尻切れトンボ、みんな違ってみんないい、オレオレ質疑、過剰プロレス、リンダ困っちゃう!?(僕はパネルディスカッションが嫌いなのです)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/08/post_1879.html

 活動は、単なるクイズであることもありますし、問いかけである場合もあります。講師が「わざと」間違って、参加者は間違いを探す、という場合もありえます。
 基調講演をするような、超スターは別として、そこには何らかの工夫がなされていました。

 人材開発関係のカンファレンスが、「人」とか「学習」に配慮をしない運営をするというのは、本末転倒、矛盾もいいところなので、当たり前といえば当たり前なのですが、当時は新鮮でした。
 僕は、そういうカンファレンスに参加しては、ヘタクソな英語で、「日本の人材開発の現状」を「隣にたまたま座った少し不幸な外国人」に説明していました。

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 今日は「大規模」と「双方向」の関係について考えていました。
 要するに言いたかったことは、工夫を行いさえすれば「大規模であること」と「双方向であること」は決して矛盾することではなく、参加者のエンゲージメントを高めることができるよ、ということです。

 もちろん、それには綿密な「プランニング」が必要になります。この「プランニング」の話については、また別の機会にさせてください。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年12月 4日 08:56


【御礼】ラーニングイベント「OJTの再創造:僕らはイマドキのOJTをつくることにした」が終わった!

 昨日12月2日は、経営学習研究所、年に一度の大イベント・シアターモール(研究所理事が全員企画・運営に参加する大規模イベント)の日でした。

hakuhodo_ojt_2013.png

 今年は、博報堂の企業内大学であるHAKUHODO UNIV.(通称:博報堂大学)の白井剛司さまを講師にお招きし、「OJTの再創造:僕らはイマドキのOJTをつくることにした」というタイトルで、皆さんと議論を深めさせていただきました。

 白井さんはじめ、博報堂大学の方々のおつくりになったOJT促進施策は、非常に示唆に富む内容で、会場の議論は非常に盛り上がりました。この場を借りて、白井さん、博報堂大学の方々には、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

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 本イベントでは、3つのサプライズがありました。
 MALLのイベントでは、「サプライズ」は必須!?なのです。

 まず、ひとつめのサプライズは、人事施策を展開する側のみならず、実際に、その人事施策に基づいて現場で育成にあたった方に、スピーカーとしてご登壇いただいたことです。

 博報堂でプロモーションプランナーとして働いていらっしゃり、かつ、社外活動として「作り手と使い手をつなぐ"ていねいな時間"」を主催なさっている山下納帆美さんに、実際に、OJTをやった感想、エピソードをお話いただきました。山下さんのエネルギッシュなプレゼンテーションは、会場を魅了していました。

ていねいな時間
https://www.facebook.com/teineinajikan

 ふたつめのサプライズは、第二部の「忘年会」ならぬ「望年会」をプロデュースして頂いた牧村真帆さんの準備したワークショップです。こちらは、おそらくご本人から、ご本人のメディアで、何らかのご紹介があると思うので、また、それができ次第、リファーさせていただきます。幕村さん、お疲れさまでした(胃痛は大丈夫ですか?)。

牧村真帆さん
http://maholab.net/

 みっつめのサプライズは、白井さんから、今回のOJT施策をまとめたご著書の非売品を参加者全員にプレゼントしていただいたことです。本日ご講演いただいた博報堂さまのOJT施策は、「"自分ごと"だと人は育つ」(博報堂大学)という書名で、日本経済新聞社から1月20日に刊行の予定だそうです。中原も、短い解説を巻末に書かせて頂きました。本当にありがとうございました。

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 最後になりますが、本日の経営学習研究所イベントにご参加いただいたみなさま、ご登壇いただいた白井さん、山下さん、そして、MALL理事のみなさま(特に第二部をご担当いただいた牧村さん、堅牢なロジスティクスをおつくりいただいた松浦さん)、アルバイトでご参加いただいた学生のみなさま、ありがとうございました。会場を共同プロデュースさせていただいた内田洋行教育総合研究所のみなさまにも、心より感謝いたします。

 今回のイベントは、僕が主企画担当者でしたが、最近、火を噴くほど忙しく、何とか、かんとか、みなさまに甘えて、大役をつとめさせていただきました。
 無事、イベントを終了することができましたことを、心より嬉しく思います。
 下記は、僕が当日用いたスライドです。ダウンロードもできるようになっていますので、どうぞご笑覧下さい。

OJTの再創造:僕らはイマドキのOJTをつくることにした(経営学習研究所イベント 2013/12/03) from nakaharajun

 それはまた近いうちにお会いしましょう!
 そして僕らの人生は続く

投稿者 jun : 2013年12月 3日 00:30


身体が憶えていた子どもの抱き方、生態系としての家族

 我が家に新メンバーが加わり、バタバタした週末を過ごしています。7年ぶりに子どもを、再び授かり、いくつか興味深いこと・気がついたことがありました。全くプライベートなことですが、今日はその話。

 ひとつめ。
 それは子どもの抱き方、おしめの替え方などは、身体が覚えていたことです。
 興味深いのは「手続き的知識」としては、憶えていないのです。つまり、その手順を口にだして明示することは全くできないのです。7年もたっていると、全然わからない。すべて忘れていましたよ、悲しいかな。
 でも、何となく、何となく、赤ちゃんを目にすると、自分の身体が勝手に動く。もちろん、細かいところは憶えていません。ディテールはカミサンに指摘されたりします。でも、大枠は身体が覚えているのです。それはそれは不思議な感覚でした。こういうのを「身体知」というのかな、という感じです。

 ふたつめ。
 上の子ども、TAKUZOと僕との間柄がちょっとずつ変わってきているような気がします。
 うまく言えないのですが、下の子どもの妊娠がわかり、ママのお腹が大きくなってきた頃から、TAKUZOが「年上の男の子」っぽく、僕の前では、ふるまうようになってきているような気がします。僕との距離感も、「父親ー子ども」から、「父親ー男の子」に少し変化したような気がするのです。ま、気のせいかもしれませんが。

 下の子どもが産まれると、上の子どもが「赤ちゃんがえり」をしたりして、大変になる、とよく言われますが、うちにも何が起こるかわかりません。そのことが頭にあったので、僕は僕で、この日のことを考え、この数ヶ月は、TAKUZOと「同じ活動」を共有する時間を増やしてきたつもりです。

 この後、何が起こるか、注意深くモニタリングを続けようと思います。家族とは「生態系」のようなものかもしれませんね。生態系への新規メンバーの参入は、個々人の様々な変化につながり、それらは連鎖しながら、少しずつ生活を変えていくのかもしれません。
 新メンバーの参加によって、家族にどんな変化が起こるのか。大変なことも多いんでしょうけれども、その変化を愉しく明るく乗り越えたいと思います。

 そして人生は続く。

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追伸.
 マイ盆栽にも、紅葉が訪れています。

ichou_2013.jpg

投稿者 jun : 2013年12月 2日 08:28