12月のLearning bar

 昨日は総長選挙。全学の教員が、キャンパスに1日拘束されて投票を行います。4度の投票のすえ、新しい総長が決まりました。

東大の新総長に濱田純一・副学長
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200811270292.html

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 12月のLearning barの当落通知がメール発送されました。今回は、約400名の皆様から、ご応募をいただきました。ありがとうございました。150名の方々が当選なさいました。おめでとうございます。

 最近、Learning barは満員御礼が続いており、すべての方々の御希望にはお応えできない状況になっております。

 主催者としては心苦しい限りですが、限られたスペースと人的リソースの中で運営し、かつ、参加者のバックグラウンドの多様性を確保する必要がある関係上、すべての方々のご要望にはお答えできません。なにとぞお許しください。

 12月5日は、青山「子どもの城」で、お逢いしましょう!

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 TAKUZOの誕生日を迎えました!
 おめでとう! 2歳。
 パパもママも嬉しいです。
 今年も1年、明るく、愉しく、元気でね。

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 そして人生は続く

投稿者 jun : 2008年11月28日 06:53


社会って、いったい、「誰」ですか?

「社会のために・・・をする」「社会をよくするために・・・をしたい」という言葉を聞くたびに、僕はハッとすることがあります。実際、仕事柄、教育関係の人にあうことが多いので、こうした言葉を聞くことは、とても多いです。

 もちろん、そのように語ってくれる方々の「意志」や「願い」を疑っているわけではありません。
 そうではなくて、この方々が、「社会の"誰"を対象にして、何かをしたいと願い、そのことが、"誰"以外の人に、何をもたらすか」を、どうしても、脳裏で考えてしまうのです。

  ▼

 つまり、こういうことです。

「社会をよくするために・・・をしたい」

 わたしたちは、この言葉(センテンス)を用いて会話をすすめるとき、「社会」を「ひとつのもの」「ひとつの均質な実態」として見なす傾向があります。

 しかし、ポストモダニストが明らかにしたように、社会は「ひとつ」ではありません。様々な主体、多様な主体、異なる主体から構成されており、決して、「一枚岩」ではありません。
 利害は複雑にからみあっていて、トレードオフの関係にあることも珍しくありません。社会が「ひとつの実態」をなしているわけではないのです。

 そうであるならば、

 あなたは、社会の中の、いったい「誰」を対象にして、何を行いたいと願うのか?

 という問いが生まれます。つまり、あなたの働きかけの「宛先性」が問われることになります。

 そして、同時に

 それを行うことは、先ほど「対象にした人以外」にとって、何をもたらすのか?

 ということが問われます。

 つまり、「社会に何かを為すこと」は、結局、"誰か"に何かをもたらすことであり、"それ以外の人"に何かをもたらさないことなのです。
 誰かに、あなたが「よいと思うこと」を為せば、誰かを傷つけてしまう可能性があるかもしれない、ということです。逆に、誰かを傷つければ、誰かがメリットを享受するということでもあります。

  ▼

 このことは教育についても、言えることです。

 子どもにとって・・・よいことをなす
 現場にとって・・・よいことをなす

 この時の、「子ども」とは、いったい「誰」、「どんな子ども」のことを指しているのでしょうか。「現場」とは、いったい、どのような現場でしょうか。窓に鉄格子がはめられている現場でしょうか。それともオープンスクールで、コンピュータが豊かに配備された現場でしょうか。
 
 かつて、ポストモダンの風が「教育」に吹き荒れたとき、こうした「教育の宛先性」が問われることになりました。

 比喩的な言い方をすれば、それまで「教育は、常に、子どもに、現場に善を提供する試み」でした。
 しかし、もしかしたら、それは違っていたかもしれない。もしかすると、「教育」は、何か悪いことを人に為していたのかもしれない、、、わたしたちは、いったい、「誰」に対してメッセージを伝えていたのだろうか、、、そういう認識が生まれました。

 そして、ナイーブで思慮深い人々の中には、それ以上、何も語り得なくなってしまう人もいました。

 何かを語り、何かを為すあなたは、結局、誰かにとって「加害者」である可能性がでてくるからです。自分は決して「中立な存在」なのではなく、「政治を行使する存在」であることを意識せざるを得なくなるからです。

 それは「政治行為」や「経済行為」から一定の距離をおくことをコレクトな態度としてきた人々にとって、耐えられないことであったと想像します。

  ▼

 この問題に関しては、僕は、とりあえずの持論をもっています。

 上記の指摘をよく知りつつも、僕は「それにもかかわらず」、何かを為すこと、何かを語ることを諦めたくない、と願います。

 自らが政治的で、中立である、という立ち位置が認識できたことは、自分にとって収穫でした。
 しかし、そこで何かを為すこと、何かを語ることを諦めることは、僕にとっては、「不毛」に思えます。そこにとどまることは、僕は、よしとしません。

 社会に対して何かを為したい
 
 いいえ、

 自分が社会で何かを為したい

 と願うことは、それが善をもたらす可能性と同時に、それが加害行為につながることを抱きしめることです。

 そして、「それを知りつつも」、自分の信じる為すべき事を、誰かに向けて、なすしかないのではないでしょうか。自分に語り得ることを、誰かに向けて、語ることしかないのではないでしょうか。

 他者はどう思うかは知りませんが、僕はそう思います。

  ▼

「社会のために・・・をする」
「社会をよくするために・・・をしたい」

 その社会って、いったい、「誰」ですか?

 あなたが何かを為し、何かを語りたいと願う相手は、いったい、「誰」ですか?

 そして、そのことは「それ以外の人々」に何をもたらしますか?

投稿者 jun : 2008年11月27日 09:23


できるだけいいものを、今残す : ウィスキーブレンダー輿水精一さん

 先日に続き、またまたNHK番組「プロフェッショナル」の話題です。全く「暇人」なわけではないのですが、先日、何本もまとめてビデオレンタルしたのですね。で、話題がつづくわけよ。

 今日は、ウィスキーブレンダーの輿水精一さんの回を見ました。その感想を。

  ▼

 輿水(こしみず)さんは、サントリー山崎蒸留所のチーフブレンダーを勤める方です。サントリーの主力銘柄である「山崎」「響」などは、彼のブレンドによるものです。海外でもたくさんの賞を受賞なさっています。とても有名な方ですね。

 何百種類もの原酒を「樽」に仕込み、10年、20年、30年と長い時間寝かせる。発売されているウィスキーは、そうした原酒を何十種類もブレンドして、つくられています。

 要するに、ウィスキーとは、多種多様な「原酒」が「響きあう」ようにヴァッティングされたお酒なのです。

 輿水さんの言葉の中で、印象的だったのは、下記の言葉です。

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 今つくっている商品というのは
 10年前に原酒を仕込んでくれた人
 20年前につくってくれた人
 そういう人たちの積み重ねの上ですよね

 私自身は、将来10年先、20年先
 もっと先を含めて

 その時代の商品でできるだけ
 いいものができるために
 できるだけいいものを、今残す

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 輿水さんが、今、仕込んでいる「原酒」が、ブレンドされ、「ウィスキー」として発売されるのは、今から数十年後。その姿を、彼は自分の目で見ることはできません。当然のことながら、そのとき、彼は既に現役を退いています。

 自分の仕込んだ原酒が、どういう酒になり、世の中に何をもたらすかはわからない。でも、「その時代の商品ができるだけよいものとなるため」に、輿水さんは仕事をします。

 未来のために「今、できるだけいいものを残す」と。

  ▼

 人間の「育ち」や「成長」を「お酒」に喩えるのは不謹慎というお叱りをうけるのかもしれません。

 でも、僕は、この言葉に、どうしても、自分の専門である「教育」を重ね合わせてしまうのです(何でも、教育とか学習の話に引きつけて考えてしまうのは、ビョーキかもしれません)。

 彼/彼女は、自分が引退したあとに世にでるものかもしれない。活躍する姿を自分は見ることができないかもしれない。そして、当の本人は、かつて面倒を見た自分のことや、遠い昔の記憶など、既に忘却の彼方にあるかしれない。

 でも、「それにもかかわらず」、自分が見ることができない「将来」「未来」のために、「今、できるだけよいものを残したい」。

 そういう考え方に、教育に携わり、教育に関係するものとして、僕個人は、共感してしまいます。

 そして、さらに思うのです。
 短期的な教育的介入の結果、どんな金銭的メリットが得られるのか、というセコイ話 - 投資対効果 - の話を聞くたびに、こう思ってしまうのです。

 樽に入れて数週間しかたっていない、原酒にすらなってないものを、あなたは、値段をつけろというのですか。よもや、それをバーで、味わおうとはしないですよね?

 その原酒は、他の原酒にもまだ出会っていません。響きあう関係も見つけてもらっていません。そもそもブレンダーにも出会っていません。

 それで、真価を測るのですか?

  ▼

 夜になりました。
 今日も、僕は、シングルモルトを味わっています。

 このウィスキーが仕込まれたのは18年前。その頃、僕は、まだ15歳。

 黄金色に輝くウィスキーには、遠い記憶が透けてみえます。

投稿者 jun : 2008年11月26日 21:36


あってなきが如く、ないかの如くある : プロフェッショナル「大野和士さん」

 先日、指揮者の大野和士さんが出演している番組「プロフェッショナル」をビデオで見ました。

 大野さんは、ヨーロッパで活躍する将来有望な日本人指揮者の一人で、「第二の小澤」と言われている方だそうです。

  ▼

 大野さんの話の中で面白かったのは、「指揮者として、人を動かすときにもっとも大切なこと」を語っている部分です。

 曰く、

「(指揮者は)どんな音色をだすかは言わない。あくまで、自分の曲の解釈やイメージしか伝えない。プレイヤーたち一人一人が個人として解放されることが大事である」

 だそうです。

 また、

「どの楽器でも、一番いい音がでるときは、"あなた、でなさい"と言われたときではない。自分のやりやすい方法で(音を)だすときである。

一番大切なのは、(指揮者が)あそこにいきます、あそこがわたしたちのゴールです(と提示すること)。あとは、(各人の判断にまかせて)解散。これが理想です。

指揮者の存在は、あってなきが如く。ないかの如くあるのが、理想的なのです」

 といった類のことをおっしゃっていました。

  ▼

 思うに、「あそこにいきます」「わたしたちのゴールです」というのが、一般にいうところの「ビジョン」かもしれません。
 この場合は、指揮者が楽曲と対話しながらつくりあげた「楽曲の解釈」が、それにあたるのでしょう。

 解釈を提示し、楽団員の「理解」を求める。その上で、それにどのようにアプローチするかは、メンバー自らが、それぞれの専門性や経験を判断した上で、決定すればよい。

 もちろん、指揮者として言うべきことは言う。フィードバックはする。しかし、それは「出して欲しい音色」を指定するのではない。あくまで、個人は「解放」してあげなければならない。

 大野さんの指揮者のイメージは、「一般に考えられている指揮者のイメージ≒コントロールする存在」とは全く異なるもののようにも、思います。それを如実にあらわす言葉が、「あってなきが如く。ないかの如くある」という言葉でしょう。非常に印象的で、深い言葉です。

 思うに、人を動かすことは、そういう微妙なバランスの上に成り立っているものかもしれません。
 個人の専門性や経験を信じた上で(逆にいうと、個々人が既に信用できるものを持っているということですね)、「解放」してあげる。全体の調和を乱さない限りにおいて、自分の考えに基づいて、やりたいようにさせてあげる。それが「指揮をするということ」なのでしょうか。

 僕は時に思います。

「人は自分のやりたいことは、どんな手を使ってでもやる。やりたくないことは、どんな手を使ってでもやらないか、あるいは、やったことにする」

 何を隠そう、僕自身はそういう人間です(笑)。でも、みんなそうじゃないの(笑)。また、上記は、今までの短い人生経験と人間観察から獲得した「僕の持論」かもしれません。

 人を動かすって、難しい。

投稿者 jun : 2008年11月25日 09:07


パフォーマンスコンサルティング・ワークショップ!:11月のLearning bar報告

 先日、2008年11月14日はLearning barでした。

 この日のLearning barでは、ディナ=ロビンソンらの名著「パフォーマンスコンサルティング」を翻訳・出版なさった鹿野尚登さんをお招きして、パフォーマンスコンサルティングに関するワークショップを開催しました。

 パフォーマンスコンサルティングとは、「組織の業績を向上させるために行うシステマティックな介入方法論」です。学習効果の高い「研修づくり」を超えて、どのようにして「成果を生み出す組織や職場をつくるか」ということが問題にされます。

 14日のLearning barは満員御礼。約50組計100名の方々に、ワークショップに参加いただきました。

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 鹿野さんには、2時間半にわたって、講演あり、演習ありのワークショップをしていただきました。

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 参加者は、皆真剣にディスカッションを重ねます。それぞれの企業・組織における課題を「職場のニーズ」「トレーニングニーズ」等に分類していきます。

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 ワークショップの途中から、中原はラップアップの資料をつくりはじめます。

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 ラップアップでは、

○パフォーマンスコンサルティングは、企業・組織における「問題の定式化」を行うための方法論として有用であること

○パフォーマンスコンサルティングによって、1)事業貢献が可能になる、2)効果的な発注ができるようになる(問題解決ができる)、3)トップへの説得ロジック(アカウントとして有効)をたてることができる、4)社内の議論をやりやすくするための共通言語を確立できるなどのメリットがあること

○しかし、パフォーマンスコンサルティングの立ち位置にたつことは、同時に組織の問題を、多様な人々とともに解決しなければならないことを意味していること。そのためには、腹をくくる必要があること

 などを述べました。

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 最後に、今回、お忙しいところご出講いただいた鹿野尚登さんに、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。

 また、Learning barは東京大学大学院の院生諸氏によって運営されています。いつも本当にありがとう。

 さらには議論に参加してくださった皆様に感謝いたします。
 本当にお疲れ様でした。
 そして、ありがとうございました。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2008年11月22日 22:26


ジョン=コッター著「カモメになったペンギン」を読んだ!

 僕らの住んでいる氷山が少しずつ溶け、このままいけば、もう少しで崩壊する!それに気づいたのは、「したっぱ」のペンギン。でも、それを群れのみんなに伝え、この事態を回避できるのか。

 生き残るためには、自分たちが変わる他はない! しかし、あらわれてくる抵抗勢力。絶体絶命のピンチに、ペンギンたちがとった行動は?

 ジョン=コッター著「カモメになったペンギン」を読んだ。コッターといえば、ハーバードビジネススクール教授にして、リーダーシップ論の泰斗。この本では、コッターの「変革8段階プロセス論」を、寓話を通して、知ることができる。

  

 30分で読める組織変革論。
 内容はシンプルでいて、非常に深い。

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追伸.
 25年後のサザエさんのCM、おもろい。ちなみに、続編があるらしい。イクラちゃんがCEOになっているらしい。

投稿者 jun : 2008年11月22日 08:10


最近、時に感じること

 今、僕は「働く大人の学びと成長」という研究テーマを掲げて研究活動をしている。

 この領域は、学問的にいうと、「経営学」と「教育学」の、ちょうど中間にあるような研究領域である。

 両方の研究者が智慧やデータを出し合い、時に協働し、時に切磋琢磨しながら研究を進めて行けたら最高だよな、僕は個人的に思っている。経営学や教育学だけじゃなく、心理学でも、社会学でも、政治学でもよい。多くのディシプリンをもった研究者が増えてくれば、もっと面白いことが起こりそうな気がする。
 少なくとも自分としては、そういう動き方をしたい、と日々思っている。

  ▼

 ところで「経営学」と「教育学」は、ともにディシプリンをもたない研究領域である、という点で非常に似ているところもある。

 しかし、様々な言説を目にするにつれ、「この点においては全く違うよなー」と考えてしまうところもある。「経営学」と「教育学」の差異として最も端的なのは、「公というものに対する感覚」ではないか、と最近思う。

 教育学では、究極までつきつめていくと、下記のような問いについて答えることが求められる(と僕は感じている)。

「教育を通して、どのような社会を実現するのか」
「教育を通して、どうやって公(公共性)を支えるのか」
「少しでも多くの人々が幸せに暮らせる、教育のあり方とは何か」

 教育学にも分野によっていろいろあるけれど(研究者の数ほど教育学はある、、、だから一般論はない)、少なくとも僕が魅了される教育の言説では、ある特定の主張の背後に、上記のような問いに対する「ぼんやりとした答え」が提示されていることが多い。

 つまり、一言でいってしまうと、(僕が魅了される)教育学の言説は、最後の最後は「社会や公の未来」を朧気ながら描く傾向がある。

 そのことは、教育研究がある種のパターナリズムに陥りやすいこと、批判精神が欠如しやすいこと、言説が運動に転化しやすいという意味において、ある種のヴァルネラビリティを、研究内部に抱え込む。

 しかし、そういう傾向が、やはり、僕が魅了される教育学にはある、と思う(そうでない研究が悪いといっているわけではない、、僕個人の好き好みの問題である)。
 データや理論に基づいたオープンで批判的議論がなされることを前提とすれば、それでいいと、僕自身は思っている。

  ▼

 でも、それに対して、「どうも経営学は違うのではないかな」という感覚をもっている。経営学と十把一絡げにしてしまうのは、広すぎるかもしれない。むしろ、「経営学」というよりも、「企業人材育成の言説」と「教育学の言説」の違いといえるかもしれない。
 その言説の単位は、あくまで「会社・組織」であり、それを超えて「社会や公を描く」という発想はあまり見られないような気がする。

 もちろん、「個人がいかに幸せになるか」という立ち位置から - つまりは「働くみんなの立ち位置」から、会社やそのマネジメントのあり方を議論している方々もおり、僕はことさら、そういう言説に魅了される。そういう研究は「社会や公を描く」ということには比較的近いとは思う。

 でも、教育学ほど、言説の果てに「社会」や「公」が透けて見えることは、ない。

  ▼

 もちろん、それが「いい悪い」と言いたいわけでは断じてない。学問の目的や特性、研究方法論が違うのだから、それはアタリマエのことである。その優劣を論じたりする意図は、全くない。

 僕が言いたいのは、そういうことではない。そうではなく、僕個人が、この領域で仕事をするとき、他ならぬ自分自身が、時に悩んでしまう、ということである。

 僕はやっぱり「教育の人」である。
 研究をしていると、どこかで下記のような問いが、脳裏に浮かんでしまう。
 
 結局、僕は、自分の研究を通して、どういう社会や公のあり方を主張しようと思っているのか? そうした社会では、働く人々は、どのような学びや成長を実現できるのか?

 企業・組織人材育成の研究を通して、最後には、自分なりに、どのような「社会のあり方」を描こうとするのか?

「ややこしい問いだな」と我ながら思う反面、どうしても、脳裏に浮かんでくるんだから、仕方がない。くだらないことをピーピー言うんじゃない、と怒られそうな気もするけれど、どうも、最近、そのことが気になる。

  ▼

 結局、今日も悶々としながら、時に考え、時にやり過ごしながら、研究を進める。
 いつか、いつの日か、自分なりの答えをだしたい(大言壮語、世迷いごとと後ろ指指されるかもしれないけど)と願いながら、今日も満員電車に揺られる。

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追伸.
 昨日の、腹に落ちた言葉。

 イノベータは破壊しながら、創造するんです。
 「後ろから刺されないイノベータ」なんて、イノベータではないですよ。

投稿者 jun : 2008年11月21日 08:59


「IDEO デザインシンキング」HBRを読んだ!:デザインと学習研究

 ハーバードビジネスレビュー 12月号に掲載された「IDEO : デザインシンキング」(ティム=ブラウン著)という記事を、非常に興味深く読みました。おもろいねー。

 デザインシンキングとは、

「人々が生活の中で、何を欲し、何を必要とするか」「製造、包装、マーケティング、販売、アフターサービスの方法について、人々が何を好み、何を嫌うのか」 - この2項目について、直接観察し、徹底的に理解し、それによってイノベーションに活力を与えることである。
(同書より引用)

 うーん、わかったようなわからないような(笑)。

 僕の言葉でいえば、要するに、デザイン思考とは

1.デザイナーを含む、複数人の人々がチームとなって
2.イノベーションや変革をおこしたい現場を直接観察し
3.現場で起こっていることを理解した上で
4.ブレストを行ったり、プロトタイピングを
  行ったりしつつ、考えをかたちにして検証して
5.イノベーションを促進すること

 である、と(あくまで僕の理解)。

 一般に、デザイン思考は、下記のプロセスをとるようです(あくまで僕の理解ですので、間違っている可能性大)。

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0.集合
 まず、様々な専門家が集まって、チームを組んで、今後のプロセスを実施する。

1.観察モード
 世の中を見つめる。人々の行動様式、思考様式などを観察する。場合によっては、エクストリームユーザーを注目する。 要するに、エスノグラフィックな手法を用い、人々の観察を通して、新たなものの見方をえるための情報を収集する。

2.理解モード
 現場で見たもの、聞いたことをチームのメンバーが体験共有する。その上で、現場で起こっている出来事を理解する。意見をかわし、ストーリーテリングする。

3.発想モード
 ブレインストーミングを行う。新たなものの見方、発想を生み出す。

4.表現モード
 でてきたアイデアをかたちにする(プロトタイピング)。アイデアは表現する。場合によっては内部テストなどを行う。

5.実現モード
 開発する。
 うわさや評判などをマネジメントするなど、いわゆるマーケティングも実施する。

 このようなプロセスで、IDEOでは、商品開発から、はてには組織変革まで、手がけているようです。

 日本では、先日、中原研究室にいらっしゃった、博報堂の田村大さんが第一人者として推進なさっています。

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 デザイン思考がでてくる背景には、いわゆる統計を使ったマーケティングに対するアンチテーゼと、いわゆる一般的原則や手続きををあてはめて現場を変革しようとするコンサルティングへのアンチテーゼがあるんでしょうね。

「何が欲しいですか」って、ふつーの人に聞いて統計ソフトで分析しても、イノベーションは生まれないんじゃないの?

一般的な原則や手続きを、どの現場にも適用して、変革を導こうなんて、大手の戦略系コンサルは安易なんじゃないの?

 といった感じでしょう、
 おそらく、書いてないけど(笑)。
 一部は書いてあったかな。

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 ちなみに、こうしたアイデアは、人文社会科学の研究領域では、これまでにもいくつか提出されています。

 もっとも関連が深いと思われるのは、ユーリア=エングストロームらの提唱した活動理論だと思います。
 専門家に聞かれたら、便所スリッパで後頭部をぶったたかれそうな気もするけれど、要するに

 活動理論とは

 人間の活動を、社会・文化的に構成されたものとして理解する

 という理論ですね。

 もっとテクニカリーに、かつ、具体的にいうと、

 人間の活動の成立を「主体」「対象」「道具」「コミュニティ」「ルール」「分業」という6つの要素から構成されたものとして、見る。

engstrom_sankaku.jpg

 それらの構成要素には、それぞれ歴史を引きずっていて、時に、お互いに「コンフリクト」がおこる。

 で、「コンフリクト」がおこったとき、システム全体が不安定になって、「変革」の可能性がでてくる。

 システム全体が見直され、構成要素、あるいは、活動自体が見直され、変革をとげること、これを「学習活動」とよぶ。

 だからこそ、学習活動とは「破壊的」でもあり、「創造的」でもある。ちょうど、哲学者のジャック=デリダがいう「脱構築」と同じように。

 ちなみに、活動理論では、研究者はシステム内部にいる実践者とともに「システムを変革する人」として位置づけられている。

 論理実証主義のように、研究者はシステムの外側で、システム内部に起こっていることを観察する、という立ち位置にはたってはいられない。

 活動理論は、社会構成主義の系譜に位置付く理論であり、活動システムの変革は、研究者と実践者が協同的実践として実施するものである。

 システム要素のコンフリクトを観察し、研究者と実践者がともにアイデアをだしあいながら、システムの改善や変革を進めていく。ゆえに、活動理論は、意志決定の理論でもある。

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 今、新幹線に乗っているので、本を見ることができません。ですので、間違ったことも言っているかもしれませんが、たぶん、こんな感じでしょう。

(もし、活動理論についてざっと知りたいのであれば、下記の本がおすすめです。そのあとで、エングストロームの書いた原著にあたったほうがよいかもしれません)

 ざっと活動理論について説明しましたが(放談!?)、プロトタイピングとか、表現とか、そういう、いわゆる「デザイン」ぽい話はでてきませんけど、ちょっと似ているような気がしませんか。

 実は、何を隠そう、僕は、修士論文を書くときに参考にしたのは、この活動理論なのです。ですので、嫌いじゃありません、むしろ好き。

  ▼

 ちなみに、またまた余談ですが、学習研究の中には、もうひとつ「デザイン」と明確に銘打った研究方法があります。かつては「デザイン実験アプローチ」、今は「デザイン研究」といわれている方法論ですね。

 でも、これは同じ「デザイン」ですけれど、デザイン思考の志向性とはちょっと違っているような気がします。

 最大の違いは、デザイン研究では、1)現場の変革のために学習科学の知見を適宜適用することが前提になっており、2)現場での実践を通して学習研究の知見に還元することが前提になっていることでしょうか。

 このあたりに関しては、僕自身は、ちょっと慎重です。
 たしかに学習研究はこれまでにたくさんの有用な知見をだしていますが、現場の変革は、必ずしも学習研究の知見だけに還元されるものではないと思うのです。

 あと、現場での実践を通して検証された知見とは、どの程度、一般性を確保できるものなのでしょうか。一般性を確保しなくてもよいというのであれば、それでもよいのですが、どうもこのあたりが踏ん切りがつかないところがあるように見受けられます。

 僕個人としては、このあたりが、まだ「腹に落ちて」いません。

 多様な人々が、じっくり現場を観察して、現場を理解する。その上でゼロベースで案をだす。それを表現しつつ、検証し、実践しつつ、話し合う方が、個人的には、何となく、しっくりきます。

  ▼

 いずれにしても、観察とデザイン、デザインと実践、デザインと変革・・・このあたりが面白そうですね。

 前にもブログで書きましたが、学部時代の頃、僕はこんなことを書いていました。要するに、学習研究において「観察」と「デザイン」をいかにむすびつけるのか、という話です。

エスノグラフィーとデザイン
http://www.nakahara-lab.net/phase1.html

 このあたりを一度理論的に整理しつつ、どこかの現場で実践したいものだな、と思ったりします。

投稿者 jun : 2008年11月20日 10:43


人を創る

 サイバックス株式会社さんがやっておられる、オンラインジャーナルに「人を創る」があります。
 実務家の方、経営トップの方、大学の研究者の方々が、「人の創り方」について語るというジャーナルです。

 先日、小生、インタビューを受けました。下記に公開されております。

人を創る
http://granaile.jp/column/human-index.html

 よろしければ、どうぞー。

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 取材では、サイバックス創業者の楠田祐さん、池田比佐史さんには大変御世話になりました。重ねて御礼申し上げます。ありがとうございました。

投稿者 jun : 2008年11月20日 08:00


「基礎演習」の思い出

 昨日の大学院ゼミの文献は、「大学生を対象とした自己調整学習の指導」についてであった。

 大学生が、自分の学習をプランニングし、モニタリングし、コントロールしていくためには、どのようなスキルや態度を獲得することが必要か。
 今回読んだ文献は、多くの初年次教育の現場で、今まさに問題になっていることであるように思った。

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 文献を読みながら、自分の初年次教育、つまりは、僕が大学1年生だった頃を思い出す。

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 ちょうど僕が大学に入学した前後は、前期教養学部のカリキュラム改革が進行していた時期で、文献調査・討論・発表などのアカデミックスキルを学ぶ「基礎演習」という講義が、はじまった頃であった。

 今ではどこの大学でもやっているような内容なのだろうけど、当時、この講義の教科書であった「知の技法」は、ベストセラーになっており、メディアでちょっとした話題にもなった。

 しかし、一学生の立場からすると、授業の運営に問題がないわけではなかったように思う。

 最大の問題は、基礎演習 - つまりは、大学生に必要なアカデミックスキルを獲得させるといいつつも - 授業を担当する教員によって、全く異なる内容で、異なった内容が、教えられていたことではないかと思う。

 要するに、「あたりはずれ」が大きかった。
 学生によっては、なぜか「英語文学をひーこら、ひーこら、読まさせられていたり」、なぜか「社会学の古典を読まさせられていた」。もちろん、英語文学や社会学の古典を読むことが重要でない、とか言っているわけではない。そうではなくて、学生全員が受講する「ひとつの基礎科目」であるにもかかわらず、教員によって「獲得させたい力」が異なっていることが、学生の立場からすると、奇妙に思えた。
 いずれの授業も、ひとりひとりの教員が考える「大学生に必要なアカデミックスキル」であったのだろう。そこに、あまり統一感はなかったように思う。
 今は事態は変わっているとは思うけど、基礎演習がはじまったまさにその年の状況は、そんな感じだった。

 ちなみに、非常に幸運なことに、僕の担当教官は、社会学者の見田宗介先生だった。「調べて、まとめて、伝える、意見を述べる」といったようなことを、一応は、体験することができた。

 僕は、鶴見良行さんの「バナナと日本人」という本を担当した。

 日本人が、ふだん何気なく食べているバナナの生産の背後には、国籍企業の暗躍、農園労働者の貧苦がある、という話であり、それに付随する様々な資料を図書館で集めて、レジュメをつくり発表した。

 アカデミックスキルについては獲得できたかどうか不明であるが、少なくとも「バナナ」には詳しくなった(それでいいのか?)。

 古の名言に曰く

 魚を与えれば、その日1日は食いつなげる
 魚の釣り方を教えてあげれば、一生食いつなげる

 アカデミックスキルの学び方には、ふたつの方法がある。内容知を学ぶ中で基礎スキルを学ぶ、という学び方と、内容知とは別に個別に基礎スキルだけを学ぶ、というかたちである。
 内容知を学ぶ中でアカデミックスキルを獲得することは、そう簡単じゃないな、と、今になって思う。

  ▼

 今回文献を読みながら、僕は全く違うことを考えていた(ゼミ中に不謹慎である!?)。

 アカデミックスキル云々の授業、否、さらに踏み込むならば、大学における学習者のカリキュラム(学習経験)のあり方を決めるのは、結局、教員間がいかに連携して、利害を超えて、カリキュラムを決定できるのか、にある。要するに問われているのは、教員間の関係であり、意思疎通である。

 それは、「どのような内容を基礎と定めうるのか」という政治的交渉のプロセスでもあり、アクターネットワーク形成のプロセスでもあると思う。

 やっぱりそうだよな。
 このあたりが、問題だよな、と思う

投稿者 jun : 2008年11月19日 09:51


UT Open Course Ware for HighSchool

 東京大学教育企画室では、UT Open Course Ware(東大オープンコースウェア)のスペシャルコンテンツとして「高校生向けキャリア支援Webサイト:UT Open Course Ware for HighSchool」を開設しました。

UT Open Course Ware for HighSchool
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/hs/

UT OCW(東大オープンコースウェア)
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/

プレスリリース
http://ocw.u-tokyo.ac.jp/wp-content/uploads/lecture-notes/ocwHS/utocwhs_prs.pdf

 東大の卒業生が、現在の仕事や大学時代の思い出、卒業後に大学時代の経験が生かされたエピソードや、高校生へのメッセージを、高校生とのインタビュー形式で語っているサイトです。
 UT OCW内でオンラインで閲覧することのできる授業を、各卒業生ごとにおすすめしています。

 ちょっぴり恥ずかしいですが、小生もインタビューを受けています。

 UT Open Coursewareの開発は山本さん、UT Open Course Ware for HighSchoolの開発は重田先生(大総センター・助教)が中心になって進めていただきました。本プロジェクトは、東京大学教育環境リデザインプロジェクト(TREEプロジェクト)の一貫として実施されています。

東京大学教育環境リデザインプロジェクト
http://tree.ep.u-tokyo.ac.jp/

 本当にお疲れ様でした。

投稿者 jun : 2008年11月18日 15:52


ただの援助はしない!: 松本仁人著「アフリカレポート」を読んだ!

 Power tends to corrupt.
 Absolute power corrupts absolutely.

 権力は腐敗する
 絶対的権力は、絶対に腐敗する

 英国の歴史家アクトンの名言にこんなものがある。

 どんなに素晴らしい「大きな物語」「大きな理念」を掲げ、民衆を解放に導き、民主政治を実現しようと努めようとしても、権力の座についたとたんに、腐敗は始まる。あなたが腐敗しなくても、あなたのまわりは腐敗するかもしれない。
 まして、その立場が絶対的な立場であればなおさらのことである。絶対的権力は、絶対に腐敗する、とは皮肉なことであるが、歴史の真実である。

 外側に敵を想定して激しい戦いを続けてきた人々は、いったん、自分の夢見てきた理想が実現し、自分たちの外側に敵を失った瞬間に、皮肉なことに「まとまり」を失う。

 失うのは「まとまり」だけではない。
 これまであんなに夢見てきた「公共性」「公」という理念も失われ、あとには「利権漁り」がはじまっていく。

 権力のもたらす暴力 - それは内側から生まれ、内側からシステムを破壊するという意味で、キャンサーを我々の脳裏に想起させる - は、現代アフリカが苦しむ「病」である。

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 松本仁人著「アフリカレポート - 壊れる国、生きる人々 -」(岩波新書)を読んだ。

 システムとして確立していたジンバブエの農業は、権力者の迷走 - 間違った政策 - によってわずか10年で壊滅した。

 アパルトヘイト後の南アフリカ共和国は、反アパルトヘイトの中心的団体であったアフリカ民族会議内部に、急速な勢いで腐敗が進んでいる。
 治安は悪化し、いつしか南アフリカ共和国は「帰路の安全が気になって、仕事が手につかない国」と言われるようになってしまった。

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 本書は、こうしたアフリカの政府・権力の腐敗をレポートする一方で、それに抗するため、政府・権力とは独立した立場で立ち上がろうとする人々、NGOなどの活動を紹介している。

 僕個人としては、この分野は全くのシロウトであるが、非常に興味深く読むことができた。

 ここで紹介されているのは、「国」レヴェルの話であるけれど、人が集まる場所 - つまりは、企業や組織、もちろん学校にも同様の問題は起こりうるな、と思った。これは「学習」の問題であるな、とも思った。

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 興味深かったのは、本書の最後に紹介されている、ジンバブエの支援NGO「ORAP : Organization of Rural Association for Progress」の活動である。彼らは、旱魃地帯の農民の自律を支援する活動を、すでに30年間にわたって行っている。

 ORAPでは、「ただの援助」は決してしない。

 何の考えももたない援助団体がやるように「ただで物を配る援助は絶対にやらない」。まして「Food for Work」のように、「公共事業をおこし、そこで労働すれば食べ物を与える」といった、一般にはサスティナブルな援助といわれている援助のあり方まで、彼らは否定している。

 なぜなら、そうした援助では、農民は、いつまでたっても「自律」できないからだ。

 少し長くなるが、下記に引用しよう。

 ---

このあたりの農民は、自分は死ぬまで貧しいんだ、どうやっても、そこから抜け出せないんだ、と思いこんでる。だから、外からの援助がはじまると、それに依存してしまう。

そんなことはない、ちょっと方法を変えて頑張れば、自分たちの力だけで十分に豊かな生活ができるんだ。そう呼びかけるところからはじまった。

(同書p153より引用)

  ▼

(Foor for Workのような)そうしたプロジェクトを実施するのは、外からきた援助組織であって、農民自身ではない。

 農民は、いつまでたっても、援助してもらう立場で、運動の主体ではない。自分たちが運営している活動ではないから
どうしても依存心が高まってしまう。

 以前、チョロチョ村の近くで、欧米援助団体がFood for Workをやっていたことがある。

 村人からは、「あのプロジェクトでは食料をくれる。ORAPはなぜくれないのか」と文句を言われた。

「見ていてごらん、あっちの村はまたひどいことになるから」と答えた。

二年後、欧米の援助団体が去ると、言ったとおりになった。

 Food for Workだって何だって、プロジェクト期間が終わったら終わりだ。後には何も残らず、元の貧しい村に戻ってしまう。私たちがやっているのは、人々がやる気を起こすようにし向けることなんだ。

 ORAPは、自分から援助の手をだすことはない。村人が自分でどうしたらよいかを考え、こうしたいという方針を決めたら、そこでやっと動き出す。

 牛を飼っているある村から、牛を増やしたいので貯水塔をつくってほしい、という要望がでた。

 ORAPスタッフが村にでかけたが、貯水塔をつくるには3万ドルかかる。その金をどうするんだ、と問題提起するだけだ。あとは何もしないで、村人の議論にまかせた。

 村人は自分たちで智慧をしぼるしかない。最終的に「ミルクを売ったらどうだろう」ということになった。

(同書 p154 - p155より引用・一部筆者改)

 ---

 持続可能性、自律性・・・
 そうしたものは、結局、外部から「お仕着せ」のようにつくることはできない。

 もちろん、今生きるか死ぬかの瀬戸際にある人にとっては、外部からの迅速な介入、支援は必要である。
 しかし、そういう緊急事態を抜け、さて、「未来をどう設計しようか」いう段階になるならば、自分たちの未来のイニシアチブは、自分たちでとらなければならない。

 結局、

 変わりたいと願う当人たちにしか、
 変わることはできない

 のである。

 既存の考えや囚われを棄却し、対話の果てに、自分たちの力で、何かを学び取り、何かを捨て去り、自分たちの生き方を選択することしかない。

 そして、それがあることを前提にして「外部からの援助」「外部からの支援」は可能になるのかな、シロウトながらと思った。

 この事例に、僕が学ぶべき事は非常に多かった。
 やっぱりそうだよな、と思った。

投稿者 jun : 2008年11月18日 07:00


質問とは「贈り物」であり、「知性」をうつしだす鏡である

 ちょっと前のことになるけれど、NPO法人 アクションラーニング協会の主催するシンポジウムで、パネルディスカッションのパネラーを仰せつかった。

 会場には、ワシントン大学大学院人材開発学部教授のマイケル=マーコード先生がいらっしゃっていた。

 マーコード先生とはほんの少ししか話す暇はなかったけれど、印象的だったのは、

「質問とは贈り物である」

 という言葉であった。

 お互いに、「オープンエンドな質問」を「贈り物」として、おくりあう。それをふまえて、自分がわかり、自分の考えていることがわかる。質問を通して、アイデアを練り、気づき、発信する。そんなウィットに富んだ「贈り物」ができたら、最高だと思う。

 ちなみに、贈り物のメタファが秀逸なのは、それが「相互に与え合うこと」を喚起する点にもある。
 贈り物を人からもらってお返しを返さないのは、非社会的行為とラベリングされる可能性が高い。だから、贈り物は、常にインタラクティヴなものである。いったんオープンエンドな質問が効果的に送られると、それを受け取った人も、よい贈り物をしてくれる可能性が格段に高くなる可能性が高い。

 ▼

 しかし、現実社会の会議が、すべてそううまくいくとは限らない。

 自分の「立場」「利害」「立ち位置」とは異なるものを徹底的に排除しようとする「贈り物」。

「わかっている人」が「わかっていない人」を責め立てて、「誰が上で、どちらが下なのか」を理解させようとする「贈り物」。

 そういう「はた迷惑」で、1ミクロンの生産性もないような「贈り物」 - つまりは自分の権力を守り、維持し、強化しようとする質問 - が跳梁跋扈しているのが、現状である。

 敢えて皮肉をこめて「贈り物」と書いたけど、こういう「贈り物」はインタラクティヴな贈り物のやりとりにつながらない。

 そんな「贈り物」をもらっても、もらった本人は全く感謝しないだろうから、その後には、字義通りの「贈り物」などおくらない。
 そこでなされるものは何か。
 言うまでもなく「復讐」である。これはお互いにとって、あまりメリットはもたらさない。さらに最悪なのは、いったん口火が切られたら、それは、なかなか終わらないことにある。

 場はどんどんと凍える。
 人々はどんどんとシラケていく。
 
 そういう場にだけは、1秒たりともいたくない。

 ▼

 僕が、いつも思っていることだが、

 質問は、その人の"知性"をうつしだす鏡である

 その人がする「質問のクオリティ」を聞けば、だいたい、その人がどういう「知性」の持ち主かはおのずとわかってしまう。

 相手に贈り物を与えるのか、それとも爆弾を投げつけるのか、という選択は、結局、「自分も相手からの贈り物をもらい、そのことで成長したいと願う」のか、それとも、「相手からの攻撃をひたすらかわし、さらに攻撃するその後を歩むのか」ということを選ぶことでもある。

 個人的には、前者の生き方の方が、「自分が賢くなり、さらに自分のまわりにいる人も賢くなる」という意味において、魅力的である。そういうあり方を、僕は「知性的」とよぶ。

 よい質問がしたい。
 そして、自分も「よい質問」に囲まれたい。

 僕は願う。

投稿者 jun : 2008年11月17日 09:25


教育的瞬間

 ヴァンマネンという研究者が「教育的瞬間」という概念を提唱しているそうだ。

 教育的瞬間とは、「今ここで、学習者に介入しなければならない一瞬のこと」をいう。

 教育、教え、導き・・・どんな言葉を使ってもよいけれど、いずれにしても、効果的な学びの支援とは、「in situ(状況の中)」で行われるものだし、「今、ここ」というタイミングを逃すと、その効果は半減するよな、と思う。

 学び手として自分の経験を振り返ってみても、あの言葉をあのときに言われたからこそ、「響いたよなぁ」と思うことが何度もある。

 でも、教育的瞬間はおうおうにして見逃しやすい。というか、ピンポイントでヒットするほうが、「希」という話もある。

 だから教育って難しい。

 ---

追伸.
 Rさんからメールをいたらきました。ありがとうございます。Rさんによると、一部の小学校の先生は、教育的瞬間を「チャンス指導」と呼んでいたそうです。なるほどわかりやすいですね。

投稿者 jun : 2008年11月15日 07:41


人事部門の活動ベンチマーキング調査へのご協力お願い

 社団法人日本能率協会では、今年、「人事部門の活動実態に関する調査」というのを実施しています。この調査には、中原が監修者・共同研究者として関与しています。

 日本能率協会、日本能率協会コンサルティング、日本能率協会総合研究所の皆さんと一緒に、1年間かけて質問紙をつくってきました。

 この調査では、

 ・人事部の社内ネットワーク行動
 ・人事部の社外ネットワーク行動

 を把握するとともに、それらが人事施策の実施にどのような影響を与えるかについて検証することを目的としています。

 要するに

 どのような動きや活動をしている人事部が、会社や社員を元気にできているか?

 を調査しています。調査への回答は、人事部だけでなく、事業部門にもしていただくことになります。

 つきましては、企業の人事部門にお勤めの皆さんにお願いがあります。

 もし上記の調査趣旨にご理解をいただけるのであれば、下記のURLより調査票をダウンロードし、下記の手続きで返送いただけませんでしょうか。

 ---

手順1.下記URLにアクセスしてください

日本能率協会WEBページ
http://www.jma.or.jp/hrm/index.html

手順2.調査票へのリンクより、調査票(エクセル文書形式)をダウンロードし、保存してください。調査票は2種類あります。

 1.調査票【人事部用】
 2.調査票【事業部用】

手順3.保存した調査票の、表紙のご確認事項をお読みいただき、質問項目にご回答ください。人事部用は人事の方が、事業部用は、事業部の方に渡して回答をしてもらってください。 回答時間は人事部のものが30分、事業部のものがおおよそ15分程度だと思います。

手順3. ご回答がすみましたら、HRM@jma.or.jp 宛の電子メールに、調査票を添付してご送信ください。 念のため、「中原のブログを見て応募した」と追記していただければ幸いです。

 ---

 ご回答いただいた皆様には、

1.全社と比較して、御社の人事部の活動の様子がわかる簡易報告書の提供
2.2009年3月に実施するシンポジウムへのご招待

 などの特典がございます。

 おそらく、自社の人事部の活動をベンチマークすることが可能になると思います。

 なにとぞご協力のほどお願いいたします。
 
 お問い合わせ先は下記の海老原さんまでお願いします。

 (社)日本能率協会 経営・人材本部 海老原
 〒105-8522 東京都港区芝公園 3-1-22
 TEL:03-3434-1955 FAX:03-3434-6387
 電子メール:HRM@jma.or.jp

 ---

 リクルートのWorksでも述べましたが、効果のある採用、育成などを行うためには、人材開発を行う人々が、いかに社内のネットワーキングできるか、社内マーケティングができるか、あるいは、社外の人々を巻き込んでいけるかに依存する、と僕は考えています。

 それを検証し、人事部や人材開発の「未来のあり方」を提案するための基礎調査でもあり、世界的にも類を見ない調査であると考えています。

 なにとぞご協力のほどお願いいたします。

投稿者 jun : 2008年11月14日 10:18


大学で、学び方を学ぶ

 今学期の大学院ゼミでは、自己調整学習(自分で自分の学習をコントロール・デザインして、自分で学ぶ)の文献を読んでいます。

 自己調整の認知的スキルを、学習者にどのように獲得させるか
 どのように自分自身のエモーションを鼓舞していくか
 
 「自己」と「他者」の関係はいかにあるべきか
 「自己」とはそんなに「強い存在」なのか?

 そもそも
 「自己が自己を鼓舞して、学ぶような社会は
        本当に幸せな社会と言えるのか」

 ゼミでは、いつも熱い議論になります。

  ▼

 先日のゼミ発表では、このテーマに付随して、大学院生のNさんが、米国の高等教育機関で使われるテキスト(College study strategies)をもってきてくれました。

 Nさんは日本の中の最も米系大学に近い大学を卒業しています。このテキストは、そこで使ったものだそうです。

  ▼

 内容を見ていて、ある意味、感心しました。

  クリティカルシンキング
  ロジカルシンキング
  学習スタイルを見直す
  時間管理
  主張
  記憶と学習の方法
  ノートテイキング
  推論
  エッセイの書き方
  質問のストラテジー

 こういう基礎的なスキルを、大学生(おそらく大学初年時に)に、ちゃんと教えるんですよね。こういうのは重要なのかな、個人的には思います。

「大学教育とは、そもそもそんなスキルなんかに還元されるものではない、云々」みたいな教育の人にしか通用しないような議論 - 教員がやりたくないことを誤魔化すような議論 - で目くらましをするのではなくて、「必要なものはやりましょ!」という姿勢が潔くて、僕はいいと思います。
 
 もちろん、初年時教育でやったからといって、その効果がずっと継続するということにはならないでしょう。そのときには、もしかすると、「何やってんだよ、かったるな」で終わるかもしれない。

 でも、しかし、僕の少ない教員経験からしても、基礎的なスキルの獲得 - あるいは、大学って学び方ってあるんだー、みたいな認識をもってもらうこと - は、やっぱり、全くないよりはあったほうがよいと思います。
 もしこれらの項目について、すべて覚えていなくても、「なんか、昔そういえば、授業でやったよな、本棚の奥に本あったんじゃねーか」的に、「立ち戻れるポイント」を自分の中に確保したほうがいいでしょう。

 学び方、知的生産の方法って、知っていてもやっぱり損はないと思います。

 ---

追伸.
 12月5日、青山子どもの城で開催されるLearning barですが、既に募集人数150名を大幅に超える、350名弱の応募をいただきました。ありがとうございました。やむなく抽選となってしまいます。11月24日あたりに結果がお伝えできると思います。

「子どもの城」で、「大人の学び」を考えるワークショップ
http://www.nakahara-lab.net/blog/2008/11/post_1368.html

 それにしても、このように大勢の方から希望をいただきながら、会場のキャパ等の関係でお答えできない状況は、何とか改善できないものかな、と思っています。
 対策第一弾として、1月Learning barからは、会場を福武ホールにうつします。これによって、募集人数を40名増やすことができると思います。

 ---

追伸2.
 長岡先生と共著で書いている「ダイアローグチェンジ」ですが、ようやく2章がの校正があがりました。なかなか深い話になってきましたよ。

 残り1章です。先がようやく見えてきた。頑張ろう。

 ---

追伸3.
 来年、雑誌「人材教育」で、中原が2ページの連載をもたせていただくことになりました。タイトルをどうしようか考えています。「ちょっとオシャレで、ちょっとフザけててて、でも、考えてみたら深いねー的なタイトル!?」はないだろうか。
 「ラーニング・ゲリラの研究室。」「僕は陽気ななんつって教育学者」「なんとなく、ラーニング」「教育のプチトリビア」というタイトルを思いついたのですが、あんまりだな。
 まぁ、考えます。 

 ---

追伸4.
 今週は、月曜日からずっとTAKUZOの病院通いが続いています。早朝病院の前にならび、診察券をいれてくる。その後いったん家にかえり、診察が始まる頃に、再びTAKUZOをつれて病院へ。さらにはTAKUZOを保育園へ。その後、小生は満員電車に揺られて仕事。嗚呼。

 早くよくなれ、TAKUZO。
 週末は平和でありますように。

投稿者 jun : 2008年11月13日 07:36


総長選

 11月27日、本学は総長選です。
 有権者は講師以上の全教員(教授 1254人 准教授 915人 講師 255人)。キャンパスに1日拘束されて、直接投票を行います。

総長選
http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_201107_j.html

 ふと考えてみると、CEO(社長)を選挙で選ぶってことですよね。いろんな意味で、すごい制度ですね。
 結果は神のみぞ知る。

投稿者 jun : 2008年11月12日 19:03


エスノグラフィーとデザイン

 中原研究室には、日々、たくさんのお客さんがいらっしゃいます。

 中には、軽い気持ちでいらっしゃるはずだったのに、小生の悪巧み!?によって、その場がなぜかミニ研究会になり、学内外からいろいろな方をお誘いして議論になっちゃうことが、少なくありません。

 ご発表いただく方には大変ご迷惑をおかけしてしまうことになってしまうのですが、皆様、快く引き受けてくださる方が多いです。ありがたいことですね。
 なにより、このような会は僕自身の勉強にもなりますし、また、研究者は研究を持ち寄って議論するのが、一番お互いを知るきっかけになると思っています。嬉しいことです。

  ▼

 昨日は、博報堂でビジネスエスノグラフィーの研究・事業をなさっている田村大さんが、研究室にお越しになり、ミニレクチャーをおこなっていただきました。田村さん、ありがとうございます。この研究会には、工学部、先端研などの学内の先生方、中原研究室の学生さん、某大学社会学部の先生、某大学経営マネジメント学部の先生もご参加になりました。

  ▼

 田村さんによると、ビジネスエスノグラフィーとは、「デザイナーにインスピレーションを与え、イノベーションを生み出すための方法論」だそうです。

 クライアントから要請を受けた数名の研究者、デザイナーたちが、数十名のインフォーマントのところに出向き、質的な調査を行います。そのデータをもって、いわば「創造的カオス」の中で、新たなサービスや考え方をつくっていく、という感じです。

 既に海外では、いくつもの企業がこれに関する研究、あるいは事業をはじめているようです。
 最も有名な事例に、デザインカンパニーのIDEOがおこなったバンク・オブ・アメリカの「KEEP THE CHANGE」というサービスがあるそうです。EPICという国際会議もすでに開催されているそうで、賑わっているそうです。ほほー。

EPIC2008
http://www.epic2008.com/

  ▼

 田村さんのお話は非常に面白いもので、すっかり小生楽しんでしまいました。一方、お話をお聞きしながら、その内容に既視感も覚えました。で、自分のWebを検索したら、ありました。似たようなことをかつて考えていたのですね。

エスノグラフィーとデザイン
http://www.nakahara-lab.net/phase1.html

 この文章は、僕が22歳くらいの頃に書いたものだと思われます。当時、ギアツやクリフォードといったポストモダニスト系エスノグラファーの本を読みながら(わかっていたかは不明)、何とかエスノグラフィーという行為と学習環境のデザインという行為をむすびつけられんものかねー、なんて思っていました。

 エスノグラフィーは、必ずしも、テクストでなくてもよいのではないだろうか。いや、テクストを生み出したとしても、あくまでそれは中間生成物であって、問題はその後の対話にある。エスノグラフィーと実践者と研究者の対話を結びつけ、そこから新たなデザインが生まれればよいのではないか、と思っていたのかもしっれません。

 これは古いけど、新しい問いですよね。ゆっくり考えたいですね。

 それにしても、古い自分の書き物が全部Webに残っていて、すぐに検索して見られる環境って面白いですね。自分が忘れてるよ、ほとんどのことは。「あっ、オレ、昔、こんなこと言ってたんだぁ」なんて感じです。

 まぁ、発見した昔の文章は、変に気負っている文章で、こっぱずかしいけど。

 ---

追伸.
 編集者の石田さんから、めでたいご連絡です! 「企業内人材育成入門」さらに重版決定です。これで7刷 16000部になりました。ありがたいことです。皆様に感謝いたします。

 合掌。

投稿者 jun : 2008年11月12日 11:58


学び手の感覚、学びに対する意識

 最近、いろいろな研究や論文を読んでいて、

「嗚呼、これが今みんなのホットトピックなんだねー」

 と思っちゃうことのひとつに「学び手としての意識」「学ぶことに対する見方」の問題というものがある。

 要するに、

「学習者に、自分が学び手だという感覚をどのようにもってもらうか」

「すべての人々が、学校教育(被教育経験)の中で培われた学び観、教育観を、いかに相対化し、それから自由になってもらうか」

 ということが、僕の近くで研究をしている人々の主要な関心のひとつになってきているような気がする。

 もちろん研究者によって言い方は違う。
「学びほぐし」だの、「Epistemic Agency」だの、「Epistemic perspective」だの、いろいろな異なった専門用語!?で呼ばれることが多いけど、僕には、結局、皆、同じことを言っているような気がしてしまう。
 おそらく「学ぶこと」そのことよりも、それ以前の問題、「学び手としての意識」「学ぶことに対する意識」をもっと問題の前景にもってこようぢゃないの、という話なのかな、と推察する。

 で、多くの人が、こういう風に考える背景には、こういう実践上の課題があるんだと思う。

「学習観が硬直化してしまった人、自ら自分を学び手だと思っていない人に、後続してどんな学習を与えても、結局、なかなか変容には結びつかない。

なぜなら、そもそも学びを見る視座や認識や意識が、それに順応していないので、ギャップや不協和を生み出してしまうから」

「教育の目的とは、究極のところ、自律したスマートな学習者を育てることにある。そういう人物像の根幹には、自ら学び手であるという意識や、学びに関する持論がなければならない」

 というわけで、「じゃあ、学び観や教育観を何とかすっぺ」という話になるんだけど、これが、なかなかフツーに難しい。

「知識」や「スキル」なら積極的に扱えるのかもしれないけど、「観」や「感覚」ですからね、相手は。

 硬直した学びのイメージ、学び手の意識を、いかに解き放つか。

 この課題に関しては、いくつか仮説的な試みがなされているけれど、まだまだ本格的な研究はこれからなのかな、という気がする。

 個人的には、学び観変容や学習者主体性の確保、そのものを「目的」に据えたトリートメント(教育的処遇)というのも、なんかプチ違和感はある。

 なぜなら、学び観や学習者主体性は、結局、長期にわたる学習プロセスの中で構築された(学習された)ものであるから、それを逆に脱構築するときも(学習棄却するときも)、他に何か学ぶものがあって、それに付随して副次的に起こるものなのかな、と思うから。
 あともうひとつは、そんな長期にわたるプロセスの中で学習されたものを、短期間のトリートメントで変容させうるものなのか、ということに関して自信がないから。
 でも、じゃあ、具体的にどうすんの?と言われたら、今の僕には、「すんまへん、出直します」という他はないんですけど。

 ともかく、自分の経験に照らしてみても「学びのイメージ」や「自分が学び手なのかどうかという感覚」は、大人の学びにとっても非常に大きい気はする。

 非常に面白い研究テーマだな、と思う。

---

 年明け2月に企画していたシンポジウムの委員会の会合が開催された。委員会メンバーの必死のすり合わせも実らず、シンポジウム内容、シンポジウムを終えたあとの活動イメージで合意には至らなかった。時間切れということもあり、イベント開催は中止。

 現在、僕の研究活動は、いくつかを除いてほぼすべてが「産学連携」のかたちで進行している。でも、いくら経験を積んでも、産学連携の試みとは、ものすごい難しいことだな、と思った。今回の出来事から、自分としては、いくつかの「教訓」を得た。

 もちろん、今回のことがきっかけで、こうした試みを辞めることは、1ミリも考えていない。
 そもそも僕の研究の場合、「産」の皆さんにご協力を仰がなければ、前にも後にも進めない。また、「学」のプチ知見!?が、「産」の世界を整理したり、脇から眺めたりするよい刺激になるものと、僕は信じている。
 両者のコラボレーションがあってこそ、この領域は前に進む、そう僕は信じている。

 が、そうはいうけど、正直ベースでいうとね・・・。
 昨日の夜は「心」が折れた。
 もっと正直にいうと、今もまだ快復はしていない。

 いやー、そんなこともある。
 あんのよ、実際、いろいろ、ねー(笑)。

 そして人生は続く。
 僕は、前に進む。

投稿者 jun : 2008年11月11日 06:56


「共働き子育て」のマーフィーの法則

「トーストがバターを塗った面を下にして着地してしまう確率は、カーペットの値段に比例する」

「作業の手順が複数個あるとする。その中、万が一ミスれば"破滅"に至る可能性のある手続きが存在するなら、誰かが、必ずそれをやってのける」

 ---

 今から15年くらい前!?、「マーフィーの法則」というのが流行した。「失敗する余地がすこしでもあるなら、必ず失敗する」というテーゼを原則に、日常生活の悲哀をユーモラスに格言としたまとめたものである。

 ちょっと違うかもしれないけど、「共働きの子育て」というのも、マーフィーの法則に似た「悲哀にあふれた瞬間」がある。

 ---

「夫婦ともども休みなんか滅相もない、という最高に忙しいときに限って、子どもは熱をだす」

「ベビーシッターさんにも、両親にもヘルプを求められないときに限って、保育園から電話がかかってくる」

「夫婦ともども疲労困憊していて、お願いだから1分でも寝かせてくれませんか、というときに限って、子どもは狂ったように元気である」

「子どもの体調が数日悪く、見るにみかねて、ベビーシッターさんを予約した次の日に限って、子どもは狂ったように元気である」

 ---

 うーん、子育ては甘くない。

 TAKUZO、少し洟がでてきた。ズルズル。
 心なしか「妙な咳」もしている。コホン、コホン。
 今はまだすこぶる元気である。
 しかし、どうも「U」の谷を下ってる予感がする。

 今週は、「薄氷を踏むような日々」が予想される。

 生き残れ>TAKUZO
 生き残れ>我が家

投稿者 jun : 2008年11月10日 10:19


「"大人の学び"って何だろう!?」ワークショップへの誘い

 青山「こどもの城」で、「大人の学び」が何かを考えるワークショップをやります! 中原、長岡先生@産業能率大学、苅宿俊文先生@青学で企画を進めました!

 どうぞふるってご応募ください!
 ビタハピ、また登場します!
 
=================================================
「"大人の学び"って何だろう!?」ワークショップ
新人の学び、ミドルの学び、エグゼクティブの学び!?

2008年12月5日(金曜日)午後6時30分 - 9時
こどもの城 801 / 902
青山学院大学 主催
東京大学 大学総合教育研究センター 中原淳研究室 共催
産業能率大学 情報マネジメント学部 長岡健研究室 共催
=================================================

「子どもの学び」と「大人の学び」は、どこがどう
違うのか?

「新入社員の学び」と「ミドルの学び」、そして、
「エグゼクティブの学び」は何が違い、何が同じ
なのか?

 そもそも、「学び」とはいったい何なのか?
 大人になっても、それはあるのか、ないのか。
 あるとすれば、どのように支援できるのか?
  
  ▼

 企業人材育成に関係する人々は、日々、「大人の
学び」や「大人の成長」を目のあたりにして仕事を
していると思います。

 しかし、これら「一連の問い」に対して「自分な
りのお答え」をお持ちでしょうか。

 よもや、それらに対する答えなしに、「新入社員
研修」「マネジャー研修」などを発注・設計しては
いないでしょうか。

  ▼

 2008年12月5日(金曜日)、「"大人の学び"って
何だろう!?ワークショップ」を開催します。
 このワークショップの主催は青山学院大学。参加費
は、なんと無料です。会場は、青山の「子どもの城」
での開催となります。

 名前はややふざけていますが、内容はマジです。
これを機会にふだんはあまり考えない「大人の学び」
の本質を、皆さんで考えてみませんか?

「本質を考える」といっても、そこはLearning bar
の雰囲気です。

お酒を飲みつつ、リラックスした雰囲気で、でも、
マジで、いろいろな人々との語りの中から、学びの
本質を考えてみませんか。

 本ワークショップでは、様々なエクササイズを通
して「大人の学びの本質」にみんなで迫りたいと思
っています。

 参加をご希望の方は、下記の参加条件をお読みになり、
フォームに必要事項をご記入のうえ、11月21日までに
info@heu-le.net までご連絡ください。11月24日ま
でに参加可否をお伝えいたします。

 なお、本セミナーは満員御礼が予想されます。
参加登録いただいても、すべての方々の御希望に
はお応えできない状況が生じる可能性があります。

 主催者としては心苦しい限りですが、限られた
スペースと人的リソースの中で運営し、かつ、参
加者のバックグラウンドの多様性を確保する必要
がある関係上、すべての方々のご要望にはお答え
できません。

 なにとぞお許しください。
  
 ---

○主催:
 青山学院大学大学院 社会情報学研究科
 ヒューマンイノベーションコース
 http://www.gshi.aoyama.ac.jp/


○共催:
青山学院大学ヒューマン・イノベーション研究センター
 http://www.hirc.aoyama.ac.jp/

 NPO法人 Educe Technologies Learning bar
 http://www.educetech.org/

 東京大学 大学総合教育研究センター 中原淳研究室
 - 大人の学びを科学する研究室 -
 http://www.nakahara-lab.net/

 産業能率大学 情報マネジメント学部 長岡健研究室
 http://www.mi.sanno.ac.jp/top_menu/infom/nagaoka.html
 
 
○日時
 2008年12月5日(金曜日)
 午後6時00分 開場  
 午後6時30分より午後9時頃まで実施
 ※時間が限られておりますので、定刻通り
  に始めます。
 
 
○内容
 □ウェルカムドリンク
 (6時00分 - 6時30分)
  ・サンドイッチ、ソフトドリンク、
   ビール、ワイン等をご用意しています。
   ※801で受付・ウェルカムドリンクの
   サービスを行います。
 
 □趣旨説明
  ・中原 淳(東京大学・准教授)
   ※902で6時30分以降の受付とワーク
   ショップ等を実施します。

 □ワークショップ

 □ラップアップ
 (8時45分 - 8時50分まで)
  ・中原 淳(東京大学・准教授)
 
 
○場所
 こどもの城
 http://www.kodomono-shiro.jp/access/index.shtml 
 
 801 ウェルカムドリンク(6時まで)
 902 ワークショップ会場(6時30分以降)

 東京メトロ 表参道B2より徒歩8分 
 
  
○参加費
 無料
(青山学院大学大学院社会情報学研究科、大学
ヒューマン・イノベーション研究センターの特別
協賛)
 
 
○食事
 ソフトドリンク、ビール、ワインなどの飲み物、
 および軽食をご準備いたします。
 
 
○参加条件
 下記の諸条件をよくお読みの上、参加申し込みください。
 申し込みと同時に、諸条件についてはご承諾いただいて
 いるとみなします。

 1.本ワークショップの様子の写真は、主催者および
 共催者が関与するWebサイト等の広報手段、講演資料、
 書籍等に用いられる場合があります。

 2. 欠席の際には、お手数でもその旨、
 info@heu-le.net までご連絡下さい。
 人数多数のため、多数の方の参加をお断りしている
 状況です。繰り上げで他の方に席をお譲りいたします。
 
 
○どうやって参加するのか?
 
 下記のフォームに必要事項をお書き入れの上、
 宛先 info@heu-le.net
 11月21日までにお申し込み下さい


〆ココカラ=======================================

 参加申し込みフォーム
 宛先 info@heu-le.net
 11月21日までにお申し込み下さい
 
 11月末日までに参加の可否をご連絡させていただきます

※場所は東大ではありません。青山「子どもの城」です。
ご注意ください!!

 ---

 上記の参加条件を承諾し、参加を申し込みます。

氏名:(            )
フリガナ:(          )
性別:( 男  /  女 )
所属:(            )
肩書:(            )
メールアドレス:(       )

業種:下記の11つの属性から、あなたに最も近いものを
ひとつお選びください

 1.研究者
 2.学生
 3.民間教育会社勤務
 4.民間コンサル会社勤務
 5.事業会社勤務(人事・教育部門)
 6.事業会社勤務(事業部門)
 7.個人事業主(教育・コンサル)
 8.経営者
 9.初等・中等教育の学校勤務
 10.公務員・公益法人等勤務
 11.その他

もしあれば・・・一言コメント
(                )

〆ココマデ=======================================

投稿者 jun : 2008年11月 6日 20:52


アンプラグド・ミーティング(Unplugged Meeting)

 今日から「山」に籠もります。
 一人で籠もるのではありません。研究者数名で籠もってディスカッションをしようと思います。

 携帯電話、ネットのつながらない「アンプラグド(Unplugged)な環境」に自分たちをおいて、いつもは話さないような、「根源的な問い」について議論をしたいと思います。

 今後、社会はどのようにかわっていくのか?
 そのとき、教育はどのようになっていくのか?
 そのとき、自分たちは、誰のために何をなすべきか?

 そのための準備や資料の読み込みを、ずいぶん前から、密かに進めてきました。

  ▼

 大学も法人化以降、どんどんと忙しくなっています。こんなことをいうと、民間の方とか、役所の方には怒られるかもしれませんが、本当に忙しい。

 授業、会議、ゼミ、会議、会議。次から次へとアポが入り、朝から晩まで息つく暇もありません。夕方には、土色の顔をして会議に臨んでいるような状態です。

 そして、この動向は、さらに加速することはあっても、減速することはないでしょう。運営交付金のさらなる削減が目前に迫っています。
 大学からはさらに人が減るでしょう。反面、「教育の市場化」「私事化」という流れの中で、やるべきこと、やってほしいと社会から切望されることだけが、増えていく。

 そのような中で、何が、最も犠牲になるのか。
 それは「考えること」であり、それも「根源的な問いまで立ち戻ること」です。僕の不徳の致すところかもしれませんが、近年、「根源的な問い」について考える機会がどんどんと失われているような気がします。

  ▼

 企業では「オフサイトミーティング」が人気だと言います。
 ふだんとは違う環境に自分たちをおき、ふだんは考えないような問いに、真面目に取り組む。そういう機会は、大学の人にも必要になってきているのかもしれません。

 それにしても、考えさせられますね。
 文明の利器であるはずの、携帯電話やネットに「接続していない状況=アンプラグドな状況」が、「贅沢で貴重な時間」に感じるとは。

 接続することで、僕らは、何を得て、何を失ったのでしょうか。
 そして、僕らは、なぜ、こんなに乾いているのでしょうか。
 
  ▼

 今、この瞬間からアンプラグドになります。
 See you...

投稿者 jun : 2008年11月 5日 09:06


米国大統領選:2つの物語をめぐる戦い

 今日は米国大統領選挙ですね。
 米国大統領といいますと、グローバルに多大な影響力をもっていますので、我々にとっても、注目の日であることは間違いありません。

 大統領選にちなんで、テレビでは、いろいろな関連番組をやっているようですね。昨夜、午後10:10~午前0:00に放送されたNHK BS特集「大統領の言葉」は大変面白かったです。

 この番組では、「大統領候補のスピーチ」を切り口にして、二人の選挙戦に迫っていきました。特に、この選挙を「物語選挙」と位置づけていたところが大変面白い。

 民主党候補「バラク=オバマ」は、ご存じのように、アフリカンアメリカンの父と白人の母の間で、ハワイに生まれました。
 それほど裕福な家庭に育っていない彼は、周囲の人々に何とか支えられ、最高学府を卒業する。ダイバーシティのあふれる環境から、大統領候補になる - これも「ひとつのアメリカの物語」ですね。

 そんなオバマは自分の演説の中で、何度も下記のような言葉を繰り返します。

This was the moment...(今、この瞬間に...わたしを選べば、あなたは歴史の証人になるんだぞ)

You can change

Hope is ....

 それに対するジョン=マケインは、裕福な家庭環境に育ちます。そこには彼の物語はない。彼の物語は、ベトナム戦争を勇敢に戦い、拷問にも負けず生き残った、ということです。

 そんな彼が繰り返す言葉は、

Fight with me

Country

 これも典型的な「ひとつのアメリカの物語」ですね。

 ▼

 大統領選挙となると、それぞれにスピーチライターが複数イテ、スピーチコーチもいるそうです。

 番組の中で、解説者のどなたかがおっしゃった言葉、

 大統領とは一人でやるものではない
 大統領とは制度であり、チームである

 という言葉がとても印象的でした。

 ▼

 物語には物語をもって闘う。
 どちらの物語に幸運の女神がほほえむか、まもなくわかります。

投稿者 jun : 2008年11月 4日 21:06


白目がちょっと増えてきた?

 土曜日の朝から、目から「血」がでてるんですが・・・。
 いや、「充血」じゃないんです。それなら、よくあるよね。徹マン明けとか。徹マン、高校の頃はよくやったぜ。うちの実家が「たまり場」だったけど。

 でもね、ちょっと違うんです。今回の僕の症状は、「充血」じゃなくて「出血」です。発症以来数日たって、ちょっとだけ「白目」の部分が増えてきたような気がしますけど。

グロイのであまりクリックをオススメしませんが、こう書くと、きっとクリックしてみたくなるんでしょうね・・・でも、白目が心なしか増えてきたような気がします

 うーん、痛々しい。
 嗚呼。

 熱が下がったので、外にでてみたんですが、道行く人は僕の「赤目」を見て、顔を背けます。
 ちょっとグロイわな。こえーよ、なんかヤバいウィルスに感染してそう。
 
 困ったのは、数日間、ずっと涙が止まらないことです。
 目が「うるうる」しています。

 オレにも、こんなに「涙」があったのか。
 驚きだね。

投稿者 jun : 2008年11月 3日 22:37


ワークプレイスラーニング2008を振り返る

 10月31日(金) 東京大学安田講堂にて、年に一度の産学カンファレンス「ワークプレイスラーニング2008」が開催されました。

ワークプレイスラーニング2008
http://www.educetech.org/wpl2008/

 今回は、1280名のご応募をいただき、最終的には約800名の方々にお集まりいただきました。ありがとうございました。

 以下、この日の出来事を振り返ってみたいと思います。

 ---

 まず、今回のカンファレンスのテーマは、

「企業教育」の新たな役割をさぐる

 でした。ここで、「企業教育」を、「」でくくったのには、理由があります。
 それは、企業教育の歴史をひもといてみればわかるのですが、実は我々がアタリマエだと思っている人材育成のかたちとは、何一つ「固定的な、決まったかたち」などなく、社会的、思想的な状況変化に応じて、常に変わってきている、のだということです。

 たとえば、1960年代の企業教育とは、「明確な指示・命令を部下に与えることのできる管理職と、それに従順に従う部下という身体の開発」でした。そこで試されていた手法も、今の我々からは想像を絶するようなかたちでした。
 それが、高度経済成長期をへて、さらにはバブルという不況をへて、今につながっています。

 それでは、今、我々は、どのような人材を、どのように育成しようというのか。そして、それを担う人々は、どのようなあり方を求められるのか。

 我々主催者側(企画委員会側)が、今回のカンファレンスで、最も問いたかったことは、そういうことでした。

 ---

 朝、いまだ静かな安田講堂です。

asa_yasudakoudou.jpg

 下記は受付の様子です。今回は多くの方々を迎えるため、総勢50名ものスタッフが準備にあたりました。スタッフは、協力企業から人をだしていただきました。心より感謝いたします。
 この50名の方々を「受付チーム」「会場チーム」にわけて、それぞれにリーダーを決めて運営いたしました。

 下記は受付の様子です。受付のリーダーは、産業医科大学の柴田さんでした。一時的に混雑したものの、ほぼ順調に受付ができたようです。

kaijyou.jpg

 ---

 さぁ、いよいよです。

yasuda_asa.jpg

 カンファレンスの冒頭。
 企画委員会の主査である、中原と長岡先生の方から企画趣旨を述べました。

nakahara_shushi.jpg

 中原からは

1. ワークプレイスラーニングとは、研修の学びに加えて、現場の学びを重視した考え方であり、多くの組織で、1)実務を通した学びのあり方、2)研修と連動した現場の学びのあり方、が問い直されはじめていること

2.このカンファレンスは、「聞くカンファレンス」ではなく、皆さん自身がディスカッションして、気づくことを目的に設計されていること

 などをお話ししました。

chinotankyu.jpg

 Learning barにご参加なさったことのある方はおわかりと思いますが、僕は「聞くだけの場」を設けることをよしとしません。

 僕の設計する場の場合、各事例発表のあとには、30分間におよぶ参加者ディスカッションがありますし、携帯電話を活用したフィードバックディスカッションもあります。
 カンファレンス自体が、「参加すること」「知をともに探求すること」を前提にデザインされているのです。

 今回は新たな試みとして、千葉工業大学の原田先生、学生さんらによるグラフィックファシリテーション(リアルタイムで図で議事録をとる)も行っていただきました。この図を見て、参加者の方にリフレクションしてもらうことが目的です。

 参加者には非常に好評で、休み時間などにここを訪れる方がたえませんでした。本当にお疲れ様でした。

graphic_harqada.jpg

hitogashugou.jpg

 ---

 長岡先生からは、先ほどの中原の話を踏まえて、

1.「研修」や「OJT」というラベルがないと「人材育成」とは言えないのか

2.「人材育成部門」が絡んでいない活動は、「企業教育」ではないのか?

3.人材育成担当者はどの範囲の「学習」までコミットすべきなのか?

 という問いかけがなされました。今後のカンファレンスでは、これら一連の問いに対して、事例をまじえ、皆さんで考えていくことになります。

nagaoka_shushi.jpg

 ---

 最初のご発表は、花王株式会社の下平博文さんに、「"問いかけ"としての企業理念」という内容でお話しいただきました。

shimodaira.jpg

 花王の理念である「花王ウェイ」を広めるために、下平さんたちは、職場単位のワークショップを開発しました。部課長による手揚げ式で、職場単位で「花王の理念とは何か?」「花王で仕事をする意味とは何か」「自分たちは何をめざすべきなのか」を対話していきます。

 この対話プロセスを通じて、仕事の現場で階層を超えた絶えざる学習を起こしていくというお話でした。

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 続いてのご発表は、NTTソフトウェア株式会社の渡辺浩一さんです。渡辺さんには、「ソリューション営業力強化に向けた現場での取組み」という内容でお話をいただきました。

watanabe_ntt.jpg

 NTTソフトウェアでは、営業力強化をはかるために、営業プロセスを「見える化」するシステムの開発を行いました。
 営業プロセスの徹底した見える化により、タイムリーで、具体的で、高度な上司 - 部下の「対話」を実現します。現場主導で、上司 - 部下のインタラクションを通じて、「自立・自律している営業担当者」の育成をめざしているというお話でした。

 ---

 事例発表のあとは、小樽商科大学の松尾先生、産業能率大学の長岡先生、中原のセッションがはじまります。

matsuo_makoto.jpg

nagaoka_sensei.jpg

 松尾先生は経営学の立場から、長岡先生は社会学の立場から、各事例に、的確で素晴らしいコメントをいただきました。

 その後は、いよいよ、会場全員でのディスカッションですね。皆様のご協力のおかげで、最初からスムーズにディスカッションがはじまりました。非常に盛り上がりました。

discussio1.jpg

discussio2.jpg

discussio3.jpg

 その後は、皆さんから携帯電話で寄せられた質問を、僕がかわりに、講演者の方に投げかけるセッションです。この日、計105件のメールが、僕のところまで寄せられました。皆様ありがとうございました。

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 午後のセッション。

 トップバッターは、KDDI株式会社の園田貴さんです。「トップから始まる全社的CS(TCS:Total Customer Satisfaction)の職場展開」という内容でご講演いただきました。

 KDDIでは、「全社をあげたお客様満足の向上」に向け、トップと現場が対話と実践を繰り返しています。このCS向上の取り組みが、従業員のエンゲージメント向上などに影響を与えているというお話でした。

sonoda.jpg

 次に、株式会社あおぞら銀行のアキレス美知子さんに「人財開発部門の戦略的役割」という内容でお話をいただきます。

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 アキレスさんは、メリルリンチ証券、住友3Mなどの外資系企業において企業教育部門の刷新を行ってきた経験をふまえ、人材育成部門は、今後、どのような役割をはたしていくべきなのか、についてお話になりました。

 人材育成部門は、戦略に貢献しなければならないこと。また、その変革のコツをお話になりました。

 その後は、再度、解説+ディスカッション+携帯フィードバックと続きます。

 ---

 最後に、中原からのラップアップです。

nakahara_speech.jpg

1. 企業教育の新たな姿として、「かかわりや対話を通した学習」というものが増えてきていること。「学習」というものをクラスルームの中だけに限定せず、広くとらえることが重要であること

2. 企業人材育成担当者の新たな姿として「ネットワーキングし、対話を促す育成担当者のあり方」が求められていること。

3. 2に関して、具体的には、職場内部のニーズをマーケティングし(、HRのあり方に関する「仮説」や「ありたい姿」を描く「職場内ネットワーキング」と、各事業部、経営者のかかげる難問と渡り合うため、外部の専門家、ベンダーの力といかにパートナーシップを築くかという「職場外ネットワーク」が求められていること

 などを述べました。この内容は、今日一日のディスカッション、講演内容、コメントを踏まえ、僕なりにまとめたものです。

 長岡先生がご提示なさった「人材育成担当者はどの範囲の「学習」までコミットすべきなのか?」という問いは、非常に鋭いものだと思います。また、松尾先生がご提案なさった「人材育成部門の仕事を営業をメタファにする話 - 今後必要なのはインターナルマーケティングだ - という話は、今後を考える上で示唆に富むな、と思いました。

 これにてワークプレイスラーニング2008は終了です。

kan_owari.jpg

 ---

 最後に、この場を借りて、今回のカンファレンスの開催に協力いただいた下記の企業の方々、

 NRIラーニングネットワーク株式会社
 株式会社 ダイヤモンド社
 日本能率協会マネジメントセンター
 株式会社富士ゼロックス総合教育研究所
 株式会社リクルートマネジメントソリューションズ
 学校法人 産業能率大学
 
 NPO法人日本アクションラーニング協会
 グローバルナレッジネットワーク株式会社
 株式会社 グロービス
 株式会社 ヒューマンバリュー
 株式会社 レビックグローバル
 日本CHO協会
 らーのろじー株式会社

 また、事例提供をいただいた企業の方々、アルバイトとしてお手伝いいただいた東京大学大学院の大学院生諸氏、エデューステクノロジーズ事務局長の坂本君、Backstageのディレクターであった牧村さん(Backstageについては、また機会を改めて書くことにいたします)、そして、「卒意」をもって、ともに場を構成していただいた「参加者」の皆様。

 皆様に感謝いたします。
 本当にありがとうございました。

 体制、内容は未定ですが、僕としては、来年もこのカンファレンスを開催し、新たな挑戦を行っていければいいなと思っています。
 よろしくご支援のほどお願いいたします。

 ---

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http://www.nakahara-lab.net/mailmagazine.htm

投稿者 jun : 2008年11月 2日 16:22