アクティブラーニング・ジャングルをサバイブする

 先だって、あるところで、「アクティブラーニングとは何か?」を講義しなければならない必要にかられて、それについて、「既存の言説」を読みながら調べていました。

 昨今、教育業界においては、「アクティブラーニング」が「大学教育の重要なキーワード」、「大学改革の政策に出てくるまでのワード」にもなりつつありますので、一応、それについても、講義で取り扱わなければならないな、と感じていたのです。

 しかし、「大きな問題」がひとつ(笑)。
 恥ずかしながら、小生、「アクティブラーニング」については、もちろん用語は聴いたことはありますけれども、これまで一度も、関連する文献を深く読んだことはありませんでした(笑)。
 というのは、それは、おそらく、少なくとも僕がウォッチしている、学習科学、組織と学習研究の研究専門用語ではないように感じます。むしろ、大学教育改革のコンテキストにおいて、教育業界?において、2000年代後半くらいから、本格的に用いられるようになったのではないでしょうか。

 というわけで、右も左もわからぬ小生が、調べ始めたのが「2週間前」。
 このときの小生には、まだわからなかったのです。何気なく踏み出した、このときの1歩がきっかけで、「アクティブラーニングジャングル」に迷い込むことになるとは(笑)。

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 でも、「あっ、これはやべー、おいら、ジャングルに迷い込んだな」と気づくのは、早かったように思います。といいますのは、調べれば、調べるほど、アクティブラーニングの輪郭がぼんやりとしてくるので。本当に「アクティブラーニングジャングル」なのです。昨日のブログではないですが、本当に「ガチ熱帯雨林」。
 といいますのは、本当に「多種多様なラーニングの形態」が、アクティブラーニングという「ワンワード」で一括りにされているのです。国内外ふくめて、グローバルに(笑)。

 たとえば、こんな感じ。
 
 講義中、お隣同志でディスカッションや、教えあいをするのも「アクティブラーニング」
 ケンケンガクガクと、グループディスカッションをするのも「アクティブラーニング」
 一方向に伝達された情報を、個人がリハーサル(繰り返す)して、よりよく記憶することも「アクティブラーニング」
 地域に出て、地域の人々といっしょに、地域の商店街の課題を探究するのも「アクティブラーニング」
 大人数講義でクリッカー(携帯情報端末)を用いて、講師の用意した選択肢に答えるのも「アクティブラーニング」
 可動式の机と椅子のクラスルームで学ぶことも「アクティブラーニング」
 リーダーシップやコミュニケーションスキルを養成するのも「アクティブラーニング」
 守破離のプロセスをふみ、体験から学ぶのも「アクティブラーニング」

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 えーと、いったい、そもそも「アクティブラーニング」の定義って何でしょうか。もちろん、多種多様な定義が存在していることは百も承知していますが、それらにあまり共通項がない。別の言葉でいいますと、「アクティブラーニング」で「あり」、何が「アクティブラーニング」では「ない」のでしょうか(笑)。僕には、最初、どうもつかめずにいました。

 アクティブラーニングジャングルを彷徨い、途中で出会った何人かの先達(研究者)のアドバイスを得ながら、出した結論は、もっとも広くとるならば、

「講師が一方向的かつ長時間にわたり、情報を伝達するだけの教育機会」では「ない」ものは、アクティブラーニングということになるのかな、と思います。つまり、それは「知識伝達型の教育機会」や、ないしは、「モダニズムを背景とした教育機会・教育手法」の「アンチテーゼ」である。

 しかし、面白いのは「アンチテーゼ」ではあるものの、具体的かつ特定的な手法を明示しているわけではない。しかも、アクティブラーニングの言説空間は、お互いに異なる言説同志が、互いに他のあり方を批判したりすること「なく」、共存しつつ、増殖している。
 この意味で、ある意味で、アクティブラーニングとは、ある種の「カウンター・ムーヴメント」に近いということになるのかな、と思いました。
 しかも、それは、リーダーシップやコミュニケーション力といった、一般的に大学が取り扱うことを得意とする「教養の知」でもなく、かつ、「専門の知」でもない「オルタナティブな能力・知識・スキルの育成を行える」としており、そうした言説と「共振」ながら、現場においては「教育の具体的処方箋」として提唱されている。

 まことに興味深いジャングルですね(笑)。

(ちなみに、アクティブラーニングにおいて、ある特定の手法はどのように取り扱われているかと申しますと、特に、海外文献の場合、Active Learning Strategy / Active Learning Tacticsと概念化されていることがままあります。いずれにしても、現場において、そのつど、そのつど、ファシリテータになる人が、状況に応じて駆使する手法=ストラテジーとして概念化されています)
 
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 というわけで、何とかジャングルをかきわけて、先日、無事講義は終わりました。
 小生、何とかかんとか、サバイブできたことが嬉しいです(笑)。

 もちろん、授業では、ここまで私見を述べることはせず、定義が多種多様であることを述べ、それをどのように読み解けばいいかの方針については先行研究から簡便なフレームワーク示しました。かつ、「中規模の人数の授業をいかにインタラクティブにするか」について、実践・体験をまじえてレクチャーをしました。授業の目的は「アクティブラーニングの言説を読み解くこと」では「ない」ので、内容はあくまで実践的にまとめたつもりです。
 本当ならば、個人的にやってみたいのは、アクティブラーニングが想定している、ある特定の社会観、組織観、知識観、人間観、労働観を読み解くことも、非常に面白い課題なのですが、また、それは大学院の授業などでできれば面白いかもしれません。アクティブラーニングの論文の「枕」を分析し、アクティブラーニングがどのようなコンテキストにおかれ、主張されているかを概念化してみると、非常に面白く感じます。

 先日の授業は、完全ではないとは思いますが、少なくとも「アクティブラーニングジャングル」を「丸腰」で走り回らなくてもい程度の実践的内容は扱ったつもりですが、どうだったのかな、と思っています。

 今日は、アクティブラーニングについて、やや私見というか、ほとんど感想を述べました。僕は、その専門家ではないので、もっと深い定義がありうるのかもしれませんが、それを追えていなかったとしたらおゆるしください。少なくとも国内外のデータベースでサーチしたところでは、上記のような印象を持ちましたがいかがでしょうか。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月30日 06:44


今ここの場所で、実物を感じつつ、学ぶこと

 この年になって、まことに恥ずかしい限りなのですけれども、

「あっ、昔、学校で学んだ、あれは、こういうことだったのか」
「教科書にのっていた、あれは、今、まさに、目の前にある、これだったのか」

 と思うことがあります。
 当時は、受験や試験に出題されるから、「知識」としては知っていた。というよりも、人並み以上には「暗記」していた。

 しかし、恥ずかしながら、それが実際に「どういうもの」か。それは「どんな場所にあるのか」はわかっていなかった。
 あるいは、それを帰り道、路地で見ていたとしても、実物が、学んだものと一致することは、おそらくなかった。

 こうした過去を吐露することは、ほぼ「懺悔」になりますが、そういうことが本当に多いのです。

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 たとえば、下記のような、何の変哲もない路地の片隅にある雑草。この写真には「シダ」が映っています。先日、たまたま近くを散歩中に撮影してきました。

IMG_4677.JPG

 かつての僕にとっては、シダ植物とは「羊歯植物」であり「胞子体(2n)-前葉体(n)の生殖システムをもつ非種子系の植物」であった。そんなことは「暗記」しているのに、この植物が「どんなところにはえているか」については、ほとんど知らない。

 この植物が、たとえば、水のしみ出すような、コケやアオガエルがともにいそうな場所、近くにいくと、少し「ひんやり」しそうな場所にはえていることは知らない。また、かつての僕は、路地でおそらく、それを見つけられさえもしなかったようにも思います。

 つまり、かつての僕の学びには、場所、実物、感覚がない。

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 たとえば、こんなこともありました。
 ちょっと前のことになりますが、家族旅行でオーストラリア・ケアンズに出かけたことがあります。

 ケアンズといえば、熱帯雨林。僕も、知識として、オーストラリア北部には熱帯雨林が広がっていることは知っていたので、そこに出向くのを愉しみにしていました。

 が、実際に、そこに「入った」瞬間、おおお、と思った。熱帯雨林を「感じる」とでもいうのでしょうか。

 そうか、熱帯雨林っていうのは、こんなに雨が多く、虫が多く、木々が争うように生えているものなのだ。こんなにジメジメとしていて、緑の匂いが強烈なのだ!

 「知識」として知っていた状況とは、違ったかたちで、熱帯雨林を感じたのです。

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 今日のお話は、ひと言いえば、「学ぶことの実物性、場所性」ということになるのかもしれません。また、「記憶することの肥大化」としてもまとめることができるのかもしれません。

 いずれにしても、かつて、そんな「プアな学び方」、すなわち「場所、実物、感覚がない学び」をしていた僕が、いま、「学習・人材育成に関する研究」をしているのだから、これまた「皮肉」なものです。今日のブログは、ほぼ「懺悔」に近いですね。

 しかし、そういうルーツがあるからこそ、僕は、人間の学習や人材育成の問題に興味をもちつづけていられるのかな、とも思います。そういうことに思いがあるからこそ、実践に興味をもつのかもしれません。

 人間の未来なんて、まことに不思議なものですね。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月29日 06:47


理念経営とモティベーション

 先日、目黒に移転したばかりというスターバックス・コーヒー・ジャパンさんの本社を、慶應MCCの調さんと一緒に、ご訪問させていただきました。

 今度、僕の授業でスターバックスさんにご出講いただくために、お打ち合わせをさせていただいたのです。
 年度初めのお忙しい中、貴重な時間をいただいた同社の久保田さん、吉田さんには、この場を借りて心より感謝しています。ありがとうございます。

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 6月に予定されている授業では、スターバックスさんには、「理念とモティベーション」についてご講義をいただく予定です。

 スターバックスさんは、90年代後半に日本で事業を開始され、現在900店舗以上の店舗展開をなさっています。
 同社のメニューは、一般の外食とは異なり、非常に組み合わせが複雑です。また、その接客は、マニュアルによって杓子定規に決められているものではなく、「自分で考えること」が重視されています。

 こうした特徴をもつ同社のサービスは、外発的動機によってのみ支えられるものではなく、働く個人、この場合は、パートナー(スターバックさんではスタッフをこう呼びます)やストアマネジャー(店長)として働く方々の内発的動機を喚起しつつ、生み出されていると解釈できます。同社では、そのための仕組みを理念経営に求めています。
 授業では、こうした内発的動機を喚起するような理念経営についてご講義を頂戴する予定です。非常に楽しみです。

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 けだし、理念経営とは、理念があればうまくいくというわけではありません。わたしたちは理念というと、すぐに「唱和」とかを思い浮かべますが、「理念を唱和」すれば「理念が実行される」かというと、そう簡単な話ではありません。

 スターバックスさんでは、同社のストアマネジャーの方々にヒアリングを積み重ね、理念経営が実効をもつプロセスについて丹念なリサーチを行い、それを教育の中に落とし込んでおられます。
 授業では、こうしたリサーチの結果についてもご紹介いただけるものと思います。思うに、「奏功するHRDとは、リサーチと無縁ではない」と思います。「現場はどうなっているのか」。そうした綿密な調査とヒアリングから、奏功するHRDはうまれます。こちらのお話しを伺うことも楽しみです。

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 今週は「爆走」しています。
 まだまだ、まだまだ書きたいことがたくさんあるのですけれども、今日はこのくらいで。

 そして人生は続く。

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追伸.
 本日は経営学習研究所イベント「社内講師を育てる仕組み」が開催されました。230名の皆様にお集まりいただきました。心より感謝いたします。本当に、GW前のお忙しい中、みなさまお疲れさまでした。
 後日詳細なレポートはいたしますが、まずは取り急ぎ御礼を!。

 ご登壇いただきました、ソフトバンクモバイルの大内さん、大内さん、島村さん、海上さん、共催頂きました日立ソリューションズの小嶋さま、平山さま、畑野さま、今回素晴らしいご縁をいただきました 日立金属の村岸さま、ありがとうございました。またMALL理事のみなさま、松浦さんをはじめ学生スタッフの方々にも、心より感謝いたします。みなさま、素晴らしい週末を!

 下記は、本日の経営学習研究所イベント「社内講師を育てる仕組み」で、中原が用いたプレゼンテーションです。よろしければ、ご笑覧下さい!

 みなさま、素敵な週末を、またお会いしましょう!
 それまでLearningful lifeを!

社内講師を育てる仕組み from nakaharajun

投稿者 jun : 2013年4月26日 15:58


「世界観」を見て「音楽」を買う

 今日は全くのプライベートな話。ここ最近、僕の音楽の購入スタイルが変わったな、というお話です。
 ひと言でいうと、1)大手のレーベルではないアーティストの、2)ネット上にアップロードされた手作り感あふれるPVの世界観をみて、3)音楽を買うようになった、ということです。

 別の言い方をすれば、たとえアーティスト自身がまだマイナーであっても、PVの表現する「音楽と世界観」が気に入ったのなら、音楽を購入するようになりました。ま、僕だけかもしれませんが(笑)。僕は、全く音楽業界には専門性はないけれど、今日は、ど素人目線でお話します。そういうのも、いいじゃん。

 というか、ここは面白いもので、おそらく音楽だけがネットにあっただけでは、「購入(ポチ)」には至らないのだと思うのです。やっぱり、全くマスメディアに流れない音楽を、聴いただけで、お金を出して買うのは、心理的障壁が高いものです、少なくとも僕は。
 しかし、そんなとき、PVにおいて表現されている「世界観」に興味をもつのなら、ついつい、ポチっとやってしまうのです・・・少なくとも僕にとっては、ネットで音楽を買うのに、動画は、かなり重要。面白いですね、「聴くための音楽」買うのに、「動画を見ること」を判断基準にするとは。

 たとえば、先日、見つけたのはこちら。UQiYOさんの「At the Starcamp」です。

 音楽もさることながら、PV冒頭のはじまりと、屋上の開放さが気持ちよいPVですね。

 こちらはちょっと雰囲気がかわります。SYZAさんの「蝶々」です。曲もさることながら、一眼カメラでビデオ動画撮影したかのような、物憂げな女性のイメージ映像に、なぜか心弾かれて、ついついポチりとな(笑)。

 ちなみに、こちらは、ネットで話題になっていた「augment5の日本紹介映像がかっこよい」という話から、いろいろたぐっているうちに、見つけたものです。augment5の日本紹介映像は、下記です。こちらもかっこいい。バックグラウンドに流れる音楽も、心弾かれます。

Kusatsu Oct 26 , 2011 from augment5 Inc. on Vimeo.

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 今日の話は「動画による世界観で音楽を買う」という話でした。そんなもの、MTVの流行以降、音楽には動画はつきものだったじゃないか、とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんけれど、大手レーベルのつくる、つくりこまれた映像が、購買につながったことは、僕自身は、あまりないのです。手作り感があふれるアーティスト自身の世界観が反映された映像が好きですね。

 ネットの上では、メジャーであっても、マイナーであっても、フラットに情報は流れます。よいものはよい。よいものは、ソーシャルメディアを媒介して、あっという間に広がりますので、たとえ、大手の資本でなくても、十分、エンドユーザーにつながる可能性があります。

 その意味では、これから世に出ようとするひとにとっては、可能性は、かつて以上にある。しかし、購入の最後の一押しになるのは、音楽だけではないのかもしれない。やはり、最後の「ポチ」は心理的にかなり悩みますので。その際、動画(PV)で表現されている世界観がいいな、と思うと、まんま、とポチしてしまう。その意味では、ネットの時代には、アーティストは「音楽と音楽に付随する世界観をつくる人」になりつつあるのかもしれません。
 
 もしかすると、こうした「音楽業界で真っ先におこっている地殻変動」は、音楽業界だけに限局されるものではないのかもしれませんね。あなたの業界でも、そう、僕の業界でも、いつか変動が起きるかもしれない。そう考えると、また妄想力ひろがります。愉しくて仕方がありません。

 今日は音楽の話題を「ど素人」目線で考えてみました。
 音楽業界の最新の情報、業界の常識は知らないけれど、ちょっとそこから妄想した次第です。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月25日 06:45


他人を「指差し」てみれば起こること : エビデンスに基づく教材開発

 今週は、東京大学フューチャーファカルティプログラムで、僕のセッションがありますので、現在、必死こいて準備を進めています。今週、僕は、短い時間ですが「アクティブラーニング」についてのセッションを担当する予定です。

 このプログラム、先週から、本格的に動き始めました。前回、栗田さんのセッションで、すでに非常に熱心なディスカッションがなされています。栗田さんが考案なさったプログラムの構成自体が、すでにアクティブラーニングでありますし、学習者 - 学習者間のインタラクションを重視したものになっています。プログラムに積極的に参加いただいているみなさまには、非常に感謝しています。
 なお、このたびは、参加人数大勢であったため、セレクションが発生してしまいました。今期受講できなかった方には大変申し訳なく思っていますが、今は、なんとか安定運用をめざし努力していきたいと思っています。

TODAI_FUCALTY.png
東大 × 学び × 革新
これから、大学の教壇にたつ、大学院生へ
東京大学 フューチャーファカルティプログラム、始動!

東京大学フューチャーファカルティプログラム(東大.FD COM内)
http://www.todaifd.com/ffp/

 ところで、このプログラムを走らせてみてわかったことは(現在、教材を開発していてわかったことは)、「博士(研究者)を対象にして、"教えることを教えること"は、教える側の教員にも、かなりの"ストレッチ"になる」ということです。
 
「教えることを教える」おまえの授業は、どうなんだ?
 おまえは、きちんと教えているのか?

 という「再帰的」な暗黙のプレッシャーを感じながら、教えなければならない、というのは言うまでもないことです。(泣)。

 以前、どこかで、やったエクササイズなのですが(どこで僕が体験したかは忘れました・・・思い出せない)、一寸時間があれば、皆さん、ちょっと「手」をだしてみてください。その「手」で、お近くにいる、誰かを「指さして」みましょう。電車の中では、変人扱いされるので、やらないほうがいいかな(笑)。
 はい、できましたか。単に「他人を指差す」だけですよ。難しいことはありません。

 今、おそらく多くの方が「人差し指」で、他人を「指さし」ている状態ですね(笑)
    
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 そのときに、他人でもなく、人差し指でもなく、違うところに目をやりましょう。
 はい、今、皆さんの「中指」「薬指」「小指」はどこを向いていますか?
 そうですね。自分の方を向いて、自分を差しているはずです(泣)。
 3本の指の先端が向いているのは、「他人」の方ではなく「自分」なのです。

 もうおわかりいただけたか、と思います。
 このエクササイズの含意は明白ですね。

 1本の人差し指で、他人を「指さし」てみれば、「残りの3本の指」は、あなたの方を向くのです。

 2本も多いんだよ、指の数が(笑)。
 これが、再帰的な暗黙のプレッシャーです。それと同じプレッシャーが、「教えることを教える教員」には向けられます。以上、どMエクササイズでした(笑)。

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 しかし、まぁ、それは予想通りといいましょうか、やる前からわかっていたことです。
 確かに、それも、きついのですが、それと同等程度にきついのは、教育コンテンツ自体にも「エビデンス」が求められることです。

 なぜか?
 それは、相手は「研究者」だからです。

 たとえば、何らかの学習手法を教えるにしても、エビデンス(学問的根拠)を求められます。

 学習効果がある、といいますが、何がエビデンスなのですか?

 さすがにそこまでのツッコミを授業中に受けることはないにせよ、教材開発をしているときには、しっかりとしたエビデンス、理論的根拠、データを示し、それらを引用してくる必要があります。

 つまり、大学院生に「教えることを教えるため」のプログラムとは、エビデンスベースの、リサーチに基づくものでなければならないということです。そうでなければ、研究者が相手のプレFDプログラムは成立しないのではないかな、と思います。博士課程の大学院生は「研究者」なのです。

 おかげさまで、近年の大学教育のコンテキストにおける学習研究、アウトカム研究に関しては、ずいぶん詳しくなりました。いやー、貴重な学びの機会をありがとうございます(笑)

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 そんなこんなで、教育課程方法部門の栗田さん、藤本さんを中心に、東京大学フューチャーファカルティプログラムは、いよいよ本格化しています。
 このプログラムに参加して下さる、大学院生の方々が、ひとりでも、近い将来、大学の教壇にのぼり、「白熱教室」ならぬ「熱狂教室」「沸騰教室」(怖い?)を生み出してくれるものと、心から、わたしたち教育課程方法開発部門のスタッフは信じています。

 そして人生は続く


(東京大学フューチャーファカルティプログラム・3分間紹介ビデオ:Youtube)

投稿者 jun : 2013年4月24日 08:22


プレゼンテーションにおける「間」:「緊張をつくりだすこと」と「問いを届けること」

 ここ一週間くらい、「間」ということをよく考えます。「あいだ」じゃありません、「ま」です(笑)。
 具体的に申しますと、プレゼンテーションを行うときに、話者(スピーカー)が意図的につくりだす「間(ま)」ですね。そのことが、最近、気になって仕方がありません。
 世の中に「いかにしゃべるか?」というプレゼンテーション本はあまたあります。しかし、まことに興味深いことに、「いかに沈黙するか」ということを示唆する書籍は少ないように感じます。ま、なくて当然ですが(笑)。

 しかし、いろいろな方々のプレゼンテーションを拝見していて、一方でこうも思うのです。
 ただ、しゃべくりまくる、ジェスチャーをするだけが、プレゼンテーションにとって大切なのではないよな、と。敢えて「何もしゃべらない時間をつくること」「沈黙する時間をもうけること」、すなわち意図的、かつ、戦略的に「間をつくること」も、興味深いことだな、と思うのです。

 ひるがえって、なぜ「間」が大切なのかな、あらためて考えてみますと、それは

「相手を一瞬緊張させ、注意を喚起するため」
 ないしは
「一呼吸おいてもらうことで、自分の考えをうみだしてもらうため」
 なのかな、と思います。

 つまりは「間によって、話題に緩急をつけ、注意資源を獲得するため」ないしは「一寸、我にかえり、自分で考えてもらうため」ということになるのかな、と思うのです。

 仕事柄、僕は、人並み以上にはプレゼンをしたり、他の方のプレゼンを見る機会が多いと思います。その経験をもって考えてみると「間のとりかたが絶妙な方」と「そうでない方」は、たとえば同じプレゼンを読んでいたとしても、受け手にどの程度刺さるかは、かなり違ってくる気がいたします。もちろん、自戒をこめていいますけれども。
  
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 たとえば、今、「プレゼンの区切りに、間をつくる方」と「間をつくらないで喋る続ける方」がいるとします。おそらくは、言うまでもなく、前者の方が「学習者の注意」は集まるのではないでしょうか。

 それまで話者は話しつづけている。つまりは学習者は「常に情報を提供されている状態」にあるわけです。そこから「一変」して、話者によって「間」がつくりだされ、「誰も発話のない時間=沈黙の時間」が生まれます。すると、その一瞬には、圧倒的な緊張状態が生まれる気がします。
 この「つくりだされた緊張の時間」が、おそらく、「句読点」のようなものして機能して、「継続的な学習」を下支えするのかな、と思います。

 また、「同じ間」でも、異なった用いられ方もあるでしょう。
 典型的には「話者から学習者に対して、問いを投げかけたあとにつくられる意図的な間」ですね。

 今、仮に、スピーカーの方が

 「それでは皆さん、この問題については、どうお考えですか?」
 「この問題に対する皆さんの答えは、賛成ですか反対ですか?

 といったような「問いかけ」を学習者に対してなした、とします。経験的には、この問いかけのあとに、どのくらいの「間」が与えられるかが、かなり重要である気がするのです。

 もちろん、長すぎても、短すぎてもだめでしょうね。
 長すぎれば、「壊れたラジオ」のようになってしまいますし(泣)、短すぎれば「問いかけられたんだか、いないんだか、わかんないような状況」になります(泣)。

 経験的には、「長すぎてしまうこと」はあまりなくて、「短すぎること」の方が、散見されるのではないでしょうか。自分で問いかけておきながら、「間」をつくりだせない。自分で学習者に問いかけておきながら、学習者が考える時間を持たせることができず、次の話題に「流れて」しまう。場合によっては、そのまま自分で問いに対する「答え」を言ってしまう場合も散見されます。いわゆる「自問自答」状態ですね(笑)

 この状況を比喩的に述べるならば、

「適切な間が設けられていない"問いかけ"というのは"学習者に届いていない"のです」

 問いを投げかけてはいるけれど、その問いは学習者に咀嚼・理解されていない(=届いていない)。彼らの思考が、まだ駆動していない。

「問いを投げかけたはいいけれど、それが学習者に理解されていない状況」をもって、「わたしは学習者に問いかけた」というのなら、「誰も買っていないのに、売ったという」のと同じですね。皮肉なものですね。

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 こうしたことが起こる理由は、自戒をこめて振り返ってみますと、何となく想像がつきます。おそらくそれは、話者にとっては「誰も発話のない時間」「みなが沈黙してしまう時間」、すなわち「間」が「怖い」ものとしてうつることが多いのです。

 ヤベ、テープとまっちゃったよ、、、どうしよ。
 ヤバ、黙っちゃったよ、、、どないしよ。

「間」が生まれてしまっては、「興ざめ」してしまうのではないだろうか。間を「言葉に詰まってしまった」と受け入れられるのではないのか。「間」をもうけているあいだに雑談が生まれ、もはや回収できない程度にまで発展してしまうのではないだろうか。

 そんな風に「間」を恐れてしまうことが、自戒をこめていいますが、よくありうることなのではないでしょうか。そして「間」を恐れるがゆえに、ただでさえ、てんこもりな内容を、しゃべくり倒してしまう。そんなことがおきがちではないかな、と思います。

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 今日は、プレゼンにとっての「間」の話になりました。
 今日の話題では、「間があったほうが学習効果は高いこと」を前提に話題を展開しましたが、もちろん、これも実証されているわけではありません。どうやって、実験するのかはわかりませんが、今後の研究課題?なのかもしれません。

 もちろん、今日の話は、まったく他人事ではありません。
 自分のプレゼンを磨きたい、と願います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月23日 12:49


「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」 - ひとつの組織でキャリア上昇したときに、失われる可能性のある3つの感覚

 ある人が、ひとつの組織においてキャリアを上昇させ、やがて自らが「マネジャー」としてバリバリ働き続ける頃に、へたをすれば失われ始める可能性のあるものとして、3つの感覚「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」があります。

 マネジャーになるとき、人は、多くの場合「嬉しさ」や「組織から認められたという思い」を感じます。「ようやく、わたしも、ここまできた」「これで自分の納得のいく仕事ができる」「一国一城の主として仕事ができる」。しかし、一方で、「マネジャーになる」ということは「得ること」でもあり「失うこと」でもあります。すべての物事が二面性をもつように、やはり「マネジャーになること」にも二面性があるおです。マネジャーになることによる「喪失」や、組織からの「プレッシャー」に対峙しなくてはなりません。
 
 上記の「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」は「喪失感」に関する事項ですが、自分のここ数年、ホソボソと行っている現場のラインマネジャーさんらへのヒアリングを通して、これらの概念が、ようやくつかめてきました(そんだけやって、これかよ、という厳しいつっこみはなしにして、笑)。

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 第一の「素人感覚」とは別名「若い人の感覚」であり、「新人の感覚」です。

 ある人がマネジャーとして辣腕をふるう頃には、自分が新人時代だったころから、十数年くらいはかかっているでしょう。その頃には、マネジャー自身は、あらゆる仕事がルーティンになり、情報処理は自動化・慣習化していますので、自らは「わからないことがわからなくなってきます」。あるいは「自分が自動化してできてしまうことを、言葉で説明することができなくなっています。
 ここで忍び寄るのが、第一の感覚「素人感覚の喪失」です。これに関しては、あるマネジャーがこう言っていたことを思いだします。

「彼ら(若い人)が、何がわからないのか、なぜわからないのか、僕にはわからない。そして、僕がわかっていないことが、彼らにはわからない」

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 第二の感覚である「世間感覚」とは、「組織の外の社会では、何が常識であり、何が流行しているのか。一般の消費者は何を求めているのか」ということに関する鋭敏な感覚です。

 マネジャーになるにせよ、ならないにせよ、また、本人が望むと望まないとにかかわらず、ひとつの組織の中に居続るプロセスにおいて、人は、組織から「社会化」の圧力を受け続けます。それによって、様々な作業や物事が自動化し、うまく適応できるようになるのですが、一方で、組織目標に合致した信念体系・ものの見方・思考形式を身につけたりもするものです。

 問題は、組織がもっている、こうした信念体系・ものの見方・思考形式が、外部の環境変化に呼応して変化しつづけていればよいのでしょうけれど、こうしたものは組織メンバーの奥底(組織文化をオニオンにたとえますと、オニオンの芯のあたり)に属しておりますので、そう簡単には変化しません。

 というわけで、ひとつの組織においてキャリア上昇を果たすプロセスにおいては、「世間感覚」から遊離する可能性が高くなってくるわけです。これに関しては、あるマネジャーさんが、こんな印象深い言葉を残しておられます。

「昔、わたしの中では、常に2つの人間がいてた気がするんです。組織の常識で動く自分と、世間様の常識でうごく自分。(中略)でも、いつか、組織の常識で動く自分だけになっちゃって」

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 第三の感覚である「現場感覚」は、いわずもがな「働く現場で起こっている物事に対する鋭敏な感覚」です。
 以前にもお話ししたことがありますが、現場とは「現在進行形」「具体性」「複雑性」「予測不可能性」「即興性」などの、5つのキーワードで彩られる場所だといいます(小田 2010)。要するに、現場とは「現在進行形で、個別具体的な物事・出来事が進行し、その様相は複雑きわまりなく、かつ予測不可能である場合」が多いということです。
 しかし、「現場の人々」は、そういう刻一刻と変化する場所において、そのつどそのつど情報を収集し、適切に、インプロ的に、物事を解決していきます。

 しかし「マネジャーになる」ということは、程度の差こそはあれ、「現場からの離脱」を意味します。なぜならマネジメントの原理的定義は「Getting Things Done Through Others(他人をもってコトをなすこと)」ですので、自分は「こと」に触れないようにすることが「基本の基」だからです。
 とはいえ、さすがに今どき「離脱率100%のマネジャー」、つまりは「プレーヤーとしての自分を全く残していないマネジャー」ないしは「完全に現場からあがったマネジャー」、以前より少なくなっているとは思いますが、しかし、少しずつ、彼ら / 彼女が「現場から離脱する」につれ、かつては自分の中で機能していた現場の感覚が、だんだんと鈍ってきます。

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 以上、今日の日記では、人が組織でキャリア上昇をはたし、マネジャーになる頃には、失われる危険性のある3つの感覚についてお話ししました。
 もちろん、「マネジャーになった」からといって、この3つが必ずしも失われるわけではありません。また、それらはマネジャーにならなくても、ないしはひとつの組織にいなくても、加齢等によって失われていくことかもしれません。
 上記は、あくまで僕の手持ちのデータで「可能性」ないしは「危険性」の話をしているということです。完全な概念化に関しては、またもう少しの時間がかかりそうです。

 しかし、この3つの感覚「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」が失われた状況というのは、これからの組織を生き抜く人々の「キャリア形成」としては、あまり「ポジティブなこと」とはいえない「厳しい状況」も見えてきます。
 かつては、組織が右肩上がりで、増え続ける人員に対して、何とか、マネジャー以上の上級職ポストを用意することができました。今は、マネジャー職以上の上級職のポストが少なくなっている組織が増えておりますし、一方で、65歳まで働かなければならない社会的状況が生まれつつあります。

 ということは、今、マネジャーである人にとっても、「マネジャーになったことが、必ずしも、その組織におけるキャリアのゴールとはならない」状況が生まれつつある、ということです。別の言葉を借りれば、マネジャーが「ある時期に担う役割」化するということになるのかもしれません。

 そういうことになりますと、しかるべき期間を終えたあとには、現場において、一担当者や、一教育係として、後輩の指導にあたったり、現場において世間様とふたたび対峙する可能性がでてくるということです。その際、「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」を失ってしまった元マネジャーには、「武器」が全くありませせん。全くの「丸腰」のまま、「現場」に翻弄されながら「素人」に出会い、「世間様」と対峙する可能性が増えてくるのです。

 「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」を失わずに、いかに、マネジャーとして働けるのか?
  そして、そもそも、マネジメントとは「ある時期の役割」でいいのか?

 このアポリア(難問)にどう答えるか、モデルのない模索が、少なくともしばらくは続きそうです。

 あなたは「素人感覚」「世間感覚」「現場感覚」、失ってはいませんか?

 そして人生は続く

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追伸.
 今週、木金曜日あたりの、東京大学フューチャーファカルティプログラムにおいて「対話型講義」の話をしなければならないので、久しぶりに、マイケル・サンデル先生の「白熱教室」を見直しました。サンデル先生、含蓄のある言葉を、講義の冒頭と最後にのべておられます。「慣れ親しんだものから引き離す」「新しいものの見方を喚起する」「理性の不安をめざめさせる」。学問においても、いろいろなものがありますが、ここで述べられている学問のめざすべきあり方に、共感を覚えます。

(講義冒頭のはじまりの言葉として)哲学は、わたしたちを"慣れ親しんだもの"から引き離す。"新しい情報"をもたらすことによってではなく、"新しいものの見方"を喚起することによって引き離す。"慣れ親しんだもの"が"見慣れないもの"に変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。

   ・
   ・
   ・

(講義の最後の〆の言葉として)この講義の目的は、"理性の不安"を目覚めさせ、それがどこに通じるかを見ることだった。我々が、少なくともそれを実行し、その不安がこの先何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。ありがとう

投稿者 jun : 2013年4月22日 06:00


経験獲得競争社会を生きる!? : 資源化・資本化する直接経験!?

 生態心理学とプラグマティズムという全く異なる2つの領域を越境しながら、独自の現代社会論を論じている人にエドワード・リードがいます。

 リードは、現代社会の特質を論じるうえで「経験」ということを重視します。リードが描き出したい現代社会は「直接経験の消失する社会」です。その背景には、情報環境が高度に発達した現代においてもっとも脅かされるのは「直接経験」である、というリード自身の認識があります(Reed 2010)。
 高度に発達した情報環境においては、いわゆる「間接経験」が、「我々が事物を独力で経験することを可能にすること」 - すなわち直接経験- を凌駕してしまうということになります。
 そういう社会環境においては、個人が「生態学的」に環境・事物と相対し、相互作用すること、すなわち「思考すること」と「学習すること」が消失するのだいいます。

  ▼

 先日、ある対談で、「学びの観点」から、僕自身が「現代の就職や就業」をどう見ているのか、という話題になりました。そこで出させて頂いたキーワードが「経験獲得競争社会」です。このネーミング、先に論じたリードの議論に強い影響を受けていることは言うまでもありません。

 要するに、現代社会は「事物・他者と直接かかわり、社会的に意味があると期待される直接経験を獲得し、保持すること」が、これまで以上に、大きな価値をもたらすような社会になってきているのではないか、と思うのです。社会的付加価値の高い経験をめぐる、人々の戦い。それが先に示した「経験獲得競争社会」というメタファです。
(もちろん、これまでの社会だって、経験の果たす役割は大きなものであったことは容易に想像できますが、ネットでのコミュニケーションや間接経験の増大の動きは、相対的に直接経験の価値を高めるのではないかということです)

 経験獲得競争の影響がもっとも強く、かつ、鮮明に現れ出るのが「現代の就職や就業」のシーンです。「現代の就職や就業」においては、たとえば「学歴」といった従来からの指標も、まだまだ有効に機能しているとは思うのですが、それに「プラスアルファ」して、「直接経験の価値」がさらに「肥大化」している。
 学歴や学力も大切だけれども、いったい、「他者とは違う、しかも、社会的に意味のある経験」をどの程度、これまでに為してきたのかが、問われる社会になりつつあるのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

 インカレのテニサーで、主将やってたんで
   リーダーシップあります!

 といったような面接の回答が、やや牧歌的で、かつ、ノスタルジックに感じてしまうのでは、僕だけでしょうか(笑)。

 それ自体が、大学教育にとってよいことかどうかはわかりませんが、大学教育の中にも「体験」を重視した「経験型アプローチ」ともいうべき学習機会が増大しつつあります。
 それらは、従来のアカデミクスが重視してきた概念理解・概念操作を中核とした学習機会と拮抗しつつ、現在、併置しています。
 
 ▼

 ところで、上記のような「経験獲得競争社会」のエピステモロジーにおいて、「経験」とはいかなるものでしょうか。この場合の「経験」にはいくつかの特色があるように感じます。

 第一に「経験」とは「資源」であるということです。
「事物や他者とかかわりながら、社会的に意味をもちうることを為すような直接経験」は、誰しも「体験」できるものではありません。つまり「数」に制約があるし、また誰もが担ううるものではない。
 その意味で「社会的に意味をもちうる経験」は「資源」であるというメタファで語られうるのではないか、と思います。

「社会的に意味をもちうる経験」は、この意味で、同年代の人々に均質的に配分されず、そもそも「不平等な配分」、言葉をもう少し丁寧に用いるならば「選択的な配分」にならざるを得ない特質をもつのではないか、と想像します。

 それは、おそらく家庭の経済資本・文化資本・社会関係資本の影響を強く受けますでしょうし、それらを「再生産」することに、一定の寄与を行うのではないか、と想像します。専門家ではないし、実証データをもっているわけではないので、本当のところはわかりませんが、何となくそれと無関係であるとは思えません。このあたりは精査が必要なところです。

 第二に、それは「他者から他者に」簡単に「複写すること」はできません。誰かが行った経験を、第三者が簡単に「複写」し、あたかも自分がおこなったかのように語ることはできません。ディテールにどうしても無理が生じます(笑)。
 現代は複写が容易な社会、すなわち「高度複写社会」でもあります。こうした「高度複写社会」において横行する「コピペ」に対して、「コピペ不能であること」という直接経験の特質が、さらにその価値を高めることが予想されます。

 第三に、「経験」は「さらなる経験」をよびこむという意味において「資本」としても機能するのではないかということです。デューイならば、それを「連続性の原理」といったのかもしれませんが、ここで描き出したい経験の特質は、それより、もう少し生々しいことです。

 たとえば、あるタイミングで「海外でNPOなどの活動をした」という「経験」をした場合、その「経験」がもとで、後日「様々なチャンスが広がる可能性」があります。つまり、先行する良質経験が、「資本」として機能し、「さらに良質な後続する経験」を獲得できる可能性があるということです。
 その意味では、最初の「やるか、やらないか」の「やらない」は「決定的なマイナス」をもたらします。やらないことには、その後は、はじまらないからです。

  ▼

 ところで、経験が上記のように「資源」として、ないしは「資本」として「就職機会や就業機会」において機能するためには、いくつかの条件がありそうだ、ということも、また言えることのように思います。経験が上記のような特質を持ち得るのだとしたら、それを「生」のままに保持しておくだけでは、価値につながらないだろうな、と勝手に想像するからです。ちなみに、別に就活生に下記のように振る舞いなさい、と言いたいわけでは断じてありません。僕はその手の言説空間に1ミリも興味がありません。

 経験が資本として有効に機能する条件は、シンプルにいえば「経験を選ぶということ」と「経験をそのままにしないこと」です。

「経験を選ぶ」というのは、「そもそも論」ですので、よいですね。既述しましたように、すべての「直接経験」が「資本」として機能するわけではありません。「資本」として価値をもたらす経験とは、おそらく、社会が伸びていくベクトルや、社会が関心をもつベクトルと、有る程度符合していなくてはなりません。さらには、そこには「他者と何かを成し遂げる」というニュアンスがあった方がよりベターのように感じます。
 まずは、そうした、限られた「経験資源」を選択的に見抜くことが、おそらく大切になってくるでしょう。

 そして、あなたは何かの「経験」をしました。
 「経験」をした、ということにしましょう。

 第二のポイントである「経験をそのままにしない」とは、経験をそのままにほおっておいても、それ自体がすぐに機能しはじめることは希ではないかということです。
 それでは、経験が資本として機能し始めるためには、いったい、何が必要か。ひとつに必要なことは「第三者に知られること」であり「第三者に共感してもらうこと」です。ということは、経験は経験のままそのままほおっておくのではなく、しっかりと、ここに向き合い、内省しておくことが必要になります。
 経験をそのままにせず、そのプロセスを内省し、記述しておく。その上で、先行する経験と後続する経験のつながりを考え、物語化していく。こうした「物語化した経験群」こそが、場合によっては、ソーシャルメディア等によって増幅され、本人の「キャリア」や「将来の見通し」を代理で語りうるものとして人々を魅了します。そこに「レピュテーション」や「評価」が発生するのではないか、と想像します。
 さらには、このプロセスにおいて実施される「経験の内省」とは、「学び」といっても過言ではありません。先行する経験の内省、そして、そこから学んだことは、後続する経験において「よりよく行うこと / さらに質の高い何かを為すこと」につながりです。

 くどいようですが、「こうしなさい」と言いたいわけではありませんので、あしからず。

 ▼

 今日の話は「経験獲得競争社会」という視角から、「現代の就職や就業のエリアでどういうトレンドがおこっているか」を、僕なりに描くことでした。
 就職・就業問題などは僕の専門ではないので、説得的な議論ができたとは全く思えません。また、このように「経験」が「資源化」「資本化」していく社会が本当によいものかどうか、僕にはわかりません。また、物語化された経験、それによるレピュテーションや評価が、本質的なものかは僕にはわかりません。

「わからないの三連発」の中、それでも、でも、どうも、最近、こっちの方向だよな、とは思います。
 世の中を見ていて、僕には、そんな風に感じますが、いかがでしょうか。特にデータや理論をもってお話ししているわけではないので、どうか「真に受けないように」なさってください(笑)。いつものような、「ブログの与太話」です。

 就職や就業の際にいる皆さん。
 皆さんは、今、どんな直接経験をなさっていますか?

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年4月21日 07:28


状況に埋め込まれたプレゼンスキル : プレゼンの猛者が、所かわれば、派手ゴケする理由!?

 3月に募集させていただいたイベント「多様な社員を"講師"に育てる仕組み」の開催が、4月26日に近づいてきて、さて内容をどのように盛り上げようか、と少しずつ、準備を進めております。

多様な社員を"講師"に育てる仕組み(4/26)
http://www.nakahara-lab.net/blog/2013/03/post_1975.html

 また今年からはじまった「近い将来、大学の教壇にたちたいと願う大学院生に"教えることを教える"全学教育プログラム」、東京大学フューチャーファカルティプログラムの授業(大学院講義「大学教育開発論」)が、いよいよ、昨日からはじまり(昨日は同僚の栗田佳代子さんのセッションを見学させて頂いておりました)、最近、この「講義」ということについて、なかなか考えさせられます。

東京大学フューチャーファカルティプログラム
http://www.todaifd.com/

 特に最近とみに思うのは、
「(講義の)プレゼンテーションがうまくいくか、どうかということは、状況に埋め込まれている」

 ということです。
 もうすこしこなれた言い方をすると、「ある状況ではプレゼンをうまくできる方でも、状況が変われば、そのスキルが活きないことが、容易に起こりうる」ということです。

 これ、どういうことかと申しますと、よく企業の方とお話ししていると、こんな声をお聞きします。

「営業プレゼンに何の問題もない人でも、社内研修のプレゼンはできないこともあるんですよね」

 一方、こんな大学に目をやってみると、こんな声も伺います。

「あの人、学会プレゼンはできるんだけど、なぜか、講義ができないんですよね」

 これ、どういうことでしょうか?
 なぜ、片方で何の問題もなくプレゼンテーションできている人が、状況が変われば「派手ゴケ」するのでしょうか?

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「営業でのプレゼンテーション」と「社内研修のプレゼンテーション」
 はたまた
「学会プレゼン」と「講義のプレゼンテーション」。

 使われているプレゼンツールは、いわゆるパワーポイント、全く同じ物です。このような場合だと、片方でできることは、もう片方でもできるだろう、つまりは「スキルは転移(Transfer)するだろう」と考えてしまいがちですが、これが、なかなかうまくいかないことがあるそうです。
 すなわち「同じパワーポイント使っているんだから、あっちでできるやつは、こっちでもできるだろう?」と考えない方がいいということになりますね。もちろん、「あっちでできる人は、こっちでもできる場合」もあるんだろうけど、手放しで「両方ともできる」と考えることは、リスクをともなうということです。

 これ、最初は、僕自身、全くわからなかったことでした。

 「不思議だな、そんなこともあんのかいな。同じプレゼンじゃん」

 と思っていたのですが、ヒアリングや観察など、企画の段階で行った情報収集により、だんだんと状況を知るにつけて、何となく理由がわかってきました。

 考えてみれば、あたりまえのことなのですが、同じプレゼンテーションでも、状況が変われば「目的」と「対象者」と「伝える手法・内容」が全く異なるのです。下記からは、4つのプレゼン場面を、やや戯画的に描き出しますので、どうか「妄想力」をはたらかして、適宜、補いながら読んでみて下さい。

 たとえば「営業のプレゼンテーション」。
「営業のプレゼンテーション」といっても、一口にいろいろありますが、もっともわかりやすいので、顧客との関係が長い、BtoB系の、たとえば部品メーカ系の現場で行われるプレゼンテーションを想定していただけるとよろしいのかなと思います。
 このような場合、まず、対象者(プレゼンを聞く側)は「よく顔を知っていて、信頼関係のできている顧客2名から3名」になることが想像できます。関係は良好、相手のことはよく知っているし、相手はこっちのこともよく知っている。もちろん、商品のことも、相手は長く使ってくれているので、お互いいやというほど、知っている。
 目的は、部品をいくら、いくつ買ってもらうこと。確かにパワーポイントを用いて情報資料の提供を行っている。つくられた資料は、いわゆるビジネスプレゼンで、文字は小さく、顧客がこのまま経営に提出できるように、ほぼビジネス文書の体裁になっている。プレゼンは、紙に印刷して、それを参照するかたちで、フェイスツーフェイスの状況下で行われている。実際に、行っていることは説得・交渉に近いことが予想される。会話はかなり焦点がしぼられていて、ディテールにしぼられています。

 対して、同じ人が社内講師になり、新人研修の講師になった場合はどうなるか。
 まず、対象者はぐっと増えて30名から50名。新人研修の場合で登壇する場合には、相手のことをこちらは知らない。自分が伝えたいもの、たとえば、自社・自部門の事業内容と戦略については、自分にとってはよくわかっているが、相手は全くわからない。新入社員の中には、自社・自部門に配属になるものはごくごく一部かもしれないので、必ずしも、あなたの話に興味をもっているわけではない。この場合、プレゼンは、全くわからない大勢の人で、かつ、それほど部門の戦略については興味をもっていない人を対象にして、彼らの興味関心をひきながら、教えなくてはならない。伝えなければならない内容は、自部門全体の様子なので、フォーカスはかなり甘い。

 次に、大学のことを考えてみます。
 学会プレゼンとは、その研究領域についてよく知っており、かつ、それについて高い興味関心(やる気の高い人)をもつ研究者を対象にして、自分の研究内容を伝え、議論するために行われる。
 話す人も聞いている人も、お互いは、アカデミックなトレーニングを受け、研究方法論や専門用語をよく知っている。略語を用いることも多いし、たとえプレゼンを多少はしょったところで、それをカバーする膨大な知識をもっている。人数は多くて30名程度。時間は15分程度話を続かせればよい。
 
 対して、授業でのプレゼンテーションとは、同じパワーポイントを使っていたとしても、状況が一変する。大学にも寄りますが、学生は多様化しているので、すべての学生が、一様に「高いやる気」や「高度な能力」をもっているというわけではない。
 最大の違いは、学生は、その研究分野においては、ほとんどが素人であり、高度な知識ドメインを有していないことにある。人数は多ければ数百名を超える大人数講義。時間は90分。おおよそ、常に喋り続ければ、90分で新書2分の1冊くらいの情報量を喋ることになる。
 
 上記は、2つの状況をやや極端に、戯画化しつつ、対照づけて書きましたが、もうここまで書けばおわかりでしょうか。
 同じプレゼンテーション、同じパワーポイントを使っていたとしても、対象者や目的、さらには伝達内容・伝達手法が異なれば、一方で「できるもの」が、他方では「できなくなる」ことが、容易に起こりうることがおわかりいただけるのではないかと思います。ひと言でいいますと、それらは、かなり異なる認知的活動なのです。そこで求められるスキルや能力も、大きく変わることが予想されます。

 もちろん、状況が変わったとしても、両者ともに臨機応変にできる方もいらっしゃるのかもしれませんが、たいていの場合には、状況に適応し、能力をいかんなく発揮できるためには、それなりの長期の時間か、ないしは、トレーニングが必要になるのではないか、と思います。
 最悪の場合には - 特にプレゼンに自信をお持ちの方で、たかをくくって、何の準備もせずに、別のコンテキストで、いつもと同じかたちでプレゼンをしてしまった場合には、「あちゃぱー、やらかしちゃいましたか・・・」というぐらいに「派手ゴケ」する場合もなきにしもあらずなので(笑)、注意が必要です。

  ▼

 今日の話は、少し考えてみれば、あたりまえのことであったかもしれません。しかし、とかく、いざ現場で実際に何が起こるかということになりますと、あなたが企業経営・大学運営サイドの方であるならば

「あちらでできることは、こちらでもできるんでしょ、だから、さっさとやってよ」

 ということになりがちですし、あなたが登壇する側にいらっしゃるならば

「あっちでできたんだから、準備やトレーニングなしで、こっちでもできるよ」

 ということになりがちなのです。

 もちろん、両者が似ている場合もあるし、それほどの落差が生じないこともある。また片方でうまくいったことが、こちらでも奏功する場合もないわけではない。
 ただし、今日、4つの状況を極端に描いたように、対象者と目的が異なってくれば、片方で培ったプレゼンスキルが転移できないことがあるというリスクも、頭の片隅にはいれておいていただけるとよろしいかな、と思います。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月19日 06:03


「経験学習」の中身を探る

 4月も、はやいもので、もう中盤。新年度の慌ただしさが今週あたりで一段落するんじゃなかろうか、という「淡い期待」のもと、激しく動きまわっております。大学院のゼミや授業も、2週目にはいってきて、いよいよ本格化してきました。

 今年の大学院中原ゼミでは、Reynolds, M. and Vince, R.さんらが編集した「The Handbook of Experiential Learning and Management Education」を、中原ゼミの大学院生の皆さんで読み、議論をしています。本書は、タイトルが「モロ」に示すように、「Experiential Learning(経験学習)」に関する論文を集めたハンドブックになっています。

 この領域の研究者ならば「Reynoldsさん」「Vinceさん」の名前をみた瞬間に、少し「ピン」とくるものがあるはずです。いわゆるランカスター学派! 彼らも批判理論系・ポストモダン系の研究者ですので、本書も、少し「癖の強い本」になっています。
 ニュートラルで、プラクティカルな、いわゆる経験学習理論を知りたい方には、あまり向いていません。「経験と学習」の関係について、ドロドロで生々しい内容を含む、マニアックな議論をしたい方向けの専門書だと僕は思います。

  ▼

 大学院ゼミで、なぜこの本を読もうと思ったかというと、最近、僕は「経験学習」という概念で指し示されるものの「多様性」について知りたいと思っているからです。間違って欲しくないのは「経験学習が嫌い」なわけでも、「経験から学ぶことがパワフルではない!」と言いたいわけでは断じてありません。
 そうではなくて、日本語でいえば、一口に「経験学習」と呼ばれているものの中に、いくつかの理論的系譜が存在することに、薄々気づきつつも、そのルーツや理論間の布置が、いまだに自分としてつかめていないだけに、少し「気持ち悪さ」を感じているのです。ひと言でいうと「それが知りたい!」。本書を選んだ理由は、それ以上でも、以下でもありません。

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「経験学習」という言葉は、多種多様なものを飲み込む「マジックワード」のように感じます。
 僕がざっと思いつくだけでも、経営学習研究の中では、様々な「経験と学習の理論」が、同じ「経験学習」というワードの中で、ひとくくりに語られている傾向があります。

 たとえば、すぐに思いつくのは「Experiential Learning」の理論的系譜。こちらは、場合によって「体験学習」と訳されることもあります。キーワードは「非日常性」と「教育的意図を埋め込まれた活動」と「感情」と「内省」。

 非日常的な空間や場所に参加者を集め、そこで、ある「教育的意図を埋め込まれた活動やコミュニケーション」に従事させます。ここで従事する活動は、時に、情報遮断・感覚遮断を含むような、「日常との隔絶された特異な活動」であることがあります。この「特異な活動」に対して、人々は、試行錯誤しつつ、取り組みます。その場は、「擬似的な民主制(人々の間で駆動する権力を無化することはできないにせよ、この場では民主的に活動しようというルール)」と「今、ここ(Now and Hereにおこる出来事を大切にしよう)」という価値観によって守られた空間になっています。

「Experiential Learning」の現場は、守られた空間ではありますが、「リスキーな空間」でもあります。そこでは、「隠されてきた自分の日常」が逆照射されることもあり、場合によっては、「とんでもないもの」を見てしまう可能性もあります。そうした場合、学習者ないしは参加者は「感情の揺れ」を経験します。最後は、その活動自体を内省し、学習を達成します。

  ▼

 もうひとつの理論的系譜は「Learning from Experience」の理論的系譜です。
 こちらは、もともとは経営学の中の、リーダーシップ開発論(Leadership Development Theory)の議論の中から出てきた概念だと思います。成功したビジネスパーソンに回顧的インタビューを行い、自分を一回り大きく成長させた「経験」を抽出するという研究方法論から派生してきた議論で、Ledershipの発達のためには、「経験」、しかも「とびきりの苦難を含んだ経験(俗にいえば、マジで死ぬかと思った苦しい経験)」こそが重要である、という議論を行います。

 先ほどの「Experiential Learning」との違いをいくつか述べるとするならば(両者は、全く異なりますけれども・・・)、この言説空間には「民主制(平等性)」というものは存在していません。むしろ、ここで「学ぶべき主体」は、「経験を付与するに足るような能力・アスピレーションをもつ選択された主体(エリート)」です。学ぶべき場所も「非日常の守られた空間」というわけではなく、「権力が作動する日常的な実空間」ということになります。平たく言えば、「将来を嘱望される特権的な能力をもつ主体」を、いかに実空間において伸ばすか、という議論になります。

 あと、多くの経験学習論には、共通する価値として「内省」が大切にされているのですが、実は「Learning from Experience」論には、もともと「内省」の概念はありません。というよりも内省よりは「経験のクオリティ」の方にスポットライトが当たっています。具体的には、「とびきりの苦難を含んだ経験」が会社の戦略にしたがって、計画的に付与されることが主張されています。「とびきりの苦難を含んだ経験」を付与される主体には、メンタリングの機会などが必要であることも述べられています。

  ▼

 もうひとつの理論的系譜は、もっともよく知られているKolb, D.の「経験学習サイクル論」です。

 Kolb, D.のモデルは、ビジネスの世界でもっとも知られているモデルですが、興味深いことに、教育の世界、学習論の世界ではほとんど知られていません(実際、僕も、経営と学習の研究をするまで知りませんでした)。ビジネスの世界で知られるようになった理由は、こちらの「サイクル論」が「Kolbの創始したオリジナルの理論」というよりも、むしろ、「デューイの理論を解釈しなおした理論」であったからだと思います。教育の世界では、ジョン・デューイそのひとが、よく知られています。

 先にも述べましたように、Kolbの源流は、プラグマティズム、具体的にはジョン・デューイの「経験」と「反省的思考」にさかのぼることができるものと思います。デューイの経験と反省的思考の概念を、2次元のサイクル論として表現し、ビジネスの世界に普及させたというのが、Kolb.の業績なのかな、と思います。

 ところで、デューイに影響を受けて、仕事の研究をしたもうひとりの研究者に、ドナルド・ショーンがいます。ショーンは、もともと博士論文でデューイの研究をしていました。しかし、彼の省察概念は、デューイ的でも、コルブ的でもない「刹那的かつインプロ的」なものです。実践の「あと」に行われる内省でなく、実践の「まさにそのどまん中」でそのつどそのつど、アドホックに行われ、実践を組み立て直すような省察に、彼は焦点をあて、それを専門性発達の議論に結びつけました。ショーンは経験学習サイクル論とは異なった独自の立ち位置を保ちますが、しかし、この領域において、ジョン・デューイという同じルーツをもつことは、意外に知られていません。

 ▼

 以上、ざっと見てみましたが、まだまだ細かいことをいえば、「経験学習」の言葉には、たくさんの異なった理論的系譜をもった議論が含み混まれています。「経験学習」という言葉で、ひとつの、体系だった理論を想定することはできません。実は、その内部は、本当に複雑に入り組んでおり、ドロドロなのです。

 この種の細かい議論は、実務を行う上では、どうでもいいことなのかもしれません。

 そんな細かいこと、どうでもいいよ(笑)。

 でも、アカデミックには、やはり気になります。一見、どの理論的系譜も「経験学習」という「ひとつの風呂敷」でくるまれてしまいそうなのですが、せっかく、大学院ゼミで、経験学習について多角的にアプローチする機会を持ちましたので、このあたりを「解剖」していきたい、と個人的には思っています。

 今日の話は、マニアックでしたね。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年4月18日 06:45


快適空間、背伸び空間、混乱空間・・・あなたが今立っているのはどの空間?:学びとリスクの微妙な関係

 玉川大学学術研究所・心の教育実践センターの難波克己先生には、毎年、僕の授業「ラーニングイノベーション論」にご登壇いただき、体験学習に関するワークショップを実践いただいておりますが(感謝です!)。その際、難波先生から教えてもらった概念に「学びとリスク」の考え方があります。

 「学びとリスク」に関して、体験学習(Experiential learning)理論、ないしは、野外教育論(Outdoor Education)の中ではよく、下記の概念図が用いられます(例えばBrown 2008など)。

Doc-2013_04_17 7_25-page-1.png

 今、学習者が立っている状況を、仮に「3つのゾーン」にわけます。

1.Comfort Zone(快適空間:コンフォートゾーン)
2.Stretch Zone(背伸び空間:ストレッチゾーン)
3.Panic Zone(混乱空間:パニックゾーン)

 の3つです。

 1の「快適空間」とは、文字通り、学習者にとって何のストレスもない空間、心理的安全(Psychological Safety : Edmondson 1999)の支配する空間です。この空間では、学習者は、未知のものに出会うこともありませんし、挑戦もありません。
 裏返して言えば、この空間では「学習」は起こりません。日常のオペレーションやルーティンがそこを支配し、かつ、生活は、昨日のように、かく流れていきます。

 対して2つめの「背伸び空間」というものは、学習者が様々な未知のものに出会い、それへの適応や対処を求められる空間です。
 ここは「ストレッチ」という言葉の示すとおり、学習者には「挑戦」が求められ、かつ、失敗するリスクが生まれます。
 しかし、「挑戦」や「失敗」を裏返して言えば、そこには「学び」があるということです。ですので、この空間は、別名「Growth Zone(成長空間)」「Learning Zone(学習空間)」とよばれています。
 
 3つめの空間「混乱空間」では、未知のものに出会う頻度、対処の難しさ・複雑さが格段にあがり、学習者はいわばカオスに投げ込まれたもののようです。
 高い不確実性、高い不透明性が眼前には広がっています。そこでは「失敗するリスク」が高すぎて、「恐怖」が支配し、とても、冷静になることはできず、学ぶこともできません。
 あるのは、ただただ「パニック」。それ以上でも、それ以下でもありません。

 ▼

 上記の概念図は、非常にシンプルな図ですが、「学びとリスクの関係」について、それが微妙なバランスの上にたっていることを教えてくれます。

 リスクが高すぎては「混乱空間」になってしまい、人は恐怖におののきます。
 とはいえ、低すぎては、つまり「快適」すぎてしまっては、人は日常のルーティンに流されていくだけです。
 両者ともに、いずれにしても、学ぶことはできません。

 非常に興味深いのは、1の「Comfort Zone」とは、快適で、一見、「ノーリスク(No Risk)」「ゼロリスク(Zero Risk)」の空間に見えるかもしれませんが、それは長期的にみれば、「非常にリスクの高い空間」である、ということです。

 なぜなら、そこには「快適さ」が支配しており、学習者に「学び」や「進歩」がありません。ですので、いずれ環境が変化し、適応や革新をもとめられた際には、学習者は、もっとも「脆弱な立場」に置かれやすい、ということを意味します。

 リスク論をひくまでもなく、この世界に「ノーリスク」「ゼロリスク」の「地平」は存在しません。
 短期的には一見「リスクがない」と思われるものほど、長期的には「リスキーであること」が、この世の中には多いものです。「ゼロリスク」とは、見方をかえれば「ハイリスク」のことなのです。

  ▼

 今日のお話は、学びとリスクの微妙な関係についてでした。
 今日は、体験学習のコンテキストで、この話をしませんが、このことは、経営学習(Management Learning)的なコンテキスト、つまりは、「ビジネスパーソンの能力形成・キャリア形成」のコンテキストにおいても、十分、フレームワークとして参照が可能なのではないか、とも思います。

 あなたが、もし、指導側にいるのならば、学習者にとってちょうどよい「Stretch Zone」をいかにセットするかがポイントになるのかもしれません。

 また、あなたが学習者側にいるならば、自分を適切な「Stretch Zone」に導くことが求められます。ともかく、「最近、何か、快適だなー」と思ったら、それは「学び」から遠ざかっている証拠かもしれません。

 あなたが今たっているのは「快適空間」ですか?
 「背伸び空間」ですか?
 それとも「混乱空間」ですか?

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月17日 07:50


「教えること」や「学び」を語ることの再帰性:あなたは授業を工夫せい!という そういうあなたは、どうなのだ?

 今さらながらなのですが「志ある若い世代に、教えることを教えることは面白いな」と思いました。

 ▼

「近い将来、大学の教壇にたちたいと願う大学院生に"教えることを教える"プログラム」、いわゆる東京大学フューチャーファカルティプログラムが、いよいよスタートしました。

東京大学フューチャーファカルティプログラム(東大.FD COM内)
http://www.todaifd.com/ffp/

 4月11日には、本郷・弥生キャンパスで、本プログラムのプレワークショップが開催され、134名の大学院生の方々が参加し、参加証を手にしました。プレワークショップは、同僚の栗田佳代子さんと藤本夕衣さんらが、中心に準備・ファシリテーションを行いました。

todfaiffp1.png

(どうでもいいことかもしれませんが、個人的には栗田さん・藤本さん・デザイナーさんとおつくりになった、上記のFD書類パケットのデザインが気に入っております。クールなデザインですね。ダサいFDっていやですね)

 3時間のプレワークショップで扱われた内容は、おおよそ、下記のとおりです。

 1.現在の高等教育が置かれている状況の理解
 2.現在の博士就職市場の動向と教育力
 3.若い世代に「教えることを教えること」の意味
 4.研究と教育の両立
 5.アクティブラーニングとMooc

 プレワークショップは、いわゆる「授業のオリエンテーション」です。限られた3時間で、このプログラムが存在する意義、現在の高等教育のマクロな理解を果たしつつ、この授業の雰囲気を把握していただくことが、目的になります。ご登壇いただきました、吉見先生、山内先生、愛媛大学・小林直人先生には、この場を借りて、心より御礼申し上げます。

 主に2「現在の博士就職市場の動向と教育力」については、中原も登壇させていただき、現在の採用の動向を、教育力にからめてお伝えしました。
 研究と教育というと、主に大学教員の採用は前者、研究業績を見ることが過去にも現在にも「主軸」だとは思いますが、シラバス・教案の提出、模擬授業、講演実施など、教育の力量をいかに事前面接段階に推定するかも、少しずつ広がっている動きであることをお話しました。
 大学教育の質保証の議論、テニュアトラック制度の試験的導入など、大学教育環境は激変する状況にありますが、今後、どういう方向に向かい、どのように対処するべきか、個人的な推測を述べさせていただきました。

 お話の中では、何度か、学生同士、対話をしてもらう機会を設けました。短い時間ではありましたが、様々な研究科から集まってきた方々のあいだで、非常に興味深い対話が生まれているような気がしました。時間は限られていたので難しいのですが、個人的には、できれば会場全体で意見を共有する時間があったらよかったな、思いました。ここは強い反省のポイントです。

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 けだし、FDのプログラムとは、「強い再帰性」の中にあります。

 あなたは、教えることを工夫せい、という
 あなたは、授業にコミュニケーションを取り入れろ、という

 そういう、あなたはどうなのだ?

 あなたの授業は工夫されているのか?
 あなたの授業にコミュニケーションはあるのか?

 私たちがFDの受講者に放ったメッセージは、ブーメランのように、私たち自身にかえってくるのです。プログラムのキックオフをひかえて、関係者一同、身を引き締めているところです。
 なお、会の運営に関しましては、参加者アンケートなどを拝見する限り、おおむね好評をいただいたとも思いますが、建設的な改善へのご意見もいただきました。
 今後、それらのご意見をふまえ、さらによいものをつくっていきたいと考えています。わたしたちは、それらのご意見には真正面から向き合います。

(人生いろいろ、FDもいろいろ。多種多様なものがあってもよいとは思いますが、もし仮に授業のやり方を工夫せよ、というFDのプログラム自体の運営や学習内容が工夫されたものでなかったとしたら、それは自己矛盾です。いかなる理由があれ、FDの担当者のプレゼンやファシリテーションが工夫されていなかったら、その説得力は限られたものになるでしょう。わたしはFDの専門家ではないので、よく実態はわかりません。が、東大フューチャーファカルティプログラムの関係者のひとりとしては、そのクオリティ維持には強い関心をもっています)

  ▼

 東京大学フューチャーファカルティプログラムは、受講希望者多数のため、セレクションを行わざるをえない結果になりました。大変心苦しいのですが、いくつかの基準をもうけさせていただき、セレクションを行い、2つのキャンパスで4月18日からスタートします。中心になるのは、栗田佳代子さんと藤本夕衣さんです。

 現在、プログラムには既にウェイティングリストが発生している状況ですが、今後、プログラムを安定運用させていきながら、どのようになるべく多くの方々に受講して頂くか、智慧をしぼっていきたいと考えています。

  ▼

 冒頭に述べましたが、個人的には、本プログラムに関わらせて頂いて、「志ある若い世代に、教えることを教えることは面白いな」と思いました。しかし、正確にいうと、興味深いのは「教えることを教えること」そのことにあるのではないのかもしれません。
 むしろ「教えることを教えることで、志ある若い世代のキャリア形成を応援すること」に興味関心を持っているということなのかもしれませんね。志と熱意のある若い研究者の方々で、「教えること」のノウハウをもった方が増えていけば、長い時間をかけて、現場も、少しずつ変わるんじゃないだろうか、と思っています。

 僕自身、人並み以上には、講演・授業・プレゼンテーション・ワークショップを行ってきた方だと思います。その中では、たくさんの失敗もしてきました。数え切れないほどの苦い経験もしてきました。
 まだ若い頃の僕が学習者の方々にご迷惑をおかけしたことは、今でも悔やまれますが、そのたびごとに、僕は、「教えること」や「プレゼン」が上手くなりたい、という思いをもってきました。他人のプレゼンテーション、話し方をビデオ視聴し、マネし、何度も失敗しながら、今のスタイルに至りました。

 まだまだ発展途上で恐縮なのですが、僕自身が、これまで「教える中」で学んできたことを、限られた登壇機会にはなるものの、そこで得た「実践知」を、志ある若い世代に、お伝えしたいと願っています。

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東大 × 学び × 革新
これから、大学の教壇にたつ、大学院生へ
東京大学 フューチャーファカルティプログラム、始動!

東京大学フューチャーファカルティプログラム(東大.FD COM内)
http://www.todaifd.com/ffp/

 そして人生はつづく

投稿者 jun : 2013年4月16日 06:10


【研究会・参加者募集中】「30代後半のキャリアを考える - 激流、筏下りの先にあるもの」 Academic Hack!

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ACADEMIC HACK!(アカデミックハック)

「30代後半のキャリアを考える:激流、筏下りの「先」にあるもの」
FUJITSUユニバーシティ・山口由美子さん・安達優彦さんをお招きして

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FUJITSUユニバーシティの山口由美子さん、安達優彦さんをお招きして
「30代後半のキャリアワークショップ」に関する研究会「Academic
Hack!」を開催させていただくことになりました。

富士通さまでは、昨年より新たに「30代後半の社員の方々を対象
としたキャリアワークショップ」を開発し、現在、同社・社員の方々に
実施なさっているそうです。今回のAcademic Hack!では、その一部
を体験したりすることを通して、「30代後半」という年代のキャリア・
能力形成について考えてみたいと思っています。

考えてみれば「現在、30代後半」というのは、なかなかに難しい年
代です(正確には30代後半「も」難しいんでしょうね)。

小学生の頃にバブル、物心ついてからはバブル崩壊、未曾有の不況。
入社は就職氷河期。いつのまにか、自分の世代についた名前は
「ロストジェネレーション」。

物心ついた時代から、そんな激動の右肩下がりの時代を生き、
藁をもつかむ思いで社会にでる。
いわゆる「筏下りのメタファ」のように、組織の中で「激流」
を何とかかんとか下り、気がつけば、最近、川の流れは、以前よりも、
少しだけ緩やかになってきた。
・・・気づけば、今、30代後半。

自分とともに上流を出た「筏」の中には、石にぶつかり遭難しかけて
いるものもいる。激流をいち早く下り、陸にあがり、今度は登るべき山
を見出しているものもいる。
かつて「同期」とよばれた均質な集団は、様々にわかれ、中にはマネ
ジャーになっているものもいる。

筏で激流を下って、たどり着いた先には、何か「確固たるもの」がある
と思っていた。自分は、「確固たるもの」をめざして、川をくだってき
たつもりだった。
しかし、たどり着いた先には、確固たるものは何もない。四方は山に
囲まれている。さて、ここから、どうしていけばいいのか。

いわゆる35歳を、ひとつの境界とする転職市場とは、自分は、もはや、
少しだけ「縁遠く」なっている。しかし、同時にこの先30年にわたって、
今いる会社でどんな目標をもち、働いていけばいいのか。ぼんやりとし
た不安が、自分を襲う夜もある。

家庭を持っている人は、子どもがまさに大変で多感な時期に入りつつ
ある。家庭と仕事のバランスをいかに保っていくか。なかなか悩ましい。

多くの組織で、キャリア支援の取り組みというと、若年層・45歳世代
そして定年前のシニア世代に焦点があてられていますが、同社では、去年
より30代後半に焦点をしぼったキャリアワークショップを開催しております。
当日は、この試みを参考にしながら、皆さんで「30歳後半のキャリア」
それに対する支援のあり方について考えてみたいと思っています。

中原 淳

ーーー

【主催】
東京大学大学院 学際情報学府 中原淳研究室
http://www.nakahara-lab.net/blog/

【日時】
2013年5月23日 午後6時 - 午後9時あたり

【内容】
30代後半のキャリアを考える:激流、筏下りの「先」にあるもの

Session 1 : 「30代後半キャリア研修 なぜ・どのように」
山口由美子さん・安達優彦さん
・富士通におけるキャリア支援
・30代後半ってどんな年代?~現場から・キャリア理論から~
・研修開発にあたり意図したこと

Session2 : 「体験プログラム」
山口由美子さん・安達優彦さん
・実際の研修をアレンジしたアクティビティを体験いただきます

Session3 : 「30代後半のキャリアを考える:激流、筏下りの「先」にあるもの」
・参加者でのダイアローグ

【参加費】
参加費3000円(謝金・資料代・軽食代等に支弁いたします)

【募集人員】
50名

【食事等】
サンドイッチなどの軽食・お飲み物等を準備させて頂きます。

【申し込み方法】
参加お申し込みは下記の参加条件をご了承いただける方に限り、
【5/1まで】受付をいたします。参加希望者が多い場合は、抽選
とさせていただきます。5月5日までには参加の可否をご連絡差し
上げます。

参加条件
(1)本ワークショップの様子は、予告・許諾なく、写真・
ビデオ撮影・ストリーミング配信する可能性があります。
写真・動画は、中原淳が関与するWebサイト等の広報手段、
講演資料、書籍等に許諾なく用いられる場合があります。
マスメディアによる取材に対しても、許諾なく提供すること
があります。参加に際しては、上記をご了承いただける方に限ります。

(2)本イベントで万が一剰余金が発生した場合は、繰り越し、中原淳
が企画する、組織人材育成・組織学習に関係するシンポジウム
研究会、ワークショップ等の非営利イベント等の準備費用・運営費用、
に充当します。

参加申し込みWebページ
http://ow.ly/k3lSs

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投稿者 jun : 2013年4月15日 05:54


「最近の若者は、コミュニケーション能力がない!」は本当か!?:そう口にする前に少しだけ考えてみたいこと

 最近、気になることがあります。それは「今の若い人はコミュニケーション能力がない」という言葉が、本当に意味するところです。

 この言葉、人事系の雑誌・メディアなどの言説空間では、よく聞くことばです。本当によく見ますよ。

「コミュニケーション能力欠如、ひとつもらおうかな」
「はい喜んで。コミュニケーション能力欠如、いっちょう、いただきましたぁ!」

 という具合に(笑)。

 俗な言葉をいえば、

 人生いろいろ、若者もいろいろ。

 もちろん、そういう若い方はいらっしゃるんでしょう。そのことを否定する気は全くありません。ただし、それは先ほどの命題に「ミドルもいろいろ、シニアもいろいろ」であることを付け加えることを意図的に行わないという「片手落ちの錯誤」を犯さないのであればの話です(要するに、最近の若者はというけれど、昔の若者はどうだったの? 上の世代はどうなの?ということですね)。
 もし仮に、そうであるならば、「コミュニケーションが苦手な若い方が存在しうること」は、全く否定しません。そういう困った若者は存在するのでしょう。

 しかし、一方で、この言葉が、どういうコンテキストで発せ去られているのかを子細に、よくよく、気にかけていくと(すみません、職業柄、ロジックと言葉は気になって仕方がないのです・・・)、興味深いことが、味わい深く、ダバダーと、ひとつわかってきます(笑)。

 問題は「コミュニケーション能力がない」という命題で意図されている「コミュニケーションとは何か?」ということです。そもそも、どういうものを、コミュニケーションって呼んでいる?

  ▼

 コミュニケーションとは何か?

 嗚呼、この命題をかかげるだけで、「枕」としてはやや高めの博士論文並の大著が書けそうで、僕は失禁してしまいそうですが、一般には、それは「主体間の双方向性をともなう情報のやりとり」と考えられているのではないでしょうか。
 この考えに首肯できない研究者の方、専門家の方は少なくないとは思いますが、一般には、コミュニケーションとは、そういうものと理解されている、として、ざっくり、大味に、この後の議論を進めていきましょう。

 コミュニケーションとは=双方向性のある情報のやりとり

 しかし、ここで興味深いことがわかります。
 先ほど、僕は、「コミュニケーション能力がない」という命題において意図されている"コミュニケーション"とは何か?」と申しましたが、市井で「コミュニケーション能力がない」と嘆きが生じるとき、そこで意図されているものは、必ずしも「双方向性のともなうもの」では「ない」場合が、少なくない、ということです。
 
 つまり、ぶっちゃけていいます。

 要するに

「若者が、自分の思い通りに動かない事態=コミュニケーション能力がない」
「若者が、自分と同じように考えない=コミュニケーション能力がない」
「若者が、自分を察して行動しない=コミュニケーション能力がない」

 ということが意図されて、先ほどの「コミュニケーション能力がない」が発話されている場合が少なくない、ということです。
「コミュニケーション能力がない」は、様々なコンテキストで発話されていますが、市井での発話のコンテキストを気にかけていると、上記のような場面でも、この言葉が使われていることが気になります。

 つまり、

 若い人が、自分の思い通りに動いてくれない
 若い人が、自分たちと同じように発言してくれない
 若い人が、自分のことを察して、動いてくれない

 ことをもって「コミュニケーション能力がない」という発話がなされていることはないでしょうか。

 少なくとも、僕が、世の中で様々な人々との会話で、この発話がなされるときのことを、子細に考え抜いてみますと、要するに「双方向のやりとり」そのものが問題なのではない場合がゼロではないな、と思ってしまうのです。

  ▼

 しかし、一方で、この現象は、まがりなりにも教育機関にいる人間としては、興味深くも思うのです。

 だって、これまで社会の趨勢は、一方で

 これからの人は、自発性・自律性をもって動かなくてはならない。
 これからの人は、自分の考えをもって、発言しなくてはならない。
 これからの人は、自分の考えを物怖じせず、相手にはっきり伝えなくてはならない

 と教えてきた、ないしは、教えることをよしとしてきたのではないでしょうか。

 自発性・自律性なんてなくていいよ
 自分の考えなんてもたなくていいよ
 自分の考えを伝えず、モジモジしてていいよ

 なんていう議論や言説を、管見に関する限り、僕は見たことはありません。

 つまり、ここに「矛盾」が存在するような気がするのです。
 一方では、若い人に「自分の頭で考えること・動くこと・発言すること」を望んでおいて、一方では、それによって起こる異世代間の心理的コンフリクトを「コミュニケーション能力がない」というラヴェルで回収しようとする。問題は、このラヴェリングで、コミュニケーションを断とうとしているのは、どちらの方か、ということです。

 くどいようですが、若い方の中には、いわゆる双方向のやりとりが本当にできない人もいるのでしょう。
 しかし、一方で、「コミュニケーション能力がない」という言説が、上記のような「矛盾」をはらみつつ、発話されていることに、時に敏感になってしまう自分がいることを、正直に吐露しないわけにはいきません。

  ▼

 僕はコミュニケーション論の専門家でも、メディア論の専門家でも、若者論の専門家でも、ありませんので、今日の話は、いつもの与太話です。データもないし、根拠レス。放屁みたいなもん。話半分で聞いていていただければ結構です(笑)。

 ただし、一方で、こうも思います。

 それは、

 自分の頭で考える
 自分の考えで動き、意見する

 をよしとするならば、そこには「覚悟」が必要であるということです。
 それは、それをのぞむ方自身も「自分の頭で考え、意見し、はっきりとそれを明示し」、異なる主体間のあいだで「双方向性」を成立させる意思をもたなければならない、ということですね。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年4月12日 06:32


現場の話を、現場の方々に聞く - 興味深い話がうかがえたときの3つの瞬間

 今年にはいってから、いくつかの研究でビジネスパーソンの方々を対象にヒアリングを継続しています。3ヶ月で、ちょうど40名弱の方々からお話を伺えたでしょうか。
 皆さんからのお話は、どれも示唆に富むものばかりで、毎回、非常に楽しみです。「現場で働いている方の話は、リアルで生々しくて、圧倒的に興味深い」みなさま、本当に、年度末・年度初めのお忙しいところ、ありがとうございます。

 今日は、このヒアリングについて、少しお話しすることにしましょう。

  ▼

 以前にも申し上げたかもしれませんが、ビジネスパーソンの方々から、わたしたちのヒアリングにいただける時間は1時間。
 ヒアリング前後には、時候の挨拶、ラップアップの時間が必要ですので、それらをのぞくと、だいたい聞き取りにかけられる時間は45分です。しかもお忙しい皆さんは、最後の5分くらいになると、時計に目をやったり、そわそわしはじめますので(笑)、だいたい「正味の時間」は40分ともいえるでしょう。
 この40分に、どれだけ話をうかがえるか。ここが勝負です。
(僕が、10年前こちらの領域にうつってきたとき、何より驚いたのが、この、厳しい時間感覚でした。相手の貴重な時間をどのように活かし、どのようなことを聞き取るか、本当にいつも考えております)

  ▼

 あたりまえのことですが、ヒアリングにあたっては、僕はなるべく余計なことにしゃべらず「聞くこと」に注力します。

 ヒアリングの主人公は「相手」であり「僕」ではないのです。
 また、ヒアリングは必ずしも「どっかん、どっかん盛り上がる」必要はないのです(笑)。
 もちろん、敢えて盛り下がる(笑)必要もないのですが、盛り上がる、盛り上がらないよりも、聞きたいことを、きちんと伺うことが何より大切です。

 ですので、ヒアリングでは、敢えて自分の気配や存在感を消し、声色を下げます。相手の言ったことを繰り返したり(リピーティング)、短く要約しながら、なるべく長いひとまとまりの語りを得るように、努力します。多くの場合、40分はあっという間に過ぎてしまいます。

 ヒアリングの最後では、多くの場合、「今日はいかがでしたか?」と感想をうかがい、こちらの感想をお伝えしたうえで、「どうもありがとうございました」ということになります。もう少し話を聞けたら、と思うときもありますが、時間は大切です。「時間の延長」は御願いしません。そこはきっちり、けじめをつけて、お約束した時間で終わります。
 ヒアリングの最後では、答えて下さった方から、様々な感想をいただきます。感想は多岐にわたりますが、面白いことに、興味深いヒアリングができたな、と自分自身が思うときには、ヒアリング対象者の方から、3つの言葉をいただけることが多いことに気づきました。それがこちらです。

 1.すみません、まとまりなく、べらべら、話してしまって
 2.すいません、変な話、いたしまして・・・
 3.こんな話が、本当に、お役に立ちますか?

  ▼

 1「すみません、まとまりなく、べらべら、話してしまって」は、たいていご本人は、あまり抵抗感なくお話できた場合に聞かれる言葉であるような気がします。

 といいますのは、ヒアリングを受ける方々は、多くの場合、最初は、かなり緊張なさっておりますし、「これから何が起こるんだろう?」「どんなこと寝掘り葉堀きかれるんだろう?」と少し身構えておられる場合が少なくありません。
 特に、場合によって、人事・経営企画・経営者を経由して、僕のヒアリングに答えて下さった現場の方々の緊張感は、強いものがあります。
 そういう「緊張感」をいかに弛緩させ、「まとまりなく、べらべら」という風になるぐらいに、リラックスした状況、自然体な状況にいかに持って行くか、に智慧をしぼります。

 ヒアリングの前に、その会社のことを有価証券報告書などを読んで頭にいれておき、こいつわかってるな、と思って頂くこともそのひとつ。
 ここで得られたデータは匿名で処理し他言はしませんよ、とお約束するのも、そのひとつ。
 その方が語る経験を興味をもって、リスペクトをもって、伺うことも、そのひとつ。得られた語りを大切に記録することも、またひとつ。
 まだまだ僕の能力や努力は足りているとは思えませんが、そういう様々な打ち手を重ねて、なるべく「まとまりなく、べらべらしゃべっていただける環境」を準備したいと願います。

 興味深いことに、非常に示唆にとむ語りとは、体系的に、秩序だって語られることからはでてこないものです。「まとまりなく、べらべら、語られた」中に「キラリと光る発見」が含まれることが多い気がします。つまり、ヒアリングを受けられた方にとっては「拍子抜けの瞬間」というのでしょうか。
 気づけばあっという間に、時間が過ぎてしまっていたような時間をいかにつくるかを、常に考えています。

 ですので、ヒアリングに答えてくださる方は、「まとまりなく、べらべら」でよいのです。

「まとまりなく、べらべら」と語られたものを、意味づけ、秩序だけ、体系だてていくのは、研究者が果たすべき役割なのですから。

  ▼
 
 2の「すいません、変な話、いたしまして・・・」の「変な話」は、たいていご本人にとって非常にパーソナルで、しかも、偏った話をしてしまった場合に聞かれる言葉です。

 この場合、本人としては、とんでもなく「パーソナルな話」をしてしまって恐縮しておられるのですが、調査者としては、「それを求めている」のですから、それでよいのです。

 先日、あるところでヒアリングさせていただいたときには、その方が子ども時代を過ごした渋谷の「かつての町並み」の話になりました。一見、「渋谷のかつての町並み」は、僕が行うヒアリングには関係ないと思われるかもしれません。
 しかし、そうした子ども時代の生活から、今をつなげて考えてみれば、その方が
「今、発揮しておられるリーダーシップのあり方」が、決して、その方の生育歴と不連続では考えられないことに気づかされます。

 くどいようですが、そうしたことを背後で計算しながら、研究者は話を進めますので、それでよいのです。

 もちろん、本当に話が違う方向に飛んでいってしまうこともゼロではありません。そうした場合には、ひそかに話題を修正することを計算しますが、なかなかうまくいかない場合もありえます。
 そうした場合には、「ご本人にとって、今、そのことをお話することが、どれだけクリティカルなのか」を考えます。これは研究者によっては意見がわかれるのだと思いますが、僕個人としては、「その方にとって、今、この話をなさることが大事である」ように感じた場合には、敢えて、「話題の修正」を行わず、じっと、その方の話を伺います。
 場合によっては、ヒアリングは「個人のキャリア相談」のようになることもありますし、「業務相談」のようになることもあります。しかし、その場合も「話題の修正」や「場の仕切り直し」は行いません。

 確かに研究者として、その「語り」はデータとして使えません。
 しかし、現場と、かかわりながら研究をするとは、そういうことだ、とも思います。

 現場は、研究のために存在しているわけではありません。
 現場の方々は、研究のために働いているわけではありません。
 そして、現場の方々の語りは「研究仮説」に準拠すべき由縁はありません。

 もちろん「個人のキャリア相談」「業務相談」になったとしても、僕に「答え」があるわけではありませんし、それで現場の方々の課題が解決されることもすくないと思います。しかし、話を伺い、一緒に考えることなら可能であると思っています。

  ▼

 3の「こんな話が、お役に立ちますか?」は、「インタビューを受ける方にとっては、アタリマエダのクラッカーすぎるような「ド直球」の問いが続き、常識的でいて、何の役に立つか分からないとき」に出てくる傾向があります。

 たしかに、こういうときは「この方にとっては野暮な問いだな」と思って、僕も質問していることがあります。
 しかし、実際にその方にとって、あまりに「常識的な問い」でも、それが他の人からみると、そうでもないことは、ままあるものです。また、私たちは「語られていないこと」をデータとして残すわけにはいきません。ですので、わかっていても、きちんとその方の言葉で語って頂く必要があります。
 そういう場合には、少し「野暮な問い」かな、と思っていても、敢えて、直球で切り込んでいくときが、ままあります。

 ですが、その方にとっては「常識をとう問い」であっても、非常に示唆に富むことが、実際は多いものです。例えば、かつて、OJTのヒアリングをさせていただいたとき、その方の会社にとっては30数年実践なさっていることが、実は、現代にてらしてみれば、非常に先進的な試みである、といったことがありました。

 ある人の常識は、他人にとっての気づき
 自分の組織における常識は、他の組織にとっての新機軸

 であることは、ままあるものなのです。

 ▼

 今日は、僕自身が「興味深いヒアリングができたな」と感じられるとき、相手からいただける言葉について書いてみました。
 ヒアリングとは、僕のような研究の場合、どうしても必要になるものですが、できれば、ヒアリングを受けられる方にとっても、ふだんは考えないことを、ふと考えていただけるような「よい時間」を過ごして頂きたいものだな、と考えます。
 僕の能力では、そこまでのヒアリングは、まだなかなかできないのですが、本当にそう思っています。

 インプロ(即興劇)が大切にする価値観に「Give your partner good time!」というのがあるそうですが、ヒアリングもインプロのひとつです。
 ヒアリングを通して「Give your partner good time!」的な時間を相手に過ごして頂けたとしたら、非常に嬉しいことですし、そういう時間になるよう、及ばずながら、努力していきたいものです。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月11日 08:38


30代後半のキャリアを考える:激流、筏下りの「先」にあるはずだったもの

 FUJITSUユニバーシティの山口由美子さん、安達優彦さんをお招きして「30代後半のキャリアワークショップ」に関する研究会「Academic Hack!」を開催しようと思っています。

 同社では、昨年より新たに「30代後半の社員の方々を対象としたキャリアワークショップ」を開発し、現在、同社・社員の方々に実施なさっているそうです。

 先日、企画を手伝ってくれる舘野さん(中原研OB・大総センター特任研究員)と一緒に、同社にお邪魔させて頂き、打ち合わせを行わせていただきました。
 お忙しいところ、山口さん、安達さんには貴重なお時間をいただきました。この場を借りて感謝いたします。

  ▼

 考えてみれば「現在、30代後半」というのは、なかなかに難しい年代です(正確には30代後半「も」難しいんでしょうね)。

 小学生の頃にバブル、物心ついてからはバブル崩壊、未曾有の不況。入社は就職氷河期。いつのまにかついた名前が「ロストジェネレーション」。

 そんな中、藁をもつかむ思いで社会にでる。
 いわゆる「筏下りのメタファ」(ワークス研究所・大久保さんのメタファ:先日、山口さんに教えて頂きました)のように、「仕事の激流」を何とかかんとか下り、気がつけば、最近、川の流れは、以前よりも、少しだけ緩やかになってきた。

 自分とともに上流を出た「筏」の中には、石にぶつかり遭難しかけているものもいる。激流をいち早く下り、陸にあがり、今度は登るべき山を見出しているものもいる。
 かつて「同期」とよばれた均質な集団は、様々にわかれ、中にはマネジャーになっているものもいる。

 自分は、そこをめざすべきなのか。
 それとも一生現場にこだわるべきか。

 筏で激流を下って、たどり着いた先には、何か「確固たるもの」があると思っていた。自分は、「確固たるもの」をめざして、川をくだってきたつもりだった。
 しかし、たどり着いた先には、確固たるものは何もない。四方は山に囲まれている。さて、ここから、どうしていけばいいのか。

 ふと「会社の外」に目をやれば、さらに「人生の分岐」は多様になっている。
 億単位のディールを繰り返す圧倒的な成功者。事業再編やリストラの憂き目にあい、仕事の意義を見失っているもの。いち早く会社を去り、起業するもの。病に倒れるもの。人生はまさに「千差万別」である。

 いわゆる35歳を、ひとつの境界とする転職市場とは、自分は、もはや、少しだけ「縁遠く」なっている。しかし、同時にこの先30年にわたって、今いる会社でどんな目標をもち、働いていけばいいのか。ぼんやりとした不安が、自分を襲う夜もある。

 家庭を持っている人は、子どもがまさに大変で多感な時期に入りつつある。家庭と仕事のバランスをいかに保っていくか。なかなか悩ましい。
 
  ▼

 実は、僕も、今年38になるのですが、大学の場合、少し状況は異なるものの、こうした状況に関しては、一定の共感を感じてしまいます。

 僕は、このあと、どこに行けばいいのか。
 僕は、何をすればいいのか。

 あー、こういうことを考えていると、暗中模索、五里霧中、阿鼻叫喚、あべし、という感じです。
 実際、昨日は、打ち合わせの最中、何度か唸ってしまいました(笑)。もう少し時間をかけて、今後を考えなくてはならないのは、僕かもしれません(笑)。

  ▼

 研究会は5月23日午後6時、東京大学を予定しています。ガチ研究会「Academic Hack!」の枠内で実施します。

 今回の研究会では、20代・30代・40代・50代の年代別、またライン・人事という職種毎に、なるべく多様な方々にお集まりいただき、「30代後半のキャリア」について考えてみたいな、と考えております。

 近日中に、メルマガなどから、募集を開始させていただきます。

中原研究室メルマガ
http://www.nakahara-lab.net/mailmagazine.htm

 みなさんにお会いできますこと愉しみにしております。

投稿者 jun : 2013年4月10日 08:33


【満員御礼・好評にこたえ若干名募集】"教えることを教える"プログラム、東京大学フューチャーファカルティプログラム

 東京大学フューチャーファカルティプログラム・プレワークショップへの応募が定員(100名)を大幅に上回り、150名以上になりました。お申し込みいただいた方々、まことにありがとうございます。

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東大 × 学び × 革新
これから、大学の教壇にたつ、大学院生へ
東京大学 フューチャーファカルティプログラム、始動!

  ▼

「近い将来、大学の教壇に立ちたいと願う大学院生に"教えることを教える"」全学教育プログラム、東京大学フューチャーファカルティプログラムが、いよいよ、4月11日、プレワークショップからはじまります。

 このプログラムでは、

1.プレワークショップ(半日)
2.大学院共通科目「大学教育開発論」(2単位)
3.ポストワークショップ(半日)

 の3つをすべて終えた学生に、大学公式の履修証を授与します。この履修証は、大学院生が就職のさい、履歴書などにも書くことができます。プログラムに関しては、下記のサイトや下記のビデオをご覧下さい。

東京大学フューチャーファカルティプログラム(東大.FD COM内)
http://www.todaifd.com/ffp/

 ▼

 おかげさまで、このプログラムのプレワークショップには、現在のところ100名の募集に対して、すでに定員を上回る150名以上のご登録をいただいております。お集まりいただいている大学院生の所属は、全学多岐にわたります。決して文系・理系に偏っていることはありません。このプログラムを通して、様々な学問領域で学ぶ大学院生につながりができるとしたら、非常に嬉しいことのように思います。

 なお、本プログラムは、マスメディアからも注目されており、すでに朝日新聞、読売新聞(4/3)、また東京大学新聞社に取材いただいております。まことにありがたいことです。

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(読売新聞)

 本プログラムの運営にあたっては、栗田佳代子先生、藤本夕衣先生らとともに、まずは4月11日を乗り切りたいと考えております。

 定員は超えておりますが、会場を融通し、プレワークショップは、まだお申し込みが可能です。プレワークショップでは、東大教育企画室・FDワーキンググループの座長であられた山内祐平先生、本プログラムの実現を推進してくださった吉見俊哉副学長らにもご登壇いただける予定です。中原も少しだけミニレクチャーをさせていただきます。「聞く、聞く、聞く、帰る」の会ではなく、この会自体も、大学院生にお話しして頂く機会を何度か設けたいと思ってます。

 もしご興味がおありな方がいらっしゃいましたら、お申し込みをご検討ください。

東京大学フューチャーファカルティプログラム
プレワークショップ(授業説明会・オリエンテーション)
日時:2013年4月11日(木)午後1時から4時
会場:東京大学弥生講堂一条ホール

4月11日 東京大学フューチャーファカルティプログラム ワークショップ お申し込み
http://www.todaifd.com/event/

投稿者 jun : 2013年4月 9日 08:18


Connected Learning - グローバリゼーションの内側で「学習論」を考える!?

 先週土曜日は、東京都市大学の岡部大介先生のところで主催された「Connected Learning」の研究会にお邪魔しておりました。

Okabe blog : 東京都市大学 環境情報学部 情報メディア学科 岡部大介 研究室
http://okabelab.net/blog/

 Connected Learningは、この概念自体、いまだきっちりとした定義も、日本語訳もあるわけではないのですが、敢えて、ざっくりと説明するならば、

1) ある特定の興味関心をもつ個人たちが
  (Interest-powered, Shared purpose)
2) 自らの自発的意志によって参加するオープンな学びの機会であり
  (Openly Networked)
3) そこでは同じ志をもつ仲間のサポートを得ながら、
  (Peer-supported)
4) 何かをつくりだす活動に継続的に従事し、
  (Production-centered, Doing constantly )
5) そのことが、結果として、当人の能力形成・キャリア形成につながるような学習
  (Academically-oriented)

 のことだといえそうです。

Connected Learning Research Network
http://clrn.dmlhub.net/

 この概念は、状況的学習論が勃興してきた1980年代後半に、大学院生であり、Cole, M.やSuchman, L.などののちに状況的学習論をリードしていくベイエリアの研究者のもとで薫陶を受けていたMizuko Itouさんらの研究者グループが、某財団の支援を得ながら、現在進行中でまとめている研究群だそうです。
 今回、研究会では、この概念の理解、および、事例の検討など、多岐にわたる方面で議論がなされ、まことに興味深いことでした。

  ▼

 研究会では、多方面にわたる議論がなされましたが、僕個人が非常に興味深かったのは、この概念と状況的学習論の言説空間の相違についてです。それらの概念はルーツは似ているにせよ、細かいところでいえば多々差がありますが、それを列挙することに、個人的にあまり意味があるとは思えません。
 しかし、最も興味深かったのは、この概念が、グローバリゼーションや所得格差など、現在先進国をおそっている社会経済的な要因を背景にして主張されてきている概念であるということです。

 つまり、

「学校における達成が、そもそも個々人の家庭の経済格差ゆえに、不平等になっている現状に対して、どのような学習環境が存在するべきなのか」

 はたまた

「たとえ学校的学業成績に成功したとしても、それが必ずしも、就業や昇進などの社会的成功につながらない世界において、どのような能力形成空間が存在しうるべきか」

 という問いを背景にして、学問的議論の方向性が示されていることです。そういうとき、個人はどのように振る舞うか、どのように学ぶか、そして生き残るか。アカデミックな議論の背景には、こうした生々しい現実がすけてみえます。

 ともすれば、これまで「学習論の世界」「学びの科学の世界」は、現代社会論や社会経済的な要因とは「独立」して、Purely, Academically and Independentlyに探究されてきた傾向がなきにしもあらずなのです。つまり、非常に簡潔に述べると、社会経済がどんなかたちであろうと、それとは「独立」して、「学びのあり方」や「学びとは何か?」が探究されてきた。
 今回の一連の議論をきいていて、それが変わりつつあるんだな、ということを今さらながらに感じましたし、そうなるべきだよな、と思ってきた、ここ10年くらいの僕自身の思いをさらに強くしました。

 今回の研究会では、個人的には、約15年-20年前の理論の語られ方の違いに、隔世の感を感じました。今後、この概念、また、こうしたアカデミックな変化について、注視していきたいと考えています。特に、自分が探究したいと思っている「経営学習論」のあり方を考える(妄想・夢想!?する)うえで、今回の研究会は、とても大きな勇気をもらったな、という印象です。

 間違っても、おそらく、やってはいけないことは、

「Connected Learningとよばれる、あらたな教育手法が生まれて、世界的に注目を浴びている」

 とか

「Conncted Learningが変える学びの世界」

 とかいう、「紋切り型の枕」や「キャッチーな言説の語られ方」を「避ける」ことなのかもしれません。その本質は「Connected Learning」が云々というよりも「現代社会の進展に呼応しながら、いかに学ぶ環境を整えるかを考える必要がある、という至極あたりまえのことであるような気がします。もしかしたら、Connectの「接続するところ」は、「Learningのあり方」と「社会のあり方」のConnectなのかな、とも邪推しました。
 この概念の意味するところ、あるいは、その背景を冷静に、しかも、パッションをもって考えていきたいと思います。

 最後になりますが、岡部先生、松浦さん、そして研究会に参加した皆様には、大変お世話になりました。また、週末に研究会に参加するというのは、家族の理解がなければ可能にはならない贅沢なことです。

 心より感謝いたします。
 ありがとうございました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月 8日 18:05


コンセプトのある本屋さん!? : セレクトショップ的本屋さんで意外な掘り出し物に出会う!?

 仕事柄、年間で、本をいくら買っているかわからないほど、本を買います。多くの本を読むことは、仕事だと思っておりますので、別に苦ではありません。目の前に注文した本がやってきた、それを読む、ただそれだけです。

  ▼

 僕の場合、現在、書籍購入は、大学生協などへのネット注文か、ないしは、AMAZONからの購入になっています。が、一方で、敢えて意識的にリアル書店を訪れることも欠かさず行っています。敢えてといっても、隔週くらいの頻度くらいでしょうか。ちょっとした合間時間を見つけて、書店をブラブラと回遊します。

 と申しますのは、「リアル書店ブラブラ」をしないと、自分の読む本が偏ってくるからです。こう、「視点が狭くなっていく感覚」というのでしょうか。それを避けるため、「異なる領域にある、意外な発見」を求めて、リアル書店ブラブラをするのです。

 考えてみれば、ネットでの書籍注文というのは、僕の場合、「書名がわかる本」を注文するか、ないしは、その本に関連してレコメンドされた本を買うことになりがちです。そうしますと、自分の興味関心に合致した本、それに類似した本を、基本的には買うことになります。

 もちろん、時には、ネット書店であっても「意外な発見」もあるのかもしれませんが、レコメンデーションでレコメンドされるのは、過去の購入者の購買行動に基づいた「ある一定の枠内」にある本ですので、その「意外な発見度合い」はどうしても低くなる傾向があるように感じます。

 対して、リアル書店ブラブラは、必ずしも、毎回掘り出し物にあえるわけではないのですが、時に「アンビリーバボー的な意外な発見」にぶちあたることがあります。この発見の瞬間がたまりません。

  ▼

 リアル書店ブラブラでおとずれるのは都内の大型書店です。家庭菜園から医学、音楽から数学まで、様々な書棚をあてもなくブラブラして、書棚を眺めます。

「へー、この領域では、こんなことが言われているのか」
「ふーん、こっちの領域では、これが、今入ってきたんだ」

 独り言をいいながら、書棚散歩をしているので、ひとつ間違えると、危ないオッサンです。

  ▼

 最近は、コンセプトショップとでもいうのでしょうか。セレクトショップのような本屋さんにも出かけるようになりました。これらの本屋さんでは、大型書店のように「どんな本でもある」のではありません。店はあまり大きくなく、その店ごとに、あるコンセプトに基づいて、すでに意識的に本が選ばれています。

 セレクトショップ的な本屋さんでは、自分では決して買わない、自分では決して目を向けない本が、すでに選択されています。ので、大型書店とは異なったかたちで、「意外な掘り出し物」に逢える可能性がひらけているように感じます。

 例えば、下記のようなお店が有名ですね。さすがに東京のことしかわからないのですので恐縮ですけれども、おそらく大阪などにも、そういうお店があるのでしょうね。
 出かけるときは、営業時間と休日をチェックくださいね。ときたま、店によっては、営業時間が変わっていたり、休みになっているケースもありました。

■ユトレヒト
http://www.utrecht.jp/
東京都港区南青山5-3-8 パレスミユキ2F
TEL 03-6427-4041
FAX 03-6427-4042
営業時間 12:00-20:00
月曜日休み

■Cook Coop(料理専門のショップです)
http://www.cookcoop.com/
東京都渋谷区渋谷1-11-1-1F
TEL&FAX 03-6418-8143
11:00-21:00

■Shibuya Publishing Book sellers
http://www.shibuyabooks.net/
東京都渋谷区神山町17-3
03-5465-0577
月~土 12:00‐24:00
日 12:00‐22:00

■B and B
http://bookandbeer.com/
東京都世田谷区北沢2-12-4
第2マツヤビル2F
03-6450-8272
12:00~24:00

 この週末は天気が悪いようです。
 さすがに、こんな日は、おんもで遊ぶことはできないですね。
 台風並みと聞いておりますので、外出することにも注意が必要ですが、リアル書店に出かけてみるのも面白いかもしれません。
 皆さん、掘り出し物に逢えるといいですね。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月 5日 06:29


ブログの視聴行動の変化!?:「夜見るもの」から「朝読むもの」へ、「PC」から「スマホ」へ!?

 ブログは「夜見るもの」から「朝読むもの」へ
  しかも
 視聴メディアは「コンピュータ」から「スマホ」へ

 業界ではアタリマエのことなのかもしれませんが、先日、僕のブログのアクセスデータを、ひょっこり見る機会があって、そのことを実感しました。

 僕のブログは、ビジネスパーソンの方 / 社会人 / 研究者の方がご覧になることが多いと思われるので、どれだけ一般性のあることかはわかりません。
 また僕は、Webマーケティングの専門家ではないので、業界で何が言われているかは知りません。

  ▼

 たとえば、視聴時間。
 こちらに関しては、下記のようなグラフになっています。午前6時あたりからグラフが急上昇し、8時をピークに下がっていきます。
(今、この記事を読んでいる皆さん、まさに、このとおりですか?)

access_time.png

 次の「一山」、といいましょうか、「ぴょん」は、12時にきますね。これはランチタイムでしょうか。
 皆さん、食事をとりながら、あるいは、食事を終えたあとに、スマホで情報を見ている様子が目に浮かびます。食べ物は、よく噛んでくださいね。
(もしかして、今、皆さんは食事中でしょうか?)

 あとは、それ以降は、ほぼずっと、平ら。かつてのゴールデンタイムと言われた23時あたりですらも、ずっと「平板なまま」です。
 もう皆さん、寝ているのかな。
 あるいは、この時間は、FacebookやTwitterに流れているのかもしれませんね。詳しいことは専門家ではないので、わかりません。

  ▼

 次に視聴メディア。
 こちらは、僕のブログの場合(上位だけ)、

 1位 Windows 14.6%
 2位 iPhone 8.80%
 3位 Mac 3.26%

 という感じでしょうか。
 Windowsの優位に対して、iPhoneが追い上げている印象を受けます。
 いずれにしても、以前から言われていたことですが、Webだけを対象にしたサイト構築は、難しくなっているのかもしれませんね。

 少なくとも東京地下鉄メトロなどでは、Wifiが使えるようになってきてますね。こうした動きが広まると、さらに通勤時間が、Webサイトの視聴時間になるのかもしれません。

 とすれば、当然のことながら、サイトのアップ時間、Twitterなどへの告知時間も変化せざるを得なくなるかもしれませんね。

  ▼

 今日の話は、先日、アクセスログを見る機会があって、ちょっと気づいたことでした。

 くどいようですが、これがどれだけ一般性のあることかわかりませんが、15年前からブログ(当時は日記)を書き続けている僕としては、その視聴行動の変化に、ちょっとびっくりしたことでした。
 まー、この変化は、僕のブログの更新時間の変化も影響しているかもしれませんね。以前は、昼に更新することが多かったですが、最近は朝ですから。確たることはわかりません。
 
  ▼

 昨今、大きく、しかし、知らず知らずのうちに、メディア接触のあり方、あるいは、視聴行動が変わってきているのかもしれないな、と思うこともあります。
 たとえば、僕でいえば、自爆テロ的にいいますが、FacebookやTwitterは見るけれど、一般のWebやブログは、一部の例外をのぞいて見なくなっているような気がします(ちゅどーん)。

 一部の例外とは、FacebookやTwitterなど、「グローバルなメディアからの動線やリンク」が存在するWebページです。それは見るけれど、他は見ないようになっているのは気のせいでしょうか。

 いずれにしても、確かなことはいえません。
 ただ、都市に限定して言えば、個人の印象論で恐縮ですが、朝の通勤時間にスマホで、なにやら読んでいる人は、増えた気がしています。電車乗っててね、そう思いますよ(雑誌を読んでいる人が減った気がします・・・本はまだいますね・・・このあたり皆さん、いかがでしょうか)

 少し状況を注視していこうと思っています。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年4月 4日 06:40


矛盾する「親のわたし」

 今日は、思い切りプライベートな話題です。

 といいますのは、昨日の夕方、僕は「言葉に表しにくいような変な気分」を経験したのです。ほんの短い間でしたが、自分の中に「明らかに矛盾した感情」が生まれ、それを、一瞬だけ意識しました。

 プライベートな話題といいますのは、息子TAKUZOのことです。

 TAKUZOは、今年3月保育園を卒業し、この4月から小学校に通います。学校がはじまるまでは、「学童保育」ということで、朝から晩まで、近くにある学童保育施設に通っています。
 新しい環境ということで、少し不安だったのですが、今のところ愉しく通っているようです(本当にうちの子はヨワキャラなのです)。

takuzo_shougakusei2.png

  ▼

 で、いつもなら、夕方、愚息・TAKUZOを迎えに、保育園に行くのですが、昨日は、なんと、自分で学童保育からおうちに帰ってくるのです。
 リビングにかけてある時計に目をやり、あっ、そろそろ、迎えに行かなきゃ、と思い、立ち上がって、はたと気づきました。

 「あっ、もう、おれ、お迎えに、行かなくていいんだ」
 
 正しくは4月1日からそうだったのですが、あいにく僕が自宅にいたのは、昨日がはじめてでした。

 僕が、迎えに行かなくても、帰ってくる。
 TAKUZO、もう、帰ってくるんだ・・・。

   ・
   ・
   ・
 
 冒頭の「変な気分」が心の中に生まれたのは、この一瞬でした。
 こちらとしては、「手がかからなくなった」ことを素直に喜ぶべきなんでしょうけれども、なぜか「喪失感」に似たような感覚がありました。
 単純に「TAKUZOが家に帰ってくる」、ただ、それだけのことで、本当に、たいしたことじゃないんですよ。でも、その一瞬、変な感情がわいてきたのです。

 あっ、もう、お迎えチャリ、乗らなくてもいいんだ
 あっ、もう、お迎え時間ぎりぎりで、爆走しなくていいんだ
 あっ、もう、雨のこととか、天気のことを気にしなくていいんだ
   ・
   ・
   ・
 あっ、もう、おれ、やらなくてもいいんだ。
 もう、あの頃は、戻ってこないんだ。。。

takuzo_mamachari.png

  ▼

 TAKUZOは小学1年生。

 そうはいっても、まだまだ手は(がっつり)かかるんでしょうけれども、こうやって、ひとつひとつ、親から離れていくんだな、と思いました。くどいようですが、昨日の出来事は「お迎えなしで帰ってきただけ」。本当に、たいしたことじゃないんです(笑)。
 でも、日常に埋もれた一瞬の出来事に対する、心の反応は、少し複雑で、少し切ないものでした。

 よく言われることですが、メンター(世話をするひと)-メンティ(世話をされる人)にとって重要な契機は「出会うこと」「かかわること」でもあり、「離れていくこと」です。

「出会うこと」や「かかわること」がなければ、メンタリングは、そもそも生まれません。しかし、「離れていくこと」がなければ、メンタリングは「完結しない」ことも、また事実なのです。
 そういう意味でいうと、メンターとメンティは、「離れること」や「別れること」を宿命づけられた関係であり、それがあって、メンティは「他律」から「自律」を獲得できます。
 離れなければならないのです、自律のためには。
 
 僕は、こうしたことは、概念的知識としては「頭」では理解していました。さらには、何も考えずに、こうした抽象的知識を、文字に、起こすこともできます。
 しかし、一方で、自分の心の中には、どうにも矛盾した感情が芽生えていることも、認めなくてはなりません。

takuzo_shougakusei.png

 これまで、我が子を見て、

「あー、早く、大人になって欲しい」

 と思ってきました。
 今なお、そう思っています。
 それは事実です。

 しかし、同時に

「そんなに、急いで、大人にならんでもいいのにな・・・」

 とも感じています。
 これも、また、真実です。

   ・
   ・
   ・

 僕は「矛盾」しています。
 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2013年4月 3日 06:13


社会人大学院生が抱えがちな悩み:自分の問題関心・業務経験×研究として成立させること

 中原研究室には、社会人経験のある大学院生の方々が、約半数おられ、日々、研究に邁進しておられます(社会人、ないしは、社会人大学院生とは、まことに不思議な言葉です・・・ただ、今、敢えてそのことは論じません)。

 社会人をへて大学院に進学なさってきた方と、これまで数多くの論文指導・コミュニケーションをしてきて痛感するのは、「学部生からそのまま修士に上がられた方」と、「社会での実務経験をへて大学院にあがられた方」では、「大学院進学時に抱える課題」に違いがある、ということです。

 もちろん、どちらがいいとか、悪いとかいうことでは全くありません。学部生あがりであろうと、社会人経験があろうと、僕の前には、大学院生がひとり、いらっしゃる、ただそれだけです。
 また、学問分野によって傾向は異なると思いますので、以下の話は僕の研究分野に限ってのことだとご認識下さい。

   ▼

 社会人経験をへて大学院に進学なさってきた方が、もっともお悩みになるのは、下記の「2×2のマトリックス」で表現できます。
 縦軸は「自分の問題関心にどんぴしゃ / 自分の問題関心とは違う」、横軸は「研究として成立する / 成立しない」です。

doc_iraira.png

 ここで読者の方々の中には「研究をしたことのない方」もおられるでしょうから、ちょっとだけ付記しておきたいのは、「研究として成立する」という文言です。

「ひとつの問い」が「研究として成立するため」には、これだけで本一冊書けちゃうくらいの多数の要因がありますが、もっとも大切なことは、「先行研究があるかないか」です。
 自分としてはどんなに「ワンダホーだと思われた仮説」であっても、「過去に他の誰かがやってしまったこと=先行研究が存在する研究」というのは、「ひとつの研究」として成立はしません。なぜなら、その研究には、研究の絶対条件である「オリジナリティ」がないからです。
 どんなに「トリヴィアルな問い」であっても、「誰もやっていないこと」「斬新であること」「ユニークであること」が、研究の最低条件です。
 この大きな大前提にたったうえで、その他の「研究の成立条件」が問われます。これには、例えば、テクニカルな事柄、「問いがフォーカスされているかどうか」「妥当な研究方法論を選択できているかどうか」などがあるでしょうか。もちろん、枚挙に暇はありません。

  ▼

 その上で、先ほどの「2×2のマトリックスの4象限」に戻りますと、1の場合、すなわち「社会人大学院生の方が自分の問題関心にぴったりなことで、しかも、その問いが独自性があり、かつ、フィージブルである=研究として成立する」場合、には、何の問題もありません。ノーストレス、めでたしめでたしです。

 また4の場合は、お話になりません。「自分の問題関心からズレていて、かつ、研究にもならないのであれば」、何のために大学院生になったかわかりません。

 問題は2とか3のパターンなのです。
 2の場合は、「自分の問題関心としてはぴったしかんかん、なんだけど、指導教員からは、うーん、それは研究にならないね」と言われるパターンを想定していただければと思います。多くの社会人大学院生が、モンモンとした経験をお持ちなのではないでしょうか。
 3のパターンとは、「自分の問題関心とはズレているんだけど、研究として成立するから、やんなよ」と言われるちゃうようなパターンです。僕の場合は、大学院生の方々に自分の問題関心や研究テーマを与えることは、ほとんどありませんので、このケースはごく稀です。ただし、分野によっては、3のケースで問題が生じることもありえるだろうな、とは想像します。

 この2と3のパターンの場合、社会人大学院生の方々は、非常に高いストレスをおぼえることが、非常に大きいような気がします。
 なぜなら、図にもありますように、「自分の問題関心」の奥底には、「自分の社会での業務経験」が存在し、それに裏打ちされ、かつ、突き動かされるかたちで、大学院に進学しておられるからです。そこには、実に根深い自分のルーツやモティベーションがある場合がある。
 もちろん、2や3の事態は、学部生から大学院に進学なさった方も、抱える悩みではあります。しかし、社会人経験がある方と比べると、その背後に抱えておられる「経験の深さ=たぶん社会でいろいろ揉まれてつちかわれた、自分が解決したい課題」が異なるパターンが、まま見受けられます。

「経験」というものは、多くの場合、第三者には「否定」できないものです。しかも、それはともすれば「絶対化」しやすい傾向があります。 特に2の場合、最悪のパターンでは、「自分の経験に固執するがあまり、研究がすすめられない」ということが起こりえます。

 おそらく、こうした場合、まず求められることは、自分の業務経験や自分の問題関心を「いったん脇におき」(まるっきり捨てる必要はありません)、そのうえで、先行研究や仮説づくりと向き合い、「自分の問題関心」とも合致し、「研究としても成立する」ような問題の切り取り方やアプローチの仕方を探す必要がある、のだと思います。

 しかし、そこには「痛み」や「違和感」がともなうことがあります。なぜなら、自分の業務経験や問題関心を、捨てる必要はないにせよ、いったん脇におき、それとはともすれば矛盾するような過去の先行研究とつきあわなくてはならないからです。

 ▼

 今日は、社会人経験のある大学院生の方々が抱えることの多い課題について論じてきました。今日のお話は、どちらかというと、大学院参入時の話となりますが、これ以外にも、様々な課題が見受けられます。

 しかし、今日はネガティブな側面に注目してきましたが、それを乗り越えられたときには、とてつもないポジティブな側面も生まれる可能性があります。

「自分の業務経験」や「自分の問題関心」が明確である分、それをうまく相対化し、研究方法論を見つけ、研究として昇華できた場合には、まことに味わい深い研究が生まれる可能性があるのも、また事実なのです。

 願わくば、微力ながら、そういうお手伝いを今後もできればな、と思っております。

 今日は一日駒場で仕事です。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2013年4月 2日 06:39


OJTとは「何」の略語? おまえら(O) 自分でやれ(J) 頼るな(T)!? : OJTが成立する諸条件と脆弱性

 4月1日の朝、新年度、新学期です。

 今日から新しい学生が、キャンパスに通うようになります。
 ついこないだまで高校生だった方々が、大学生として通ってくる様子は、非常に新鮮です。今日は、駒場キャンパスで、たくさんの新入生と僕は出会うでしょう。

 会社では、新入社員の内定式、研修などがスタートする日でしょうか。皆さんも、真新しいスーツに身をつつんだ、新社会人を駅などで目にすることが増えるのではないでしょうか

  ▼

 これから数ヶ月間、日本列島は「組織社会化」の渦になります。
 新規参入者をいかに受け入れ、いかに組織に定着・順応させていくのか。特に一刻も早く「戦力化」をなしとげたい組織にとっては、智慧の働かせどころです。

 組織社会化といえば、研修もさることながら、OJT(On-the-job Training)も主要な試みのひとつです。
 しかし、OJTが奏功するためには「諸条件・制約」があるということを、これまで何度か論じてきました。また、パワフルなOJTの教育効果は、反面、脆弱性も有していることも、これまで論じてきました。

「OJT信仰・手放しのOJT礼賛」を超えて : OJTの脆弱性・成立条件を考える
http://www.nakahara-lab.net/blog/2012/09/ojtojt_ojt.html

 上記の記事においてOJTの脆弱性は、下記にまとめています。

1)OJTの学習効果は「師」に依存する
2)師の能力を超えることは、学べない
3)学習の起こるタイミングが「偶然」に依存する
4)OJTはともすれば「単なる労働」に変わり果てる

 ですが、もっとも深刻なことは、それが「単なる労働」になり果ててしまうことです。このことは、OJTが「働く現場」「仕事」の中に埋め込まれた埋め込まれた学習であることの証左でもあり、また制約でもあります。
 メタファを使って言うならば、OJTは「Learningful Work」でなければならないのですが、それが容易に「Learningless job(学びもクソもへったくりもない、単なる労働)」になってしまう、ということです。

  ▼

 畢竟、現場で実践されるOJTには、様々なアイロニカルな略語がついてまわります。
僕が知っているだけでも、こんなものがありますが、皆さんは、もっとご存じでしょうか?

 お前が(O) 自分で(J) トレーニング(T)
 おまかせ(O) ジョブ(J)トレーニング(T)
 おまえら(O) 自分でやれ(J) 頼るな(T)
 教える(O) 自信がないので(J) テストばかり(T)
 俺に聞くな(O) 自分でやれ(J) 頼むから(T)
 怒られる前に(O) 自分で何とかしろ(J) 頼む(T)
 お前(O) 邪魔だよ(J) 立ってろ(T)

(他にもあったら、お知らせ下さい!)
   ・
   ・
   ・

 現場は「殺伐」「殺気」だっていますね(笑)。

 上記の略語には「新人が能動性を発揮することへの期待」がかけられている?ように見えますが、「新人の能動性」とは、まず、組織・新人に関与する側の「社会化」があってこそ、生まれ、奏功するものであることが、近年の研究からわかっています。

 そして「組織・新人に関与する側の社会化」と、「新人の能動性」が組み合わさったときに、社会化が成功し、ひいてはチームにメリットが生まれます。

 あまりの忙しさに・・・

 おまえら(O) 自分でやれ(J) 頼るな(T)
 お前(O) 邪魔だ(J) 立ってろ(T)

 という思ってしまう気持ちは痛いほど、わかりますが、どうか大目に見てあげて下さい。新人は、何かをしたくても、全く右も左もわからない、暗闇の中にいるようなものなのですから。まさに「ひとりダイアローグインザダーク」状態、泣。

 どんなベテランでも、誰しも最初は「ノービス」であった
 そして
 人は誰かに支援されているか、他者を支援しているか
 そのどちらかしかないものです。

 そして人生は続く

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追伸.
 OJTに関しては、下記のような記事も書きましたね。

最近、OJT(On the job training)が機能しないのはなぜか?
http://www.nakahara-lab.net/blog/2010/02/ojtxtute.html

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追伸.
 先週末は、岐阜県・養老公園にお邪魔していました。滞在中、温泉につかりまくり、ゆったりとした時間を過ごしました。
 新年度、新学期、僕自身には、あまり変化はないのですが(笑)、2013年度も頑張りたいと思います! 引き続き、応援のほどいただけたとしたら、嬉しいことです!

Yoro Park from Jun Nakahara on Vimeo.

投稿者 jun : 2013年4月 1日 06:24