これって"残業"だったの?:佐藤彰男著「テレワーク」(岩波新書)を読んだ

 中原家でのある日の会話

中原「僕は、残業は一度もしたことないよ。うちの大学は裁量労働だし、大学教員には、残業という制度があんまり身近じゃないし」

カミサン「・・・アンタ、家に帰ってきても、夜遅くまでノートコンピュータの前で仕事してるじゃない。ノートコンピュータの電源落ちることがないじゃない。それって、立派な"残業"なんじゃないの?」
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   ・
   ・
中原「ごめん。確かに、そうだな・・・。でも、これって"残業"だったの? このことを"残業"っていうの?」

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 佐藤彰男著「テレワーク」(岩波新書)を「自分の問題」として、読んだ。

 テレワークとは「情報通信機器等を活用し時間や場所に制約されない働き方」のこと。

 交通渋滞の緩和、環境問題の解決、少子高齢化への対応、子育て中の女性への社会進出など、懸案の社会課題を解決するひとつの答えとして、注目されているのだという。国も、様々な施策をもって、積極的にこれを後押ししようとしているようだ。

 しかし、テレワークは同時に、様々な副作用を労働者にもたらしてしまう。

 最大の課題だと思われるのが、「いつでもどこでも仕事ができる」がゆえに、「仕事とプライベートの差がなくなり」、本来「労働」として認められるべきものが、「見えなくなってしまう」ことにある。

 プライベートな空間での仕事は、「自発的にやっているもの」として認知されやすい。本来、「どうしても持ち帰らなくてはならないほど、仕事量の負担が重く、やむをえずテレワークになっている」のにもかかわらず、「自発的にやっているもの」として認知され、「労働」だとは思われにくい。冒頭の僕の言葉「これって、残業ぅていうの?」は、まさにこのことを物語っている。

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 「見えない労働」は、果てしなく続く。しかし、労働だとはなかなか見なされないから、残業代もでないし、労災も認められにくい。
 
 かくして、最悪の条件が進行した場合、労働者のバーンアウトといった問題も引き起こしかねない。

 本書を読んでいて、背筋が寒くなった。
 もう一度、自分の仕事のやり方を考え直してみよう。

投稿者 jun : 2008年6月30日 14:01


「学び」と「破壊」、時々「葛藤」

「学ぶこと」とは、自分につながる人々との関係を「壊すこと」でもあり、「葛藤を抱えること」でもあります。

「学ぶこと」を「みんな仲良しハッピーハッピーのような社会状況」の中で起こるものと捉えたりすると、「学ぶこと」の本質を、ひとつ見逃してしまうのではないでしょうか。

 最近、僕は、このことが気になって仕方がありません。

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 たとえば、メンタリング。

 これはピアツーピア(上司 - 部下 / 先輩 - 部下)といった社会関係の中で営まれる「学び」の形態とも読みとることもできるかと思います。そして、これにも、「葛藤」が含まれます。

 キャシー=クラムによると、メンタリングの進展とは下記のようなプロセスをとります。

●開始段階
 ・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる

●養成段階
 ・キャリア的機能(組織階層の上昇移動)
 ・心理社会的機能(アイデンティティの確保)

●分離段階
 ・構造的な役割関係や感情面での大きな変化

●再定義段階
 ・関係がはじまり、それが両者にとって重要になる
 ・分離段階をへて関係性が終了するか、相当違った
  性格をもつ、同僚関係への移行

 ここで、僕が気になるのはやはり「分離段階」です。ここで、先輩 - 部下、上司 - 部下、いわゆるメンターとメンティの関係は、「緊張」状態に入ります。

 それまでメンターに助けられ、キャリア的にも、心理的にも、ようやく自律をなしとげられたのにもかかわらず、その関係に「緊張」が走るのです。

「もう自分は自律しているのに、いろいろ、先輩ズラしてピーピー言われるのもな」
「結局、オレの能力があがってきたことが気にくわないんだろう。オレにとってかわられるのが怖いんだろう」

「もうあいつも一人前になったのに、今までと同じように自分の時間をこれ以上削るのもな」
「最近、あいつは生意気だな、まだまだヒヨッコのくせに・・・ここらで突き放すか」

 といった役割変化や感情の変化が両者に生まれ、一時的に関係にひびがはいります。最悪の場合は、そこで関係が終わりということもないわけではありません。

 もちろん、社会的関係がカタストロフィーにむかわず、うまく「再定義段階」に入れた場合、両者の役割関係がもう一度見直されます。それまでの垂直関係から、「同僚」といったような水平関係に移行できる場合があります。

 しかし、既存のものに、一時的に「葛藤」が生まれ、「壊され」ることも、また事実です。このように学ぶことには、どうも「壊すこと」や「葛藤すること」といった状況がセットでおこるようです。

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 ちなみに、「学習をコミュニティへの参加」と把握した正統的周辺参加の理論にも、人々の関係の「葛藤」が折り込まれています。

 たとえば、今、新参者が、あるコミュニティに参入してくるとします。彼は、最初は、コミュニティの周辺で、一時的な仕事を観察したり、担ったりしていきます。

 しかし、彼の「参加」が成功し、つまりは「コミュニティの周辺」から「中心方向」に対して、その活動が移行してくるにつれて、彼は、今まで見えなかったものがたくさん見えてくるようになります。

 そして、さらに新参者のコミュニティの活動を担おうとするとき、それまで、そのコミュニティを牛耳っていた古参者との間に、「葛藤」が生じるのです。

 場合によっては、古参者と新参者の立場の入れ替えといった事態も起こらないわけではありません。

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 このように、学ぶことは「キレイゴト」ではありません。学ぶことには、既存の社会的関係に「葛藤」を感じたり、場合によっては「壊したり」、「再構築」するとといったことが必然的に含まれます。そして、だからこそ、学ぶことは「人間らしい」ことでもあるように思うのです。

 人は学べば、「今まで見えなかったもの」が見える。「やりたかったこと」がわかりはじめる。しかし、あなたの目にうつりはじめた「新しい世界」は、周囲の人々が見る「それ」とは、決して同じではない。
 抜き差しならない社会的状況の中で、当初は「曙光」すら見えず、「何か」を破壊したい衝動にかられ、葛藤に苦しむ。そして、その果てに「何か」をつかむ。その繰り返しが「学ぶ」ということなのかもしれないな、と思います。学ぶとは、すさまじいものだとは思いませんか。

 そして、今一度、自分が「教える側」の立場において想像力をたくましくしてみると、「人の学びにつきあうのは、喜びを感じるものであると同時に、切ないものだなぁ」とも、しみじみ思うのです。

 僕も、短い人生のあいだに、多くのことを学んできました。僕の学びを支えてくれた人との、葛藤や別離を繰り返しながら。僕を教え導いてくれた人々は、僕の成長する姿を見て、僕が苛立っている様子を見て、その一瞬、いったい「何」を感じていたのでしょうか。

 「教えること」とは、そうした葛藤や別離を「いつかはくるもの」としてとらえ、むしろ「喜び」にかえて、生きていくことなのかもしれません。

投稿者 jun : 2008年6月27日 23:59


記憶が「崩壊」気味です

 「記憶」が崩壊気味です。

 最近、僕がやらかした出来事。

●「サイフ」と「家の鍵」は消失
●「お気に入りの眼鏡」も消失
●アポがあって研究室に入ってきた院生さんに
 「君、何しにきたの?」と言ってしまう
●海外出張の宿泊予約でミス!
 二つの宿を同時に押さえてしまう
 いわゆる「ダブルブッキング」?
●人のボールペンを持って帰って、
 しゃーしゃーと使っていて、ややギレされる。
●論文指導にきた院生さんのアポをすっとばしてしまう
●鼻血がでた

 まわりの人には、「またか」と諦められているのかも。
 嫌がられているのかも。

 本当に皆さんすみません。ご迷惑をおかけしています。
 今日は激しく落ち込んでいます。
 
 多忙の「忙」とは「心」を「亡ぼす」と書くのだなぁ。
 そして人生は続く。

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追伸1.
 今週から、土曜日・日曜日のブログの更新を止めることにしました。少しお休みします。平日はこれまでどおり、精進します。

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追伸2.
 昨日は慶應丸の内キャンパスの講演終わりました。神戸大学の金井先生、慶應MCCの井草さん、城取さんには大変お世話になりました。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2008年6月27日 14:34


ドラマ「CHANGE」と小児科医療

 月曜日9時のドラマ「CHANGE」を密かに楽しみにみています。

 毎夜、星を見ながら静かに暮らしていた小学校教師が、ひょんなことから父親の地盤をついで政界デビューすることに。

 さらには、前総理の不祥事の影響で低下した支持率をあげるために、悪役官房長官に担ぎだされて、わずか1ヶ月で総理大臣になってしまう、という話です。

 議員経験わずか1ヶ月の総理がつとめる政権は、当初は、官房長官がすべてを握っている「完全なる傀儡政権」。総理は、いわゆる「操り人形」。しかし、次第に「人形」は「意志」を持ち始めます。

 バラマキ型の補正予算成立をめぐって官房長官と対立。小児科医療の充実のために300億を捻出しようとするのですが・・・。

 総理大臣に木村拓哉さん、官房長官役に寺尾聰さん、総理大臣主席秘書官に深津絵理さんですね。寺尾聰さんの悪役っぷりが、なかなかいい味をだしています。

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 ところで、僕がこのドラマに心惹かれる理由に、「小児科医療の充実」というテーマが掲げられていることがあります。

 愚息TAKUZOはわずか3週間の入院でしたが、そこで見た「小児科医療の現場」は過酷という言葉では表現し尽くせない、すさまじい世界でした。

 愚息TAKUZOが入院したのは、小児科入院病棟の他に、小児科救急機能もかねそろえた大規模な病院でした。その病院のお医者さんたちは、病棟と救急を兼務して、本当に朝早くから深夜に至るまで、仕事をしていらっしゃいました。本当に「いつ寝てるんですか?」というような感じです。「先生、大丈夫ですか?」と声をかけたことも、何度かあります。

 今日が救急なら、明日は入院病棟勤務。でも、救急でも、入院病棟では、何が起こるかわかりません。
 たとえば入院患者に突発的な症状がでると、朝でも夜でも、容赦なく携帯で呼び出され、患者さんの病状が落ち着くまで帰ることができません。しかも、その次の日は、朝早くから深夜まで救急が待っているのです。

 こうした過酷な労働環境がどの程度、他の病院にもあてはまることなのかはわかりません。しかし、その現場は本当に「戦争」でした。お医者さんたちは「闘って」いました。

 ドラマ「CHANGE」は、小児科医療は「金が動かない=票にむすびつかない」ので、予算がなかなか回されないものとして描かれています。それが本当のことなのかどうかは僕にはわかりません。

 でも、あの過酷な、すさまじい世界で働くお医者さん、看護士の皆さんが、もう少し人間らしいスケジュールで働くことができればいいのにな、と思わずにはいられません。

 ちなみに、TAKUZOの担当だった先生は、小児科医が全く足りていない四国の大学病院に異動なさいました。

投稿者 jun : 2008年6月26日 08:43


職場の活性化!?

いやー、最近、うちの職場は元気がないって、上が言い出してね。やることになったんですよ、"職場活性化"研修。

職場のモティベーションがめちゃめちゃハイになりますよ、って話なんですよ、それ。

それがやってみると、面白いんですわ。1泊2日の研修だったんですけどね。研修中は、ゲームやら何やらで、やたら盛り上がって、確かにノリノリになりました。

雰囲気も気分も最高潮、明日から働くぞ!、やるぞー!って気分にみんながなりました。

でもね、問題はその後なんですよ。
次の日、職場に戻ったらね、面白いくらいに"静か"なんですよ。しーん。しーん。音もしない。誰もしゃべらない。

研修中はあれだけ盛り上がったのに、職場はしーん。
あれはいったい何だったのでしょうか?

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 先日、研究室にいらっしゃった方が、こんなお話をしていました。ICレコーダをもっていたわけではないので、一字一句正確に記録していたわけではないですが、趣旨は上記のようなことでした。
 もちろん、上記の出来事がどれだけ一般性があることかはわかりません。が、少なくともひとつの職場では、事実としておこったことのようです。

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「活性化」という概念が、最近、キーになっているそうです。

 協力しあえない職場
 何だかやる気を失っている人の多い職場

 正確な調査データをもっていないので実態はよく知りませんが、いわゆる「雰囲気盛り下がりな職場」が増殖しているのだそうですね。

「活性化」という概念は、こうした職場を、「外部からの介入」によって元気にしよう、そこで働く人々にモティベーションを「つけて」もらおうということのようです。

 民間教育企業につとめる方から、何人かにも、同じような話を聞きました。最近、企業訪問をすると、よくマネジメント層から、こんな台詞を耳にするそうです。

 うちの職場を「活性化」してください!

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 くどいようですが、先のようなエピソードがどれくらい一般性がある出来事なのか、僕にはわかりません。また本当に、日本全国の職場の雰囲気が「盛り下がり気味」なのかも、経年比較できるデータを手にしていないので、判断はできません。また「活性化」という名目で、どんな研修をなさっているのか、僕は網羅的に把握しているわけではありません。

 よって下記に書くことは、上記の個別のエピソードに対する僕の感想であることを断っておきます。
 その上で自分の印象を述べるとすると、いくつもの疑問がフツフツフツフツとわいてきます。「自分の研究室」を、仮に、ここでいう「職場」に見立てて、想像力を働かせて思考実験してみても、なんだか腑に落ちないのです。
 以下、もっとも大きな疑問だけを4つだけ書きます。

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1.まず、仮に職場が「不活性」の状態だとして、活性化していない状況はなぜ生じたのでしょうか。その原因は探求されているのでしょうか。「不活性の状況」は、長期間かけて、組織メンバーに「学習された結果」なのではないのでしょうか。そうであるならば原因の「探求」は不可欠であるようにも思います。

もし、仮に原因の探求があった場合には、どのようにその原因に切り込んでいるのでしょうか。探求がなかったとしたら、対処療法的に「活性化施策」を施すことに、本当に意味があるのでしょうか?

2.職場を、短期間のうちに、しかも研修というスタイルで、活性化できるのでしょうか。もし仮にできるとするならば、その組織構成員は「何」に盛り上がり、「何」に興奮を感じたのでしょうか。

換言するならば、つまり、そのような「短期的介入」は、「何」に対して、どのようなかたちで、どのような原理・原則に基づいて、なされており、いつ、どのような効果がでることが想定されているのでしょうか。

そして、そこで見いだされた「介入の対象」である「何」は「不活性を生み出す元凶」に関係のあるものなのでしょうか。

3.職場の不活性の状況は、1)職場におけるマネジメントのあり方、2)仕事のやり方、3)職場がかかげる目標、4)職場での仕事の振られ方やサポート体制、5)職場における社会関係などと不可分なのではないでしょうか。

もしそうだとしたら、不活性を依頼した側が、「不活性の原因である」という皮肉はおこらないのでしょうか。またこれら諸要素と不可分であった場合に、短期的介入の妥当性は何でしょうか?

4.活性化を行ったあとで、職場に戻って「しーん」となってしまう状況は、活性化を行う前よりも、さらに深刻な状況を巻き起こさないでしょうか。

それだけ盛り上がったあとでの「しーん」は、居心地のよいものなのでしょうか。よしんば、上記のような手法で、活性化に成功された場合には、何か違和感はないのでしょうか。「短期間のうちに活性化される職場って、一体何なんだろう」と。「そのようなことを依頼するマネジメント層って、何を僕たちに期待しているんだろう」と。

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 要するに、一言でいうと、本当に「わからない」のです。不勉強で本当に申し訳ないのですけど、僕には上記のエピソードを理解することが、できませんでした。

 でも、いろいろな方々に聞きますと、いろいろな場所で「活性化」「活性化」と叫ばれているようなのですし、多くの研修が実施されているそうなのですね。このあたりはどのように考えられているのか、ぜひ知りたいものです。

 ちなみに、マネジメント層が、自分の職場を活性化したい理由は理解できなくもありません。
 でも、もし僕が社員だとするならば、「僕は活性化なんかされたくない」、と思ってしまうのではないかと思います。
 また、そのようなかたちで「活性化に成功した職場で仕事をすることに違和感を感じてしまう」ような気がします。
 そして、問題の本質を見ようとせず、対話を通してそれを解決しようともせず、「短期的な介入」で、何とかやり過ごそうとすることに対して、疑問を感じてしまうかもしれません。

 くどいようですが、上記は僕が耳にした個別のエピソードに対する感想です。あくまで想像上での話ですが。 
 
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追伸.
 本日のブログには、公開後数時間で、多くの方からメールをいただきました。何人かの方がおっしゃるには、もっともシンドイのは「無理してがんばってる職場」「研修後に無理して空回りしている会社」だそうです。たしかに「活性化」はしているのだけれども、個々人はかなり参っている。

 僕はメンタルヘルス系が専門ではないので、これに関するコメントは差し控えます。しかし、「活性化」の問題は、いずれにしても、一筋縄でいける問題ではなさそうですね。

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追伸2.
 明日の講演、来週のウィーンの学会準備、再来週の講演下調べ・・・死にかけ人形です。何で、引き受けるときに、負荷分散しなかったんだろう(泣)。

 先日マッサージ屋さんにいったら、「このまま行くと、40には肩動かなくなるよ」と脅されました。

「お客さん、体から力が抜けない人ですね、いつも不要な力がはいっている。抜いてみて、ほら、そうじゃない。だからすーっと、力抜くんです」

 体から力が抜けない人に、「力抜け」っていってもね。ポジティブじゃないひとに、ポジティブシンキングしろって言っているようなもんだよなー。そう言われてもね。

 困ったな。

投稿者 jun : 2008年6月25日 13:20


企業内外人材育成!?

 昨日は都内某所で講演だった。質疑応答の時間、聴衆の方から下記のような質問をいただいた。

「社員が、社外で学ぶとか、自己学習することに関する先行研究って、多いのでしょうか?」

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 実は、この質問、最近、僕が講演をするたびにいただくものである。この質問に対する僕の答えはこうだ。

 企業「内」教育、企業「内」人材育成という言葉に代表されるように、「社外での学び」「社外での自己学習」は、企業人材育成の範疇に全く入っていないことはないにせよ、メインストリームではなかった。
 当然、研究の方も、OJTやOFF-JTに関しては、先行研究が多いけれど、社外はあまり注目されてこなかったのではないか。
 特に、「働く大人が、どのような場で、どのようなタイミングで、誰と一緒に学んでいるか」に関しては、そう研究の数が多いわけではないように思う。

  ・
  ・
  ・

 しかし、我々の調査でも、先日のリクルートWorksの濱中さんの講演でもわかるように、「結構、多くの働く大人が社外の勉強会や集まりに自主的に参加していること」がわかっている。

自己学習の話
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/05/post_1249.html

 これだけ同じような質問が寄せられるところをみると、何か地殻変動が起きているのかもしれない。まぁ、このことはずっと前から思っていたのだけれど、企業「内」人材育成、企業「内」教育というコンセプトも、根本から見直さなければならないのかもしれないな、と思った。「企業内人材育成入門」という本を書いていて、こんなことを言うのは何だけど。でも、「企業内外人材育成」じゃ変だよね。


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追伸.
 今日の話題に関連するかどうかは、よくわからないけど、今日のポエム。茨木のり子さんは、僕の好きな詩人です。 
 
自分の感受性くらい
茨木のり子

ぱさぱさに乾いてゆく心を
人のせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮しのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

投稿者 jun : 2008年6月24日 09:44


アンテナを高くして生きるにはどうすればいいのか?

 世の中の出来事や流れに関して敏感なアンテナをもつには、どうすればいいのでしょうか。

 先日、ある学生さんから、こんな質問をいただいた。相変わらず、学生さんの質問というのは、容赦がない。恐ろしいほどダイレクトである。

 うーむ。

 この問いに答える資格が僕にあるのかどうかは知らぬ。また、この問いに学術的にコレクトな回答をひねりだすことは、時間の都合でできない。また、一見したところ、問い自体が多義的であるので、いくつもの答えがありうることが、容易に予想される。さらに、この問いに僕自身が答えてしまうのが、教育的にコレクトなのかどうかは判断できない。

 しかし、くだんの学生さんは「うずうず」している。「何かやりたい、動きたい」と思ったときが、「やるとき」であり、「やらねばならぬとき」である。そこで、苦し紛れ(!?)にヒントを考えた。

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 上記の問いに対するヒント。最も簡単で、実践できそうな方法ということになると、僕は、自分の経験上、「ネットを使うのがいいんじゃない」と答えたくなる。

 この方針を仮に認めるとして、先の質問に、僕なりの回答をするとするならば、下記のとおりである。

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1.「この人、いいアンテナしてるなー」と思う人のブログを、まずは行き当たりばったり、ぷらぷらとネットで探して、チェック。

2.1で探した「いいアンテナを持っている人」が、リンクをはったり、トラックバックをかけたりしているブログを探して、チェック

3.1から2を何度か繰り返し、「みんなが、その人のことを、いいアンテナもっている人だなーと思っていそうな人」を探して、しばらくのあいだチェック。

4.1から3を定期的に行い、日々覗くブログを見直す

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 要するに、一言でいうと、

「まず最初は、あなたのまわりに、アンテナの高い人を集めるといいんじゃないの」

 ということである。

 僕の経験からすれば、

「アンテナの高い人というのは、個人の資質や能力もさることながら、自分と同等以上のアンテナの高い人を、自分の周囲にもっている」

 つまり、「アンテナの高さ」は個人の「属性・能力」もさることながら、その人の周囲の「社会的関係」に規定されているのではないか、と思う。

 まずは、先の方法で「アンテナの高い人のフィルタを通した鮮度の高い情報」を確保するのがよいのではないか、と思う。

 しかし、これで終わっては、「ネットの世界の物知り」「ネットの情報通」にはなれるが、「アンテナの高い人」にはなかなかなれない、と僕は思う。

 僕の経験からすれば、

「アンテナの高い人というのは、いろいろな情報、いろいろな人々に接する中で、"自分の強み"を1点決めている。それと同時並行的か、その後で、アンテナを高くしたいと願う人々が集まる"場"をつくる。

そこに、情報を自らギブしつづけ、そこに集まる人の情報をもって、さらに自分のアンテナの高さを維持し、向上させようとしている」

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 思うに、「自分」や「自分の強み」とは「どこかにある」ものではない。いろいろな情報、いろいろな他者に出会い、そういうものとの「対話」を通じて、「違い」を感じつつ、自らつくるものである、と僕は信じている。

「オレは、こんな風になりたいな」
「わたしは、こんな風には生きたくないな」

 そうやって、"自分の強み"を、少しずつ作り出していく他はない。

 自分の強みに合致した"場"はネットであっても、リアルであってもかまわない。最初は、大枠の方向性さえ間違っていなければ、自分の強みと具体的レベルで、完全に合致していなくてもかまわない。
 本当のことをいうと、自分の強みは、"場"をつくり、運営していく中で、次第に見いだせるものなのかしれない。
 もちろん、場の規模は、最初は、小さくても、大きくても別にたいした問題がない。

 問題は、自分の決めた領域を探求したい、アンテナを高くしたいと願いつつ、フリーライドにならない人が、その中に何人含まれるか、ということである。
 ポイントは「誰」が集まるか、ということである。「何人参加してくるか」ではない。自分が貢献しつつ、結果として、自分に他者が貢献してくれる"場"を、いかにもつか、ということである。そして、そのためには、自分自身の知識を常にアップデートし、自分が賢くなる必要がある。

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 私見によれば、「アンテナの高さ」とは、「個人の属性や能力」もさることながら、その人と、その人につながる人々のあいだの関係によって達成される「集団的」で、かつ「分散的」な「知性」である。

 思うに、

「あの人って、アンテナ高いねー」

 という物言いは間違いではないが、どうも僕の認識とは異なっている。それは「アンテナの高さ」を「個人」に還元しすぎてしまっているような気がする。

「あの人って、アンテナ高そうな人が集まる場をもってるよね、あの人自身も、アンテナ高そうだけど」

 が、どうも感覚に近い。

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 ちなみに、1919年・・・まだインターネットの「イ」の時もないころ、このことを喝破していた一人の賢人がいた。

 鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの墓碑には、下記の言葉が記されている、のだという。

Here lies a man who was able to surround himself with men far cleverer than himself.
(己よりも、賢明なる人物を、身辺に集むる方法を心得し者、ここに眠る」

投稿者 jun : 2008年6月23日 09:08


学術論文を読んで涙が止まらなくなったときの話

 誰の役にも立たないと思うけど、今日は、僕が、「学術論文を読んで涙が止まらなくなったときの話」をしよう。

 今から数ヶ月前、愚息TAKUZOは、数週間、病床にあった。きっかけは熱性痙攣であったが、予後があまりよくなく、点滴とチューブにつながれた、永遠とも感じられる「長い時間」を、彼は病院で過ごすことになった。

 生まれて以来、常に一緒にいた親から引き離され、暗く、そして長い夜を、独り過ごす。もっとも辛かったのは、TAKUZO本人であることは間違いない。

 しかし、僕たち親も、本当に心を痛めた。「一生分の心配」を、わずか数週間ですべて経験したような気分であった。

 しかも、この間も、仕事は続いている。TAKUZOの入院後、僕たち家族の生活は一変したが、僕らの周りの世界は、何一つ変わっていない。仕事の同僚には多大なる迷惑をかけてしまったが、僕たちの仕事に「代替」はきかないものも多い。講演、ロケ・・・どんなに心が引き裂かれそうでも、自分たちがやるしかない仕事は、やるしかない。
 僕の場合は教壇にたてば、カミサンの場合はスタジオの副調整室の卓にすわれば、もう、「親」の顔は捨てなければならない。教員として、ディレクターとして、僕らは「別の顔」を生きなければならない。
 
 もう、どうにかなりそうだった。

 ---

 幸い、数週間でTAKUZOは退院した。しかし、退院後、不調の原因が掴めなかったこともあり、僕たち家族は、国立の大病院のセカンドオピニオン外来を訪れることにした。

 磨き上げられた床、高い天井、専門のスタッフ。それまでいた病院とは全く違う雰囲気に、僕たちは圧倒された。
 入院した病院が「臨床の最前線」であるのなら、こちらは「研究の最前線」であった。

 そこで出会ったお医者さんは、僕の仕事が研究者であるとわかると、ある医学雑誌の論文引用情報をわたしてくれた。

「TAKUZO君の不調と予後については、この論文に書いてあることがあてはまるかもしれません。ぜひお読み下さい」

 大学に戻り、僕は早速、医学部の図書館をおとずれた。めざす論文をさっさと見つけた。
 いつも訪れている図書館とは、ちょっと雰囲気が違い、座りがわるいので、論文をコピーして、自分の研究室で読むことにした。

 論文は、いわゆる「症例研究のメタ分析」であった。過去数年に、この病気にかかった子どもたち35名が、当時、どのような検査を経験し、その結果はどうであり、その後の予後がどうなったのか。国内外の症例をまとめた論文であった。

 論文の最後には、検査結果がどのようなものであれば、予後がどうなるかに関しての、予測モデルが示されており、追加の検査として●●というものを行うべきだ、と結んであった。

 論文には、大きな「表」がひとつ掲載されていた。35名の患者の子どもがリストになっているものであった。やや内容をはしょって簡単に書けば、下記のような表である。

 ---

氏名   検査A   検査B   予後

A(男)  -     +    不良
B(女)  -     -    不良
C(女)  +     -    良好
D(男)  -     +    不良
E(女)  +     +    良好
F(男)  -     +    不良
G(男)  +     ー    良好
 ・
 ・
 ・
 ・

---

 そして、忘れもしない、この「表」を目にしたときのことである。僕は、生まれてはじめて、「学術論文」を読んで泣いた。嗚咽が次から次へとあふれ出てきて、もう止まらなかった。しばらく机の上でうずくまった。

 当初、自分でもなぜ涙が流れるのかはわからなかった。単に「表」を目にしただけなのに、なぜ嗚咽がもれるんだろう。一瞬の出来事に、僕自身が、理由をつかめずにいた。

 しばらくして、自分自信を「客観的」に観察できるようになり、僕はようやく事情がわかってきた。なぜ、僕が、この表を目にして涙がとまらなくなったのか、その理由が。

 それはわずか1pの表に、35人の子どもたちと、その子どもたちにつながる人々の「苦しみの物語」を一瞬にして感じたからである。
 わずか1行で表現されているものの背後に、「患者の物語」、その物語を支配する無念さ、悔しさを感じたからである。
 1行の末尾に記されている「不良」のという、わずか2文字の果てに、子どもと、彼を取り巻く人々が諦めざるをえなかった「夢」や「未来」を痛感したからである。

 検査Aの結果は不良だったA君。おそらく検査Bの結果がでるまでは、A君はベッドに横たわっていただろう。そして、両親はどんなに不安な夜を過ごしたことだろう。
 検査結果Bの結果は幸いよかった。一度は、両親、そして祖母祖父ふくめて安堵しただろう。しかし、それなのに、それにもかかわらず、後日、予後が「不良」であることを受け入れなければならない「無念」と「悔しさ」。
 なぜ、自分だけがこんな思いをしなくてはならぬのか。そして、なぜ、我が子だけが、このような苦しみにあわねばならぬのか。
 なぜ、オレの子どもなのか、なぜオレの家族なのか、そして、なぜオレなのか。

 僕は、1行1行をじっくり読みながら、物語を想像した。A君とA君の家族、BちゃんとBちゃんの両親と祖母祖父、CちゃんとCちゃんの両親と兄弟・・・様々な人々が経験したであろうプロセスを「追体験」した。

 そこには35人の物語があった。いや、35人につながる数百人の物語を見いだせた。論文の後半、予後の予測モデルや追加の検査の項を読む頃には、涙も枯れ果てた。

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 こういう話をしたからといって、別に、「症例研究」がいけないとか、非人称的な記述形式がいけないとか、予測のモデルをたてるのがいけない、とか、そういうことを言いたいわけでは「断じて」ない。

 こういう地道な研究の果てに、医療の「未来」はある。「これまでなら苦しんでいた子ども」を1人でも多くださないための工夫は、そういう研究の積み重なりの果てにあるのである。それは必要なことなのだし、これからも継続されなければならないことなのだ。

 僕も研究者のはしくれとして、研究の重要性はよく理解しているし、分野は違うとはいえ、同じようなことをやっている人間のひとりである。

 しかし、「研究者としての自分」を離れ、親として論文を目にしたとき、僕は、そこに全く違った世界を見た。そして、心の底から感じた。

 人間を対象とした研究の「背後」には、ふだんはスポットライトを浴びることのない「人間の物語」が隠されている。

 研究の目からすれば、「被験者A」「参加者A」でいいかもしれない。統計的有意な結果をだせる人数を被験者として確保し、仮説を検証したり、モデルをつくることが必要なのかもしれない。それは「研究者としての勝ち」「研究者として見たい光景」なのかもしれない。

 しかし、そのことが重要であることは1ミリも否定しないが、おそらく、このことだけは忘れてはならない。研究者として自戒をこめて、そう思う。

 被験者Aは、「固有の名前」をもっており、彼につながる人々とのあいだで、様々な物語をつむいで生きてきた、ということである。
 そして、研究者が彼に対して行ったことの結果は、そういう物語の果てに理解される必要がある、ということである。
 さらにいうならば、人にかかわる研究をするということは、そういう人の物語に触れたり、介入したりするということである。僕はそこに、ある種の「畏れ」らしきものを感じざるをえない。

「何を今更アタリマエを言うんじゃない」とお叱りを受けるかもしれないが、僕は、今回の出来事で、心の底から、そのことの意味がわかった。はじめて親の立場で、「35人の表」を目にしたときに。否、35人につながる人々の物語を感じたときに。
 今まで概念的には、アタマの中ではわかっていたことだったけど、このときばかりは、心の底からわかった気がした。

 ---

 幸いTAKUZOは、その後、すっかり元気になった。追加の検査も、異常なし。いまだ原因はよくわからないものの、今では、あのときのことがウソのように遊び回り、どろんこになっている。

 僕たちは、何か、「悪い夢」を見ていたんだろうか?
 あれはいったい何であったのか。

 今では時々、そう思うこともある。

 しかし、それが「夢」ではないことは僕が一番よく知っている。「学術論文を読んで号泣したこと」は、忘れようと思っても、忘れられるものではない。
 そして、そこで僕が号泣した理由は、僕が研究者として生きていく限り、一生抱きしめていくことなのかもしれない。

 ---

追伸.
 TAKUZOと新幹線を見に行く。入場券を買って、ホームへ。

shinkansen0.jpg

 大興奮で新幹線を見学。
 前にでたいがあまり、柵の間に足を入れる。

shinkansen1.jpg

 やばい・・・足を差し込みすぎた!

shinkansen2.jpg

 で・・・・

shinkansen3.jpg

 足が抜けなくなる(笑)。
 助けてー、きょえー。

投稿者 jun : 2008年6月22日 09:01


ランディ=パウシュ教授(CMU)の「最後の授業」

 膵臓癌で余命半年を宣告されたカーネギーメロン大学 ランディ・パウシュ教授の「最後の授業」をYoutubeで見た。

 先日、Learning barに参加してくれた方から、その存在を教えてもらった(Nさんありがとうございます)。

2本目以降はこちら
http://jp.youtube.com/watch?v=yw_PKpaJbT0&feature=related

 講義は、彼が自分の夢をどのように実現してきたのか、を率直な言葉で、しかも第一級のユーモアーをもって語っている。
 夢の実現を通して、自分がどのように人々にサポートされ、また、自分が他者をどのようにサポートしたのか。
 余命数ヶ月の彼が伝えたかったのは、そういう人々のつながりの中で「人を支えつつ、人に支えられながら生きること」の大切さでないか、と思う。

 思うに、人生には「三種類の時間」しかない。

「あなたが誰かに支えられている時間」
「あなたが誰かを支えている時間」
「あなたが誰かを支えつつ、同時に、誰かを支えている時間」

 人間は生まれてから死ぬまで、「支える」ということから無縁ではいられない。

 ビデオの中の彼は、ウィットにあふれ、常にエネルギーに満ちている。しかし、そんな彼を目にしながら、頭の奥底には、「こんなに元気なのに、この先生は、もう長くはないのか・・・」という思いが、こみ上げてくる。何だか訳もなく切ない。

 講義の中での彼のメッセージは決して奇をてらったものではない。

「レンガの壁があっても夢の実現をあきらめてはいけません」

「人の批判を聞くこと。評価グラフの形であれ、尊敬する人の言葉であれ、批判を素直に聞くことはむずかしいものです。批判は大切に役立ててほしい」

「間違いを正されるのは期待されている証拠です。誤りを指摘されない環境は自分のためにはなりません」

「文句をいわずに一生懸命やること」

 誰もが「そうだよな」と思うことでありながら、なかなかそうすることが難しい。彼は、そうしたことを率直に語る。その率直さが胸をうつ。

 ちなみに、この講義は、彼の3人の子どもに向けられている。

 ---

追伸.
 7月6日(日)午後2時、六本木のアカデミーヒルズで上映会があるとのことであった。

最後の授業 上映会
http://www.randomhouse-kodansha.co.jp/last_lecture/index.html

投稿者 jun : 2008年6月21日 12:26


Learning bar募集開始「高業績をだすプロジェクトマネジャーの育成を考える!」

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Learning bar@Todai 2008

高業績をだすプロジェクトマネジャーの育成を考える!

2008年7月11日(金曜日)午後6時 - 9時 東京大学
=================================================

 2008年7月のLearning barは、常磐大学の伊東昌子先生、
株式会社 日立製作所 デザイン本部の山寺仁さんを講師に
お招きし、

「高業績を出せるプロジェクトマネジャーを育てる
 にはどうするか?」

 ということについて、皆さんでディスカッションを
深める機会を持ちたいと思います。

 伊東先生と山寺さんは、認知科学の理論と方法論を
用いて「高い成果をだせるプロジェクトマネジャー」
の思考や行動には、どのような違いがあり、それがプ
ロジェクトマネジャーとその周辺に対し、何を物語る
かを明らかにする共同研究を進めてこられました。そ
の研究成果は、大きな反響を呼んでいます。

 今回のLearning barでは、伊東先生、山寺さんに、
この共同研究についてご講演いただきたいと思ってい
ます。

 またBarの後半では、伊東先生、山寺さんの話を受けて、
プロジェクトマネジャーの養成のために、今、現場では
どのような取り組みがなされているのかについて、グロ
ーバルナレッジネットワーク株式会社の戸部伸彦さんか
ら、いくつか事例紹介をいただきます。

 参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、6月27日までに
sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまでご連絡
下さい。6月末日までに参加可否をお伝えいたします。
下記の要項を必ずご一読いただき、ご応募をお願いいた
します。

 なお、最近、Learning barは満員御礼が続いており、
参加登録いただいても、すべての方々の御希望にはお応
えできない状況になっております。

 主催者としては心苦しい限りですが、限られたスペー
スと人的リソースの中で運営し、かつ、参加者のバック
グラウンドの多様性を確保する必要がある関係上、すべ
ての方々のご要望にはお答えできません。
 なにとぞお許しください。
 
     企画担当:中原 淳(東京大学・准教授)

※Learning barは、NPO法人 Educe Technologiesが
主催、東京大学大学院学際情報学府 中原研究室が
共催する、実務家と研究者が集まる学術イベントです。
 
 ---

○主催
 NPO法人 EDUCE TECHNOLOGIES
 エデュース・テクノロジーズ
 http://www.educetech.org/
 
 EDUCE TECHNOLOGIESは、教育環境の構築に
 関する調査、研究、コンサルティングを行う
 非営利特定活動法人です。
 
 企画担当
 副代表理事 中原 淳

 
○共催
 東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
 - 大人の学びを科学する研究室 -
 http://www.nakahara-lab.net/
 
 
○協力
 グローバルナレッジネットワーク株式会社
 http://www.globalknowledge.co.jp/
 
 
○日時
 2008年7月11日(金曜日)
 午後5時30分 開場
 午後6時00分より午後9時頃まで実施
 
 ※時間が限られておりますので、定刻通り
  に始めます。本郷キャンパスは意外に
  広いです。くれぐれも、迷子になりませんよう
 
 
○内容(案)

 □ウェルカムドリンク
 (5時30分 - 6時00分)
  ・今回のLearning barでは、サンドイッチ
   ソフトドリンク、ビール、ワイン等を
   ご用意しています。
  ・非常に混み合うことが予想されますので、
   なるべくはやくおこしください。
 
 □イントロダクション
 (6時00分-6時10分)
   ・中原 淳(東京大学)
 
 □パート1
 (6時10分 - 6時50分)
 (35分講演+5分質疑)
  ・山寺仁さん(日立製作所) 10分
  ・伊東昌子先生(常磐大学) 25分

伊東先生と株式会社日立製作所は、認知科学の理論
 と方法論を用いて「高い成果をだせるプロジェクト
 マネジャー」の思考や行動には、どのような違いが
 あるのかについて、共同研究を進めてこられました。
 この共同研究の背景について、山寺さんにご紹介い
 ただきます。

 その後、伊東先生に、まず研究のフレームワークと
 方法論、プロジェクトマネジャーの発揮する「知」
 とは何か、についてご講演をいただきます。
  
 --- bar time (10min.) ---

 □パート2
 (7時00分 - 7時40分)
 (35分講演+5分質疑)
  ・伊東昌子先生(常磐大学)

 引き続き、伊東先生に、実験結果と実践的インプリケ
 ーションについてご報告いただきます。
 その後、プロジェクトマネジャーの育成について、
 何から取りかかればよいのかについてご提案をいただ
 きます。

 --- bar time (10min.) ---

 □プロジェクトマネジャーの育成、事例紹介
 (7時50分 - 8時05分)
 (15分)
  ・戸部伸彦さん
 (グローバルナレッジネットワーク株式会社)
 
 □お近くの方とディスカッション
 (8時05分 - 8時35分)
 (30分)
 
 □ケータイde質疑
 (8時35分 - 8時55分まで)
 (20分)

 □ラップアップ
 (8時55分 - 9時00分まで)
 (5分)
  ・中原 淳(東京大学・准教授)
 
 
○場所
 東京大学 工学部2号館 9F 93B
 大学院情報学環 教室
 http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_04_03_j.html 

 地下鉄丸の内線本郷三丁目駅から徒歩15分程度
 地下鉄南北線東大前駅から徒歩10分程度
 
 
○参加費
 2000円(1名さま 一般・学生)
 (講師招聘費用、講師謝金、飲み物、食べ物、
  運営費等に支出いたします)
 
 
○食事
 ソフトドリンク、ビール、ワインなどの飲み物、
 および軽食をご準備いたします。
 
 
○参加条件

 下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
 申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
 いるとみなします。

 1.本ワークショップの様子の写真、NPO Educe Technologies、
 東京大学 中原研究室が関与するWebサイト等の広報手段、
 講演資料、書籍等に用いられる場合があります。

 2. 欠席の際には、お手数でもその旨、
 saka-atsu [at mark] nifty.com までご連絡下さい。
 人数多数のため、多数の方の参加をお断りしている
 状況です。繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。
 
 
○どうやって参加するのか?
 
 下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 6月27日までにお申し込み下さい


〆ココカラ=======================================

 参加申し込みフォーム
 sakamoto [at mark] tree.ep.u-tokyo.ac.jpまで
 6月27日までにお申し込み下さい
 
 6月末日までに参加の可否をご連絡させていただきます

 ---

 上記の参加条件を承諾し、参加を申し込みます。

氏名:(            )
フリガナ:(          )
所属:(            )
メールアドレス:(       )
業種:下記の11つの属性から、あなたに最も近いものを
ひとつお選びください

 1.研究者
 2.学生
 3.民間教育会社勤務
 4.民間コンサル会社勤務
 5.事業会社勤務(人事・教育部門)
 6.事業会社勤務(事業部門)
 7.個人事業主(教育・コンサル)
 8.経営者
 9.初等・中等教育の学校勤務
 10.公務員・公益法人等勤務
 11.その他

もしあれば・・・一言コメント
(                )

〆ココマデ=======================================

投稿者 jun : 2008年6月20日 14:46


企業と儀礼

 都内某所。あるファーストフードチェーンが、年に一度開催しているイベントに参加させていただく機会を得た。

 各店舗ごとの精鋭 - 年齢は平均年齢20歳くらいだけど - が集まり、1)商品づくりのテクニック、2)劇、3)接客のテクニックを競争するイベントであった。

「競争」といっても、やらされ感が漂うようなドライなものではなく、皆、「感情」をあらわにし、負ければ涙を、勝っても涙をためるような、マジなものである。

 会場は、ものすごい興奮のさなかにあった。勝敗が決定するたびに、会場の各所では、参加者同士抱擁しあう様子が見られた。

 僕は、「どのような参加者たちが競争を勝ち抜いていけるのか」、そして、「いったい何が競われているか」について考えながら、会の進行を楽しんだ。久しぶりにエスノグラファーっぽい視点でものを見た。

 観察を通して「イベントがもつ教育機能」について、非常に大きな示唆を得ることができた。非常によくデザインされているなぁ、と感心した。大変興味深い経験であった。

 このような素敵なイベントに参加させていただく機会を与えてくれた某社の皆さん、そして、一橋大学の見舘先生に、この場を借りて感謝いたします。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2008年6月20日 06:42


COEO (Chief Organizational Effectiveness Officer)って聞いたことある?

 CLO(Chief Learning Officer)ならぬ、COEO(Chief Organizational Effectiveness Officer)という役職名があるらしい。先日、一橋大学の守島先生のご講演資料を拝読していたら、そのようなことが記してあった。

※資料出所は、慶應丸の内シティキャンパス「人材開発アーキテクチャ論」です。金井壽宏先生が主任講師です。中原は、一回分を担当します。

人材開発アーキテクチャ論
http://www.keiomcc.com/program/hrd/

 ---

 COEOは、いわゆる研修やOJTを中心とした「人材育成」を見るだけではなく、

 1)組織文化マネジメント
 2)スタッフの意識改革
 3)組織学習の強化
 4)組織メンバーのダイバーシティへの対応
 5)職場のコミュニティ化

 などなど、広く「組織における人間の成長や学習」に関係する様々なものを取り扱う役職だそうだ。これらの諸要素を、うまくマネジメントして、人間がよく働ける場や社会関係をデザインしていく、ということなんだろう。

 この方向性は、ワークプレイスラーニングという概念にも、パフォーマンスコンサルティングという概念の主張とも合致しており、僕個人としては、とても共感できる。

 人間は、研修室だけで学ぶわけではない。学びの場は職場にも広がっている。そして、働くことが、すなわち、学びでもある。学習や成長を、より広い文脈で捉えることが重要だと僕は思う。

 ---

 以前にもアナウンスしたけれど、今年は10月31日(金) 午前10時~午後5時まで、東京大学・本郷キャンパス 安田講堂でワークプレイスラーニング2008というカンファレンスを実施する。今年のテーマは、ずばり「人材開発部の未来」だ。

 カンファレンスまで、残り4ヶ月はある。
 様々な情報を集約し、日本の状況を鑑みた上で、じっくり、主張を練り直したい。

(ちなみに、JMAM「人材教育」の次号、リクルートワークス研究所の「Works」の次号で、僕のオピニオンが掲載される予定です。よろしければ、ご意見お聞かせ下さい)

投稿者 jun : 2008年6月19日 08:39


パッションとロジック

 思うに、研究は「パッション」からはじまります。

 世の中では、○○に実践されているけど、本来、それはおかしい。~のように考えれば、もっとよくなるはずだ。

 巷では、こんな風に思われている常識があるけれど、どうもそれは違う。実態は~であるはずだ。

「パッション」という言葉がわかりにくければ、「怒り」といってもいい。「これはおかしい・・・このままにしてなるものか」という思いが、まずは必要ではないかと、僕は思います。

 そうやって、自分が取り組む「問題」がわかったら、次に必要なのは「ロジック」です。

 ロジックとは何か?

 あくまで僕の専門分野で、ロジックを説明するのならば、それは「問題」「方法」「評価」「結果」を「1本の線(意味のつながり)で結ぶこと」です。

 ---

1.解決すべき「問題」は何か?
 →その「問題」に着目する理由は何か?

2.その「問題」の解決のために
  とりうる「方法・アプローチ」とは何か?
 →なぜ、あまたある手法の中で
  その「方法・アプローチ」を選ぶことが妥当と
  言えるのか?

3.その「方法」や「アプローチ」を、どのような
  手法や手続きで「評価」するのか?
 →その手法や手続きが、なぜ妥当と言えるのか?

4.その「評価」結果から、結局、どんな結果がでるのか?
 →解決すべき「問題」は解決したのか?
 →その「問題」を解決した際に
  どのような新たな問題空間が見えたのか?

 ---

 ロジックが通っているとは、「問題」「方法・アプローチ」「評価」「結果」がすべて矛盾無くつながっている状態をさします。

 別の言葉でいいましょう。

 要するに「ロジックがたつ」とは、どんな角度から、自分の研究について、何を聞かれても、「学術的に理由を答えられる」ということです。
 どんなことを聞かれても、「何となくやったのです」「思いつきを、ちょっとやってみたんですよね」と答えないですむということです。
 さらに言うのなら、その分野の人だけでなく、異分野の人であっても、「誰にでもわかる言葉で、自分のやったことと、その理由を述べることができる」ということです。

 ---
 
 ロジックがたつことは、研究をする上でもっとも重要なことです。

 どんなに実践として素晴らしくても、
 どんなに効果があっても、
 どんなに人々が喜ぼうとも、
 どんなに目が輝こうとも、
 ロジックがたたないものは研究としては認められません。

 実践としての価値はあっても、ロジックが立たなければ、研究としての価値は疑問符がついてしまいます。厳しいようですが研究の世界とは、そのようなものです。

 それではロジックをたてるには、どうすればいいでしょうか。

 よほどの人ではない限り、ロジックは自分一人ではたてることは難しいように思います。

 かくのごとく偉そうなことをホザいている僕も、ツメの甘い人間です。

「ロジックがたった!、いっちょあがり!」

 とフラダンスしていると、他人に「ブスッ」とカン●ョーされちゃうんですね。ツメが甘い・・・あべし。

 けだし、洗練されたロジックをつくるには、どうしても「他者のまなざし」「他者のチェック」が必要であることが多いように思います。
 他人の目は、自分が予測できない角度から、自分の予測できない事を指摘します。それがとても重要なのです。

 だから、研究には「仲間」が必要なのですね!

 ---

 今日は、「研究の世界」の事を書きました。あくまで僕の専門分野の話であり、また僕の信念です。何の一般性もないことを断っておきます。

 ですが、実は・・・小さい声で本当のことをいうとね・・・これは「研究の世界」だけにあてはまることでしょうか? 研究の世界だけでなく、いわゆる実務の世界でも、企画をたてるとき、新しいことをはじめようとするときには、実は、同じようなことをやっていないでしょうか。

 厳密さや緻密さは違っていても、実は、世の中のナレッジワーカーとは、基本的に「研究の世界」と同じことをやっているように思います。

 たとえば某自動車会社。
 企画書をつくるときには、上司や同僚から「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」と、理由を何百回も問われます。企画はA3用紙1枚にまとめることになっています。ロジックがすっきりしていれば、A3一枚で、まとまるのです。

 たとえば、某テレビ局。
 企画は、どんなに長編の番組であっても、シリーズものでも、A4用紙1枚でまとめなければなりません。
 「なぜ、この番組を今放映する必要があるのか」
 「どういう社会的意義をもっているのか」
 「絵として何が撮れるのか?」
 が繰り返し問われます。「なぜ?」「なぜ?」「なぜ?」

 結局、同じことなのですよ。そして、大学院で学ぶべきことは、結局、こういうことだと思います。

投稿者 jun : 2008年6月18日 10:34


コミュニティの世代継承と消失のデザイン

 昨日は、ある企業A社の経営企画の方が3名、研究室におこしになりました。A社では、社内に、社員たちが、仕事のこと、仕事外のこと含め、自由に「コミュニティ」をつくり、人を募り、活発に活動をしているとのこと。
 この活動自体は、A社のかかげる組織変革プログラムの一部に位置づいているそうです。昨日はその全体像をディスカッションしました。大変インフォーマティヴな会でした。A社の皆様、ありがとうございました。

 ---

 その中で大変興味深かったのは、「コミュニティの世代継承、消失、再誕生をいかにデザインするか」という話でした。

 要するにこういうことです。

 コミュニティ活動というのは、熱意と志のある社員が、最初に手をあげてはじまります。

 最初の頃は、メンバー全体に、その「熱意」や「志」が共有されていますが、次第に、その活動が活発になるにつれ、それがうまくいかなくなってきます。

 活動が活発になり、外部の人々に認知されるようになったり、場合によっては、社長などから「あそこのコミュニティの活動はすごい」と持ち上げられるようになってくると、さらに人が集まってきます。
 これらの人々は、設立当初の熱意を共有できているわけではありません。コミュニティメンバーのもつ「熱意」や「志」に「層」が生まれる瞬間です。

 さらに深刻な事態がおこります。コミュニティが外部にフィーチャーされればされるほど、そこには、必ず「フリーライダー(ただ乗り)」が生まれてきます。

 本来、「熱意」や「志」を共有した人があつまる場がコミュニティであるにもかかわらず、「あそこに入ると、出世できそうだから」といった理由で、人が集まってきます。

 コミュニティとは「誰でも参加できること」が条件になっていることが多いので、そうしたフリーライダーの「参加という名の非参加」を、なかなか拒むことができません。

 しかし、そういう人はコミュニティで何をするわけではありません。だって、「コミュニティで何かをすること」ではなく「コミュニティにいること」が目的なんだから。

 そうすると、コミュニティ内部に様々な「軋轢」が生まれてきます。コミュニティの中で「やる人」「やらない人」が生まれ、「やっている人にぶらさがる人」「やっている人を見ている人」がでてくる。

 だんだんと、「熱意」や「志」も共有されなくなってきます。そもそも、後から入った人には、コミュニティ創立期の盛り上がりは、後追いしにくいものなのです。
 さらに深刻なのはフリーライダーたちです。彼らは「熱意」も「志」もクソもヘッタクリもありません。

 かくして、コミュニティの活動がだんだんとギクシャクしはじめます。そもそも「自分たちは、なぜ、集まっているのか」がわからなくなってくる。「なぜ、こんなに多くの人々をまとめることに時間をかけなくてはならないのか」という疑問がフツフツとでてきます。「コミュニティの死期」が、近づいた瞬間です。

 ここで、コミュニティのリーダーとしては、いくつかの選択肢をとることができます。

1.コミュニティそのものの活動を辞めてしまう
2.創立当初のメンバーは抜けて新しいコミュニティをつくる
3.現在のメンバーの中で志のある人をもう一度選抜して、コミュニティをつくる

 しかし、最も重要なことは、コミュニティの活動の停滞・終了を引き金に、せっかく集まった人々の社会的関係を崩壊させてはならない、ということです。そして、これが大変に難しい。

 どの選択肢をとっても、ある程度、コミュニティメンバーには、感情の「しこり」が残りますね。この「しこり」をミニマムにおさえつつ、コミュニティの熱意や志を世代継承し、いかにその活動を続けていくか。非常に難しいマネジメントが求められます。

 ---

 大変オモシロイなと思いました。

 いわゆるCoP論やネットワーク論では、つながりをつくったり、コミュニティを創造することに、人々の関心があたります。
 しかし、実は、コミュティを創造することは、熱意さえあれば、あとは「エイヤっ」であまり難しいことではないのかもしれません。

 問題は世代を継承し、場合によっては人間関係にしこりを残さず、コミュニティに安らかな死を与えることなのです。

 とても考えさせられました。

投稿者 jun : 2008年6月17日 06:41


優れた知性とは・・・

 今日のブログのエントリーをお読みになったTさんが、下記のような言葉を教えてくれました。

The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function.

「優れた知性とは二つの対立する概念を同時に抱きながら、その機能を充分に発揮していくことができる、そういうものだ。」
スコット・フィッツジェラルド(村上春樹訳)

 深いですね。
 「教育のことを考えるための知性」とは、まさにかくあるべし、と僕は思います。

投稿者 jun : 2008年6月16日 21:05


物語は、かつ消え、かつ結びて

「物語」というキーワードが、企業人材育成の分野で、最近よく語られるようになってきました。人文科学におけるナラティブターンが、この分野にもようやく到達したのかもしれないな、と思いつつ、決してそんなことはないようです(笑)。
 今、「物語」が注目されているのは、現場にはびこる「別の深刻な理由」を、何とか解決したいと考える人が増えているから、のようです。

「なんか、最近、うちの職場、バラバラなんだよなぁ」

 この「認識」が「真実」かどうかはデータがないので判断は保留するとして、こういうことを感じる人が、年々増えているのだと聞きます。それに類する本も、多数出版されているそうですね。

 現在の職場では、すでに社員の雇用形態は多様化しています。今後は、グローバル化の波にのって、日本で働く外国人はさらに増えるでしょう。また成果主義などの施策によって、同じ雇用形態の人々の中にも「格差」が生じています。かくして、職場の「バラバラ感」はどんどんと高まっているのかもしれません。

 そして、この「バラバラ感」を何とか「つなぎとめるもの」「たばねるもの」として期待されているのが、「物語」であるわけです。だから「物語」と「つながりの回復」は、いつもセットで語られます。

 異なる価値観をもつ人々を「つなぎとめる」ためには、誰もが納得し、合意し、コミットできるような「大きな物語」を共有する必要があります。
 しかし、やっかいなことに、かつて日本企業を「鉄」のように束ねていた「大きな物語」は崩壊しています。じゃあ、どうするか。ここに、現代の「モデル無き模索」のはじまりがあります。

 組織変革、組織開発、組織診断・・・様々な手法がしのぎを削っています。

 ---

 ところで、圧倒的ポジティブに語られる「物語」や「つながり」は、常に組織にとってプラスをもたらすわけではありません。

 それが行きすぎると、人々が疲弊したり、新しいアイデアが生まれなくなってしまったり、外部環境の変化に対応できなくなってしまうことも、これまた事実です。

 たとえば、物語を周到に会社が操作し、人々を「労働」に駆り立てる場合・・・つまりは、組織文化が過剰にマネジメントされるといった事態に陥る場合、人々は仕事から離れられなくなってしまう可能性があります。
 人によっては、バーンアウトしてしまう可能性もないわけではありません。

 また、物語の支配力が強すぎる場合。過去の成功体験や失敗体験やしがらみに縛られて、何一つ新しいアイデアを生み出せなくなったり、組織が外部の環境変化に対応できない、といった事態も生まれる可能性があります。

 物語によって「つながり」が強くなりすぎてしまった場合。それは人々の間に過度の依存を生み出します。合意をとるまでに時間がかかり、根回しなしでは、なかなかモノゴトが前に進まない状況も生まれるかもしれません。

 結局のところ、「物語」も「つながり」も「諸刃の剣」なのです。「物語でCatch all(キャッチオール:問題はすべて解決)」を「決め込む」というのは、あまり「真摯な態度」ではありません。

 もちろん、だからといって「物語はダメ」だと言いたいわけではありません。むしろ、僕が言いたいのはその「逆」です。
 ネガテイブな側面がありつつも、そこで得られるメリットを勘案し、何をどこまで進めるかについて意思決定を行わなければならないのが「実務」です。予測可能なものを可能な限り、予測しつつ、よいさじ加減の意思決定を行うことしか、ないのだと思います。

(ちなみに、世の中の本当に大切なことは、ネガティブなことも、ポジティブなことも両方併せ持っているものです。研究者は、あるモノゴトにネガティブなことがあったから、すべてダメだと結論しがちですが、そういう思考では何一つ意思決定はできません)

---

 もうひとつだけ思うことがあります。
 今、必要なのは、本当に「大きな物語」なのでしょうか?
 そして、それを「浸透」させることなのでしょうか?

 新たに生まれた物語は、いつの日か、「因習」になります。また「つながり」は「しがらみ」に、いつかは必ず転化してしまいます。

 むしろ、「新しい物語」が常に作られる一方で、「手垢のついた物語」が壊される。「新しいつながり」が生み出され、「過去のしがらみ」は断ち切られる。そういう「生々流転のプロセス」をつくりだすことが重要なのかもしれません。

 もちろん上記は仮説にすぎないですし、実証できたわけでもありません。でも、何となくそう思うんです。

 小生、まだ短い人生しか生きてはいませんが、これまでの経験を通して培った「持論」に下記があります。
 
 本当に大事なものは、「動き」の中にある

投稿者 jun : 2008年6月16日 08:57


赤ちゃんの「ハナミズ」をどうするか?:ハナ吸い器づくり奮闘記

 赤ちゃんの「ハナミズ」というのは、なかなか親泣かせです。赤ちゃんは、「チーン」とかって、自分でハナかめないですから。ハナミズを親が取ってあげなくてはなりません。貯めておくと、風邪がなかなか治らない。

 でも、この「取る」が問題なのです。
 耳鼻科に行けば、「自動吸引器」でとってもらえますが、どこの耳鼻科も今は混んでいます。ヘタをうてば「2時間待ち」はザラなのですね。
 ハナをズルズルズルと吸ってもらうだけに2時間・・・・。しかも2時間のあいだ、暴れるTAKUZOをかかえて。ハッキリ言って、終わった頃には心身ともに疲れ果てます。

 で、自宅でできる「ハナ吸い器」として一般的に用いられているのは、下記のようなものです。

 まずは「スポイト式」

supoito.jpg

 こちらはスポイトのように「ハナ」を吸い取ります・・・というか、そのハズなのですが、なかなか実際はとれない・・・(泣)。

 こちらは、親が口で吸いとるかたちのやつです。チューブの一方を子どもの鼻の穴に差し入れ、もう一方から親が空気を吸います。真ん中に「空気貯め」が取り付けられているので、ハナを直接吸わなくてもよいかたちになっています。

supoito2.jpg

 これは、一般に最も用いられていますが、「大問題」があります。それは、、、

   ・
   ・
   ・
   ・
   ・
   ・

「これでハナを吸うと、親が風邪をひく」

 ということです(笑)。

 我が家のような共働き家庭では、クリティカルな問題ですね。
 おそらく、ハナを吸い取るときに、子どものハナの穴にたまっている空気から、ウィルスやら細菌やらを、一緒に吸い取ってしまうのではないかと思います。メカニズムはよくわからんが、統計的有意に、かなりの確率で、親も風邪をひくのです。

 これまでは我が家も、後者のハナ吸い器を使っていました。
 申し訳ないんだけど、僕は遠慮させていただいておりました。なんか「吸う」のが苦手なのです。吸ってる最中に、ゲ●でそうになってしまうのですね。

 で、こんな情けないワタクシを横目に、カミサンが「ハナ吸い特攻隊長」を拝命しておりました。で、彼女が、いつも「吸っていた」。その結果、可哀想に、いつもカミサンはノドを痛めていたのです。

 で、これではイカンと考え、抜本的な「改善」を試みることにしました。人間が「吸う」のではなく、機械が吸えばいいのだ、と思ったのです。

 まず試したのは
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   ・
   ・
   ・
   ・
   ・
 一般家庭で「吸う」といえば、こちら。

soujiki.jpg

 いわゆる、ひとつの「掃除機」ですね。

 掃除機の先にサランラップとチューブで「細工」を施し、そこに、ハナ吸い器を取り付けました。

soujiki2.jpg

 さっそくスイッチを入れると、強烈な吸引力です。早速、TAKUZOに試してみることに。すると・・・
   ・
   ・
   ・
   ・
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   ・
 吸引力がいささか「強烈」すぎました。

 ボボボボボボボボボボボッ
 ボボボボボボボボボボボッ
 ボボボボボボボボボボボッ

 という音がします。確かにハナは恐ろしいほど取れるのですが、TAKUZO、かなり苦しそうで、暴れています。「やべー、脳みそまで吸ってもうたかも」と思って、10秒ほどで辞めました。

 何すんねん、コラ!

 TAKUZOは、終わったあと、しばらく、僕とは目をあわせようとしませんでした(笑)。「無言の抗議」です。

 そこで、次に目をつけたのは、美顔器です。

biganki.jpg

 僕はよく知らないのですが、女性が鼻のまわりの皮脂をとるのに、用いるもののようです。
 耳鼻科で用いる吸引器が、60ヘクトパスカル。そして、こちらが50ヘクトパスカル。10ヘクトパスカル足りないのですが、まぁまぁ、それくらいなら許容範囲でしょう。

 早速、美顔器の先にハナ吸い器を取り付けました。

biganki2.jpg

 吸引力も心地よい感じです。
 で、こちらをTAKUZOに試してみると、、、

 大成功です! 耳鼻科のようにはいきませんが、今まで使っていた「ハナ吸い器」と同じくらいまでは、ハナがとれました。
 これで、TAKUZOの風邪はすぐに治るでしょうし、カミサンも、ノドを痛めることにないでしょう。そして、ワタクシは、「救世主」として、永久に家族史に名をとどめるのです。フフフ。

 そして人生は続く。

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投稿者 jun : 2008年6月15日 08:14


組織理念は広めることができるのか?:高津尚志さん Learning bar報告

 昨夜は、6月のLearning bar。株式会社リクルート ワークス研究所 Works編集長の高津尚志さんをお招きして、

「組織が大切にしている価値観や理念といったものをどのように広めることができるのか?」

 についてディスカッションを深めました。

learning_takastu2.jpg

 今回もLearning barは満員御礼。教室は140人の参加者の方々で埋めつくされました。Learning barは参加者の多様性を配慮するため、参加者を9つのカテゴリーにわけて抽選を行い、さらに男女比を調整しています。今回、ご参加いただけなかった方、なにとぞご了承下さい。

takatsu1.jpg

 高津さんのお話は3つのパートにわかれていました。

 第一部はオーバービュー。ご著書「感じるマネジメント」を参考に、「デンソースピリットプロジェクト」の全貌を俯瞰していただきました。プレゼンテーションの中では、世界各国での活動の写真などもご紹介いただきました。

 第二部は、「デンソースピリットプロジェクト」のコンセプトでもある「ものがたり」「対話」についてです。この二つのコンセプトは「デンソープロジェクト」が、よくある理念浸透プロジェクトとは全く異なっているポイントでもあります。

 組織の構成メンバーが、自分の経験を語りつつ、納得感や一体感を感じながら、いかに価値観を共有していくか。そこには、「個人の物語」と「組織の物語」と「他者の物語」のすりあわせ、葛藤、緊張といったものが存在します。

 第三部は非常に異色でした。このようなプロジェクトに関係なさった高津さん自身のパーソナルヒストリーです。自分の「しごと」を支えるものとは何なのか。そして、「大人の学び」とは何なのか、についてお話をいただきました。

 高津さんのお話を受けて、産業能率大学教授の長岡健先生には「組織文化論」のショートレクチャーをいただきました。

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 企業文化、組織理念とは人為的に「操作可能」なものなのか?

 長岡先生のご提示なさった問題は、非常に「本質的」であると思います。組織理念を考えたい人は、一度は、この問いに立ち返る必要があるのではないでしょうか。

 その後は、恒例のペアディスカッションです。参加者がペアになって、下記の問いについてディスカッションします。

・あなたの組織理念は、みんなに共有されていますか?
・理念の共有を阻むものは何ですか?
・どうしたら理念の共有が可能になりますか?
・本当に組織理念は人為的に広めることが可能でしょうか?

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 その後は、ケータイdeフィードバックです。高津さん、長岡先生のご発表の間中、今回もケータイで質問を受け付けていました。48件のご質問を受け付けることができました。

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 その中で共通点の高いものについて、高津さんにお話を伺うことにしました。質問は下記のように、プラクティカルなものから、非常に答えるのが難しいものまで多岐にわたりました。

●理念は、インパクトがあるものの方がいいんですか?うちの会社の理念は、誰もが納得するようなありきたりのものなのですが。

●理念を語る以前に、現場の仕事が忙しく、休みもままならない状況の現場マネージャーに、理念に意識を向けてもらうにはどうしたら良いでしょうか?

●職場の掲げる理念に全く共感できず、また、浸透させかたの下手さに困っています。また、浸透されたら負けだと思うこともあります。ここは理念浸透されたフリをするのが正しいのでしょうか?

●理念とは結局、誰のためのものなのでしょうか。
    ・
    ・
    ・
 最後は中原がラップアップを述べました。ここの部分は、長岡先生と僕が今必死になって書いている「組織物語論(仮称)」の中から、いくつか知見をご紹介しました。

 典型的な理念浸透モデルは、いわゆる「導管モデル」というコミュニケーションの見方があり(長岡 未公刊)、そもそも、そのコミュニケーションモデルを見直し、対話モデルを探求しなくてはいけないことなどを述べました。
 本当は「組織物語と固着」の問題、「物語をめぐる組織と個人の葛藤」の問題などを述べたかったのですが、あえなく時間切れでした。こちらは、またの機会に!

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 最後になりますが、高津さん、長岡先生、そしていつも本会の実施を陰ながらサポートしてくれている、東京大学大学院の院生諸氏、さらには議論に参加してくださった皆様に感謝いたします。

 本当にお疲れ様でした。
 そして、ありがとうございました。

投稿者 jun : 2008年6月14日 07:35


ヴィジョン、ソリューション、データ

 ひょんなことがきっかけで、今から6年前に実施していた「学習科学に関する研究会:SIGLES (Special Interest Group of Learning Science)」の資料を読み直しました。

 SIGLESでは、中京大学の三宅なほみ先生にショートレクチャーをいただき、当時産声をあげたばかりの「学習科学」について、みんなで勉強し、ディスカッションしようという会でした。

 メンバーは40名ほどでした。研究者、大学院生、現場の先生、民間教育企業の方々、テレビディレクターの方々。今日も、様々な領域で、「学習」に関係した仕事をなさっている方々が、参加していました。

 読んでいた資料の中で、トロント大学のカール=ベライターさんの言葉が妙にひっかかりました。
 ベライターは、ICLS2002(学習科学に関する国際会議)の閉会の挨拶で、下記のような趣旨のことを述べているのです。

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「学習研究者は、研究を通して、ヴィジョン、ソリューション、データを、社会に提出しなければならない。

学習とはこうあるべきなんだ、人間の学びとはかくあるべし、というビジョン。

日々、不確実さと混迷を深めていく世界の中で、このように学んでいけば人間は生き延びていける、という智慧、つまりはソリューション。

そして、人間の学びには、こんな隠れた側面があったのか、こんな結果は誰しも予想しなかったといったようなデータ。

ヴィジョン、ソリューション、データ、この3つが揃ってこそ、社会(Social movement)を、人間らしい方向に導くものがそろう。

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 この言葉を聞いた当時の僕のノートには、「ヴィジョン」「ソリューション」「データ」という単語が繰り返し書いてありました。

 ヴィジョン
 ソリューション
 データ
 ヴィジョン
 ソリューション
 データ
  ・
  ・
  ・

 確かにこの3つのどれが欠けても、社会につながる説得力のある議論はできないようにも感じます。

 たとえば、データなきヴィジョン、ソリューションなきビジョンは、単なる絵空事でしょう。
 逆に、ヴィジョンなきソリューションは、「こんな問題が起こったから、こんな技術がでてきたから、こうやってみました」的な「モグラたたき研究のサイクル」につながってしまいます。

 2002年のレジュメを見ていて、ちょっぴり「鬱」になりました。

 この6年、僕は何をやってきたのだ?

     ・
     ・
     ・

 しかし、僕がどんなに嘆こうが、わめこうが、今日も、明日も、あさっても、教育という活動は続き、学習は繰り返されます。人は教えることをやめません。もちろん、学ぶことは続きます。

 近い将来、この3つをセットにして、何かを述べたいです。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年6月13日 10:10


大学を、"みんな"で変えることができるのか!?

「最近、大学からのコンサル依頼がやたら増えているんです。学生に満足してもらえる環境を、大学"全体"でつくっていくには、どうしたらいいのか。どうしたら、学生がさらに集まる大学を、"みんな"でつくっていけるのか・・・。

"教授"だけがやってもダメなんです。かといって、"事務職員"主導でもダメですね。場合によっては、"学生"にも入ってもらう。大学のステークホルダー"みんな"が関わって、"学生目線"で自分たちの教育環境を見直し、当事者意識をもって、"環境全体"を変えていかなければダメなんです。

最初は小さくてもいいのですが、次第に、改革の輪が広がるような場をつくらなくてはなりません。

それにしても、大学に、わたしたちのような外部コンサルタントが呼ばれる時代になったんですね・・・10年前には考えられなかったことです・・・」

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 ある民間コンサルタントの方から、こんな話を聞いた。
 少子化問題をひかえ、今、"学生の視点から教育環境の見直し"に入っている大学が多くなっている、そうだ。他にも何人か同じようなことをおっしゃっている人がいたので、おそらくは、こうした傾向があることは事実なのだろう。

 大学、教育、見直し・・・・

 こういう話を聞くと、よくFD(ファカルティディベロップメント)という言葉を思い出してしまうけれど、上記でコンサルタントの方が語ってくれている内容は、いわゆる典型的な「ザ・FD」とは、やや異なった趣があると思う。その違いは、下記の2点だ。

 ---

1.主体の問題
「よくあるFD」は教授陣が「主体」となっているのに対して、上記では、大学を構成するメンバー - 様々なステークホルダー - が「主体」として位置づけられている。

2.対象の問題
 変革の対象は、必ずしも「大学の授業」だけではない。「環境全体」と捉えられている。学生の学習環境は、必ずしも、授業だけから成立しているわけではない。様々なステークホルダーが管理している、学習要素を、できれば一貫した理念にしたがって、変革したいと考えている。

(※誤解を避けるために言っておきますが、教員による授業改善が悪いといっているのではありません。それは貴重かつ不可欠な取り組みだと思います。僕も、いまだ不完全な授業しかできないですが、その改善には真剣に取り組むことにします。)

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 ともかく・・・大学全体の教育環境の見直しの試みは、すべて「水面下」で進行している。大学の経営活動の根幹にかかわることなので、ある程度、成果がでるまでは、なかなか表面化しない。

 静かに、だが確実に。変わることを願う「志」ある大学は、変革の渦中に、今、ある。

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 ちなみに、去年、東京大学でご講演いただいた神保啓子さんが、先日の高等教育学会で、名城大学の試みをご発表なさったそうだ。

東京大学でのご講演の様子
http://www.nakahara-lab.net/blog/2007/09/20_2.html

 題して「コミュニティ・オブ・プラクティスを活かすFDマネジメントの方法論」。

「誰が、誰と連携して、大学としての"新たな教育価値"をつくりだしていけるのか」、そして、そうした価値創造の取り組みを、どのように日常の活動に位置づけていくのか。
 僕個人としては、本発表は、そのことを考える非常によいご発表だと感じた。

 このたび、神保さん、また共著者の池田輝政先生のご好意で、その発表パワーポイントを、このブログで公開させていただけることになった。もしご関心のある方は、ぜひごらん頂きたい。美馬のゆり先生の「はこだて未来大学」でのお取り組みにも、かなり通じるものがあると感じた。

コミュニティ・オブ・プラクティスを活かすFDマネジメントの方法論

はこだて未来大学でのお取り組み
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/03/ict_1.html

 最後になりますが、神保啓子さん、池田輝政先生、この場を借りて感謝いたします。どうもありがとうござました。

投稿者 jun : 2008年6月12日 07:01


学びつつ変える、変わりつつ学ぶ

 大学院授業「組織学習システム論」は、エデュアート=リンデマン、マルカム=ノールズ、ジャック=メジローという成人教育学の三大巨人の会を終えました。

 成人教育学とは、「おとなを対象として、どのような教育手法や枠組みを用いれば、目標に照らした効果があがるかを研究する分野」で、1900年代初頭、アメリカで誕生しました。

 成人教育学の研究者の中で、もっとも有名なのがマルカム=ノールズ。彼はリンデマンの思想をもとに、「大人の学習」の諸特徴を明らかにし、それを支援する方略をつくりだそうとしました。

  

 専門家にアッパーラリアットをかまされるのを覚悟しながら、彼の主張を短く要約すると、下記のようになります。

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 大人の学習と子どもの学習は本質的に異なっている。
 大人は、自分が必要だと思っていることをベースに、自分のスタイルで、自分のやりたいもの、経験とともに学ぶ。
 大人が学びたいと思うことの果てには、彼自身の「目的」がある。ゆえに、大人の学びとは、常に合目的的である。

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 ノールズは、「おとな」という研究対象を、はじめてまともに、実証的にあつかった教育学者であったのと同時に、企業人材育成を、はじめて、教育学研究の射程にいれた人でもありました。

 しかも、その著書は非常に実践的で、たとえば「ワークショップのときに、はじめてあった大人同士をリラックスさせる方法」とか、そういうプラクティカルなことまで、かなり細かく論じてありました。今のワークショップをやる人でも参考になるノウハウや智慧が満載でした。彼は研究者でありつつも、実践者であったのです。

 しかし、ノールズの仕事は、学界全体の中で、決してポジティブな評価を受けたわけではありませんでした。おそらく、教育学研究者の中で、ノールズの著作を読んだことのある人は、そう多くはないと思います。

 もちろん、よく批判されるように、リンデマン、ノールズの理論的骨格に無理があったことも事実です。彼らは「子どもの学び」と「大人の学び」を全く異なったものとして位置づけてしまうという誤謬をおかしてしまいました。それが後々まで尾を引くことになります。それは事実です。

 しかし、僕個人としては、そうした理論的欠陥を差し引いたとしても、彼が「正当な評価」を受けたとはあまり思えないのです。
 大人をはじめて研究対象と設定し、企業人材育成をはじめて研究の土俵にのせ、かつ、プラクティカルに現場にねざした実践から理論を構築しようとしたのに、その評価はあまりに淡泊です。
 ここでは詳細には論じませんが、彼が「正当な評価」を受けなかった背後には、当時の時代背景や思想的対立があったことが、容易に読み取れます。

 さらに、やや皮肉をこめて言いますが、彼の仕事は、学会で評価されるには、あまりにも「現場にねざしており」かつ「プラクティカルすぎた」のかもしれませんね。

 その後、成人教育学の世界をひきいたのは、ジャック=メジローでした。彼は「ものの見方の変容」こそが、大人の学習である、という理論を展開します。

 これまで、ノールズの描いた「大人の学習」は、どちらかといえば、ニーズに主導された「内容の学習」でした。しかし、メジローは、それに対して異を唱えます。
<ホントウ>の大人の学習とは、「大人がモノゴトの意味を解釈する、その枠組み」を変えなければならないのだ。メジローはこう考えました。

 しかし、メジローの理論も、様々な批判にさらされます。その最たるものは、メジローの理論は「学習する個人の変容」しか扱っていないというものです。

 つまり、こういうことですね。
 ノールズにしても、メジローにしても、学習とは「個人の中に知識を蓄積すること」であり、「個人のものの見方をかえること」でした。これは、あまりにも一面的で、偏狭な学習の見方である、という批判が高まりました。
 まぁ、これも「ないものねだり」ですね。人によっては、「やや、いちゃもん」に近い批判もある。だって、そういう批判をした本人が、その後で、ノールズやメジローを超えるものを提案したわけではないから。

 ともかく・・・批判の背後には「学ぶことで個人が変わり、社会が変わる」「社会が変わることで、個人が変わる」という循環的で、再帰的な関係を視野にいれた理論が必要である、という考え方が見え隠れしていますね。これはのちに、「成人教育学」の「外部」で展開されることになります。
     ・
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     ・
 授業は、ようやく折り返し地点に達しました。
 これ以降、受講者全員で、ディスカッションしていく理論は「個人と社会を関係論的にあつかったもの」にシフトしていきます。いよいよ、組織学習システム論のはじまりです。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年6月11日 19:04


やっぱりネットでなんか、学べないって!

「eラーニングって、結局、ダメでしょ。やっぱりネットでなんか、学べないって!」

 先日、ある場所で、こんな言葉を聞いた。周りの人々が、みんな一同に、この言葉に同意していたので、「あまり波風をたたせてもな」と思い黙っていたけど、何だか僕には、この言葉に「違和感」を覚えた。

 ここで「eラーニング」を2つに分けて考えたい。
 1つは、「eラーニングとよばれるサービスを提供している業界のこと」。2つめは「e(ネット化)されたラーニング(学び)、」つまりは、「ネットを使って学ぶこと」。

 もし仮に「eラーニングって、結局、ダメでしょ」の「eラーニング」が前者、すなわち「eラーニング業界」や「eラーニング業界のビジネスモデル」を指し示しているのだとすれば、その認識の是非をここで問うことはしない。
 僕はマーケターではないし、データは持ち合わせていない。よって、その命題の真偽は、僕には判断できない。

 しかし、もし仮に、それが後者、すなわち「ネットを使って学ぶこと」を指し示しているのだとすれば、それはどうも僕の認識とはズレる。

「ネットを使って学ぶこと」というのは、もはや、敢えて「eラーニング」という言葉を使わずとも、もう、人々の生活の中に既にある。このことは、2004年の著書からずっと言い続けている。
 つまり、先の言葉を引用するならば、「もうダメ」「ネットでなんか学べない」もクソもヘッタクリもない。人々の多くは、「もうネットで学んでいる」のである。

 わからないことを検索エンジンに打ち込み、調べ、知的生産を行っている。Yahoo知恵袋に質問を投げかけ、そこから情報を収集し、意思決定を行っている。
 人々の多くは、先輩や同僚とコミュニケーションをとりながら、知識を仕入れ、仕事をしている。
 つまり、人々は、既にネットワークを使って「学び」、仕事をしたり、生活を営んでいる。「学び」とは、ある教育目標のもとに設計されたコンテンツを使って、「知識を蓄積すること」だけを指し示さない。「人間の学習」とは、もっと広いものを指し示す概念である。
 人々が、様々な人々やモノゴトとつながり、賢くなっていくプロセス、そしてそれによって、何かが生まれ、何かが破壊されるプロセス。学びとは、そういうものをすべて指し示す概念である、と僕は信じている。
 
 かつて、「脱学校の社会」の中で社会思想家のイヴァン=イリッチは、Learning web(学習ネットワーク)という概念を提唱した。
 異種混交のネットワークの中で、モノ、ロールモデル、仲間、先輩などの様々な「学習資源」と出会い、利用し、賢くなっていく場として、彼は「ネットワーク」を夢見た。まだインターネットの「イの字」もない時代の話である。しかし、彼は、それを既に、その到来を見通していた。

 イリッチが脱学校論を著したのが1970年代のことである。日本は、まさに高度経済成長のさなか。ハイアラーキカルなものの頂点をめざし、皆が上昇志向を持ち続け、<教育>をうけ、<勉強>していた時代であった。

 しかし、イリッチが理想としたのは、<教育>でも、<勉強>でもなかった。むしろ、彼はそれを弾劾した。彼は、生涯をかけて、教育、医療、福祉といった我々の日常生活にかかせないものにひそむ「権力」と、それに押しつぶされる「人間の自律性」の問題を、執拗に問い続けていた。
 そして、その思惟の果てにたどり着いたものが、「ともに歓びをもって生きること:コンヴィヴィアリティ:Conviviality」の思想であり、それを実現するための、学習のネットワーク(Learning web)であった。

 それから30年・・・。
 彼の描いた夢は、もう既に現実のものになっている。人々の多くは、既にLearning webを手にしている。そして、その勢いは加速することはあっても、減速することはない、と思われる。

「ネットで学ぶこと」に関する僕の認識は、上記のようなものであるが、どうだろうか。
「結局、ダメでしょ」と断罪するものが、いったい「何」を指し示しているのか。そこでいう「学び」とは、具体的に人々のどんな「行動」のことを指し示しているのか。そして、さらにいうなら、本当にその「認識」は、正しいと言えるのか。
 そこには、慎重かつ冷静な思考が必要ではないか、と僕は思う。

投稿者 jun : 2008年6月10日 07:07


どうやって研究テーマをさがすのか?

 山内さんが「研究室訪問の際の研究テーマの選定」について、とても示唆的なお話をなさっている。

【エッセイ】研究のテーマを考える
http://blog.iii.u-tokyo.ac.jp/ylab/2008/06/post_94.html

 研究室志望の方が持参してくる研究テーマにおいて

 ・テーマが拡散する
 ・テーマが大きすぎる
 ・テーマが新しくない
 ・テーマがない

 といった問題が生じていることについては、僕自身も頻繁に経験してきた。とても参考になるのではないか、と思う。

投稿者 jun : 2008年6月10日 06:31


営業マンとインプロヴィゼーション(即興)

 即興的行為をどのように学ばせるか?

 ASTD2008では、ここ数年、このようなテーマをかかげたセッションが多い。インプロヴィゼーション(即興)という言葉を、ここ、あそこで見かけた。

 ここでいう、「即興的行為」や「インプロヴィゼーション」とは、何も「ジャズ」の「即興演奏」を指しているのではない。
 一言でいってしまうと、「フツーの人々が、仕事の中で必要としている即興的な行為や対応のこと」をさしている。
 
 一番わかりやすい例をだすと、たとえば「営業」。

 できる営業マンとは、オープニングからクロージングまで、様々に変化する「顧客の反応」の連鎖の中から、顧客にとっての「意味世界」を読み解きつつ、その時々に、ベターな意思決定を行っている。一言でいえば、「あーいえば、こういう」!?。営業マンがふだん行っていることは、いわばまさに「即興的行為」といえる。

 どこかにシナリオがあって、それを一字一句そのまま実行しているわけではない。たとえていうなら、営業におけるコミュニケーションとは「ジャズのインプロヴィゼーション」そのものである。
(こういうと、結構、楽しそうですね)

 かつて、マサチューセッツ工科大学のドナルド=ショーンは、「Reflection in Action(行為の中の省察)」という概念を提唱し、新しい「専門家像」を定義しなおそうとした。
 彼が著書の中で取り上げたのは、「医師」や「建築家」などの、「いわゆる専門家」が多かった。しかし、別に「いわゆる専門家」ではなくても、人々は、行為の中で省察を繰り返しながら、仕事をしている。

 このあたりは僕の専門ではないので、セッションで聞いたままを述べるが、これまで、営業マンの「即興的行為」の「教育」には、「ロールプレイ」などが行われてきたのだという。
 ここでいうロールプレイとは、「あるシナリオのもとで、固定化された役割演技を交代で担いつつ、練習すること」に近い。

 それに対して、「即興的行為は即興的な状況で学ぶべし」という考え方がでてきている。それは「インプロヴィゼーション」という手法として体系化されようとしている。

 インプロヴィゼーションには、様々な定義があるようで、セッションによっても、その指し示す内容が違うようである。

 しかし、最小公倍数をくくると、どうもインプロヴィゼーションとは、

「大枠の状況と人々が担う役割だけが設定されているが、明確なシナリオはない中で、アドリブにコミュニケーションをとりながら、即興的対応をしてみること」

 に近いようである。
 コミュニケーションの相手に「本物の役者」を雇用し、彼/彼女に、様々な顧客の反応を即興演技してもらうといったことも、頻繁に行われているようだ。

 もちろん、それぞれのインプロヴィゼーションの後には、そのプロセスで何が起こったのかをリフレクションすることが求められる。学習は「まずは即興でやってみて、ほんでもって、振り返る」というかたちで、進行するようである。

 ---

 ASTDは、学術イベントではないので、ロールプレイングとインプロヴィゼーションの学習効果の違いなどは、あまり触れられていない。もちろん理論的裏打ちも、あまりない。
 おそらく、「インプロヴィゼーションなんだから、インプロヴィゼーションで学ぶのがいいんじゃねー」というくらいである。
 このあたりはもう少し深掘りしてみると、結構、面白いのではないか、と思った。もちろん「もう既に深掘りされている」のかもしれない。僕は営業教育は専門ではないのでよくわからないけれど。

 即興的行為は、我々が、日常の中でフツーにやっていることである。しかし、その「フツー」にやっていることを、いかに学んでもらうか、ということになると、あまりわからないことの方が多い。

 この手法、どういうセオリーが関係あるんだろうな、、、どうやって評価すればいいのかな、、、セッションを聞きながら、ひとりそんなことをモンモンと考えていた。

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追伸.
 金曜日帰国。土曜日・日曜日は、TAKUZO発熱。「ひきつけ」を起こさないか、とヒヤヒヤしながら2日間暮らしました。土曜日には、Sさん、Aさん夫妻、お子さんとランチをしたのですが、途中で、TAKUZO体調不良のため退散せざるをえなくなってしまいました。ごめんなさい。
 今日は、これから8時30分、都内会議。その後、名古屋の某自動車メーカへヒアリングにでかけます。道中は、今書いている本の打ち合わせをする予定。迷惑をおかけしているので、これでケリをつけて、今月中には書き上げないと(そんな時間あるのか?)。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年6月 9日 06:20


別れのデザイン

 雑誌「企業と人材」の最新号、川口大輔さんの論文の中に、下記のような言葉が引用されていた。
 ボストン大学のビル=トバート(Bill Torbert)という人の言葉らしいので探してみたけど、僕自身、原典は辿れていない。

 ---

 もしあなたが、問題の一部でないならば
 あなたは、ソリューションの一部にはなりえない
 (If you're not part of the solution, you're part of the problem)

 ---

 うーむ、深い。
 
 現場、そこで生きる実践者、そして外部から彼らを支援しようとする介入者。この実践者と介入者の関係を考える上で、上記の言葉が非常に含蓄にとむ。
 教育現場にアクションリサーチのかたちで関わろうとする研究者、組織の変革を支援しようとするコンサルタントなど、「現場へ外部介入する立場」で仕事をする職種には、示唆的な言葉ではないだろうか。

 ところで、ちょっと別の角度からの話になってしまうけれど、僕には、ひとつの「持論」がある。

 それは、「現場の支援」と称して外部から現場の営みに介入する人間は、「介入のやり方」を考えることと同時に、「介入の解除の仕方」、つまりは「別れのデザイン」を常に考えるべきだと言うことである。

 比喩的ではあるけれど、外部介入者は、現場の実践者と永遠に、ともにいることはできない。「介入者と実践者がともにあるべきだ」というのは「理念」としては美しいが、それぞれの立ち位置や仕事の目的が違う以上、いつかは「別れ」がくる。

 あらゆる人間関係がそうであるように、人々が出会えば、いつか「別れ」がくる。介入者と実践者だけ、それを免れることはできない。

 実践者が、「介入者の助け」なしでも、自分の力で、自分が生きる場所を維持し、変革していけるよう支援を行うことが、とても重要ではないか、と思う。外部からの支援や介入がなくなったとたんに、「元の黙阿弥」というのでは、あまり意味がない。

「いかにフェイドインすること」と同時に、「いかにフェイドアウトするか」を考える。口で言うのは簡単だけど、これはとても難しい課題である。

 現場、実践者、介入者・・・いずれにしても、一筋縄でとける問題ではない。

投稿者 jun : 2008年6月 8日 09:12


なぜ、ブログを書くのですか?

 先日、僕より数歳年下の知り合いの方に、こういう質問をもらいました。

「正直、聞いてみたいんです、中原さんは、なぜブログを書くのですか? "自分のマーケティング"のためですか? なぜ毎日毎日書いているのですか?」

 素晴らしい! 質問がダイレクトですね。「自分のマーケティング」か! なるほど。

 よろしい。ぜひ、お答えしましょう。
 答えはいくつかあります。とてもひとつに絞ることはできません。下記思いつくかぎり書いてみましょう。

 ---
 
 理由その一:知的生産性をあげるため

 僕は、すべての情報はデジタルにして、自分のノートパソコンに保存してあります。そして、その情報の中でも、コンフィデンシャル性がなく、自分が重要だと思うものは、ブログにあげることにしています。僕は「紙」は持ちません。

 これらのデジタルデータはグーグルと組み合わさったとき、とてつもないパワーを発揮します。一言でいえば、「いつでも、どこでも、自分が重要だと思っていたことが検索可能になる」ということです。

 特に、ブログの場合、自分のノートパソコンをもっていなくても、喫茶店や他人のパソコンからでも検索ができます。

 例を示しましょう。
 下記のリンクをクリックしてみてください。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4RNWN_jaJP231JP231&q=%E3%83%8A%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%80%80site%3Ahttp%3A%2F%2Fwww.nakahara-lab.net&lr=
 
 すると、「ナレッジ」について僕のWebにあるすべての情報がでてくるはずです。記事、論文、事例・・・ありとあらゆるものがひっかかります。

 僕は「探すこと」には、あまり時間はかけたくありません。「考えること」「つくりだすこと」に時間を費やしたいのです。

 ブログは僕にとって、いわば「外部脳」です。ここには、僕の研究活動の「経験」が詰まっています。

 しかも、この外部脳は、僕以外の方でのご利用いただけるものですね。グーグルで検索をかけるときに、「site : www.nakahara-lab.net」を追加すればいいだけです。なんか、「脳みそを覗かれている感じ」もしないわけではありません。

 でも、ぜひ、見ちゃってください。ヤバイものも、しょーもないものも、しまりのないものも出てくるとは思いますが、どうぞ、どうぞ。怖いものみたさで、ご利用ください。

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 理由その二:
 自分の研究や活動、そして、それを生み出すプロセスを、いろいろな方々に、知ってもらいたいです

 今では結構早くなりましたけど、学術論文はたいてい世に出版されるまでに1年以上はかかります。僕の経験でもっとも長かったのは掲載まで3年かかった事例です。おぉー、長い。しかも、読んでいただけるのはその道の専門家の方々に限られます。

 もちろん、学術論文の執筆はとても重要です。僕はそれを軽視しません。そして、査読、修正、査読、修正・・・専門家集団が読むに耐えるクオリティを担保するためには、ある程度、長期にわたるプロセスが必要ですね。それは致し方ないことです。

 でも、できれば、自分の研究や活動を、より多くの人々に、リアルタイムで知ってもらいと、僕は同時に思います。

 研究とは、「100試みて、1成功すればよいほう」です。そういう「回り道」や「寄り道」の過程も見ていただけると、なぜか嬉しくなってしまいます。

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 理由その三:
 自分に関連が深い仕事に、すぐに
 つながる可能性があがる

「私塾のすすめ」で、確か、梅田望夫さんが「人の人物像を理解するにには、履歴書ではなく、その人の書いたブログを読むのが一番いい」といったようなご趣旨のことをお書きになっていたと思います(手元に本がないので確認できていません・・・この本、今回の海外出張で読んでスーツケースに入れて持って帰ってきたはずなのですが、なんと、昨日、ロストバゲージにあってしまいました)。

 僕のところにも、お仕事のご依頼やお問い合わせ - 共同研究の打診、講演依頼など - 僕のブログを読んでいただいてお問い合わせいただいた方からのご提案やご依頼は、僕の研究に、より関連が深く、自分の貢献できるところが多い気がしています。

 自分の人となり、自分の仕事のプロセスを、ブログで伝えることで、自分に関連が深い仕事、自分がやりたいと思っていた仕事に、素早く近づくことができる気がしています。

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 理由その四:
 ブログを通して「人がつながること」がなぜか嬉しい

 僕のブログをお読みいただいた方の中には、直接メールを送ってくださる方が結構いらっしゃいます。

 そのすべてにお返事することはできませんが、面白いのは、「こないだメールをくれた人と、今日メールをくれた人がつながったら、オモシロイコトができるのに」という事が結構多いことです。

 そういう場合は、「実はこんな人がいるんだけど・・・」とご紹介することも、ないわけではありません。場合によっては、僕も「クワダテ」に混ぜていただくこともあります。お互い、もちろん顔はわかりません。共通点は、「僕のブログを読んでいただいている」ということだけです。

 僕のブログは、ややマニアックですから、読んでくれる方も、必然的に同じような方になってしまうのでしょう。

「人をつなぐ」といってしまうと、なんだか偉そうに聞こえてしまいますが、ブログにはそういうパワーもあるようです。自分のブログがきっかけで、「出会い」が生まれることに、僕は、「なぜか」喜びを感じてしまいます。

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 理由その五:
 志の高い人々と一緒に仕事がしたい

 東大で開催している公開研究会「Learning bar」、そして年に一度のイベント「Workplace learining200X」、東京大学大学院 学際情報学府中原研究室。
 僕は、志の高い人々や学生さんと、出会い、何かをなしとげたいと願います。よって、そういう方に自分が出会えるよう、情報を出し続けているのかもしれません。

Learning bar
http://www.nakahara-lab.net/learningbar.html

東京大学大学院 学際情報学府 中原研究室
http://www.nakahara-lab.net/nakaharaken.html

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 だいたい、以上でしょうか。
 
「自分のマーケティング」か、と問われると、なんか違う気もしますが、そういう側面がないわけでもないような気になってしまいます。正直、僕自身、大変多くのベネフィットをそこから受け取っています。自分へのメリットがないものを続けられるほど、僕は「できた人間」ではありません。

 でも、「自分のため」だけか、と問われると、そうでもないような気がします。しょーもないことをたくさん書いていますが、もしかすると、これを利用してくれる方もいないわけではないでしょう。

 「ブログを書くことの意味」は、結局、「自分のためか、それとも、他者のためか」という「二分法」を超えたところにあるような気もします。

 もちろん、それで「嫌な思い」をすることもないわけではありません。でも、そこから受け取るベネフィットと比べると、僕は「書くこと」を選択してしまうのです。

 うーん。

 そもそも、人は、なぜ「書く」のでしょうね?
 
 これは案外深い問いなのかもしれません。

投稿者 jun : 2008年6月 7日 07:55


自分が「何」を失えば、自分ではなくなるのか?

 昨日、ある方々と話していたときのこと、非常に考えさせられる一言をなげかけられました。

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 自分をわかるためには、
 自分が「何」であるかを考えるのではなく、
 自分が「何」を失えば、自分でなくなるかを考えるとよい。
 
 ところで、中原さん
 中原さんは「何」を失えば、中原さんではなくなりますか。

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 ひょえー。
 そんな重い一言を、にこやかなスマイルで、ひょいっと、ワタクシメに投げかけないでぇ(笑)。
    ・
    ・
    ・
    ・

 うーむ・・・深い。
 何を失えば、僕ではなくなるのだろう。

 ちょっと考えれば、いくつも候補はでてくるけれど、ここはひとつに絞るのがいいのだろうか。

 うーむ・・・困ったな。

 ところで・・・

 皆さんはどうですか?
 
 
 
 と安易に振ってみる(笑)。
 問いの「おすそわけ」です。

投稿者 jun : 2008年6月 5日 19:25


ASTD2008リアルタイム報告の終わりに

 今日が、ASTD最終日です。僕の「リアルタイム報告」を、数日にわたり読んでくれた皆さんがいらっしゃるのか、どうかわかりませんが、もしいらっしゃったとしたら、ありがとうございます&お粗末さまでした。ごっつぁんです(意味不明)。

 本がたくさんある研究室にいるわけではないので、いつにもまして(!?)、書くことの検証などはできなかったのですが、まぁ、こちらの様子や盛り上がりを、(なんちゃって)リアルタイムでお伝えすることができたのかなぁと思っています。

 詳細などを間違ってお伝えしていたらすみません。いや、きっと間違ってお伝えしています。ヒアリングしながら書いているので、お許しください。すみません。

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 実は、僕が、このリアルタイム報告を書こうと思いたったのは、自分とほぼ同じくらいの年齢の、企業人材育成担当者の方のボヤキを耳にしたことからでした。

「中原さんはいいなぁ、ASTDに参加できて。僕なんか、ASTDに行けるのは20年後くらい後だろうな。できれば、今、行って、いろんな他の会社で使われているプログラムを見てみたいんだけどなぁ」

 要するにこういうことです。

 日本企業では、かなりの「役職者」にならない限り、海外のカンファレンスには出してもらえません(企業にもよるでしょうが)。

 現場で、リーダーシッププログラムを開発している人、マネジャー育成の講師をしている人、日々企業を回っている営業担当者・・・新しい教育的価値を生み出すために、日々、現場で悪戦苦闘している「志のある実務担当者たち」が、この場にくるのは、今から、20年を待たなければならないのです。

「現場にいる今だからこそ、今、行って、いろいろ見てみたい」と願っても、それは、なかなか叶えられない。自費でくることも可能ではあるが、現場を長期間離れられる状況ではない。むろん、許可がでるわけがない。

 しかし、ひとつだけ間違いのないことがある。

 彼/彼女が、「現場のホットな話題」が語られるこの会場を訪れる20年後には、彼/彼女は、すでに「現場」を離れている

 ということです。

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 現在、ASTDの参加者1万人のうち、24%はアジアからの参加者です。韓国を筆頭に、日本、中国など、様々な国々の参加者がきています。それでは、そうした国々からの参加者に、実務担当者は、いないのでしょうか?

 正確な統計をとったわけではないのでわかりませんが、そんなことはないように思うのは、僕一人だけでしょうか。
 実務担当者も、かなり見受けられるように感じます。ひとりで参加している人もいます。上の人と一緒に行動している人もいます。でも、そういう人を見るたびに、近くによっていくと、日本語は話していません。聞こえてくるのは中国語か韓国語であることが多いのです。

 ちなみに、某韓国の大手電機メーカーは、今回、30名以上の社員を派遣しています。手分けしてセッションをまわり、情報を収集している。その中には、20代、30代の実務担当者が数多く含まれるそうです。マネジャーは30代中盤の方だったそうです。

 この会社では、世界の名だたる日本の電機メーカーの研修施設を、数年に一度ベンチマークしている。そこで得た情報をもとに、毎年プログラムの改善をはかっているそうです。

 会社に余裕がないから、志ある実務担当者がASTDに来ることができないのでしょうか。企業業績は企業によって様々ですので、何ともいえないですが、これは必ずしも当てはまらないケースも多いような気がします。
 ビジネスクラスを用意するくらいなら、エコノミーでもう1名連れてくることができるのではないでしょうか。
 仕事に役立てることのできることを社外で自分で、かつ、自費でも学びたいというときに、何とか時間を、融通できないものなのでしょうか。
 一度だけくるのではなく、何とか定期的に来ることのできることのできるシステム作りができないものでしょうか。

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 某R社のTさんとインターナショナルラウンジでお話ししていて、こんな話になりました。

「ASTDはアメリカの実務家のための学会から、インターナショナルな実務家のための学会に変貌しかけていますね」

 インターナショナルラウンジには、各国の人々がコミュニケーションを楽しんでいます。しかし、ここにきて、各国の人々とコミュニケーションをとっている日本人の実務担当者はまばらです。

 本当に20年後でよいのでしょうか。

  ・
  ・
  ・
  ・

 最後になりますが、今回の訪問は、ヒューマンバリュー社のツアーに同行させていただきました。素晴らしい出会いと創発の場を与えてくださった、高間さん、他、ヒューマンバリュー社の方々に感謝いたします。ありがとうございました。

 明日早朝5時、日本に帰ります。

投稿者 jun : 2008年6月 5日 08:51


僕が感じた「ASTD2008」の「世界観」

 様々に異なっているモノゴトの水面下には、それを意味づけ、統御している「構造」が見いだせるとする思想的立場を「構造主義」といいます。
 こんな風に単純化すると、哲学者に便所スリッパでカ○チョーされそうですが、あまり気にせず、スリッパがケ●に刺さったまま、前に進みましょう。

 ASTDでは、様々なセッションに参加し、また、様々な国の、様々な人々に出会いました。それらを重ね合わせ、そこに共通する「何か」を見いだそうとするとき、僕には自ずと、1つの「世界観」が浮かんでは消えてくるのです。

 3つのキーワードで表現するなら、

 分散、多様性、ネットワーク

 です。

「分散して存在している、多様なものを、いかにネットワークしうるか」、これが、今回のASTD2008の発表で多くみられる考えかたではないでしょうか。

 下記に僕が感じた「世界観」を、拙い言葉で描写してみましょう。

 ---

■組織で働く個人について
 
 働く人々は、皆、それぞれ異なった能力をもっています。彼らは、地球のいろいろな場所にすみ、違う時間帯のもとで、違う人生を生きています。
 しかし、彼らに共通する願いがないわけではありません。それが、「自分の能力を伸ばす方向で、人生の選択を行いたい」という願いです。

 (→タレントマネジメント)

 一方、この世の多くのモノゴトは、様々な能力を有する人々が、葛藤を経験しつつ、協力し、協調することで、協同的に達成されます。

 (→協力)

 また、多様なものごとのぶつかり合いと、そこで見いだせる共通点は、既存のモノゴトを疑い、新しいモノゴトをつくりだす(イノベーション)契機をつくりだします。

 (→イノベーション)

 協力し、協調することは、それらの人々に達成感、安心感をあたえます。

 ですので、異なるもの同士の「対話」や「コミュニケーション」が重要になります。

 対話やコミュニケーションは、組織と個人のゆるやかな関係(エンゲージメント)の向上をひきだす可能性があります。また、組織側から見た場合、その組織に対する持続的な貢献(リテンション)をも寄与するのです。

 (→対話)
 (→コミュニケーション)
 (→エンゲージメント)
 (→リテンション)

 ---

■人材育成部門のあり方について

 次に、このような多様な人々の学びをいかに引き出すか、という視点に立ちます。

 ここで、まずわたしたちが確認しなければならないことは、ネットワークはハイアラーキカルなものによって管理することはできない、ということです。

 協調的なネットワークを支援しようとするものもまた、自らがネットワークを構成するひとりであり、ネットワーキングの渦中にいなければなりません。

 (→ネットワーキング)

 そして、下記のようなことが、激しく問われることになります。

「いったい、誰が、誰と一緒になって、どういう専門性をもちつつ、人々の学びや成長の支援を引き受けることができるのか」

 ということです。

 これは一言でいえば、「学び支援のオーナーシップ」とパートナーシップといえるかもしれません。

 (→オーナーシップ)
 (→パートナーシップ)

 人々が暮らす場所は、また多様です。人々が学び、育つために利用可能な「リソース」は、社内・社外をとわず分散しています。そして、その「リソース」の背後には、それを統御する「ローカルなオーナー」がいます。

 よって、人々の学びを支援しようとする人は、それぞれの「リソース」や、各リソースを管理しているローカルオーナーを協調させる必要がでてきます。

 あるいは、社外に無数に広がるネットワークに社員たちがでていき、専門性を高めることを「促進」する立場にあるということです。

   ・
   ・
   ・

 以上をまとめます。

 組織において、人間は、異なる多様な人々と協調して、仕事をしています。
 そして、そういう人々の学習や成長を見守る人もまた、多くの人々の協調によって、それを達成する必要があるということではないでしょうか。

 ---

 これがASTD2008で発表者が知らず知らずに持っていた「世界観」ではないかと僕は認識しています。
 何を「寝ぼけたこと」を言っているのだとおっしゃっるかたもいらっしゃるかもしれません。ここで描かれている世界は、「現実の組織」には全くあてはまらない絵空事だと。あるいは、何を「アタリマエのこと」を言っている、と言われるかもしれませんね。
 
 もちろん、この報告の最初に述べたように、これは「米国の状況」です。米国「では」そうだからといって、日本にそれを輸入しなければならない必然性はありません。一番怖れるのは、人間観、労働観、世界観といったものが無視され、「タレントマネジメント」といったキーワードだけが輸入され、消費されることです。 

 もし、このブログをお読みの方で、企業人材育成に関係する方がいらっしゃったら、ともかく、上記のASTD2008の世界観をネタ(肴)に、今一度、自分の組織、仕事を振り返る「契機」にしていただければ幸いです。

  ・
  ・
  ・
  ・
 
 最後に、論点がボケますので詳細について述べることを避けますが、下記、2つのことについて指摘します。

 ひとつめ。
 上記に述べたことは、別に「企業内教育」だけの特殊な状況ではありません。程度の差こそはありますが、公教育だって、同じ状況に入っているということです。

「いったい、誰が、誰と一緒になって、どういう専門性をもちつつ、人々の学びや成長の支援を引き受けることができるのか」

 この問いは、すべての教育に携わる人々に問いかけられています。問われていることすら、気づかなかった?? それは、あなたが教育の内部から、教育を見ているからです。

 ふたつめ。
 上記のような状況では、「学ぶ」「育つ」を支える学問は、教育学、経営学、心理学のみならず、社会学、政治学にも広がります。ポストモダンから、さらにその先へ。「学ぶ」や「育つ」を支える学問には地殻変動が生じているのではないでしょうか。

 さて、学問は現場の流れを先導できるでしょうか。それとも、後追いなのでしょうか。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年6月 5日 06:04


数字と物語で評価せよ!:ASTD2008リアルタイム報告

 ブリンカーホフさんのセッション「シニアマネジャーが利用できるかたちで、トレーニングインパクトを評価する」に出ました。

burin.jpg

 結論から言いますと、彼の主張には、とても共感できました。僕が、「企業における教育評価」について、ここ数年で言い続けていたこととまさに符号していて、「おー、こんなところにも同士がいたぜ」と嬉しくなってしまいました。

 ブリンカーホフさんの言いたいことを要約しますと、下記のようになります。

 ---

1.研修の効果は、研修や教材の出来「だけ」に左右されるのではない。

「実施される研修をマネジメントがいかに位置づけて、人を送り出してくれるか」といったような「事前準備」が40%、そして「社員が学んだことをマネジャーが理解し、いかに仕事にむすびつけてあげられるか」といった「適応」の部分が40%、残りの20%が、研修や教材の出来になる。

2.効果測定の際には「研修」だけを評価してはいけない」。
「あなたの組織で、トレーニングがどのように結果にむすびついたのかを評価するべきである」といいます。この二つの差、わかりますか?

 --- 

 そこで提唱されているのは、先日もご紹介した、サクセスケースメソッドという方法です。方法といっても、非常に単純。簡単な量的データをもとに、「あなたの組織で、トレーニングがどのように結果にむすびついたのかを評価するべきである」に関する質的データ(ストーリー)を収集する方法です。

 具体的には下記のようになるでしょうか。

 研修終了後に、簡単な質問紙調査を行い、「うまくビジネスインパクトをだせた群」と「だせなかった群」を同定します。ここで得たデータは定量データとして利用します。

 そして、両群に対して、

 ・研修ではどんなアクションプランをたてたのか?
 ・研修が終わったあとには何をしたのか?
 ・学んだ結果を
 ・いつ
 ・どこで
 ・どんな風に用いて
 ・どんなインパクトを与えたのか
 ・その際、誰(マネジャー)が、どのように、それを助けてくれたのか?

 に関するストーリーを電話などで収集する、ということです。

 そして、そこで収集したデータ(数字)とストーリー(エピソード)をもって、マネジャーやトップマネジメントを説得するべし、と言っているのですね。

 ブリンカーホフさんは、こんな冗談を言っていました。

「クリスピードーナツを研修の合間にだしたり、プレゼンテーションを派手に演出したりするのもいいけど、同じ1$、1時間があったら、現場のマネジャーとコミュニケーションをとり、ネットワーキングをしたほうがいい」

 踊る大捜査線の名台詞でいうならば、

「事件は研修室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」

 ということになりそうですね。

 ---

 企業内教育の効果というのは、アカデミックのそれとは性質が異なります。あるLearning intervention(介入)の効果を、純粋に測定することが目的ではありません。

 それは、第一に「よい教育を持続させるためのデータ」をもって、教育の担い手、つまりは、予算権限者を説得するプロセスにおいて利用される道具だということです。
 また第二に、それは「よい教育」を提供する側が、次に、どのような学習を誘発するべきかを知るためのものです。つまりは、モノゴトを前にすすめるための、「Driver」としての側面をもっています。

 比喩的にいいますと、「企業内教育における評価」は、「学習効果を知る」だけが目的ではありません。「学習効果をもって、未来をつくること」が目的なのです。

 この評価の問題も、企業内教育を担うのは誰なのか、という問題と密接に関連していて、とてもオモシロイですね。

 そして人生は続く。

 ---

追伸.
 下記はブリンカーホフさんのご著書です。僕も早速注文しました。

  

 

投稿者 jun : 2008年6月 5日 05:52


チャンスは?:ASTD2008リアルタイム報告

 昨日聞いたプレゼンでのひとこま。
 下記の写真のスライドを一瞬だけ見せられて、なんて書いてあったかを聴衆にたずねます。

oppo_no.jpg

 あなたは、どう読みますか?

  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

 Opportunity is no where?

 それとも

 Opportunity is now here?

 まさか

 Opportunity I snow here??

 ポジティブシンキングのアメリカ人!?、やはり、2番目で読んだ人がもっとも多かったです。

 今のあなたは、どう思いますか?

 チャンスはどこにもない?
 それとも、チャンスは今ここにある?

投稿者 jun : 2008年6月 4日 02:44


タレントを見抜く?:ASTDリアルタイム報告

 ビバリー=ケイさんのM201「The Development Dialog」というセッションにでました。

kelly.jpg

 このセッションの要旨を一言でいうと、下記になります。

「働く人々は、皆、自分のタレントをもっています。ここでいうタレントとは、天才のことでも、芸能人のことでもありません。人間であるならば、誰もがもつ"能力"や"才能"のことをさします。

人は、自分のタレントが伸びることを、生きる上で、仕事をしていく上で、重視しています。それに希望が見いだせなくなったとき、離脱をしてしまいます。

組織の中で"対話の場"をシステマティックにつくりだすことで、それをケアできる可能性があります。そうした場における人々の対話は、エンゲージメントの向上や、リテンションの確保につながる可能性があります」

 つーか、一言じゃねーじゃん(笑)。

 ビバリーさんが実施した2万人の質問紙調査によると、会社へのステイ要因は、下記のとおりだそうです。

 1. おもしろい仕事
 2. キャリアがのびる
 3. 偉大な人がいる
 4. フェアな報酬
 5. よいボス
 6. ベネフィット
 7. 社会的意味のある仕事
 8. 組織におけるプライド

 その中で最も重要なのが最初の2つ。
 要するに、「仕事が面白くて、かつ、自分のタレントが伸びるなぁ」と思うような職場環境であるとよいということです。そりゃ、そうですね。僕も、そういう仕事場がいいなぁ。

 ちなみに、ビバリーさんの調査によると、下記のような結果がでているようです。

・米国人の52%は「自分の将来の仕事のためのプランをもっている」と回答している

・米国人の50%は「自分のマネジャーは、自分のポジションについて知らない」と回答している

・米国人の77%は「自分は、今、自分の仕事で使っている能力以上の能力をもっている」と回答している

 これは日本の調査と比べてどうなんでしょうね。高いんだか、低いんだかわかりません。

 ---

 で、そういう状況を何とかするには、どうするか、ということですが、これへの回答が「システマティックな組織への介入」ということになるのでしょう。

 システマティックな介入の方法は、下記のプロセスをとります。

1.diagnose(診断)
2.design(設計)
3.deliver(介入)
4.sustain(維持)
5.track(評価)

 要するに、「職場の状況を診断して、どのような人と人を対話させるかのコミュニケーションプランをたてて、それを実施し、それが継続する仕組みをつくりつつ、評価する」ということです。インストラクショナルデザインのADDIEに近いかもしれません。

 個人的に面白かったのは、「sustain」の部分に入っている「CAT & DOG」です。CATと「Career Action Team」、DOGとは「Development Opportunity Groups」です。どちらも、どうも、インフォーマルな集団で、タレントやキャリアの伸張を相談しあうようなもののようですね。それがどの程度一般性をもつ集団なのかはわかりませんけど。

 ---

 今日は図らずも、タレントマネジメント関係のセッションばかりに出席することになってしまいました。あまり意図はしていませんが、何となくです。でも、そこで思ったことが、いくつかあります。

 まずひとつめ。タレントマネジメントという概念は、相当に広いということです。1)キャリア開発、2)ラーニング、3)サクセション、4)評価、など、人材教育に関係するすべての項目を網羅する一大領域として定義されています。

 ふたつめ。今度は現場の話です。タレントマネジメントの話を聞いていると、「上司は部下のタレントを活用すべし」とか「上司は部下のタレントを育成すべし」という「規範」がよく語られるのですが、どうも、これが僕にはピンときません。

 というか、もしタレントといわれるものが、「顕在的」であったなら、つまりは「目に見えるもの」であるならば、よほど「しょーもない上司」ではないかぎり、それを育成する方向でサジェスチョンを与えるのではないでしょうか。

 問題は「上司がタレントに関して意識が低いこと」ではなく、「上司が部下のタレントを見抜くことができないこと」にあるのだと思います。といいましょうか、上司ならずとも、「短期間の間に、人間が、人間のタレントを見抜くのは容易ではない」ということに起因するのではないか、と思います。

 もしかすると、このあたり、ハワード=ガードナーの「文脈の中での評価」という概念がもしかするとリンクするのかなぁ、と思って聞いていました。要するに「人間の能力を顕在化させてしまうような文脈を人工的に設定して、人間の多元的能力を評価する」という考え方です。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年6月 4日 00:00


修士大学院入試説明会:Work together!:中原研究室で学びませんか?

 来る6月21日(土)、東京大学大学院 学際情報学府の入試説明会が、情報学環・福武ホールにて開催されます。

 説明会は12:30~17:30までの予定です。前半は大学院紹介と入試の説明、後半は「学環・学府めぐり」という各研究室のパネル展示が行われます。もちろん、中原も、中原研究室の大学院生と一緒に展示に立ちます(中原のキャラ、性格、ゼミの雰囲気などは大学院生さんに聞いてください・・・)。

東京大学大学院 情報学環・学際情報学府
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/

福武ホール
http://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/

 また、今年の修士課程入試募集要項ができました。下記からダウンロードできます。

平成21年度 修士課程学生募集要項配布中(PDF,245Kb)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/admission/masters/application_2009.pdf

 中原研究室では、今年も、修士大学院生を募集します。ご興味のある方は、下記をお読みになったうえで、ふるってご応募いただけますよう、よろしくお願いいたします。

中原に研究指導を御希望の方へ
http://www.nakahara-lab.net/playlink.html

「学びの世界の探求」に興味をもった学部生の方!
 実務の世界で経験したことを一度整理したい社会人の方!
 本気の本気で学びませんか?

 スリリングで、エキサイティングな2年間を過ごしましょう。
 Work together!

投稿者 jun : 2008年6月 3日 18:28


ブックストアから : ASTD2008リアルタイム報告

 ASTDの年次大会では、ブックストアが毎年開設されます。読んでみたい本を2冊を見つけました。

 まず1冊目。ワークプレースラーニングの専門家のために書かれた実務書です。この分野の関連する知識を手短に解説しています。こういうハンドブックが翻訳されるとよいですね。勉強会など開いても、オモシロイかもしれません。

(※ASTDは、ワークプレイスラーニングの専門家のコンピテンシーモデルをつくっています。こういう仕事が「普及」のためには必要なのですね。なるほど、と思いました)

handbook.jpg

 2冊目。サクセスケースメソッドという「簡便な評価法」について解説した本です。
 まだ詳細に読んだわけではないのですが、ざっと見たところ、サクセスケースメソッドとは、

1.研修受講者に簡単な質問紙調査をする(3問から5問)
2.研修の効果があった人と、効果がなかった人をさがす
3.2で見つけた両者に対して、インタビューを行い、詳細な原因を同定する

 企業教育の現場では、一般に、評価をするからといって、統制群をつくることはできませんし、特別な予算をかけられるわけではありません。そこで「必要」な評価は、アカデミクスのそれとは違います。「必要」なことは、そのプログラムの効果を「語れること」「説得できること」なのです。

 一見したところ、サクセスケースメソッドは、量的データと質的データを組み合わせた方法です。いわゆる「数字で語る」「ストーリーで語る」ということができるのかな、と思いました。

投稿者 jun : 2008年6月 3日 05:33


才能をマネジメントせよ!? : ASTD2008リアルタイム報告

 ASTD2日目。うーん、眠い(笑)。
 毎朝8時に起きて、会議終了後は、情報交換会に参加していますので、寝るのは12時を回る頃です。はっきり言って、体力勝負ですね。

 でも、会場に向かうと、既に、ものすごい人です。あのー、こちらは新宿駅ですか?

yamanotesen.jpg

 体育館5つ分くらいの会場が、もうすでに満員です。

taiikukan.jpg

 ---

 朝8時。
 ASTD会長、トニーさんのお話です。プレゼンテーションは、ものすごい演出です。スターだね、スター。

 お話の内容は、Talent management(人材管理:タレントマネジメント)という考え方が重要である、ということでした。ASTDでは、有識者をあつめて、この概念を精緻化しようとしているみたいです。

 Talent managementとは、一言でいえば、

「採用、育成、配置、昇進、報償などの、すべての人材管理プロセスを首尾一貫して管理せよ、見ていこうよ」

 という考え方だそうですね。

 この背後には、2つの考え方があるように思います。

1.社員は皆、自分の能力をのばしたいと思っているよね、だから、その能力を伸ばせるような環境を提供しようよ
(社員ひとりひとりのタレントをのばそう)

2.会社には「異なった能力をもった人」が必要だよね。だから、多様性をもつ能力を確保しつつ、それを育成していこう。タレントのポートフォリオをつくっていこう。
(会社に多様性のあるタレントを確保し、育成しよう)

 1は個人からの視点、2は組織からの視点ですね。

 これを実現するには、2つのポイントがあるそうです。
 ひとつは、「採用、育成、配置、昇進、報償」という様々なプロセスをいかに「統合」できるか、ということです。ふたつめは、その統合をすすめるために、「いかに学習を利用するか」ということです。

 オモシロイですね。

 この話を聞いて、僕は、先日、ある大規模スーパーの人事部の方から聞いた話を思い出しました。

 その方に、僕が「人事 - 事業部 - 経営者のあいだにディスコミュニケーションがある場合がありますね」という話をしたのですね。そしたら、その方は、深いため息をついて、こうおっしゃいました。

「そのディスコミュニケーションよりも、人事教育部内のディスコミュニケーションの方が深刻ですよ・・・採用、育成、昇進、制度、、、すべて役割ごとに分かれています。書類のやりとりはありますが、それだけです。だいたいグループごとにランチにいきますね。一緒にランチに行ったことがあんまりないですね(笑)

特に採用と育成は仲が悪いことが多いですね。育成の方は、"なんでこんなできない奴をとったんだ!"と採用を責めますし。」

 ある一定以上の規模になれば、役割分担というのは致し方ないことです。しかし、その役割間のディスコミュニケーションがつくりだす世界は、、Talent managementの提唱するイディアルタイプとは、対極の世界なのかもしれません。少し考えさせられました。

 ---

追伸.
 NYマガジンのスタッフライター「マルコム=グラッドウェル」さんの講演では、創造者には2つのタイプがある、という話でした。

1.Experimental innovator
 革命的なアイデアをすぐに見いだせるわけではないが、長い時間をかけた試行錯誤によって、成功をおさめるタイプ。画家でいえば、セザンヌ。バンドでいえば、フリートウッドマック。

2.Conceptual innovator
 頭角をすぐにあらわし、革命的なアイデアを表現し、世界を変えるタイプ。画家でいえばピカソ。バンドでいえばイーグルス。

 結局、オチは「どちらかひとつが重要なのではない」ということと、「才能の開花には時間がかかることもあるので、小さなタネをまきつつ、育成しつつ、待たなければならない」ということでしょうか。

 それにしても、フリートウッドマックの話が、個人的には印象的でした。このバンド、16人ものメンバーの入れ替わりがあり、演奏する音楽のタイプも、演出も、すべて変わり続けたバンドだったのですね。

 僕がはじめてフリートウッドマックを聴いたのは、小学生の頃でした。当時、「タンゴ・イン・ザ・ナイト」というアルバムが流行していました。「Big Love」「Seven Wonders」「Everywhere」「Caroline」「Little Lies」などが流行していましたけれど。 僕の中では、その頃聴いた「フリートウッドマック」が、「フリートウッドマック」だったのですけれど、違ったのですね。それは「変化」の中にあった。それにしても、「タンゴ・イン・ザ・ナイト」とは、懐かしいですね。最高傑作と言われる「RUMOR」もあわせて、アマゾンで注文してしまいました。

    

投稿者 jun : 2008年6月 3日 01:01


パフォーマンスコンサルティング!?:ASTD2008リアルタイム報告

 ダナ=ロビンソンさんの「パフォーマンスコンサルティング」のセッションに出ました。

「パフォーマンスコンサルティング」とは「あるビジネスゴールをめざして、職場のパフォーマンスを向上させるためのプロセス」のことだそうです。
 具体的にいうと、クライアントに達成したいビジネスゴールをヒアリングして、それを達成するために、ビジネスゴールを分解する。それに影響を与える変数には、各事業部の仕事環境、そこで働く個人の能力などがある。そういう、ありとあらゆる要素をコントロールしようぜ。パフォーマンスコンサルティングとは、どうも、そういう考えかたのようです。

 ちなみに、よく似た概念に、インストラクショナルデザイン(ID)があります。IDは、最適化の対象が「教授」ですね。通常は、あるトレーニングプログラムの中の学習要素を構造化し、いかに効率的に伝達できるかを追求します。

 それに対して、パフォーマンスコンサルティングが最適化するのは「ビジネスパフォーマンス(業績)」です。つまり、最適化する対象がさらに広がっている。
 より具体的にいうと、下記のような連立方程式でしょうか。

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会社の業績=職場(1)のパフォーマンス+職場(2)のパフォーマンス+・・・・・+職場(n)のパフォーマンス

職場(1)のパフォーマンス=職場(1)の仕事環境×職場(1)のメンバーの個人の能力

職場(2)のパフォーマンス=職場(2)の仕事環境×職場(2)のメンバーの個人の能力
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職場(n)のパフォーマンス=職場(n)の仕事環境×職場(n)のメンバーの個人の能力

※ここでは事業部≒職場と考えるとわかりすいかと思います。

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 パフォーマンスコンサルティングは、このモデルの変数をそれぞれ極大化することで、会社の業績を増やそうというわけですね。

 なるほど。そりゃ、そうだよね。教育や学習だけ最適化したって、業績につながんなかったら意味ないしね・・・そりゃそうだ。デカルトの格言「困難は分割せよ」ではないですけれど、「会社の業績」という大きな課題をブレークダウンして、いろいろな要素に還元する。で、それらに「介入」し、エンパワーすることは重要だ。なるほどね・・・ダナはん、あんた、いいこというじゃない・・・。
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 でもさぁ・・・これ、さらっと書きましたけど、これがいかに難しいことか、おわかりでしょうか。こんな方程式、とけるのかよ。
 この発表を聞いていて、僕が思ったのは、「方向性や気持ちとしては理解できるけど・・・いったいどうやってやればいいんだろう」という複雑な思いでした。正直いうと「今も腑に落ちていません」。パフォーマンスコンサルティングという手法がわからないのではなく、それが機能する場面がイメージできないのです。

 いろいろ細かいことを言えばキリがないのですけれど、僕の抱いた大きな問題は3つです。

 まず1つめ。これがうまくいくためには、それぞれの要素に関係する人々 - マルチステークホルダーをいかに説得させ、ネットワーク化するか、ということがポイントになります。

 職場(n)の仕事環境や、職場(n)のメンバーの能力向上は、それぞれ違った場所で、違った人が、それに関係している。
 パフォーマンスコンサルティングで想定しているものが機能するためには、それぞれの職場にいるステークホルダに対して介入を行い、時には連携させたり、説き伏せたり、調整することが必要になります。これが激しく困難をともなうことが予想されますね。「内部ネットワークをいかにつくるか」、これが課題です。

 で、2つめ。今度は、「内部ネットワーク」だけではなく、外部ネットワークです。(1)を行うためには、1)どのような専門性・知見をもった人々を、2)どのようにネットワークし、2)パフォーマンスコンサルタントとしての自分はどのような立場で、3)どのくらいの期間、4)どのような介入や調整を行えばよいのでしょうか。これがわかりませんでした。

「仕事環境」の要素に掲げられているのは、職場の物理的なデザインを含みますし、組織風土や組織文化を含むものですので、それぞれに「専門家」が必要でしょう。まさか、パフォーマンスコンサルタントがひとりで、ひとつの専門性をもって取り組める課題ではない。

 となると、結局は、パフォーマンスコンサルティングを提供する側も、異なる専門家から構成されるネットワークを組む必要があります。つまり、「外部ネットワーク」を築く必要がある。サラリといいますが、そういう全く異なる専門性をもつ人々を統御できる人=パフォーマンスコンサルタントって、どういう資質が必要なのでしょうか。
 理論的には、パフォーマンスコンサルタントは、1)でいうところの内部ネットワークと、外部ネットワークを接続する人になるはずです。この難しい課題を解決できるのは、どんな人なんでしょうか。それがわかりませんでした。

 3つめ。こちらはプラクティカルな問いです。おそらくはパフォーマンスコンサルティングを発注する側の組織の人間に、このモデルを理解させるのは、かなりの困難でしょう。それまで研修の発注をやってきた人に、この考え方は、かなり難しい。それをどのように行えばいいのでしょうか。

 以上、僕が思ったのは3つです。まぁ、上記はあくまでダナさんの話を聞いて思ったことですけど。ちょろっと図を書きながら考えてみたけどわからんなぁ。いずれにしても、「ネットワーク」がキーワードのようですね。これは、少し時間をかけて考えてみたいですね。

 そして人生は続く。

※ちなみに、ここまで広くなってしまうと、「パフォーマンスコンサルティング」ってわざわざ言わなくても、それって「コンサルティング」なんじゃないの?という疑問がフツフツとわいてきます。だって、「パフォーマンスを追求しないコンサルティング」なんてものは存在しないわけですので、それなら「コンサルティングとは、そもそもパフォーマンスコンサルティングである」ということになる。でも、まぁ、そういう屁理屈はまた別の機会に。

投稿者 jun : 2008年6月 2日 08:57


「個人と組織の関係」、そして「学習」:ASTD2008リアルタイム報告

 キャタピラ社の人材育成担当者による、「エンゲージメントに関する発表」を聞きました。

 エンゲージメントとは様々な定義がありますが、一言でいえば、「組織と個人の相互貢献的な関係性」のことをさします。

 似たような言葉に「ロイヤリティ」とか「コミットメント」があります。「ロイヤリティ」といえば、個人が組織に対して滅私奉公するイメージですよね。「コミットメント」といえば、個人が組織に対して貢献するイメージです。どちらも、一方向ですね。

 これに対して、エンゲージメントとは、「組織が個人の成長に、どの程度貢献・関与しているか」「個人は組織の業務達成のために、どの程度貢献・関与しようとしているか」ということが問われることになるそうです。

 話を戻して、キャタピラ社は建設機器の製造メーカーで、Fortune100企業ですね。同社では、1998年に「学習する組織になること」を経営戦略のひとつにかかげ、環境の整備を行ってきました。
 2001年には、1)ラーニング、2)組織文化マネジメント、3)リーダーシップ、4)知識共有などを統合して取り扱う企業内大学「CAT University」を整備しました。

 そういえば、キャタピラといえば、Community of Practice(実践共同体)の活動を積極的に推進している企業としても有名ですね。

 社内の情報技術部門で

「なんか、同じ問題に悩んでねー、おれたち。ノウハウはみんなで共有しようぜ」

 という感じではじまったCoPの試みが、爆発的に普及し、その後、社外の取引先まで巻き込んだコミュニティ活動に発展しているという話だったと記憶しています。

 ところで、エンゲージメントサーベイですが、今、アメリカの72%の企業は毎年これを実施しているそうです。ただ、これは「去年もやったら、今年もやろかーという状況でやられている状況」がほとんどで、せっかく活用されたデータが「やられっぱなしの状況」で放置されているのですね。で、キャタピラ社の担当者は、それを分析してみた。

 そうすると、質問紙結果の分析から、「自己のプロフェッショナル度向上のため、時間とお金をかけている」という項目と、「組織へのエンゲージメント」を問う項目のあいだには、強い相関関係が見いだされたそうです。「それがなぜか?」については、言及はなかったことが残念でしたけれど。

 でも、想像力をたくましくすると、この結果からは、いろんな「雑念」がひろがります。

 自己のプロフェッショナル度をあげている人は、通常、転職などに準備している人と考えられ、あわよくば"あいつ、組織をでていくんじゃねーの"と思われがちですが、なぜか、組織との相互公権的な関係性は良好なのですね。
 
 もしかしたら、自分のプロフェッショナル度を向上させている人は、今いる組織との関係性も良好なものを築けるし、また「別に、今、自分のつとめている組織に不満はないけど、もしかしたら数年以内にいい機会があったら職かわるかもねー、なんて漠然と思っているんだよねー」というなのかもしれません。想像力を、めちゃくちゃたくましくすると。

 いずれにしても、このデータだけからは、何とも解釈できませんけれど。「組織と個人との関係」、そして「学習」。このあたりも、わからないことだらけですね。

投稿者 jun : 2008年6月 2日 08:20


世界中から来た人材育成担当者:ASTD2008リアルタイム報告

 ASTD1日目。朝っぱらから、レジストレーションデスクは満員である。

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 9時30分からはじまった「International orientation」に参加する。つーか、今、終わったばかり。ASTDに参加するのは3度目になるけれど、このオリエンテーションにでるのは、初めてである。

 ASTDは、70ヵ国から、約1万人が参加する。このオリエンテーションでは、「ASTDの説明」「ASTDでの学び方」「ネットワーキングのやり方」を行う。

 ASTDには下記の9つのトラックが存在する。

  1.キャリア開発、タレント開発
  2.ラーニングをデザインする、届ける
  3.eラーニング
  4.組織変革を支援する
  5.リーダーシップとマネジメント開発
  6.ビジネス戦略としての学習
  7.測定、評価、ROI
  8.パフォーマンスの向上
  9.個人、専門性の開発

 面白かったのは、「ネットワーキング」。上記9つのどのセッションに興味をもっているか、でグループをわけて、名刺交換会を行う。

networking.jpg

 ペルーからきた銀行のHR担当者
 ソウルLGのリーダーシッププログラム開発者
 中国から来た製造メーカーのHR担当者
 ソウルのヒュンダイグループ関連のHR担当者

 世界にはいろんな人がいるね、おもしろいね。
 興味のある領域ごとに集まったりしたあとは、「名刺をタイミングするのは、逢ったときか、それとも数十分話したあとか」「どのくらいのパーソナルスペースが快いか」などの文化的質問を投げかけて、また、ネットワーキング。単に名刺交換するだけではないので、結構盛り上がります。

 ちなみに、このネットワーキングのやり方は、アカデミクスの国際会議などでマネできる気がした。とかく、同じ国から来た人と話さない傾向がありますしね。

 そして人生は続く。 

投稿者 jun : 2008年6月 2日 02:28


「では」と「でも」の話:ASTD2008前夜!

 米国カリフォルニア州、サンディエゴに無事つきました。明日からASTD(America Socity of Training and Development:世界最大の人材開発国際会議)に参加します。

ASTD2008
http://www.astd2008.org/

 ASTDの年次大会は、だいたいこの季節に、米国で開催されます。世界各国から、企業人材育成担当者、組織開発担当者、教育研究機関、など、1万人弱が集まります。今、サンディエゴの街は、「石を投げれば!?育成担当者に当たる」状況ですね。

 ちなみに、このカンファレンスでディスカッションされる内容は、非常に多岐にわたります。eラーニングから、組織変革まで、本当に様ざま。

 アカデミックな話はあまり多くはありません。むしろ、「プラクティカルに現場をどのように動かすのか」という話が多いです。そして、話がプラクティカルであるがゆえに、「人材育成の考え方」が、今、どのように「変わりつつあるのか」を感じることができます。そこが、この会議のいいところでもあり、慎重になるべきところでもあります。

 ところで、海外に出かけた人が、日本にいる人々に対して報告をする際に用いる論法は、いつの時代も共通しています。「米国では」「フィンランドでは」。「では」「では」「では」。「では」のオンパレードです。

 で、無批判に「では」を繰り返す人のことを「では族」といいます。概して、「では族」の語りは、熱いです。なにせ、自分の目で見ているから、聞いているから。個人が経験したことは否定できません。そして「では」は、多くの場合、「でも」に根拠なく接続してしまうことが多いです。

 米国「では」、~が流行っているから、日本「でも」そうするべきだ
 フィンランド「では」~であるから、日本「でも」そうするべきだ

 でも、よーくよく冷静になって考えてみると、このセンテンスの前半と後半は、つながっていないことがわかります。
 米国「では」~だからといって、日本「でも」全く同じことをしなければならない「所以」は、実は、全くありません。米国は米国。日本は日本です。「では」を「でも」に順接させるためには、本来「根拠」が必要なのですが、そこが省略されていることがわかります。

 また同じように、フィンランド「では」流行っているからといって、日本「でも」そのまま何かをしなくてはならないというわけではありません。日本は日本。フィンランドは、フィンランドです。それなのに、フィンランドでは○○メソッドだから、日本でも○○メソッドでGO!という風になります。
 
 いずれにしても、「米国で流行っているけど、日本では状況が違うこともある」し、「米国で流行っていることで、日本が取り入れた方がいいこと」もあるというわけです。

 また、これは話がすこし横道にそれますが、「米国で流行っている」といっても、そこで見た「米国」が、ほんの「米国の一部の特定の場所」だけということもありえます。

 「視察」とは中立で公正に、訪れる先の「現実」を見る活動ではありません。基本的に、見る側は、「よいところ」を見に行きたいと願いますし、見せる側も、よいものを見てもらいたい、と願います。既に、視察で見るものには、「既にバイアスがかかっている」ということに気をつけなければなりません。

 ともかく・・・
 「では」の論法には、本来、ケースバイケースの慎重な判断が必要です。曇りのない目で「事実」を見極め、それを「評価」し、理由づけることが、大変重要です。「では」を語る側にも慎重さが必要です。そして、「では」を聞く側にも、リテラシが求められます。

 ・・・とまぁ、偉そうなことを言ってしまいましたが、できたらいいね、それが、このブログで(笑)。

 ともかく、なるべく、そのようなことを念頭におきつつ、これから数日の間、ASTDの様子をお伝えいたします。時差ボケで、時々、何言っているかわかんないかもしんないけど、どうぞお楽しみください。お読みいただく方は、どうぞ、上記にお気をつけて。

投稿者 jun : 2008年6月 1日 13:57