「教える経験の少ない人」が、他人に何かを教えるときに、ついつい、陥ってしまう3つの罠:「詰め込み」「バラバラ」「一方向」

「教えること」にあまり経験のない人が、他人に何かを教えなければならないときに、最も陥りやすい罠は、「詰め込み」「バラバラ」「一方向」の3つです。

 仕事柄、僕は、企業の研修・ワークショップを人よりも多く参与観察しておりますし、また、大学院生に教えることを教えるプログラム「東京大学フューチャーファカルティプログラム」にかかわってもいます。

 これまでたくさんの授業事例(症状!?)を見てきましたが、「教えることのノービス」がついつい陥りやすい症状としては、この3つといっても、過言ではありません。
 現在3月年度末、数日たてば、新年度。日本各所では、新人研修・新学期の授業がはじまるということもあり、今日は、自戒をこめて、このお話をしたいと思います。

  ▼

 陥りやすい罠のひとつめ、「詰め込み」とは、そのものズバリです。やたらと学習内容が多すぎる。
 たとえば、1時間しか時間がないのに、パワーポイントが100枚ある! 1分に1枚めくったとしても、時間が足りない。だから、パワポをめくりまくる。

 これでもか、これでもか。
 ひー、まだめくり終わらん。
 おぬしできるな。

 ほとんど、状況は「ひとり相撲」です。もちろん、そんな枚数では、もちろん、学習者は、板書をノートに書き写すこともできません。ひーこらパワポをめくるまくる教授者の前には、「お地蔵さん」か、ないしは「ハニワ」のように固まっている学習者がいるだけです。

「バラバラ」も、そのまんまですね。学習内容が多すぎる上に、扱われている学習内容の相互の関係があまり見えない。話す内容、伝える内容の構造が示されておらず、ただ散漫に情報提供を行っているように見える。

 なんで、ここで、この話がでてくるんだろう?
 この話、さっきの話と、どんな関係あるんだろう?

 このような結果、最後の罠「一方向」が、必然的に生まれますね。だって、時間がないわけですから、とにかくしゃべくり倒すしかないんです。

 おのれ、こしゃくな、耳の穴かっぽじってよく聞けい

 かくして、授業は、「ひー、お代官さま、カンニンしておくれやす的な展開」に(!?)、もれなく陥ります。

 つまり、この3つは独立なようでいて、実は、相互に密接に関連しています。

 最大の問題は、

「限られた時間の中で、私は、あなたに、"何"を、最も伝えなければならないのか?」

 この問いに対する答えが、見出し切れていないということです。
 究極「何」はひとつに敢えてしぼってもよいのかもしれません。どんなに絞ったとしても、どうせ、膨らむことの方が多いですので(笑)、いったんは絞りにしぼった方がいい。

 いずれにしても「この時間にめざすもの」「この時間の目的」「伝える内容のフォーカス」が決め切れていない場合には「多大な情報」を扱わざるを得なくなる傾向があり、ゆえに学習内容が膨大になり、ひたすらしゃべくり倒すことになる可能性が高まる、ということですね。自戒をこめて注意したいものです。

 あべし。

  ▼

 しかし、このような状況は、頭ではわかっていても、ついつい、生まれてしまうものです。

 ひと言でいうと

 わかっちゃいるけど、やめられない(笑)

 目的はフォーカスしているつもりであっても、いつのまにか、善意で、ついつい、あれよあれよ、という間にこうなってしまう。

 ですので、今日は最後に、僕の経験上、教材やパワーポイントをつくっているときに、頭に浮かんだら注意が必要な3つのワードをあげておきましょう。

 この3つの言葉が、脳裏に去来したならば、パワーポイントをつくる手をいったん休めて、もう一度、「目的」に立ち返った方がよいように思います。

 ひとつめの言葉は「もったいない」

mottainai2.png

(ドヘタすぎて、自分でも卒倒しそうになりましたが、僕の記憶の中にある「もったいないおばけ」は、こんな感じ。嗚呼、小生、図工2)

 学習内容を「盛ること」は、多くの場合、「よかれ」と思ってやってしまうものなのです。「限られた時間」であり「コストが多大にかかっている時間」だからこそ、有効に活かしたくなる。あれも、これも、それも、どれも、扱いたくなる。
 特に「軸」が決め切れていない場合には、そのリスクが高まります。ついつい、よかれと思って、「盛ってしまう」のです。

 しかし、

「もったいない」と思って、「盛り込んだ内容」は、もれなく「伝わりません」

 悲しいかな、そういうものです。

   ▼

 ふたつめ「あとですね・・・」
 この言葉は、自分が「これまで話してきた内容」に「追加」して、何かを話すときに使われます。ただし、「前後の関連性」は薄く、「ちょっと追加してみようかな的」な「プチつながり」のときに、この言葉が脳裏に浮かぶものです。

 あとですね・・・・これについてもお話しちゃおうかな
 ・・・ということなんですよ

 あとですね・・・・あれについてもお話しようかな
 で・・・ということなんですよ
 
 最後にですね・・・せっかくなんで、これもお話しようかな
 ・・・ということなんですよ

「あとですね病」は、このように無限ループに陥りやすいから、注意が必要です。

「あとですね・・・」のあとに追加した情報は、もれなく、伝わりません。

   ▼

 最後は「話は元に戻りますが・・・」
 この言葉は、その日の話題が「複線化」していることの証左です。
 ここまでは、あるライン(話題)で話してきたのだけれども、ちょいと、それとは「並列」ないしは「脱線」するラインのお話をして、また元のラインに戻ろうとする。そういう、プチ脱線、プチ浮気的なマインドのときに、この言葉が脳裏に浮かぶはずです。

 しかし、教授者は、それを「話題は複線化」していることには自覚的であっても、それが学習者に伝わっているかは、微妙であることの方が多いように思います。学習者の側からみると「話題の複線化」というものは、なかなか認識が困難なのです。

 ここでも、マーフィーの法則的?に、ひと言で申しますと、

「話を元に戻そう」と思った場合は、もれなく「戻らない」

 多くの場合、学習者は、本筋のラインが何かを見失うこともあるから、注意が必要です。

  ▼
 
 今日の話は、やや「自爆テロ」的な内容でした(泣)。かくいう僕自身も「人に教える立場」ですので、こうした状況に陥ることがゼロではありません(ごめんなさい)。他人に物事を教えようと思うときに、陥りやすい罠と、そういう罠に陥ってしまうときの思考パターンについて、自戒をこめて、お話しました。

 3月も、残すところあと数日。新年度がついにはじまります。企業では、新人研修の準備、大学では新学期の準備に奔走しておられる方が多いのではないでしょうか。お疲れさまです。

 そんなとき、「もったいない」「あとですね・・・」「話を元に戻しますと」が脳裏に浮かんだら、要注意かもしれませんよ。

 「伝えること」とは、「伝えないこと」を決めること
 「伝えること」とは、余計なものを「捨てること」

 そして人生は続く

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追伸.
 近い将来教壇にたつことを願う東京大学の大学院生に「教えることを教える」プログラム、「東京大学フューチャーファカルティプログラム」は、4月11日のプレワークショップの募集がすでにはじまっています。
 2013年度は100名募集ですが、すでにプレワークショップのお申し込みは90名弱になっております。ご希望の方は、ぜひお早めにお申し込み下さい。

東京大学フューチャーファカルティプログラム
http://www.todaifd.com/ffp/

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追伸2.
 慶應丸の内シティキャンパスで中原が主担当している、人材開発担当者向けの授業「ラーニングイノベーション論」(定員25名)ですが、現在、20名弱のお申し込みがございます。もしご希望の方は、お早めにお申し込み頂けますと幸いです。

ラーニングイノベーション論
http://www.keiomcc.com/program/lin/

投稿者 jun : 2013年3月29日 04:42


「学び」を促すかもしれない!?「プチ掘り出し物」探しの旅 : ラーニングウロウロのすすめ

「学びや対話を促しそうなツール」、といいましょうか、そんな「大げさ」なことではなくても、人の「!」を促すことに利用できそうな「ブツ」「プチ掘り出し物」を、探しにいくのが、僕は、わりと好きです。美術館のショップコーナー、雑貨屋さん、100均ショップ・・・こういうところを意味なくウロウロしている、怪しいおっさんをみたら、それは小生です(笑)。
 道具によって、人間の学習や認知なんて、いくらでも変わるものです。かっこつけていうならば、そういう「認知的アーティファクト(人工物)」を「掘り出し」にいくのが、好きということです。

「これ、なんか、使えるんちゃうかな」

 街を歩いているときには、こういうことばかり考えているので、いつも車にひかれそうになっています(泣)。
 ちゃんと、前向いて、歩けよ。

  ▼

 先日、見つけたのは、「人型付箋紙」と「吹き出し型付箋紙」です。これに、小生、ビビビときました。表参道のMoMaストアであったと記憶しています。

fukidashi01.png

 こちらの付箋紙、たとえば、ストーリーを紡いだりするときとか、いろいろ、込み入ったステークホルダーの議論を整理するときなどに、使えそうな気がしませんか。
 たとえば、研修とかワークショップで、いまや定番となった付箋紙。こちらの場面でも、いろいろ使えそうな気がします。

 こういうこというと、

「いつもの四角型の付箋紙でいいじゃん、同じじゃん」

 とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんね。

 たぶん、いいでしょうね。
 たぶん、同じでしょうね。
 論理的にいうと、おっしゃるとおりだと思います。

 でも、人間にはもっとも厄介な「感情」というものがついてまわります。
 いつもの付箋紙に、ワクワクする人はいないでしょう。
 四角の付箋紙を見て「萌えたー」とおっしゃる人は、たぶんおりませんし、「おっ、いつもと違うね」と思う人はいないと思われます。

 そういうちょっとした「プチ新しさ」が、実は、思考や場を変えたりすることも、また事実であったりします。

 以前にも申し上げたかもしれませんが、「付箋紙とマジックとポスターをみると、げんなりする人」も少なくありません。もしかすると、そういう方にも、プチ刺激を与えることができるかもしれません。


「ワークショップ疲れ」という現象の背後にあるもの

http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1948.html

 うーん、理論的にはどうにも説明できませんが、現場的にはそういうことです。

 ▼

 面白いと思ったら、早速、「実験」です。
 いつもの「実験台」さんは、こちらです(笑)。
 いわゆるひとつのTAKUZOです。

fukidashi02.png

 TAKUZOさんは、最近、お年頃なので、小生意気なことを言うこともありますが、なかなか「素直な方」なのでございます。
 面白いものは面白い。
 面白くないものは、見向きもしない。
 モニタリング調査のために生まれてきたような男です。

「また、おやじ、変なもの持ってきたぞ・・・どれどれ、遊んでやるか」

 と心の中でつぶやきつつ、遊び始めました。
 見事はまったらしく、ストーリー作りに興じています。保育園になかなかいかなくて困った。

 どうやら・・・・今回は第一関門は「まる」のようですね。TAKUZOがハマったからといって、大人に利用できるかどうかはわかりませんが(笑)

fukidashi03.png

 とりあえず、めでたし、めでたし。

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 今日は、付箋の話をしました。
 でも、今日の話は「ブリリアントな思考のためには付箋紙を変えろ!」とかいう風に、決して読まれないでいただければと思います(笑)。言いたいことは、そういうことではありません。人型だろうが、吹き出し型だろうが、何でもいいのです。
 付箋紙をすべて新調したからといって、何か素敵なことが突然起こるわけではありません。それに僕は、文房具メーカーの「まわしもの」ではありません。

 言いたいことはそういうことではなく、「なんか、これ、使えるかも?」という視点で、街を回ると、意外に使えそうなものはゴロゴロしているし、もしビビビときたら、すぐに実験してみると、面白いかもしれません。
 忙しくなると、ついつい、失われがちなのは「ふらり、ぶらつく時間」と、「何でも試してみよう」という「実験マインド」です。「ぶらつく時間」と「実験マインド」が「新たな学びの場」の創造につながる可能性も、1%くらいはあるかもしれませんね(笑)。

 たかが道具ですが、されど道具です。

 思考や認知を媒介する役割をもつものとして「道具」や「人工物」が、学習論の中で語られるようになったのは、わずか30年くらいのことだとは思います。
 もしかすると、アンテナを高くして「されど道具」を見つけにいくと、なかなか面白いものが見つかるかもしれませんよ。
「学びを促すかもしれない?掘り出し物探し」、いわゆる「ラーニンウロウロ」をぜひ、皆さんもおたのしみいただければと思います。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月28日 06:54


記録することとは、丁寧に見つめること、こなさないこと

「暇人」というわけでは全く「ない」のですが、最近、「自分の日常を記録することの意味」を考えます。

 今年になって、このブログを、ほぼ毎日書くことを心がけていたりするのも、このようなことを考えるきっかけのひとつでしょう。毎日起こっている出来事や研究の進展をネタにしながら、ブログを毎日書き続けるのは、正直、ハード(Hard)です。

「くだらないことを毎日書くんじゃない」
「きちんと煮詰まってから言葉にしなさい」

 というお叱りや失笑も多々受けていそうな気がしますが、一方で、

「いつも、そんなことを考えているんですね!」
「今日のブログは、あるある、と思いました」

 なんていうお声を、ごく希に頂戴するのも、また嬉しいものです。もう少し、この「実験的実践」を続けていきたいと考えています。今年は「第二の創業期」です。

 ブログの他には、この数ヶ月、ビデオ編集にも凝っています。このことも「自分の生活を記録することの意味を考える」きっかけになっていることかもしれません。

 先週の日曜日は、TAKUZOと僕の二人で過ごしたのですが、二人で散歩して出かけた様子を下記のようなショートビデオにまとめたりしました(たいしたものではありません・・・単につなげただけ、笑)。

  ▼

「自分の日常を、様々なモダリティ・メディアを使って記録すること」を敢えて「習慣」のように続けていますと、面白いもので、自分に「変化」が生まれてくることに気づかされます。「頭で知る」というよりも、「じわじわと体感すること」に近いことかもしれません。

 いくつかある変化のうち、最大のものは、「今、この一瞬を、丁寧に見つめるようになる」ということです。「丁寧に」というのがポイントです。

「この一瞬は面白いな、言葉にするとしたら、なんと表現しようか・・・」
「今の光景は、見落としていたな。でも、良い絵になるだろうな・・・」
「あれは、ずっとこれまで見落としてきたな。なぜ、こんな綺麗なもの、面白いものに、これまで気づかなかったんだろう・・・」

 自分自身が「生活の実践者」でありながら、「観察者」であり、かつ、「ディレクター」であるような感覚というのでしょうか。自分の生活のごくごく身近なものの中に「表現」を探してしまう感覚とい言ってもよいかもしれません。もちろん、たいした表現のクオリティではありません。あくまでドシロウトレベルです。

 でも、レベルはそれほど高くはなくとも、そういう習慣を続けておりますと、少なくとも「自分の生活をメタ的に、丁寧に眺める視点」というものが生まれるような気がします。あるいは「自分の生活を、こなさなくなる」「自分の生活を、流さなくなる」といってもいいかもしれません。
 ちょっと、なかなか、うまい言葉がなかなか見つかりませんが、そんな感覚を憶えつつ、日々雑事の中で過ごしています。

 もちろん、このことは、もしかすると言い古されたことなのかもしれません。
「アカデミックな世界」や「理論の言説空間」に通じている方は、「そんなこと、ドキュメンテーション(記録)研究で、さんざんこれまでに指摘されてきたことじゃないか」と思われるむきもあるでしょう。
 もちろん、そのことは僕も「頭」ではわかっていました。でも、それを「自分の身体」「自分の生活」で体感いたしますと、「頭」とは違った「認識」が生まれているのも事実なのです。

 その「認識」が、何かをしっかり言葉にすることが、僕の課題なのかもしれません。自分自身と自分の生活を「実験台」にしながら。
 この領域においては「ドキュメンテーションを理論的に饒舌に語ること」よりは「ドキュメンテーションを自ら実践しながら、その意味を体感しつつ、言葉にしたいな」と思います。

  ▼

 いずれにしても、「暇人」というわけでは「全く」ないのですが(大学の仕事もハードなんです・・・)、「自分の日常を記録することの意味」がもう少し言葉になるまで、この「実験」を続けていきたいな、と考えています。一方で「新しいこと」を考え、実践しながら。

 今、また「新しいワークショップ」を実践しようと、何人かの方々と話をしています。それらの方々にも「メディア」をもって、今、その活用の可能性をさぐりながら、生活をなさっていると思います。

 その上で、「表現メディア」を、ワークショップ参加者人数分、用意しています。
 これを一般の方々にお渡し(貸与)し、自分の身近な物事を作品にしたとしたら、どんなことが生まれるだろうか。
 これからはじまるであろう「新たな実験的ワークショップ」が楽しみです。

 記録することは、丁寧に見つめること
 そして、生活を、こなさないこと

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年3月27日 07:11


大人に必要な「ひとりの時間」:"はらっぱ"化する日常と、失われゆく"すみっこ"

 最近、僕がかかわる研修・ワークショップの中で、わりと好んでよくやる活動になったのが、「沈黙の時間」、すなわち「セルフリフレクション(Self reflection)」です。
「参加者一人一人が、独りになって、じっくりと考える時間」を以前よりも、かなり多くとるようになりました。

 やれ、グループワークやら、やれ、ディスカッションやら、やれインプロやら、やれ、アートワークやら、研修は、よくしゃべり、動くことが多いと思います。それ自体がいいとか、悪いとかいうつもりは毛頭ありませんし、多種多様な活動を通じて、自分の考えを「外化」することは、大切なことであると思います。

 しかし、一方で、だからこそ、その日の最後には、「独り」で自分と向き合い、経験したことや考えたことを「整理」したり「統合」する時間をとるようになっています。
 以前は、わりとそのことを意識していなかったのですが、最近は、よく意識するようになりました。

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 ワークショップの中の「孤独な時間」
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 印象的だったのは、2月に行った学会のワークショップに参加なさった方からのひと言です。そのときも、僕は、「セルフリフレクション(Self reflection)」の時間を比較的ゆっくりとったのですが、

「あの時間は本当に助かった・・・あの時間に、(考えを)整理できなかったら、わたしは、大量の情報で、ショートしていた」

 という趣旨の言葉をいただきました。非常に興味深いことです。ご参加いただきありがとうございます。

 先日は、学会のワークショップで、しかも新規な内容に出会うことが多いものでしたので、こういう思いをお持ちになるのも、なおさらなのだと思います。あんだけ、コミュニケーションと活動に巻き込まれていけばね・・・あたりまえですよね(笑)。
 経験的に、30分から45分、贅沢にできる場合は1時間程度、そのような時間をとることにしています。「場所は、自分の好きなところで、御願いします」と「場所」をかえることも、よくあります。

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 面白いもので、そういう時間をとることは、意外に、主催者側やファシリテータ側からみると、少し「恐怖」を感じる瞬間でもあるようです。
 この話をした、何人かの実務家の方々は、「沈黙ですか・・・怖いですね」とおっしゃっていたのが印象的でした。

 そのおっしゃりたい趣旨はよくわかります。

「セルフリフレクションといいつつ、ハナク●ほじりながら、(参加者は)寝ちゃうんじゃないだろうか」

「セルフリクションといいつつ、みんなが黙ってしまうことになるので、雰囲気が悪くなっちゃうんじゃないだろうか?

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  ・

 など、種々の「懸念」がわいてこられるようです。よくわかります。

 前者に関しては、まー、しかし、そのようなことは、経験上、あまりないな、というのが僕の印象です。また、万が一、そうなったとしたら、そうなったで、腹をくくってもいいのかもしれません。
 一日人と話したり、活動をした後なのですから、そういうことも、ままあるだろうな、と思うのです。
 ま、もちろん、ひとっ風呂あびられて、本格的に布団をしいて、いびきかかれると困っちゃうんですけれども(笑)。
 ま、そりゃ、ないね(笑)、みんな大人だもん(笑)。

 後者「みんなが黙って雰囲気悪くなるんじゃないか」の方は、

 「沈黙=場の雰囲気が悪い=悪」
 「人がしゃべっている=場の雰囲気がよい=善」

 という二交対立図式が、そうした認識の背景におありになるのかな、と思います。よくわかりますし、共感できます。
 しかし、かえって、一方で、この「二交対立の図式」やそれにまつわる「規範」は正しいのかどうなのかを、自問してみる必要性があるかもしれません。
 まー、皆が、朝っぱらから、黙りこくって、無音が続くような場なら困るのですけれども、いっとき、沈黙が支配したからといって、それほど、クリティカルなものではないのかもしれません。「意味の創造」「意味の統合」のためには、独りになることも、また必要なことかもしれませんが、いかがでしょうか。

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 研修やワークショップとは、少しお話がズレますけれど、この問題、こうも考えられる気がします。
 そういう場のみならず、現代という時代を生きるわたしたちの生活自身が、常に「他人とのコミュニケーション」に支配され、常に「他人によって見える化」され、「他人とのリアルタイムな活動」に終われています。

 こんな時代に生きている私たちだからこそ、本当は、そういう日常こそを「異化する時間」、敢えて「独りになれる時間」こそが、もっとも「贅沢な時間」なのかもしれないな、と思ったりします。

 そういえば、今から15年近く前ですが、ある実務家の先生が、こんなことをおっしゃっていました。

 子どもに必要なのは
 みんなで遊べる「はらっぱ」
 独りになれる「すみっこ」

 今、世界は、すべてが見通しのいい「はらっぱ化」にしています。「フラットで、グローバルにひろがる、均質な"はらっぱ"」。それがよいことかどうかは、また別のところで語ることにいたしましょう。
 しかし、そんなときにこそ、「すみっこ」が欲しい。
 大人においても、「すみっこ」での「独りの時間」、「自分と向き合い、考える時間」を大切にしたいものです。

 皆さんには「はらっぱ」と「すみっこ」、ありますか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年3月26日 06:30


OJTにおける、はじめての後輩指導経験は、指導した本人に一体何をもたらすのか?

 OJTなどで「部下を育成すること」「仕事を教えること」は、「育成する側」や「教える側」にどのような影響をもたらすのか?

  ・
  ・

 これらリサーチクエスチョンをかかげた新たな縦断研究を、関根さん(中原研M2)と計画しています。

 ひと言でいえば
 「仕事を教えることの効果研究」。

 別の言葉でいうならば
 「はじめての後輩指導経験は、育成した本人に何をもたらすのか?」
 (長いよ)

 企業につとめる方々に「はじめて下ができ、彼 / 彼女に仕事を教えるという経験」をしたとき、どのような変化がもたらされるか、を共同研究として探究しようとしています。

 幸い、本研究に関しましては、いくつかの企業の方々に打診をさせていただき、よい方向に話が進みつつあります。心より感謝です。お忙しい中、ありがとうございます。

  ▼

 けだし、組織社会化研究においては、今から約30年くらいFeldman(1985)などにおいて、社会化の影響が、社会化を「行う側」の個人、集団、組織に対しても、影響を与えるという理論ベースの仮説が提案されていました。

 しかし、これまで「社会化される側」の変化に関する研究はたくさん産出されていますが、「社会化する側」の変化については、まだ、十分に、わかっているわけではありません。先行研究がゼロではありませんが、まだまだ不足している印象は否めません。今回の一連の研究は、この先行研究の不足を補う可能性があるのではないか、と考えています。

 このたび、関根さん、また志にご賛同頂いた企業の方々との一連の共同研究では、「社会化のサプライサイド」、別の言葉でいうならば、「育成する側」に焦点をあてて、その変化を、縦断的に追っていこうと考えています。さて、結果はどうでますことやら。

  ▼

 話はかわりますが、ここ数年ホソボソと、僕は、マネジャー研究を行ってきましたが、そこで痛感していることがひとつあります。

 それは、

 マネジャーの育成は
   マネジャーになってから、行うのでは遅い
 
 リーダーシップの開発は
   リーダーになってから、行うのでは遅い

 ということです。

 むしろ、

 マネジャーの育成は
   組織参入後には、すでに始まっている
 
 リーダーシップの開発は
   新人の頃から、すでに始まっている

 ということを「痛感」します。

 実はレンジをもっと広く取れば、それより以前、すなわち組織参入前の、中等教育・大学時代の経験、過ごし方というのも、実は関係はあるのですが(このあたりの話は、京大 - 東大共同研究で論じていきたいと思っています)、この話は、また別のところでいたしましょう。

 今回探究する「はじめて後輩ができ、彼 / 彼女に仕事を教えるという経験」も、おそらく、このマネジャー育成、リーダーシップ開発のひとつの契機になることが予想されます。
 今回の共同研究において、このあたりの「関係」がどのようになっているのかについてまで、探究していくことができたとしたら、非常に嬉しいことです。

 今週は学位授与式。
 大学のキャンパスには、アカデミックガウンをまとった学位取得者たちが闊歩するでしょう。

 始まりあれば、終わりがあり
 終わりがあれば、始まるものがある
 
 そして人生は続く・・・

投稿者 jun : 2013年3月25日 15:00


東京大学大学院夏学期授業 「経営学習論」シラバス 2013ができた!

 皆さん、お元気ですか。
 僕は、泥のように寝て、今、起きました(笑)。
 もう、ほとんど「泥」そのものです。

 最近、何を隠そう「年度末」ですね。小生、バタバタしております。というか、この数ヶ月、ずっとバタバタしてました。空、飛べそうです(笑)。

 しかし、年度末も、本当の「末」になってくると、2012年度を「締める仕事」が減ってきました。最近の僕は「2013年度のための仕事」に終われています。

 2013年度、どうしよか(笑)。

 まずもって、今の時期、考えなくてはならないのは、来年度の部門の運営計画・授業計画です。
 前者は秘密(笑)。
 後者は、下記、大学院授業「経営学習論」のシラバスができました。どうぞご笑覧ください。
「経営学習論」は、これまで一度も前年と同じ内容をやっていないのですが、今年も大部分を変えました。僕も愉しみにしています。ガチで学びたい、意欲ある方々の履修を期待しています。

 なお、同様の内容の、学部向け専門講義としては、兼任している教養学部・学際科学科で、「情報人文社会科学Ⅳ」を山内先生と共同担当します(冬学期・2月3日から6日・駒場キャンパス)。いわゆる、ひとつの集中講義です。
 中原の担当部分では、学部生向けに「経営と学習」の基礎を紹介するつもりです。こちらは人事部で実務をご担当なさっている実務家の方々にも、もし可能であれば、ゲストでご登壇いただきたいな、と考えています。

 ぜひ、お楽しみに!

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東京大学大学院 学際情報学府 2013年度
「経営学習論(Management Learning)」夏学期授業シラバス
水曜日4限 14:50- @本郷キャンパス 担当教員:中原 淳
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中原 淳
東京大学 大学総合教育研究センター 准教授
 
■講義の概要
 経営学習論とは「経営・組織における学習」に対する学際的
研究領域です。

 本講義では、経営学習論の基礎的文献を読み、本領域に関する
理解を深めます。より具体的には、組織学習論、経験学習論、
職場学習論、越境学習論など「企業・組織における学習」の先行
基礎研究の読み込みを行い、ディスカッションすることをめざし
ます。文献はすべて英語です。
 
 想定される受講者像としては、下記を想定しています。

・組織における知識共有、学習に関心のある方
・組織のおける人材育成、人間の成長に関心のある方
・組織変革や文化の構築等に関心のある方 
 
 本講義は、グループでのプレゼンテーションやディスカッション
により進行します。このことの趣旨を理解し、このような活動を
厭わない学生の受講を期待します。


■評価
 下記の3点から成績をつけます
1.コメントカードによる出席点30%
2.プレゼンテーション(全員からの相互評価30%)
3.最終プレゼンテーション(全員からの相互評価40%)

 なお、相互評価のポイントは下記の5点になります
  1.スライド・配付資料のわかりやすさ( / 5)
  2.プレゼンテーション手法(声・身振り)( / 5)
  3.質疑応答の適切さ( / 5)
  4.理論の解説がわかりやすいか( / 5)
  5.考察がなされているか( / 5)


■場所・時間
 毎週水曜日 4限より(14:50)
 学際情報学府 本館7F 第二演習室


■連絡先
 中原 淳(なかはらじゅん)
 〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1
 東京大学 大学総合教育研究センター 准教授
 東京大学大学院 学際情報学府 准教授(兼任)
 Blog : http://www.nakahara-lab.net/


■授業アーキテクチャ
 ・イントロダクション(中原:10分)
 ・プレゼンテーション(文献担当グループによる:35分)
 ・ディスカッション(グループで:15分)
 ・オープンディスカッション(クラス全体で:30分)
 ・ラップアップ(中原:5分)


■プレゼンテーションのやり方
・課題として設定された文献を購読し、内容を要約
する。「ひとつのストーリー」を構成する。

・プレゼンテーションはパワーポイントで行う。

・プレゼンテーションの構成には下記を必ず含めること
 ・各文献の要約をまとめた内容
 ・今回の文献で興味深かったところ/面白かったところ
  現場で役立ちそうなところ
 ・今回の文献の課題、問題点
 ・グループとして考察したこと
 ・今回のプレゼンテーションの各人がどのような
  役割を担ったか?

・配付資料は人数分用意し、各自で印刷すること。

・配付資料は「パワーポイントの配付資料」を用意する。
印刷は各グループで行うこと。

・プレゼンテーションの前か後に、利用したデジタル
ファイル(パワーポイント&ワードのPDFファイル)を
、メーリングリストにながす。

・プレゼンテーション授業終了後、授業で利用するコ
ンピュータに元ファイル(PPTファイル、ワードファイ
ル)を残しておくこと(評価の際に用います)。

・プレゼンテーションの時間は35分。その後質疑応答
があるので、どのような質問にも答えられるようにし
ておくこと。
 
 
■参考文献
・中原淳(2012)経営学習論. 東京大学出版会

■授業内容
●オリエンテーション(初回授業には必ずご出席ください)
 ・講義概要
 ・授業の流れ
 ・グルーピング&自己紹介&連絡先交換
 ・名簿づくり
 ・スケジュールの確認と担当決め
 ・プレゼンテーションの準備と方法

●組織学習論の基礎:組織「が」いかにスマートになるか?
組織学習論 / 組織学習のサイクル論 / 知識の創造・共有・制度化・棄却
組織の生産性 / 学習効果

●組織学習論の基礎:経験からパフォーマンスをいかに向上させるか?
経験による学習効果 / チームパフォーマンスの向上

●組織学習論の基礎:組織の中のひとのつながり
社会関係資本 / 組織記憶 / 組織パフォーマンス / 階層線型モデル

●チームディスカッション

●組織参入時の学習:新人をいかに社会化させるか?
組織社会化 / 能動的社会化 / 社会化エージェントをとおした学習 /
職場学習論

■組織参入時の学習:新人をいかに育成するか?
新規参入者の学習 / オンボーディング施策 / 組織社会化 /
Swift Organizational Socialization(手早い社会化)

●チームディスカッション

■リーダーへの学習:マネジャーになるということ
マネジャーの受難 / 二重化・多層化・複雑化 / McCall・経験からの跳躍 / リーダーシップ / 後天的学習

■リーダーへの学習:マネジャーになることと実存の揺らぎ
アイデンティティ / 変容プロセス / マネジャー / 学習

■リーダーへの学習:リーダーシップジャングルの理解と近年の動向
リーダーシップ研究の歴史 / リーダーシップロマンス /
オーセンティック・リーダーシップ / 学習

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組織イノベーション研究の先行研究

■組織、学習、イノベーション(1)
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投稿者 jun : 2013年3月22日 08:57


マネジャーに求められる「部下から現場を学ぶ力」!?:自分の「ものさし」をつくる

 ちょっと前のことになりますが、現場の第一線で働いておられる現場のマネジャーの方々9名に、一時間ずつヒアリングをさせていただく機会をいただきました(2日間で合計9時間!さすがに、この2日間は体力的にシビアでした!・・・最後は気絶しそうでした、笑)。

 貴重な時間をいただいたマネジャーの方々、仲介をいただいた人事ご担当の方々、またアレンジいただいたJPCの矢吹さんには、この場を借りて、心より感謝いたします。ありがとうございました。

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 今回のヒアリングは、「職場学習の探究」以来、ここ最近、行っている試みの一環であったわけですが、もっとも印象に残ったことのひとつに「部下から学ぶ力」というものがあっります。

 わかりやすいので敢えて「力」という概念を鋳造しましたが、それを用いずにあらわさないのだとすると、「マネジャー赴任時に、謙虚に部下から情報をひきだし、現場の情報の流れ / 現場で働く力学を学ぶことの大切さ」とベタにいえるのかもしれません。

 問題は、マネジャー赴任後のマネジャーの行動です。
「部下から現場を学ぶこと」ができる人と、できない人では、その後のマネジメントのクオリティが大きく異なるのではないか、と思いました。そういうことを示唆する語りが、数多く得られたことは「収穫」でした。

  ▼

 ところで、以前にも引用させていただきましたように、現場とは「現在進行形」「具体性」「複雑性」「予測不可能性」「即興性」などの、5つのキーワードで彩られる場所だといいます(小田 2010)。
 要するに、現場とは「現在進行形で、個別具体的な物事・出来事が進行し、その様相は複雑きわまりなく、かつ予測不可能である場合」が多いということです。
 
 そして、そういう場所で流れている情報(現場粘着情報)や、その場で働いている力学(現場作動力学)は、その場にいる人(多くは実務担当者)の「肌感覚」でしか、なかなか把握することが難しい傾向があります。
 
 しかし「たたき上げでの昇進」ならともかく、多くのマネジャーは、実務担当者よりも「現場」を知りません。
 なぜなら、「マネジャーになる」とは「現場的世界」から一定の距離をとり遊離しつつ、「管理者的世界」と「現場的世界」を往還することであり、二つのコミュニティのあいだを、矛盾を抱えながら生きることだからです。いい悪いの問題ではなく、そういうものなのです。ですので、マネジャー赴任時には、必要に応じて「部下などから現場を学ぶ力」が求められることになります。

 なぜなら、あたりまえのことですが、現場を把握することができないと、その後の行動や意思決定がままならないからです。
 マネジャーが、方針やビジョンや目標をかかげるにしても、はたまた、職場を動かすにしても、まずは「現場」を十分に熟知していなくては、十分に根拠や自信をもった意思決定はできないでしょう。

  ▼

 今回のヒアリングでは、マネジメントのための「ものさしをつくる」というメタファで、「部下から学ぶこと」が語られていました。要するに、意思決定の判断基準となるような現場粘着情報、現場作動力学を「ものさし」というメタファで表現なさっているのだと思います。非常に興味深いことですね。

 逆にいうと

 自分の「ものさし」がないマネジャー

 というのが、もし万が一いらっしゃったとしたら、僕が部下だったら、やはり辛いな、と思いました。ものさしがないということは、「定規をつかわず、ノートに直線をひくようなもの」です。描いた線はブレブレでしょう。判断がブレる。意思決定のクオリティが下がるリスクが高まる、ということを意味するのではないでしょうか。

   ▼

 ここまでの話を総合いたしますと、このように「部下から学ぶことは、マネジメントにとって大切な要素」であることがわかります。しかし、ここからが「ややこしい」のですが、ただ一方で、「部下から学ぶこと」を手放しで「称揚すること」も難しいのも、また事実です。

 なぜなら、「第三者を媒介して情報を取得すること」は、常に「難しさ」がともなってしまうからです。つまり、第三者を媒介してがマネジャーが得られる情報には、そもそも「第三者のつくりだしたフィルタ」がかかっているからであり、それは、「第三者のサバイバルストラテジーの行使の結果」である場合があるからです。
 場合によっては、「過去の先例を温存するための情報が意図的に選別されていること」「変革を阻害する情報の取捨選択が行われていること」もないわけではありません。

 先ほどの話を踏まえていうならば、
 マネジャーには

 部下から現場を学び、その本質を見抜くこと

 が求められることになります。
 いやー、難しい。

 このあたりの「矛盾」をいかに解消するのか。そこで現場のマネジャーは、いかなる実践知を遂行しているのか。このあたりが、興味深いところです。

 今日のお話は、一連の試みの一部なので、まだ整理がついてないとは思いますが、もう少したったら、さらにデータとストーリーをともなったかたちで、皆さんに、様々なまとまった知見をお届けできるものと思います。

 そして人生は続く

 ---

追伸.
 今日のお話し「ちゃぶ台」をひっくりがえすようで、すみません。
 でもね、「マネジメントを語ること」は「矛盾を語ること」なのです。それを語ることの奥には、どこかで「ニヒリズム」がつきまとうのです。

 そのたびごとに、「ちゃぶ台がえし」をしていたら、本当に、僕のまわりは「ちゃぶ台」だらけになっちゃうけどね(笑)。いつかは、ちゃんと片付けないとね。もう少し時間がかかりそうですね。すみません、とっちらかってて。

投稿者 jun : 2013年3月22日 08:22


グループワークやディスカッションを破壊する9人の困った人々:聞かず屋・評価屋・目立ち屋・否定屋・断言屋・携帯屋・あさって屋・詳細屋・意図読み屋

 ここ最近、僕が進めている研究プロジェクトの中に「企業・組織の研修開発・実施の現場で、実務家が、どのような実践知を発揮しているのか?」「"企業で働く成人"に対して"教える"とはどういう経営的実践・組織的実践・政治的実践なのか?」を探究するものがあります。

 研究プロジェクトは、暗中模索、五里霧中、四面楚歌?という感じなのですが、このリサーチクエスチョンにこたえるべく、敢えて、いったん「理論」という「色眼鏡」を捨てて、ただひたすらに、現場に足をむけ、かつ、現場の実務家の方々の話を伺っている最中です(お忙しい中、御協力いただいていた皆様には、心より御礼申し上げます。ありがとうございます)

 ▼

 ところで、実務現場の話を、ある程度の量、ただ、ひたすらにうかがっていると、面白いことに、どの現場にも共通するような「課題のカテゴリー」が浮かび上がってきます。研修開発のあらゆるプロセスにおいて、「共通の課題」が浮かび上がってくるのです。そして、こういう「共通の課題カテゴリー」は、「ひとりの問題」ではなく、「みんなの問題」です。これに対する対処ストラテジーを、著書では明らかにしたいと考えています。

「共通の課題カテゴリー」に関して、たとえば、ひとつ例を出してみることにしましょう。
 例えば、近年、研修やワークショップなどで、グループワークやグループディスカッションなどを行うことも少なくないと思うのですが(むしろ、コモディティティ化しつつあるといってもいいかもしれません)、それが「できない人のパターン」は(ただしくはグループワークなどが局所的にブレークダウンするパターン・・・この記事では、敢えてわかりやすくするために、擬人化してお伝えします)、下記のような9つのカテゴリーで把握できます(今のところはね・・・)。

 皆さんのお近くにも、下記のような「グループワークができない9人の人々」がいませんか? あるいは、グループワークやディスカッションを木っ端ミジンコ?に破壊する困った9人の人々?

 1)聞かず屋
  ・とにかく人の話が聞けない
  ・聞いているようで全く聞いてない

 2)評価屋
  ・誰にも求められてもいないのに、グループメンバー
   ないしは、その発言を、その場で「評価」してしまう
  ・「それ違うね」「ま、正しいと思うよ」と言ってしまう

 3)目立ち屋
  ・とにかく自分を「ビック」に見せようといきり立つ
  ・いつも「前面」にでてくる、前にたってる
  ・とにかく声がでかい、信じられないほど声が通る

 4)否定屋
  ・敢えて、ネガティブなことを口にして、人を巻き込み
   グループを崩壊に持ち込む
  ・この場の存在意義を根底から「ちゃぶ台がえし」する
   星一徹的キャラ
  ・パワーが低いときは「すね屋」ともいう
   いつも「すね」たり、斜に構えている

 5)断言屋
  ・他人が何を言っても、必ず「断言」でかえす
  ・自分の意見はすべてが「断言」である
  ・全く「議論」や「対話」の余地がない

 6)携帯屋
  ・いつも「携帯」を気にしている
  ・グループワークの時間に「RT」やら「いいねボタン」を
   押しはじめる

 7)あさって屋
  ・議題やコンテンツと、常に違うことを口にする。
  ・常に「口に出す話題のベクトル」がズレており、
  「あさって」である

 8)詳細屋
  ・ルールを徹底することにやたらと細かい
  ・臨機応変をもっとも嫌うので、なかなかグループワーク
   が進まない

 9)意図読み屋
  ・ファシリテータ側の意図を、常に、先読みしてくる
  ・こちら側の度量や力量を、常に「試し」てくる、別名「試し屋」

 いかがでしょうか?

「オマエ、貴重な時間を使って、こんなしょーもないことを探っているのか」

 と呆れられた方もいらっしゃるのかもしれませんが、

 「まー、そうといえば、そうだね」
 「そうでないといえば、そうでない、おしいね」(笑)。

 実際には、研修開発は、グループワークやグループディスカッションだけから構成されているわけではありませんね。探究するべき課題は、もっと広い。また、こと、この問題に関して言えば、こういう「人」を明かにしているのではなく、研修の場面で頻出するブレークダウンの場面のパターンと、それに出くわしたときの対処ストラテジーを明らかにしています。ま、今日は敢えてね、それをおもしろおかしく「屋」と呼んじゃいましたけど(笑)。

 さて、閑話休題。
 ところで、皆さんの周囲には「聞かず屋」「評価屋」「目立ち屋」「否定屋」「断言屋」「携帯屋」「あさって屋」「詳細屋」「意図読み屋」はいらっしゃいませんでしょうか? 皆さんは、彼らに出くわしたことはありますか? そのとき、どういう対処をなさいましたか? またTwitterやらFacebookやらで、ご意見をお聞かせ下さいね。

 もちろん、中には「これらのカテゴリーのすべてをかねそろえている」、「スーパーサイヤ人なみの破壊力をもったコマンダー」、ないしは「ダースベーダー級のデストロイヤー」もいらっしゃるかもしれませんね(笑)。
 そうだとしたら、ご愁傷様です。
 世の中、そんなに悪いことばかりぢゃないよ(笑)
 心中お察し申します。アーメン。

 実際には、人々は、こういう困った事態を、いかに乗り越えるのか。乗り越えられるのだとしたら、どのように智慧をしぼって、乗り越えるのか。乗り越えないのだとすると、何を諦め、何を意思決定するのか。
 こういうブレークダウンのパターンが生まれないように、最低限、どのような準備をすすめることができるのか。事前には何ができるのか。インタラクションをリードするキーマンをどのように見抜くのか。いかにルールを諒解してもらうのか。まことに「組織の中の成人」というものは、大変な存在ですね。無色透明、価値中立の場なんて存在しない。

 しかし、ここが、実務家の智慧がいかんなく発揮されるところだと思っています。
 いまだ、どういうかたちでまとめられるのか、出口は見えませんが、もう少し問いを大切に探究を進めてみたいと思っています。

 そして人生は続く

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追伸.
 先日、募集を行った経営学習研究所のイベント「多様な社員を"講師"に育てる仕組み  社内募集からデビューまで : 研修開発・内製化プロセスの探究」ですが、本日、当落メールをおおくりさせていただく予定です。
 今回のイベントは、4月1日まで募集を行う予定でしたが、申し込みから12時間で、すでに200名を超える応募をいただきましたので、急遽応募期間を短縮させていただくことにいたしました。3月12日から3月14日の期間に360名の方々からご応募をいただき、抽選のもと、240名の方々に当選メールをおくらせていただきます。
 本来ならば、もっと多くの方々にご参加頂きたいのですが、会場等の都合で、このような対処をとらざるを笑ませんことを、心よりお詫びいたします。申し訳御座いません。

 当選なさった方は、当日、会場にてお会いしましょう!
 お会いできますこと愉しみにしております。

多様な社員を"講師"に育てる仕組み  社内募集からデビューまで : 研修開発・内製化プロセスの探究
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/03/post_1975.html

投稿者 jun : 2013年3月21日 06:06


新規事業の中で人が伸びる、新規事業の中で疲弊する

 ちょっと前のことになりますが、新規事業に果敢に挑戦なさっているマネジャークラスの方々の前で、お話させていただく機会を得ました。
 各現場の最前線、フロントラインで日夜戦っておられる方ばかりなので、こちらも非常に緊張しましたが、とてもハードで、愉しい時間を過ごすことができました。

 3時間にわたるお話やディスカッションの内容をすべてここでお話しすることはできないのですれども、人や組織の観点から(その他の観点の議論も多々ありました)、もっとも僕が強調したかったことは、

1)新規事業の「先の見えなさ」こそ、人を伸ばすことや、組織をつくることのチャンスであるということ

2)新規事業が軌道にのり、「先が見えはじめ」、量的拡大をめざすときになってくると、「次の危機」は、もうすでにはじまっている

  ▼

 1)に関しては、そのまんまです。

「先のみえなさ」というものは、その中にいるときは、まことに苦しいものですけれども、一方で、そのことが、人々が協働し、ともに何かを探究し、つくりあげるコンテキストになる。
 このことは、かつて、著書「職場学習の探究」の中で、実証的に論じたことがあります。

 ひとことで申しますと「新しいことをなすとき」は、まことに苦しいことでありますけれども、一方で、チャンスなのです。そんなタイミングは、そうそう多くないとは思いますが、この数少ないタイミングをいかに活かすことができるか。 

「新しいことなす」というコンテキストの上で、いかに「ひとを伸ばし、組織を活かすこと」ができるかが、とても大切なことではないか、と思います。

 後日、仕事の現場を外れて、教室で、「人を伸ばし、組織を活かすこと」の大変さを考えたら、ぜひ、このタイミングこそを活かしたいものです。

  ▼

 一方、2)に関しては、意外に「盲点」だと思うのですが、いかがでしょうか。新規事業もフェイズによって、人や組織にもたらす影響は、様々に変化します。

 新規事業が初期の立ち上げの混乱期をへて、量的に拡大していくようになってきますと、単純にメンバーの仕事が忙しくなっていきます。
 個人の仕事の多くがスケールアップへの様々な雑事にとられ、ルーティン化していきます。
 一般にスケールアップにも2種類のスケールアップがあります。まず第一に「スケールアップの方策こそを考えるもの」。第二に「ひたすらルーティンをこなすもの」。

 利潤をあげるためには、どちらに大切な作業ですが、特に後者のフェイズにはいった場合、注意が必要です。といいますのは、このタイミングは、「新たな危機」がしのびよっている瞬間でもあるからです。それは、

 忙しいときほど、考えない
 ルーティンをこなすときほど、思考停止する

 「考えない世界」「思考停止する世界」はリスクともいえるのかもしれません。人々は忙しく働いていますので、あまり気にならないですが、その間には「探究」や「協働」というものは、失われがちです。スケールアップを果たす「指標」である「数字」が独り歩きし、仕事が個人化しやすいのは、このタイミングです。
 賢明なマネジャーならば「先が見えるようになったな」と思ったとき、「ピークを迎えそうだな」と思ったときには、その前に、様々な思索をめぐらさなくてはならないようにも思います。

 少しコンテキストはとびますが、僕は、いつも学生に言っていることがあります。それは、

 ピークに達してから、ものを考えるな
 ピークを超えたあとで、ものを考えても100万年遅い

 ということです(笑)。
 大切なことは、「ピークの前に、次の打ち手を考える」。
 このことは、事業においても、さらには個人のキャリアにおいても、人生諸事いろいろことについても、あてはまることが多いなと思っているのですがが、いかがでしょうか。

 ▼

「新しいこと」の「絵」を描き、人々をそこに巻き込んでいくことが、リーダーシップであり、めざすマネジャーの姿だとするならば、まさにそのプロセスは、「終わることのない挑戦」の連続であるのかもしれません。
 新規事業ひとつとっても、そのフェイズ毎に、様々に考えなくてはならないことが、噴出するのですから。

 今日は、やや戯画的に、新規事業をいくつかのフェイズにわけてお話しをしました。実際の事業は、こんな風に線形的にお話が進むわけではないのですが、敢えてわけるのだとしたら、人や組織の観点から、新規事業には、こうしたチャンスとリスクが混在している、のではないか、とも思います

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月19日 06:54


落語家はどのようにして熟達するのか?:柳家花緑著「落語家はなぜ噺を忘れないのか」(角川新書)

 柳家花緑著「落語家はなぜ噺を忘れないのか」(角川新書)を読みました。

 本書は、落語家の柳屋花緑さんが、1)落語家としてどのように仕事をなさっているのか、2)噺をどのように暗記・整理・練習なさっているのか、また全体としては、3)落語家はどのように熟達してきたのか、について論じている本です。
 僕の言葉でいうならば、「落語家の熟達論」「落語家の学習論」としても解釈可能なのではないでしょうか。非常に興味深く読むことができました。

 花緑さんご自身が後書きで述べられているように、この本は、いわゆる「野暮な本」です。これまで敢えて語られることのなかった、落語家の仕事の手の内を明かしているからです。それは多くの落語が、「粋」を語るのとは対局にある世界でしょう。非常に面白いですね。

 ▼

 本書を通して、僕が、学んだことはたくさんあるのですが、もっとも印象深かったのは、落語家の熟達、ないしは、自己スタイルの確立も、師匠や兄さん、様々な人間関係によって、少なくない部分が決定されているということです。

 まずはひたすらネタを憶え、完全コピーする段階がありつつ、師匠に稽古をつけてもらう。
 その上で、様々な人々から内省を促され、少しずつ、自分のスタイルを確立していきます。師匠とは違う自分の世界観を確立していくことが求められます。
「完全なる自律」でもなく、はたまた「完全なる他律」でもない世界がそこにはあります。

  ▼

 人材育成の領域でご活躍の方々、講師やファシリテータをなさっている方、ないしは、現場で教鞭をとっておられる先生など、落語を趣味になさっていたり、そこからインスピレーションを受けられる方は、少なくないと思います。皆さんの話題に、よく落語は出てきますので。

 この本は、そうした方々にもおすすめです。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年3月18日 09:34


新しいアイデアをどのように生み出したらよいのか?:「自分の土俵にひっぱり力(時間軸)」 × 「異領域首突っ込む力(他人軸)」!?

 かなり前のことになりますが、あるところで、学生の方から、こんな質問を投げかけられました。

「先日、先生のブログで、"やりたいことは腐るほどある"、と書いておられましたよね。先生は、どうやって、アイデアを出しているのですか? 何か秘訣があるのでしょうか」

 いやーね、アンタ、そんな「秘訣」があったら、ぜひ、僕「だけ」に、こっそり教えて欲しいくらいですね。アイデアか・・・"トレビの泉なみ""に沸いてくるといいよねぇ。僕なんかは、最近、多忙で、枯渇してるよね。水、流れててたとしても、チョロやで、しかし(笑)。このままじゃ、いかんねぇ・・・。

 と、「真っ先」に、心の中で、思ったのは、こういうことだったのですが(笑)、質問をしてきてくれたのが学部1年生の方だったこともあり、また、彼の「目がキラキラしていた」こともあり、先ほどの「枯れた答え」じゃ「あんまり」だと思って、少し考えて、こう答えることにしました。

   ・
   ・
   ・

 アイデアは、「時間軸」と「他人軸」の「かけ算」みたいして生まれてくるんじゃないの?

   ・
   ・
   ・

 いやー、全く「口からでまかせ星人」で、すみません(笑)。自分としても、よく、こういう根も葉もないしょーもないことを考えつくのかな、と思うのですが、「目がキラキラしていること」がまぶしくて、つい(笑)。
 下記は「全くアカデミックな答え」ではないし「根拠不明のわたしの理論」ですが、「創造」とか「創発」とかは、僕の研究領域ではないので、どうかお許し下さい。

  ▼

 ここでいう「時間軸」とは、文字通り、「アイデアを生み出すのに、自分がかけている時間であり、機会」です。「他人軸」とは「自分が、異領域の他者と出会い、相互作用すること」です。

 僕が、自分の研究生活で(しょーもないものも多々ありますが)アイデアを思いついちゃったときのことを考えると、この二つがうまく結びついたときであるような気がします。
 以下は、それを順におっていきましょう。

  ▼

 まず「時間軸」です。
 僕が、一番問いたいことは、意外にも「時間」なのです。

「時間をかければいいもんじゃない」とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、敢えて、そこにまずは着目したいと僕は思います。

 なぜなら

「アイデアは、生み出そうと思って"から"、そのあとで、生み出せるものではない」

 と思うからです。
「会議室で、さ、これからブレストしますよ」というのもあるのかもしれませんが、僕の経験上、こうした機会でアイデアが生まれることは、かなり「希」です。いや、僕の経験上は。
 むしろ「アイデアを思いつくことは、自分の生活の中に、そのことだけを考える時間がどの程度埋め込まれているのかによるのではないか」とよると考えています。つまり、アイデアを思いつくとは、「常に、そのことを考えている」ということと無縁ではないのではないのかな、と思うのです。

 ひるがえって、学生の皆さんは、アイデアを思いつくというとき、そのことを考えることに、どのくらいの時間をかけているでしょうか?

 僕の答えは「シンプル」です。
 僕の場合は、目覚めているときは、ほぼ、自分の研究のことを考えています。水槽の水替えをしたり、盆栽をいじったりしているとき以外は(笑)。「Management and Learning」というものから、たぶん本当に片時も、自由になることがありません(研究の奴隷のようなものなので、他人には全くオススメしません)。

 僕が理想とする「研究者」は、何を見ても、自分の研究領域のことに引きつけて、「24時間考えている人」です。テレビを見ていても、友達とだべっていても、何をしていても、常に自分の研究領域のことが浮かんできますし、何を問いかけられても、自分の土俵にひっぱって、物事を考えます。
 街を歩いていて、ウィンドウショッピングをしていても、「常に、これ、なんかに使えるんちゃうか?」と考えます。くどいようですが、人に、そのことをおすすめすることはありません。自分がそうだと、いうだけです。

 少なくとも、僕にとっては、アイデアとは「常に考え続けること」から生まれているのではないか、と思っています。
 皆さんは、どのようにお思いになりますか?

   ▼

 もうひとつは「他人軸」です。
 それは、自分の知らない異領域の人、自分がお付き合いしたことのない専門性や経験をもっている人々からのお誘いは、原則として「断らない」ということです。
 敢えて「異領域に首突っ込むこと」をよし、として、積極的に「出会い」、もし都合があえば、「何かをご一緒すること」を考えます。
 でも、一般には、ふつう「逆」にならないでしょうか。
「ちょっとお畑違いのところのつきあい」は、面倒くさいのでやめておいて、「自分と同じ人たちと群れたがる」。その方が「心地よい」し「気兼ねない」ですから。でも、それを敢えて「反転」させます。異領域にがんがんと首をつっこむ。

 そうしますと、面白いもので、「あっちの領域」では言い古されたことでも、こっちの領域ではめちゃめちゃ新鮮である、とか、そういう「情報の非対称性」に気づくことがままあります。
 あるいは、「あっちの領域」ではかなり名前を知られている方が、「こっちの領域」にくれば全く新しい、なんてことがよくおこります。

 ここまでくると、しめたものですね。
 あとは、最もこれまで「遠かった二つのもの」「一見、ソリの悪いと思われる人々」同士を、丁寧に結びつけることです。イノベーションの古典的定義も「新結合」でしたよね。

 ▼

 以上が、僕のなんちゃって「わたしのアイデア創造術」です。
 時間軸と他人軸のかけ算みたいなもの、というアイデアは - いうなれば「常に物事を考え続け、異領域の人々と積極的に出会う」、文章に残せば、ただ、これだけのことなのかもしれません。それが学問的にどうだ、とか新しいのか、言い古されたことなのかどうかは知りません。あとは、専門の方にお任せします。

 今日のお話、別の言葉でいうならば、「何でも自分の土俵にひきつけて考えること」×「異領域に敢えて首つっこむこと」の二つとしても解釈できそうですね。
 皮肉なことに「なんとか力」は、すぐに「鋳造可能」ですから「自分の土俵にひっぱり力」「異領域首突っ込む力」といってもいいかもしれませんね(笑)。ま、いずれにしても、いかがわしい話です、真に受けないでくださいね。

 皆さんは、どのようにして、新たなアイデアを生み出していますか?

 そして人生は続く。

ーーー

追伸.
 ちなみに「なんとか力」は、「自分の大切だと思う経験」+「力(りょく)」をつけるだけで、いくらでも「鋳造可能」です。そして「なんとか力」は一見もっともらしく伝播力が高いので、安易に鋳造されつづけています。分析をへて概念化されたのではない「なんとか力」はたいていの場合、真に受けないでください、と言ったのは、このことが理由です(今日のブログもそうですね、やや、アイロニカルにやっていますけど・・・大笑い)
 
 例えば、社会人に必要なものは

「ドサクサ力」・・・ドサクサに紛れてシレっと案件を通す能力
「あとづけ意味づけ力」・・・あたかも最初から決まっていたかのように意味づける能力
「死んだふり力」・・・新たに仕事がふられないように死んだふりをする能力

 といっても、これらは、ちょっと前に「ささっと」つくった概念ですが、一瞬、もっともらしく感じるでしょう。一瞬だけならば(笑)。
 このように「なんとか力」の実態とは「わたしの経験論」であることの方が多いものです。「なんとか力」の多くは、「わたしの経験論に過ぎない物事」を、「・・・・力」という「一般性」を喚起する概念で、コーティングして鋳造されたものである、というのが、僕の見立てです。だから、今日の話も、どうか真に受けないでください(笑)。

投稿者 jun : 2013年3月17日 06:56


「やる気をだしなさい」 「自発的になりなさい」 「主体的になりなさい」 「リラックスしなさい」の論理矛盾!?

 あなたが、マネジャーになったり、教壇にたつ立場になったり、人前でファシリテーションする立場になったり、親になったとしたら、下記のような言葉を、ついつい部下や学生や学習者や自分の子どもに使っていないか、チェックをしてみてもいいかもしれません。僕は、自戒をこめて、そう思います。

 例えば、

「やる気をだしなさい」
「自発的になりなさい」
「主体的になりなさい」
「リラックスしなさい」

  ・
  ・
  ・
  ・
 いかがでしょうか?
 あなたは、つい、これらの言葉を口にしていませんか?
 僕はあります。
 僕は「弱い人間」です。

 でも、これらの言葉の何が変かって?
 だって、少し考えてみれば、それは「論理矛盾」だってことに気づくでしょう。

「やる気をだしなさい」と上の人に命令されて、でてくる「やる気」って何だろう? それは、本当の「やる気」でしょうか? いや、そもそも、あなたが「だせ」と命ずる「やる気」って何?

「自発的になりなさい」と他者から指摘されて、自分から動くのは、「自発的」でしょうか? 言葉をかえて「主体的になりなさい」も同じ。「強制された自発性」「命令された主体性」って、そもそも「自発的」?それとも「主体的」? 

 最後に「リラックス」。
 皆さん、いかがでしょうか。第三者から「リラックスしてくださいよ」と命令されて、あなたは、本当に心身共に「リラックス」したことがありますか? 僕は、短い人生ながら、そういう人に一度もお会いしたことがありません。

 畢竟、これらの「状態」は、他人や第三者に「命令されたり」「押しつけられたり」して「なるもの」ではないのです。
 もし、あなたがマネジャーや教員やファシリテータとしてプロフェッショナリティを極めたいのであれば、あるいは、親として自分の思いを子どもに届けたいのであれば、「結果として、人が、そういう状態になるような環境」を「自然に」知らんぷりして「整えること」です。

 逆にいうと、「やる気をだしなさい」「自発的になりなさい」「主体的になりなさい」「リラックスしなさい」と述べてしまう状態は、まだまだ「発揮できる知性」があるような気がします。「現場で蓄積したノウハウと智慧」ないしは「これまで生きてきた経験」・・・ここにこそ、これらのものが、まだまだ活かせるのではないでしょうか。

「なんだか知らないけれど、結果として、やる気がでちゃった」
「なんだか知らないけれど、自発的にかつ主体的に動いちゃった」
「時間を忘れ、自然とリラックスしちゃった」

 「介入」するべきは「本人」ではなく、「環境」ではないのかな?
 つくりだすべきは「命令」ではなく、「機会」ではないのかな?
 自戒をこめて、僕はそう思います。

    ・
    ・
    ・

 嗚呼、今週も走りきりました。
 僕に残された体力は、もう1デシリットル?もありません。
 デシリットルという単位を久しぶりに使いました。次に使うのは10年後でしょう。

 皆さん、ありがとう。
 そして人生はつづく。

投稿者 jun : 2013年3月15日 21:29


デパートの思い出

 先日、ちょっとした用事があって、家族で、久しぶりにデパートに出かけました。
 デパートの中には、週末だというのに、あまりお客さんがおらず、「この集客で、大丈夫かいな」と思いましたが、エスカレータにまばらに並んでいる人々を見ていると、なぜかは知りませんが、「昔んこと」を思い出してしまいました。

  ▼

 昔、今から30年前、僕が、子どもだったころ・・・あの頃のデパートには、たくさんの人がいたような気がします。
 エスカレーターには人があふれ、エレベータにも、やはり人があふれていました。人々の顔には、笑顔があり、フロアには、おめかしをした人々の群れがありました。デパートとは、家族にとって、テーマパークにいくような「行楽」のひとつであったのです。

  ▼

 僕がデパートに行くことができるのは月に1度。我が家が給料日の日でした。
 給料日の日には、その足で、デパートに家族で出かける。子ども達は、一冊好きな本を買ってもらい、そのあと、レストランにいって、みんなで外食をする。
 我が家は決して裕福な家庭ではなかったと思いますが、その日が、外食をする唯一の日であり、僕にとっては、一ヶ月で一番愉しみな日でありました。
 なにせ、一ヶ月悩みに悩んで、ようやく選んだ本を、ついに手にできるのですから! お魚とか、煮物とかじゃなく、好きなものが、自宅以外のお外で食べられるのですから。

  ▼

 僕の中のデパートのイメージは、かくして、「本」と「レストラン」と結びついています。あの頃から、30年が立ちました。僕は、「デパートに連れて行かれる存在」から、「連れて行く存在」になりました。そして、今、子どもの手を引いて、デパートのエスカレータにのっている。不思議なものですね。あっという間に、瞬きする間もなく、そのときがきました。
 
 皆さんには、子どもの頃、どんなデパートの思い出がありますか?
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月14日 18:23


【参加者募集中】多様な社員を"講師"に育てる仕組み  社内募集からデビューまで : 研修開発・内製化プロセスの探究

■2013/03/13 AM7:00
昨日募集を開始したイベントですが、おかげさまで募集人数200名を超えました(御礼・感謝です!)。4/1まで募集を行う予定でしたが、やむなく3/15(金)までとさせていただきます。あしからずご了承下さい。週明け18日には抽選結果をお知らせさせていただきます。

■2013/03/13 AM7:00
※短縮URLにエラーがでているようです。下記からお申し込みください。まことに失礼致しました
お申し込みフォーム
https://docs.google.com/forms/d/1oLvLhvSu564bZuzwHP5MiqMsPy3CRnNzR5WLkRc988w/viewform

naiseika_learning.jpg

あなたの経験、伝えませんか?
        社内講師デビューしませんか?
               教えることを、学んでみませんか?

            ・
            ・
            ・

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NAKAHARA-LAB.NET(中原淳研究室メルマガ)
経営学習研究所 ラーニングイベントのご紹介!

【多様な社員を"講師"に育てる仕組み
 社内募集からデビューまで : 研修開発・内製化プロセスの探究】

KEYWORD : 研修開発 内製化 社内講師 養成 デビュー
社内研修の質保証

4月26日(金)午後6時30分 - 午後9時00分くらいまで
JR品川イーストビル20F(JR品川駅直結)
==================================================

年度末ですね。誠に忙しいですね。人生、綱渡りですね(笑)。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。

中原 淳です。

お忙しいみなさまに、今日は、ひとつラーニングイベントの
ご案内です(笑)。

来る4月26日(金)、中原がプロデュースするラーニングバー的!?
イベントを開催いたします。

今回のイベントは、

【多様な社員を"講師"に育てる仕組み
 社内募集からデビューまで : 研修開発・内製化プロセスの探究】

です。

昨今、様々な企業で、様々な理由で、企業研修の内製化が進んで
いますが、それをいかに行えばいいのか。多様な経験とナレッジを
もつ社員にどのように「講師」になってもらえばいいのか。
どのようにして社内研修の質保証を行っていけばいいのか?
今回のイベントでは、近年多くの組織で課題になっている、この
課題をガチに「探究」していきます。

  ▼

このたびご登壇いただくのは、
ソフトバンクモバイル株式会社の

島村公俊(しまむらきみとし)さん
大内礼子(おおうちれいこ)さん

です。この場を借りて御礼申し上げます。

ソフトバンクモバイル株式会社さまでは、2008年のリーマンショ
ック以降、研修のコスト削減と社員同士のナレッジをシェアする
ことを目的に、研修を内製化し、社内講師の育成・デビューを支
える各種の仕組みを導入しました。現在70名の社員の方々が、
自らのビジネスをすすめる一方で、社内の研修講師として活動
なさっています。

一般に社員の方々は、多種多様な貴重なビジネス経験は有している
ものの、それを「伝える」教授スキルは持ち合わせていないことが
多いものです。

このような背景を受け、ソフトバンクモバイル株式会社さまでは、
社内講師育成の教育プログラム、また、研修の質保証の仕組みを
各種導入なさっています。当日は、このような「仕掛け」について
ご講演いただけるものと思います。

今回のイベントは、株式会社日立ソリューションズさまのご
厚意で会場のご提供をいただき、経営学習研究所との共催の
かたちで実施させていただけることになっております
(心より感謝です!)。

どうぞ、みなさま、ふるってご参加頂けますと幸いです。

中原 淳

ーーー

■共催
経営学習研究所 Process Design Lab.(担当理事:中原 淳)
株式会社日立ソリューションズ


■日時
2013年4月26日(金)午後6時30分 - 午後9時00分まで
開場は6時00分から


■会場
株式会社日立ソリューションズ 品川本社別館
JR品川イーストビル20F(JR品川駅直結)

http://www.hitachi-solutions.co.jp/company/access/map_kounan.html


 ▼お越しの際
 JR品川駅の連絡通路を港南口側に向かい、新幹線改札の少し先、右手の
 ビルです。
 会場は20F HALL-B,C,Dで、入館手続きは不要です。
 ビルに入り、左手の高層階エレベーターで20Fまでお越し下さい。
 正面の自動ドアには入らず、エレベーターホールを背に通路を左手に進み、
 突き当り右手にあるHALL-B,C,Dが会場です。

 ▼お帰りの際(21:00以降)
 1F正面入口が閉まっております。
 高層階エレベーターホールを出て左手、低層階エレベーターより更に先に
 ドアが見えます。
 そのドアを出てビルに沿って右手に進むと、連絡通路に出られます。


■参加費
 お一人様4000円を申し受けます
 限定150名まで


■飲み物
 サンドイッチ、スナック、ビール、ソフトドリンクなどを
ご用意しております


■内容
・オーバービュー
「研修内製化と社内講師育成の現在」
(中原淳)pm6:00-6:15

・セッション1「ソフトバンク流 研修開発スキーム」(30min.)

ソフトバンク通信3社(ソフトバンクユニバーシティ)では、
4年前から研修開発の内製化に取り組んでおり
現在までに約40コースの内製コンテンツを開発しました。
過去4年の歴史に見る、ソフトバンク流の研修開発スキームをご紹介します。

・セッション2「ソフトバンク流 講師育成の秘訣」(30min.)

世の中の外注講師とソフトバンクユニバーシティの内製講師はどこか違うのか?
短期間で内製講師をどのように育成しているのか?
社内講師育成のための研修プログラムとは?
これらの秘訣をお話します。

(ソフトバンクモバイル株式会社 島村公俊さま/大内礼子さま)

・ダイアログ

・ラップアップ


■参加条件

下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
いるとみなします。

1.本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、経営学習研究所、ないしは、経営学習研究所
の企画担当理事が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料
、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。マスメディアによ
る取材に対しても、許諾なく提供することがあります。
参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

2.欠席の際には、お手数でもその旨、
info [あっとまーく]mallweb.jp まで(松浦李恵)ご連絡下さい。
人数多数の場合には、繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。

3.人数多数の場合は、抽選とさせていただきます。4月1日まで
にお申し込みをいただき、4月2日には抽選結果を送信させていただき
ますので、あしからずご了承下さい。

以上、ご了承いただいた方は、下記のフォームよりお申し込みください。

(短縮URLにエラーがでているようです。下記からお申し込みください。まことに失礼致しました)
お申し込みフォーム
https://docs.google.com/forms/d/1oLvLhvSu564bZuzwHP5MiqMsPy3CRnNzR5WLkRc988w/viewform

皆様とお会いできますこと愉しみにしております!

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投稿者 jun : 2013年3月13日 05:34


社会人が大学院で学ぶということ:「身につける系の学び」と「整理・再定義・解体系の学び」

 中原研には、いったん社会に出て大学院にこられたり、働きながら学ぶことをめざす、いわゆる「社会人大学院生」の方々もいらっしゃいます。
 ストレートに大学院に来る学生には、その強みがあり、一方、社会で揉まれた経験を有する大学院生にも、その強みがあります。どちらがどうこう、という価値判断は、僕には1ミリもありません。ただ目の前に、大学院生がひとりいらっしゃるだけです。多種多様な方々が、研究室に入って、学ばれるといいな、と思っています。

  ▼

 ところで、社会人が大学院に来て学ぶ、ということは、一般には、「知識・専門性を身につける」「研究の方法論・問題解決の方法を身につける」と考えられがちです。

 ですが、少なくとも僕の研究分野の場合、経験上、大学院で学ぶということは「身につける系」だけではすみません(今日の記事では、敢えてメタフォリカルに、学びを二つにわけて考えましょう)。
 もちろん、入学なさったあとは、膨大な文献を読むことが求められますし、統計などもガシガシ学んで頂きます。「身につける系」は、たしかに大切ですが、それはミニマムです。

 しかし、一方で、大学院で学ぶことは、

「知識や技法が増えて、頭よくなって、よかったね!」

 ではすまないのです。

「身につける系」も大切なのですが、一方で「整理・再定義・解体系の学び」の方のポーションも少なくありません。 

 ひとつひとつの言葉、概念を学び、再定義することを通して、これまでの経験を整理していくことが求められます。自分の価値観や思考パターン、経験などを「解体」してしまうことも求められる場合があります。これらひとつひとつが、「カルチャーショック」のもとです。

  ▼

 どういうことかと申しますと、たとえば、語の使い方からいっても「シャバの世界(!?)」と「アカデミックな世界」では、用法が異なります。

 例えば、「仮説」という言葉の使い方。
 アカデミックな世界から見ると、シャバで用いられている「仮説」ということばの用法とは「自分が進もうと思っている方向性」という意味で用いられることが多いように感じます。
 しかし、アカデミックな世界での仮説とは「真偽が判定可能な命題」です。仮説とは、正しいか、正しくないかが、根拠をもって判定可能であるくらいのフォーカスが必要であり、「一寸の曖昧さ」「言いよどみ」を残すものであってはなりません。

 この種の言葉の違いなら、いくらでもあげることができます。
 主観的とは何か?
 客観的とは何か?
 検証とは何か?
 これらひとつひとつの言葉の意味を整理し、再定義を行い、時には整理をすることができます。
 僕はもちろんですが、そういう概念レベルのトレーニングについては、研究室の、おそらくは年下の学生から指摘されます。なかなかショッキングな出来事です。

  ▼

「言葉の整理」は、僕の研究分野の場合、「経験の整理や解体」につながります。
 実務の世界で自分が行った様々な経験が、理論的にはどう考えうるのか、学問の世界では、どう捉えられるのか。それらひとつひとつを整理し、再定義していくことが求められます。

 時には、「自分しかしていないと思っていた経験」や「自分が重要だと思っていた経験」も、学術的には「言い古されたこと」ないしは「先行研究の手垢にまみれた常識」であり、「研究としては価値がない・意味がない」とラヴェリングをされることもあります。
 自分が大切だと思っていた価値観や考え方や経験を「学び捨てること」が求められることもあります。

 要するに何が言いたいか、というと、「整理・再定義・解体系」とかきますと、非常にニュートラルに耳障りよく聞こえますが、それは「まことにシンドイこと」であります。

 あまりの「異化」作用!

 そのことの違和感やカルチャーショックに、耳を背けてしまうといったことも、おきないわけではありません。経験上、すべての社会人経験者の方が、どこかのタイミングで、悩み、一時期は、ふさぎ込んでしまいます。
 もちろん、受け入れるこちら側も、そういう瞬間が、いつかくることは、ある程度はわかっていますので、いくつかのセーフティネットを張ってお待ちしております。社会人経験者が大学院に入ってくるときに行う、僕の予期的社会化戦術は、また別の機会にお話をしましょう。

  ▼

 このように、少なくとも僕の領域に関しては、大学院での学びは「身につける系」だけではすみません。もう少し深い思考レベルの変化をともなう可能性もあります。

 しかし、僕個人としては、だからこそ、大学院は、他の社会人教育施設とは異なった存在意義(レゾンデートル)があるのだと思っています(どちらがいいとか悪いとかの問題ではありません)。

「短期的に知識や技法身につける」のではなく、「比較的長期にわたって、整理し、再定義をする。フォーカスをしぼり、不必要なロジックを解体する」。その上で、誰もが経験したことのない領域について自分なりの仮説をかかげ「探究」を行う。
 万人受けはしませんし、する必要もないのだと思います。しかし、そういうニッチな学びを志したい方に大学院は、向いているような気がします。

  ▼

 今年ももう年度末。
 来年になれば、新たに学生が、教室に集まります。
 整理、再定義、解体、そして探究。
「例年のサイクル」が、またはじまります。

 そして人生は続く 

投稿者 jun : 2013年3月12日 06:07


対話のない学会、議論できない学会

「学会で話をすること、なかなかできないもんね・・・」
「学会で顔をあわせていても、じっくり話せないねぇ」

 ここ一ヶ月ほどのあいだに、何度か、同期の研究者と会い、じっくり話す機会があって、こんな話になりました。

 年に一度開催されることの多い、学会の大会(年会)が、次第に「議論のない(できない)学会」「対話のない(できない)学会」になりつつあるね、という話でした。

 もちろん、大会(年会)自体や、その運営について、あーだこーだ言うつもりは全くありません(僕の参加する学会は、毎年、様々な挑戦をしていると思いますし、運営も多くの場合、パーフェクトに近いと思います。皆様お疲れ様です。裏方のお気持ちはよくわかっているつもりです)。

 正確に、かつ、自戒をこめていいますと「対話できずに学会に参加している自分たち」「議論できずに学会に参加している自分たち」がいるだけであるような気がします。この問題は、あくまで「自分ごと」としてとらえております。

 自分たちの置かれている環境・境遇・時には怠慢から、その場が、なかなか「議論することができない機会」「対話することのできない機会」になってしまっていることに「危機感」や「焦燥感」をもっているということです。
 少なくとも、僕は、そうです。だからこそ、自分で、半年に一度は、同年代の研究者に声をかけ、対話し、議論できる場所を敢えてつくろうとしているのです。

 ▼
 
 「議論のない学会」
 「対話のない学会」

 一般に、この言葉は、少し「変なもの」として感じられるかもしれません。
 なぜなら「学会」とは、「共通の学術的関心をもつ研究者が集まり、最新の知見を披露し、議論・対話する場所だと考えられている」からです。「議論のない学会」「対話のない学会」とは論理矛盾ではないか、と。

 しかし、特に「中堅以降の研究者」にとっては、学会で、そのようなコミュニケーションをとることは、なかなか難しいのです。
 学会の合間に、様々な寄り合いやら、なんちゃら委員会などに招集される。プロジェクトや科研の打ち合わせが、ここぞとばかりに入ってしまう。
 大学院生の発表を聞きに行かなくてはならない(僕は敢えてしません)・・・などなど、要するに、そこが「オペレーションを回す場」になっているのです。本当に忙しい。

 かくして興味深いことに、「顔をあわせていても」、挨拶をするくらいで、話をする時間が全くない、という状況が生まれます。同じセッションにいても、発表をして、質疑応答というお決まりのコミュニケーションでは、じっくり話をすることは難しいでしょう。

  ▼

 若年層の場合には、学会は、業績を積む場・発表練習を行う場として、あるいは、リクルーティングの機会として、位置づけることができるのかもしれません。
 しかし、中堅以降のミドルキャリアの研究者にとっては、なかなか、その意味づけ・位置づけが難しい。

 でも、このままでは、ちと、「まずい」かもしれませんね。
 少なくとも自分に関しては、学会(年会)参加のあり方を考え直すべきときにきているのかもしれないな、と思います。
 時間をかけてせっかく参加するのであるならば、インサイトやラーニングに満ちあふれた機会にしたいものです。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月11日 09:48


【シェア・拡散・転送希望】「知っていれば防げた! STOP!風疹 赤ちゃんを守れ」

 もう既にニュース等でご承知のとおり、風疹の感染拡大が問題になっています。NHKが特設サイトを開設したとの連絡を、同社Uさんより受けました。ぜひ、この問題について、しって頂く機会をとのことで、僕のサイトでも取り上げさせていただくことにしました。

 風疹問題の要点は下記となるそうです(NHK Uさん情報提供、感謝!)

【風疹問題の要点】
▼今年の風疹の感染拡大は去年同時期の20倍以上。中心は20-40代。

▼妊娠1カ月の女性が風疹にかかると、障害のある赤ちゃんが生まれる確率が50%以上。

▼すでに、去年10月から「先天性風疹症候群」の赤ちゃんが6人産まれている。(難聴など)

▼今年の感染拡大から推測すると、今年中に50人-100人前後のこうした赤ちゃんが生まれてしまう可能性がある

▼予防は予防接種のみ

▼予防接種は妊娠してからでは不可。予防接種してから2カ月は避妊必要

 シェア・拡散・転送をお願いいたします。

「知っていれば防げた! STOP!風疹 赤ちゃんを守れ」

http://www3.nhk.or.jp/news/0308fushin/

投稿者 jun : 2013年3月10日 08:46


海外で活躍する日本人社員は、どんな人材なのか? どんな環境・仕組みを整備する必要があるのか?

海外で活躍する日本人社員は、どんな人材なのか?
 そのためには
どんな環境や仕組みが必要なのか?

   ・
   ・
   ・

 ダイヤモンドさんとのコラボレーションで、下記のような調査を実施することになりました。経営環境・事業環境がグローバル化を迎えている今、そうした問いに対して、ともに探究いただける企業さまを募集しております。

 下記要領をご一読いただき、もしご関心にあうようでしたら、ぜひご参加いただければ幸いです!下記要項は転送自由ですので、どうぞ周囲にご関心のあう方がいらしたら、ぜひご転送をお願いいたします。

==================================================
海外で活躍する日本人社員に関する質問紙調査
ご協力のお願い(転送自由)
==================================================

このたび、ダイヤモンド社さんとのコラボレーションで、「海外で
活躍する日本人社員」に関する調査を推進しております。

日本企業が今後グローバル化を進めるためには、グローバルで通用
する優秀な人材の確保・育成は不可欠であり、その能力要件を明確
にすることは喫緊な課題かと存じます。

今回ご協力をお願いするのは、貴社の海外赴任者ならびに評価者の
方を対象にしたアンケート調査の実施です。
本調査の目的は、海外で活躍できる人材の個人的資質、および、
その労働環境の明確化を狙いとします。

今回は10社限定で参加企業様を募集します。
是非、本調査にご参加いただけますようお願い申し上げます。

ーーー

【調査依頼事項】
●ご依頼先
グローバル展開をしている企業の人事/経営企画
海外事業ご担当者様

●調査対象者 
1. 今春より海外赴任される方 1社5名以上
2. 赴任先の上司の方(または人事の方)

●実施時期
1回目調査 2013年3月~4月
  :海外赴任される方に赴任前に実施 
2回目調査 2013年9月~10月
  :1回目調査に回答された方と上司の方
  (または人事の方)に実施 

●質問数・回答所要時間
1. 海外赴任者の方には1回目調査、2回目調査とも約200問・30分程度
2. 赴任先の上司の方(または人事の方)には、約15問・5分程度
 
●実施方法
以下の3パターンを用意してあります。

1. ペーパー調査の場合
調査用紙(人数分)をお送りいたします。

2. WEBアンケートAの場合
人事ご担当者様から調査対象者の方のメールアドレスを提供いただきます。
その後、WEBアンケート用のURL・ID・パスワードをご連絡いた
します。

③WEBアンケートBの場合
人事ご担当者様に人数分のWEBアンケート用のURL・ID・パスワード
を発行いたします。ご担当者様から対象者の方に調査依頼をしていた
だきます。

【ご協力のメリット】
アンケート協力企業様に対しては、弊社よりアンケート集計・分析の
レポートを提出させていただきます。
分析にはもちろん中原も加わり、分析結果に対するコメントも
いただきます。今後のグローバル人材育成施策の基礎データとしてご
活用下さい。

≪ご報告内容≫
■調査結果に基づくグローバル人材の要件
■調査結果からみた貴社の現状
■調査結果からみた貴社の課題
■貴社全体集計データ
■個人回答データ 

【ご参加いただく場合の問い合わせ先及び詳細資料請求先】 
株式会社 ダイヤモンド社
人材開発編集部 担当:横川・永田
hd@diamond.co.jp
〒150-8409 東京都渋谷区神宮前6-12-17
TEL:03-5778-7229

==================================================

投稿者 jun : 2013年3月 8日 14:51


予測不可能・複雑怪奇な「現場」で「あと半歩踏み込む」

「君がいい写真を取れないのは、半歩"踏み込み"が足りないからだよ」
If your picture isn't good enough, you're not close enough.

   ・
   ・
   ・

 先日、横浜美術館で開催されている「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」展に出かけました。

「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家」
http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2012/capataro/

 ロバート・キャパは言うまでもなく、世界でもっとも有名な戦場カメラマン。1930年代から数十年にわたり、5つの戦争に従軍し、その様子を撮影した方です。

 一方、ゲルダ・タローは、1930年代にキャパのパートナーだった女性の、やはり戦場カメラマンですね。キャパが駆け出しの頃、2人で「ロバート・キャパ」を名乗り、作品を世に出していた時代があります。

 たぶん「ロバート・キャパ」の名前を知らない方でも、下記のような写真はご覧になったことがあるのではないでしょうか。教科書や多くのメディアでは、よく掲載されています。

ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー 二人の写真家展が横浜美術館で
http://www.asahi.com/event/AIC201301240008.html

 Googleで「ロバート・キャパ」と画像検索をすると、もっと、いろいろな写真がでてきますよ。

  ▼

 展覧会を見ていて、つくづく思ったのは、冒頭にあった「半歩の踏み込み」です。写真についても、戦争カメラマンについても、全くの「門外漢」なので、「しょーもない感想」ですが、そんな僕が、つくづく、思ったことは、

「戦場の、この現場において、自分は"半歩踏み込める"だろうか」

 ということでした。

 血が噴き出し、人の生き死に、怒りと悲しみが交差する、まさにその「現場」において「半歩踏み込む」というメタファの意味するところ、またその「リアリティ」や「難しさ」を、ひしひしと感じました。

 文化人類学者の小田博志さんによれば、現場とは「現在進行形」「具体性」「複雑性」「予測不可能性」「即興性」などの、5つのキーワードで彩られる場所だといいます(小田 2010)。

 要するに、現場とは「現在進行形で、個別具体的な物事・出来事が進行し、その様相は複雑きわまりなく、かつ予測不可能である場合」が多い。
 そして、人は、そのような場では、そのつど、そのつど、現場で流れる情報 - 現場粘着情報 - を駆使して、即興的反応、意思決定を行うことが求められるということです。

 キャパは、いつも、「現場」にいました。それも、究極の現場、「戦争という現場」に。

 特に、ロバートキャパの名前を一躍有名にした「崩れ落ちる兵士」の写真、「D-day(ノルマンディ上陸)の写真」などは、飛び交う銃弾の、まさにその「中」に、キャパがいたことを意味します。
 その「現場」で「半歩踏み込む」。そのことの意味を、とても考えさせられる展示でした。

 キャパは、後年、自身も地雷で命を落とします。
 が、彼が言ったとされる名言が、切なく胸に響きます。

「戦場カメラマンの一番の願いは、失業することなんだよ」

 ロバート・キャパ、40歳の若すぎる死でした。

  ▼

 今回の展覧会は、戦争カメラマンといった活動に興味のお持ちの方はもちろんのこと、少し想像を膨らませれば、「現場に身をおき、そのつど、そのつどの即興的判断」を行っておられる方々にも愉しむことができるのではないでしょうか。

 展覧会に込められた意図にそった、まっとうな見方ではないかもしれないので、まことに恐縮ですが、個人的には、今回の展覧会、そうしたパースペクティブから見つめておりました。

 予測不可能・複雑怪奇な「現場」で「あと半歩踏み込む」
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月 8日 05:56


ヒアリングの鉄則:「その日のうちに記録すること」の意味

 ヒアリングの「鉄則」というのがあります。フィールドワーカーの「鉄則」でもあるので、特に経験のある方は、ご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

 そのひとつは「ヒアリングをさせていただいたお話は、その日のうちに、必ずフィールドノートに記録する」ということです。
「その日のうちに」というところが、「死守するべきポイント」です。その日一日あまりのハードワークで、死にかけ人形になって「はひー」とタワゴトをのたまっていても、それは「死守」せねばなりません。
「たったそんだけのことかよ、さっさとやれよ」とおっしゃる方がいらっしゃるかもしれませんね。
 でもね、一度やったことのある方は、絶対にわかると思います。ヒアリングやフィールドワークでただでさえ、頭をフル回転したあとで、さらに記録することが、どれだけハードワークなのかを。

  ▼

 このことは、学部時代から、厳しく指導を受けました。当時、僕は、2時間かけてフィールド先に通っていたのですが、一日の観察を終え、帰宅する頃にはもう夕方になっていました。
 で、そこからその日1日、見たもの、耳にしたことの記録がはじまるのです・・・そう「深夜丑三つ時」まで(笑)。

 やっているうちに「意識モウロウ子」ちゃんになったり、「居眠り狂死郎」になったりする経験を多々積みました。それでも、何とか、今まで生き残っています。人間、やればできるものです(笑)。

  ▼

「その日のうちに記録すること」

 このことがなぜ大切かというと、少なくとも僕の経験上、1日おいてしまうと、伺った話の50%は詳細が思い出せなくなるからです(ということは、厳しい教えを破ったことがあるということですね・・・自爆)。2日おくと、90%はお亡くなりになります。3日たてば「ご臨終」でしょう。

 もちろん「箇条書き」にできる程度の「粒度」でよいのなら、思い出せるかもしれません。

「現場では・・・て言っている人がいました」

 その程度の「粒度」しか求められないなら、3日寝かしても、大丈夫です。

 しかし「データ」として「意味のあるレベルの詳細さ」は、確実に復元はできません。「データにする」と言うことは、その場でどのような会話がなされ、どのような反応があったかを事細かに示す必要があるのです。そのレベルのディテールは、少なくとも僕の場合は3日で「死滅」です。

「死滅」ということは、「フィールドに出向いたとしても出向かなかったとしても、何もしなかったのと同じ」ということです。「ヒアリングをしても、しなくても、意味はない」ということです。
 これは、フィールドとして僕を受け入れて下さった方々、貴重な時間を費やしヒアリングに応えてくださった方々にとっても、失礼なことですね。

 ちなみに、この「死滅」レートは、ほぼ僕の記憶力が、やや機能不全に陥っているせいかもしれません。が、人は意外に思い出せないものですよ(泣)。どうかな? 僕だけじゃないと思うけどな。

  ▼

 というわけで・・・小生、今まさに、それをやっている最中なのでございます。
 今日は2名の方々に貴重なお時間をいただき、ヒアリングをさせていただきました(感謝です!)。これを、今、記録している最中です。

 というわけで、このブログ記事の意味がおわかりですね。そろそろ「現実逃避のブログ執筆」から、本来、今、小生が取り組まなければならないことに戻りたいと思います。

 ついつい「大切なこと」、「今やらなければならない貴重なこと」に取り組み始めると、人は「現実逃避」したくなるんですよね。

 僕は「弱い人間」です。

 貴重な現実を、記録に刻む。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月 7日 22:18


「何かに挑戦している大人」と「何をやってもつまらなそうな大人」 : 「素朴概念」と「組織の枠」をはずして考える

「何かに挑戦している大人」「働きがいをもって仕事をする大人」は、組織の大小にかかわらず、探せばどこにでもいる

 逆にいうと、

「やらされ感漂いながら疲れ果てて仕事をしている大人」「何をやってもつまらなそうな大人」は、組織の大小にかかわらず、探せばどこにでもいる

  ・
  ・
  ・

 文章にしてしまうと「アタリマエのコンコンチキ」のように思えることかもしれませんね。いやー、まことに失敬。でも、ここ数年、学部生の方々と話していると、必ずしも、そうは思っていない方がいるよな、と思うことがあります。

 場合によっては、

 大きな企業=組織の歯車として働く
 ベンチャー企業=夢をもって挑戦して働く

 ないしは

 大きな企業=言われた仕事をやる
 ベンチャー企業=自分のやりたいように働く

 みたいな「イメージ」をもっておられる場合が少なくありません。
 別に他人が組織にどういうイメージをもとうが、それは「人の勝手」なので、僕としてはどうでもいいです(社会人面してアドバイスする気はありません)。採用や就職は専門外、全くの門外漢ですし、上記の命題を検証できる手持ちのデータはありません。

 ただし、この十年以上、本当に様々なビジネスパーソンとお会いしてきた経験からすると、この認識とはちょっと違う現実があるような気がするのです。

 ひと言でいうと、人の働き方や仕事に対するモティベーションを考えるときに「組織の規模」や「組織の枠」に囚われすぎると、判断を誤ってしまうことも少なくないな、と思うのです。
 別に大きな企業を擁護する気は「さらさらない」のですが、「そういうのは組織の規模じゃない」ような気もします。「何かに挑戦している大人」や「何をやってもつまらなそうな大人」は、組織の規模にかかわらず、どこにでもいるよ、と。

 大企業にいても「新技術の開発、新たなマーケティング戦略、新たな商品開発に、夢をもって取り組んでいる人」もいる。部署間をつないだり、社外の様々な企業と連携して、イノベーションをおこそうとやっきになっている人もいる。
 もちろん、一方で、働きがいを失っている人もいる。いやいややりたくない仕事に取り組む人もいる。

 他方、ベンチャー企業だからといって、「自分のやりたいように働ける」場合が必ずしも多いわけじゃない。ひたすら金策に走り回ることに疲れ果てることもある。人数が少ないので、すべての業務を自分で引き受け、全く自宅に帰ることがままならない人もいる。
 もちろん、夢をもって、自分の事業を大きくすることに取り組む人もいる。新技術を片手に、世界を相手に仕事をしている人もいる。仕事を通じての成長に生き甲斐を感じている人もる。

 どっちが多いか、と言われると、正直、わかりません。
 一方で、「もし、どちらかが多いのだする」と、そのことで、自分の進路を選択しちゃうのですか? とも聴きたくなります。 
 おおよそ「人」に関することなんだから、意識やモティベーションは、時期に応じて日々かわり、アップダウンを繰り返すでしょう。意識やモティベーションが、ずっと「高い人」は、ある意味で危ない気もしますし、ずっと「低い」のも危ない気もします(笑)。

  ▼

 やや話が「脱線」しました。
 要するに、こういうことです。

「組織の規模が、人の働き方やモティベーションを決定する」

 と考えることは、ある種の「ステレオタイプ」のようにも思います。それは、いわゆる「素朴概念」・・・仮に名付けるのなら「素朴労働観」「素朴組織観」「素朴モティベーション観」といってもよいかもしれません。

 こうした「固定的な認識」に依拠かぎり、そこで「思考停止」できますので、「他に何も考えることがなくってて楽」なんだけど、どうも「現実」はそうなっていないんじゃないだろうか。
「組織の規模」や「組織の枠」でものを考えることをやめてみると、いろいろ見えてくるものがあるんじゃないかな、と思います。
 「組織に縛られたくない」とよく人はいいます。もしそうであるのなら、自分が働き方を考えるときに、自らが「組織の枠」に囚われていないかを、チェックしてみてもいいのではないでしょうか。「組織に縛られたくない」人が、「組織の枠」を通して物事を見つめているのだとしたら、それは論理矛盾です。

「何かに挑戦している大人」
「働きがいをもって仕事をする大人」
「やらされ感漂いながら疲れ果てて仕事をしている大人」
「何をやってもつまらなそうな大人」

 誠に、世の中には、いろんな人がいます。
 学生にも多種多様な人がいて、大学時代をいろいろに過ごすように、ビジネスパーソンといっても、多種多様。働き方に対する意識やモティベーションも多種多様。
 島倉千代子の「人生いろいろ」、今度、カラオケで歌ってごらん(笑)。

 もしアドバイスするのだとしたら「組織の規模」「組織という枠」で判断する前に、いろいろな人に、あってみて、話をしてみると、いいんじゃないかなぁ。
 そして、そのうえで「自分はどうなりたいか」を考えて見れば、また違ったパースペクティブが広がるのかもね。

 本当に情けないほど陳腐なアドバイスでごめんなさい。でもね、本当にそうとしかいいようがないので、しょうがないんですけれども(笑) なんか、こういうの、しゃべるの、オッサン臭いね。もうやめるね。

 そして明日に、人生は続く

投稿者 jun : 2013年3月 6日 06:42


「学びを他者に記録される側」から「学びを自ら記録する主体」へ:「学びの様子」はなかなか伝わりにくい!?

 この2日間、恒例の大学院中原研究室・学際系!?合宿「EnCamp2013(エンキャンプ2013)」に出かけておりました。この合宿は、中原研究室とご縁(En)のある方々が集い、各学問領域の最先端について2日間で相互に学ぶことをめざす「Camp」のような合宿です。EnとCampで「EnCamp」、そのまんまですな(笑)。今年は、大学院レベルの内容に焦点をしぼり、25名弱の方々にご参加いただきました。ご参加頂きましたみなさまお疲れ様でした。ありがとうございました。

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 この合宿で扱った内容は、各学問領域の最先端。
 内容は、非常に多岐にわたります。
 学習科学、デザイン実験、素朴学習観、イノベーションプロセス、オープンイノベーション、組織論、産学連携、資源動員、パフォーマンスエスノグラフィー、特権性、Good Research(よい研究)、舞台とパフォーマンス、越境、Connected Learning・・・。
 ご出講いただいた益川先生、伊達先生、高尾先生、岡部先生、そして中原研のみなさまには、心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 学問とは本当に「面白い」もので、非常に多岐にわたる分野ながらも、必ず、シンクロニシティ(同じような主張が、違ったかたちで、同時期になされる)が存在するものです。些末な点は学問領域によって状況は異なりますが、多くの場合、わたしたちは「大きな学問的潮流」の中にいるものです。ふだん、日常的に雑事に追われているときは気づかないけれども。
 EnCamp2013にご参加頂いた方々は、おそらく、その片鱗を、それぞれごとにお感じになられたのではないか、と思います。そういう意味で、学問は「面白い」んです・・・実は、みんなつながっているから。

 下記は、2日間をまとめた中原のラップアッププレゼンテーションです。一応公開させていただきますが、たぶん、これだけ見てもおわかりいただけないことも多々あるのかな、と思います(泣)。ごめんなさい。また、次年度、もし、皆様の希望があれば、EnCamperを募集させていただきますので、どうかお許し下さい。


 
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 今回のEnCampでは、不肖中原にはもうひとつの「挑戦」がありました。
 いつだって「背伸び」がなけりゃ面白くない。

 それは、日のブログでも書きましたように「ドキュメンティング・ファシリテーション」という「新たな学び創造の文法」の準備を、自ら進めることです。今回は、舘野さんにサジェスチョンと機会をもらい、いわゆる「リアルタイムドキュメンテーション」といわれるものに、まずは、チャレンジしてみました。

ドキュメンティング・ファシリテーション
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/02/post_1964.html

 下記のビデオは、大学院生の皆さんにお力をお借りしつつ、中原が会に自ら参加しつつ、かつドキュメンテーション(記録)を行ってみた結果です。ひとりでリアルタイムにつくりました。
 これまで、僕は、たぶん数十回は「リアルタイムドキュメンテーションされている」と思うのですが、自ら、自分で、リアルタイムドキュメンテーション・ムービーを作成したことはなかった。つまり「記録されること」はあっても、自らが「記録する主体」ではなかった。

 今回のビデオは、ipadを片手にiMovieをつかって、リアルタイムに映像記録を行いました。2日目には、この映像をみんなで見つつ、2日間を振り返りました。

 ちなみに、僕はリアルタイムドキュメンテーション業界!?カーストの最下層にいる人間です(笑)。iPadを片手にもって、iMovie編集をはじめて行ったのは、2日前。なんとPC版のiMovieに関しては、触ったことがありません。ですので、別に「予防線」を張っているわけではないですが、下記のビデオは、そういうレベルなんだ、という前提でご覧下さい。
 逆に、2日間、触るだけで、ここまではできるという自信を皆様にもっていただけたとしたら、嬉しいことです。大丈夫、誰でもできるんだよ(笑)。


■EnCamp2013(HD画質)

もし見られない、ないしはコマ落ちがおこるようでしたら、こちらをどうぞ「EnCamp2013 SD画質」
http://www.youtube.com/watch?v=WNt5ecCu8fA

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 今回、僕自身が「参加し、記録する主体」となってみて、いくつかはじめてわかったことがあります。いままで「記録される主体」としてはわからなかったことが、ようやく、自分でやってみて、遅まきながらわかりました。ごめんね、遅くて。でも、2日間、マジでガチに、この課題に取り組んで、僕は、ようやくわかりました。

 ひとつめは「概念の整理」の問題です。
 今後、ドキュメンテーションは「リフレクション用」なのか、「セレブレーション用」なのかをきっちり分けた方がいいのではないか、ということです。
 つまり、映像を用いて、「その日あったことをきちんと振り返ること」が目的なのか、それとも、「参加した方々に、集合記憶をもってもらったり、社会的連帯を強化すること、感情浄化を目指すこと」が目的なのか・・・この2つのどちらをめざすのかは、はっきりした方がいいということです。現在、映像を用いたリアルタイム・ドキュメンテーション・ムービーは、この2点が非常に混乱した状況にあるような気がします。

 上記のVは、どちらかというと、後者の「セレブレーション」風のつくりになってしまいました。本当はリフレクションムービーを目指していたはず・・・なのですが。。。わたしの技術が「ヘボい」せいだと思いますが、この形式で記録し編集すると、どうしても、後者の「セレブレーションムービー」になってしまいます。

 逆に思ったのは、リフレクションムービーとして、用いるなら、これとは「違う映像文法」が必要なのではないかと思いました。そして、その案は、つくりながら、僕には、浮かびました。次は、それにチャレンジしてみたいと思っています。また、おひとりビデオ編集で。

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 ふたつめ。
 それは、アタリマエダのクラッカー、何をいまさらジローかもしれませんが、「学びとは、それがどんなに素晴らしいもの、かつ、インサイトに満ちあふれるものであったとしても、その場にいない他者に、その本質を伝えることは、本当に伝えることが難しい」ということです。
 そのことはわかっていたつもりでしたし、また、それを「伝えること」にチャレンジしつづけてきた十数年だったとは思うのですが、今回、ひとつひとつの映像カットを選択し、編集しているうちに、本当に、この感情を強くもつようになりました。

 先ほどのビデオをご覧になった方は、すぐにわかると思うのですが、その「構図」は基本的には「発表している」「座っている」「喋っている」の3つくらいしかないことに気づかされます。

 そこには「EysーOpnerな変化(目を見張るような変化)」はあまりありません。つまり、どうしても「絵」としては「地味」になるのです(念のため行っておきますが、被写体が地味だといっているわけではありませんよ!)。
そこでは、本当に貴重な「気づき」や「学び」や「違和感」が各参加者毎に起きているはずなのですが、それを、「その場に居合わせない他者に伝えること」は「至難の業」なのです。僕の技術が「ヘボい」せいで、そうなっていることは否めませんが、これはなかなか難しい課題だと思いました。

 そして、やや妄想力を爆発させて、かつ、自戒をこめて申し上げますと、「他人に学ぶ様子」はなかなか、その場に居合わせない人々に伝わりにくいことに、もっと「人」「組織」「学び」に関係する方々は、自覚的でありたいものだと思います。「人が育つ様子」「人が育てられる様子」「人が学ぶ様子」「人が教える様子」は、その場に居合わせない人々 - 多くの場合は、その場の継続の決定権をもつ人々 - にとって、相当「遠い」ということを自覚するということです。
 ですので、「伝える努力」「伝えるメディア」「伝える機会」をもつことが大切なのかもしれません。いくらやっても、いくらアカウントしつくしても、足りなすぎるくらいなのかもしれません。

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 みっつめ。
 それは端的に申し上げるならば、「他人に記録される」よりも、「自分で記録すること」の方が、学びは深い、ということです。
 今回、僕は、最高の集中力で2日間を過ごしました。これが、もし「他人に記録される」のでしたら、ここまでガチに、その場に起こっている出来事にセンシティブであり続けることができたかは疑問です。本気の本気で、僕は考えました。なぜなら、見落としてはならないから。そこで発揮された集中力と根気は、自分が「記録される側」ではなく「記録する主体」になったことが大きいような気が致します。

 「記録される側」であるよりは、「記録する側」に回る
 自分の学びは、自分で記録する

 この時代にあって、自分の学び・成長の記録を、誰がトレースするのか? 誰にトレースされるのか?
 自分の学習・成長に対して、自分がイニシアチブを発揮し、記録し、自覚できるかどうかは、大きな問題であるような気がします。そんなことを考えながら、今回ビデオ作成をしました。

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 最後になりますが、中心的に、今回のEnCampの準備を行ってくれた保田さん、舘野さんを中心として中原研の大学院生のみなさま、本当にお疲れ様でした(感謝!)。手前味噌になって誠に恐縮ですが、ホスピタリティあふれるロジスティクス、また、インサイトにとむカリキュラムデザインだったと思います。本当にありがとうございました。

 2日間、もう燃え尽きたよ。
 中原研・吉村さん的にいえば、こんな感じ。

あしたのジョー
http://img5.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/a6/1d/nkboyhood/folder/565880/img_565880_52730046_0

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年3月 5日 22:28


新卒慣れしている組織、中途慣れしている組織 : 「採用の変化」と「組織学習」

 先日、ある研究会でお話をする機会をいただきました。

 研究会のテーマは「キャリアスリップ」。この概念自体、僕は、はじめて知りましたが、「想定外の出来事によって、自分のキャリアが、突然、逸脱してしまうようなこと」というのだそうです。

 キャリアを「右肩あたりの一本道」のように「線形性」のあるものとして捉えるのではなく、様々な「想定外の出来事」によって曲線を描くような「非線形的」なものとしてとらえることだと、個人的には理解しました。

 当日の僕のお話は、そうした出来事が起こった際、それをどのように支援していけばいいのかを、経営学習論の観点からお話しさせて頂きました。

2013-03-04_0713.png
(Tさん撮影の写真:感謝!)

 そもそも、わたしたちが現在、組織であゆむ道は「線形性」は仮定できないものになっており - いわば「非線形」化しており - だからこそ、人材マネジメントのあらゆる側面において、学習・変化に対する支援が必要になっている(僕はキャリア論については門外漢です)。

 その際には、人材開発や人材マネジメントの世界にはびこる「独我論的自己概念」を超えて、「対話的自己」概念をまずは仮定しなくてはならない。
 そのうえで、若手支援、リーダー育成などの各局面において、その発達をうながす社会的関係を構築しなければならない、というような趣旨のお話をさせていただいたつもりです。当日は、ここまで煮詰めてお話をしてはいませんが(笑)、くどくどと、回り道をした講演を通じて、僕が言いたかったことは、要するにそういうことです(笑)。

 要領をえない話であったかもしれませんが、登壇の機会をくださったN先生、Y先生、当日の仕切りをしてくださったTさん、そして、お話をお聞きいただいた皆様に心より感謝いたします。

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 研究会では、僕の発表後、ディスカッションの時間をとりました。皆様からはキャリアの問題のみならず、「様々な変化におそわれている企業内の人材マネジメント」について活発なご意見・ご質問をいただきましたが、個人的に興味をもったのは「中途採用 - 新卒採用のお話」でした。

 曰く、

「うちの会社は中途採用がメインである。中途採用をこれまでメインに行ってきた会社が、新卒採用を行っているが、かなり大変である。このことは、どう考えることができるだろうか?」

 というご意見でした。
 興味深い指摘であり、また、現場で容易に様々な問題がおこるであろうことが予想される事態だな、と思いました。

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 会社は、敢えてざっくり、敢えて潔くわけてみるとと、2つの軸で4つに分類することができるのかもしれません。ひとつの軸は「中途慣れ」、ひとつの軸は「新卒慣れ」。前者は「中途採用者を受け入れることに組織が慣れている状況」、後者は「新卒一括採用者を受け入れることになれている状況」をさします。

 そうしますと、会社は「中途慣れしているし、新卒慣れしている会社」「中途慣れしているものの、新卒慣れしていない会社」「中途慣れはしていないものの、新卒慣れしている会社」「中途慣れしておらず、新卒慣れしていない会社」の4つにわけることができます。皆さんの組織は、どちらに属するでしょうか。

 最後の「中途慣れしておらず、新卒慣れしていない会社」は、社長がワンマンで経営している創業当初の状態か、ちょっと口にだすのははばかられる、かなりブ●ックな人材マネジメントが常態化している状況が想像されますので、この場では取り扱いません。また「中途慣れしているし、新卒慣れしている会社」というのは、問題があまり生じなそうなので、やはり取り扱わないません。

 そういたしますと、問題は、下記の2つになります。

「中途慣れはしていないものの、新卒慣れしている会社」
「中途慣れしているものの、新卒慣れしていない会社」

 前者の企業は、新卒一括採用と強固な内部労働市場によって、人材マネジメントを行っている会社。後者は外部労働市場に門戸をひらき、経験ある実務担当者の出入りが常に存在している会社を想像すればいいのかもしれません。皆さんの会社は、仮に2つに分けるのだとすれば、どちらでしょうか。

 ここで採用をあえて「学習」の問題から考えますと、こうも考えられます。
 「新卒一括採用によって新規参入者を受け入れること」も「中途採用を受け入れること」も、長く行っていれば、組織は、それに対処する方法を「学習」するということです。

 新卒をどのように扱い、どのような支援を行えばいいのか。彼らには何を期待して、何を期待できないのか。
 はたまた、中途採用者をどのように職場は受け入れ、どのように新たな役割を担ってもらうのか。中途採用者には、どの程度、最初は何を期待し、どの程度マネジャーがかかわればいいのか。

 こうした様々なノウハウが、長い年月をかけて、組織の中の智慧として学習されていくのです。「学習された対処法」は、長い時間をかけて、組織のルーティンや各種のツールに落とし込まれ、日々、実践されていきます。

 しかし、人材のマネジメントに変化があらわれ、たとえば「新卒慣れしている会社が、中途採用をがんがん行わなければならない事態」や「新卒慣れしていない会社が、新卒採用を受け入れる事態」が生まれ出しますと、そういうノウハウを多くの場合、ゼロから創り出さなくてはなりません。

 様々な試行錯誤の果てに、組織メンバーがつくりあげたノウハウが、共有され、制度化されるまでには、時間がかかります。しかし、これから逃げていては、いつまでたっても、組織の中に「採用のルーティン」ができません。

 特に後者のような組織の場合、事態はより深刻になることが予想されます。通常、新卒一括採用で採用した若年層は、自分のエントリーする組織が、どの程度「新卒慣れしている会社」か「新卒慣れしていない会社」かは考えないものです。そして、彼らは業務にも、組織で働くことにも、慣れてはいません。
 そうであるならば、新規参入者がエントリーしてくる前に、彼 / 彼女には、どのような人材マネジメントを行っていくのか。職場には何を期待し、組織社会化をどのように行えばいいのか、方針をたてておく必要がありそうです。

 このことは「中途慣れしていない会社」が、はじめて「中途採用」をはじめるときでも、程度の差こそはあれ、同じことです。それは採用形態の変化にとどまらず、「人材マネジメントのあり方を、組織が学習する機会」のはじまりでもあるのです。

(これまで日本人を主に採用してきた組織が、留学生や外国人を採用するときも、また同じ事がいえそうですね)

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 今後、日本の企業は、採用・人材育成のみならず、様々な人材マネジメントの局面が、外部環境の変化におうじて、様々に、変化していくかもしれません。その際には「採用の変化」だけを考えるのではなく、「採用を行ったあとの対処」について、組織として、いかに「学習」を行うかが問題になりそうです。

 特に、近年、採用活動のあり方は、根源的に変化しているような気もします。本日のような話題が、「まさに現在進行中」である組織も少なくありません。
 いずれにしても、「採用」は「採用」だけが重要なのではありません。
 むしろ、「採用を行ったあとの受け入れ」について、組織メンバーといかにノウハウを共有し、制度化を行うかが問われるような気がします。そして、そこまでのあり方を考えることが、「採用」である、と僕は思います。

 最後の話題は、やや「キャリアスリップ」とはズレましたが(話題)、そんな風に、人に関する、最新のリアリティある話題が交錯する興味深い研究会でした。

 そして人生は続く・・・。

投稿者 jun : 2013年3月 4日 07:05


マグロ的休日と畳放棄

 週末、皆さん、いかがお過ごしでしょうか。小生は、ウィークデーにたまった、いわば「借金」のような疲れを、なんとか「返済」している最中です。

 最近の小生は「ウィークデーの木曜日」くらいには、ほぼ「一週間分の体力」を使い果たし、そこからは、いわば「体力の前借り」をしている状況といった感じでしょうか(笑)。

 まぁ、「返済」といっても、「寝ている」わけではありません。どうも寝てられないんだよね。動き回りたくなっちゃう。たぶん、この10年、休日におうちからでないで、自宅マッタリしていたことは、一度もないのではないでしょうか。
「マグロ」みたいなものですね。泳いでいないと、エラに空気がはいらないので、死んじゃう。

 これから、iPadをもって、散歩にいこうと思っています。最近、映像編集に凝っていて、その素材取りをしにこうと思っています。今、ひそかに開発中のワークショップに使えると思う。

 ま、なんか、おうちでゴロゴロしたり、寝ているよりも、そういうことをしていた方が、僕の場合は、元気になるのかもしれません。こういうマグロ的休日は、他人にはおすすめできませんね。たぶん、畳の上では死ねないだろうから。

 ま、いいんだよ。すでに「畳放棄」してるから。
 じゃ、いってきます。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年3月 3日 10:24


"学び"が触発する環境をいかにつくるか? : 「転機」や「節目」を考える場のデザイン


 最近、「働く大人が学ぶための環境とはいかにあればいいのか?」ということを、よく考えさせられます。そこにいて活動をすることで、「学びが触発されてしまうような環境(空間)」をわたしたちは、どのようにつくりだせばいいのか。今日は、そのことを少し考えてみましょう。

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 これらの問いに関連して、すぐに脳裏に浮かび上がる概念は「学習環境のデザイン」とか「学習材」いう言葉になります。
 これらのワードが生み出される背景になったのは、様々な理論的系譜があり、それらを読み解く作業は、またチャレンジングな課題ではありますが、ともかく(!?)、これらが人々のあいだで語られるようになってきたのは、今から20年くらい前ではなかったか、と記憶しています。
 理論的系譜として、すぐに思いつくのは、ひとつはPepart, S.の「Constructionism」であり、ひとつは「状況論の導入」などでしょうか。このあたりの詳細は、近刊「プレイフルラーニング」でご覧下さい。
 
 いずれにしても、様々な理論的系譜がもつれて、よじれて、ひんまがっているうちに(!?)、「教授のデザイン」や「教材」ということばに加えて、「学習環境のデザイン」「学習材」という言葉が、実務の現場で、語られるようになったのではないか、と推察します。

 その様子は、ひと言でいうと

「教える人が、教える内容を魅力的かつ効率的に"設計"することに加えて、学ぶ人が学びやすい環境を設計し、用意すること」

 から

「教えるための道具や材料を準備することに加えて、学ぶ人が自由に用いることのできる素材を用意すること」

 に研究の射程が広がってきた、ということです。

 これら2つの理論系は、時に「置換モデル(ひとつがひとつを代替する)」をメタファに語られることが多いですが、実際のところは、後者が前者を「包摂」するような概念として理論的には位置づくものと個人的には思います。この詳細な議論は、また別の機会にいたしましょう。

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 学習環境のデザイン
 学習材
  ・
  ・
  ・
 後者の概念にたった場合、「学びのサプライサイド(供給側)」にとって必要なことは、「学ぶ人が学びやすい環境をつくること」であり、「かれらが自由に用いることの学びの素材(学習材)」を豊富に用意しておくことということになります。

 このことはお金をかけて、ドカーンと教室を改装しなければならない、とか、気合いをいれて「ラグジュアリーな素材」を準備おくことを必ずしも意味しません。そんな「鼻息」荒くしなくたっていいのよ(笑)。

 学習者のLearningful(学びを触発するような機会)をつくるというコンセプトに一貫してデザインや準備がなされていれば、その先にあるものは、実践現場の様々な状況に応じて、変化してよいのだと思います。
 
  ▼

 ところで、少し話題をかえて、「学習環境」や「学習材」という言葉の意味するものに思いをはせるとき、僕の脳裏には「茶道とは総合芸術である」という言葉が思い起こされます。
 主人、客人、お茶室、道具、お料理・・・茶道を構成する様々な要素が組み合わさり、茶道は協働的かつ社会的に「達成」されます。
 茶道をたしなんでおられる方からすれば、迷惑千万、至極残念(!?)でしょうが(笑)、そこにこめられた考え方は、僕の目からみれば「学びをデザインする」という考え方に、似ていることがあるな、と勝手気ままに思います。
 茶道が本格化したのは17世紀。
 その歴史的深みから考えて「ラーニングデザイン」の歴史なんていうものは、本当に浅いのだけれども、その含意するところを、僕なりに解釈すると、それは茶道に近しいところもあるように感じるのです。

 決して「絢爛豪華」でなくてもいい。決して「華美」ではなくてもいい。むしろ「侘び」と「寂び」の世界でいい。
 しかし、主人(学びのサプライサイド)のコンセプトにしたがって、その場の環境が準備(用意)され、客人(学び手)は、卒意(主人の用意に応えるかたち)をもって、その場で学ぶ。ときに、客人同士が交歓しあい、「相客一体」になる。
 そんな瞬間が、「学習環境のデザイン」のインプリメンテーションのめざすところと、近しい気がするのです。学習環境のデザインとは、環境一体・主客一体・相客一体の総体なのです。

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 すこし昔話になりますが(今日は話がとびますね)、僕が、はじめて「学習環境」「学習材」という概念を知ったのは、今から20年弱くらい前のことです。その頃の僕は、20歳をすこし超えたくらいのワコウド(ヤング?)でしたが(笑)、当時、自分が参与観察させていただいていた学習環境で、

「あー、この概念の意味するところは、こういう場所のことをいうのかもしれないな」

 と思ったことがあります。
 
 その学習環境は、ある「明確なコンセプト」のもとに、空間、家具、学習材が用意されていました。「学び手が自分の学びの活動を、自分でつくりあげられるように、様々な学習材」がふんだんに用意され、学びを触発しておりました。

 決して「華美」なわけではありません。むしろ底流に流れていたのは「DIYの精神」。しかし、そこは「Learningを喚起するようなEvocative Object」にあふれていた。
そこにいるだけで、何かを創りたくなってしまうし、何かを考えたくなる。創り上げたものを、誰かとシェアしたくなってしまう。そこは、そういう場所でした。

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 ひるがえって、「働く大人の学びの環境」というとき、「大人の学び研究」には、まだまだ、できることがあるな、と思います。

 なぜ「研修室」というと「白い壁」にかこまれた「教室」なのか。そこは、かつてゴッフマンが「全制的施設」とよんだような「息苦しさ」が支配することが多いのか。なぜ、Evocativeな学習材が、ふんだんに用意されていないのか。そこで学ぶ人は、何かを創り上げ、何かを他者とともに成し遂げようとしないのか。

 先日、ある学習施設で、ヒアリングさせていただいた際、その場の研修コースを企画運営をなさっている方が、こんな、印象深いひと言を述べられていました。

 大人が学びたくなり、かつ、学ばなければならない瞬間は、やはり「人生の転機」であったり、「節目」であったりすることが多いのです。 / だから、大人の学ぶ場所は、「人生の転機」や「節目」をしっかりと考えることにふさわしい場所であってほしいのです。

 もし、仮に、それが「事実」なのだとしたら、本来、働く大人が学ぶ空間とは、「そこにいるだけで、節目をしっかりと迎え、ビジョンを描き、かつ、希望を感じられるような場所」であってほしいものだと、僕は思いますし、それを手助けするような様々な道具・学習材にあふれる場所であってほしいと願います。

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 今日は話があっちゃこっちゃに飛んで、もうわけがわからなくなりました(笑)。

 最近、あまりに忙しく(もう週末ですか・・・なんか飛ぶように時間が過ぎていきます。今週も何とか生き残ったのですね)、いろいろなところで、得られたインスピレーションをまとめることが、僕に不足している証左でしょう。ごめんなさい。どうかお許し下さい。

 ただ、言いたいことはこういうことです。

「働く大人の学びの環境は、ふだん考えないことに気づき、未来を構想し、アクションを促すような「学びを触発する場」であってほしい。

 そういう場が増えることを切に願います。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年3月 1日 15:47