EGAKU WORKSHOPに参加した!? : パステルで自由に絵を描くワークショップ

 前々から行ってみたいと思っていたワークショップ「EGAKU WORKSHOP」に、先だって、参加しました。このワークショップは、パステルを使って簡単な絵を描いて、相互に鑑賞・対話を深める、という3時間のワークショップです。
 
 昨今は、対話型鑑賞をはじめとして、アートがマネジメント教育に随分と導入されていますので、僕のブログを読まれている方は、ご存じの方も多いかもしれませんね(数年前から、僕は、これからはManagement Artの時代だ!とホザいてましたが、あまりバズることなく、どことなく消えていきました・・・泣)。

EGAKU WORKSHOP
http://www.whiteship.net/program/workshop.html

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 EGAKU WORKSHOPは、こんな風に進みました。

 まず「鑑賞ワーク」として、アーティストである谷澤邦彦さんの作品の中から、自分の好きなひとつを選び、コメントをつけていきます。この場では、どんなコメントも大丈夫。絵を見て思ったことを自由に書いて、それを皆さんの前で発表します。これがだいたい1時間くらいでしょうか。

 次に「創作ワーク」で、実際に創作に入っていきます。正方形の少し凹凸のある紙(五感紙という紙だそうです・でも、マーメイド紙でも代用が)を一枚選び、そこにパステル(ドイツ・ファーバーカステル社のものだそうです)を使って、絵を一人ずつ描いていきます。この日のテーマは「喜び pleasure」でした。

 このテーマについて僕の脳裏に真っ先に浮かんだものは、「漆黒の闇と一筋の曙光」でした。僕の場合、喜びというのは、明るい色ババーンではなく、どちらかというと、闇の中にあるように思ったのです。闇の中に、一筋の曙光がさしているような神々しいイメージ。そのようなときに、人は喜びを感じるのではないかと思ったのです。

 しかし、描き始めていくと・・・・これが、あーた、どうよ(笑)。
 あのね、パステルの先からは、思っていたものとは、全く「別物」ができてきます(笑)。
 ていうか、描いてんの、おれ? 誰か憑依してない?
 漆黒の闇であったはずなのに、なぜか黄色がメインになり。一筋の曙光であったはずなのに、太陽になっていく。僕のパステルの使い方が変?なのかもしれませんが、どんどんと違うものになってくる(爆笑)。

 最初は、この「ズレ」がやばいなーと感じていました。おいおい、全く「別物」になっていくよ、どうしよう、、、と。やべー、やべー。どうしよう。また図工2つけられる(笑)。
 でもね、途中から、ふっきれました。そうか「別物」でもいいんだ。これは学校の図工じゃないんだから、自由に書いてもいいじゃないか。もうこうなったら、「別物」になっていくプロセスを愉しもう。そして、それこそが「喜び」じゃないか、と。

 で、結局、こんな絵ができました。

egaku1.jpg

 めでたし、めでたし・・・最後に、この絵にお題をつけました。
 
 最後は鑑賞ワークです。
 鑑賞ワークでは、お互いの作品を見て、それを見て、どんなことを感じたのかを付箋で書きます。その後は、一人ずつ発表。僕の絵には、参加者の皆さんからこんなイメージが寄せられました。ありがとうございます。

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 太陽、永遠の青春、広がる波紋、野原、水の輪・・・。みなさま、コメントをありがとうございます。
 いろいろなイメージが語られたあとで、僕がこの絵について語り、先ほどつけたお題を発表します。実は、僕は、この絵に「別物−Pleasure」とつけました。

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 この絵を描くプロセスは「別物を生み出すプロセス」そのもので、それは最初ちょっと焦ったけど、「愉しさ:Pleasure」そのものだったよ、という思いを込めて。皆さんから寄せられたイメージとはちょっと違いましたが、でも、また、このズレが面白いですね。

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 今日はEGAKUワークショップのお話をしました。EGAKUワークショップは、だいたい月に2回から3回くらいの感じで、やっておられるようです。最後になりますが、アーティストの谷澤邦彦さん、アートプロデューサー(当日のファシリテータ)の長谷部貴美さん、ありがとうございました。小生、図工2でしたが?、愉しむことができました。

 明日は早いです。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月28日 00:32


新規事業開発をまわすためのプロセスデザイン

 サイバーエージェント・人事本部長の曽山さんには、授業などで日頃から大変お世話になっておりますが(ありがとうございます!)、曽山さんがよく口にされることに「新規事業開発」のお話があります。

 よく知られていることですが、サイバーエージェントでは、社内で「じぎょつく(事業をつくる)」とよばれる新規事業開発の人事制度が走っています。じぎょつくでは、社員(内定者)なら誰でもそこに応募し、うまくいけば、自分のプロジェクト・子会社などを運営できるそうです。

 しかし、この新規事業開発というのは、なかなかの曲者で、悪くすれば、社員のモティベーションをえぐるように下げ、最悪の場合、離職にもつながってしまうものです。

 つまり、こういうことです。

 新規事業を提案して、運よく勝ち残ったとしても、事業が実際はじまらなかった場合には、「やらないなら辞めます!」

 新規事業を提案して、運よく事業を開始しても、収益を上げることができなかった場合、撤退をすすめると、「撤退するなら辞めます!」

 新規事業を提案して、事業がうまくいかなった場合、撤退をを決断すると、「撤退したので責任をとって辞めます!」

 サイバーエージェントでは、こうした問題について「経営させて人を育てる」という方針、そして、「明確な撤退ルール」を定めることで対応しているそうです。

 前者は、なるべく経験の浅い社員に、決断経験、経営ケンケンを持たせるために、事業提案がOKならば、事業は始める。「子会社経営で人を育てる=決断経験で人を育てる」という視点は、究極のストレッチによる学習です。

 後者に関して撤退ルールとは、

「事業開始後、2年以内に継続的な黒字転換をめざす。未達の場合は、撤退ないしは事業責任者交代」

 です。まことに、明確ですね。

 こうしたルールを定めておけば、事業がたとえうまくいかなったとしても、「個人として責任」を「丸かぶり」するではなく、一部は「ルールのせい」にできるのだといいます。

 つまり「もう少しやれば黒字化だったのだけれども、2年とうちは決まっているから無理だった」ということでしょうね。

 事業をこかせば、当然、社員としては責任を感じているはずです。しかし、そこを責任をあまり個人に押しつけてしまっては、個人は「離職によって責任をとること」に陥ってしまいます。そのことは、新規事業を提案してくれる有能な社員を、失うことを意味しています。それは経営的には、避けたい事態ですね。

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 新規事業開発は、多くの会社で、行われていることのように思います。しかし、新規事業開発の施策をうまく回せていくためには、施策をうまく回すための「プロセスのデザイン」が必要である、というとなのかもしれません。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月27日 08:14


どのようにリフレクションをうながすか?:リフレクションをテーマにした自主コミュニティ!?

 各企業で人材開発を主に担当なさっている方々がやっている自主勉強会・交流会・コミュニティ「リフレクションナイト」ご一行様が、先日、研究室にお越しになりました。

リフレクションナイト
http://ameblo.jp/reflectionight/

 リフレクションナイトは、事業会社に人材育成担当として務める方々30名ー40名程度などが自主的に集い、「リフレクションや気づきを促す技法」についてテストと議論を重ねる「学びの場」で、隔月で開催されているそうです。

 興味深いのは、そのコンセプトである「Give & Share」です。このコミュニティは、まさに「リフレクション」をテーマにしたコミュニティですが、参加したメンバーが、手法・企画を持ち寄っては、その場でテストして、アレンジし、自分の持ち場で試すということをなさっているそうです。外で学んだことが、すぐに自社において実践できるという意味において、非常に興味深く思いました。

 もう1つは、ブログ、Facebook等の、ソーシャルメディアの活用に加え、ポッドキャストによる音声配信を活用し、その知を外部にも公開していることです。コミュニティ内で実践なさっていることを閉じない、という意味において、まことに興味深いな、と思いました。

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 研究室では、いろいろな話をしました。僕からは、ある程度事例が集まってきたら、Exibition(エキシビジョン)などをなさったらいかがですか? というお話をしました。

 一口にリフレクションといっても、組織・企業の戦略や従業員の状況によって、必要になるものは様々です。また、リフレクションには「What to reflect upon(何についてリフレクションするのか?)」「How to reflect upon?(どのようにリフレクションするのか)」、そして「どこまで掘り下げるのか?:How depth to reflect upon?」の3つの視点があり、さらに述べるならば、そのことによって「どのようなアウトカム(結果)が生まれるのか?」ということが問われます。

 要するに、リフレクションを語る際には、

 1.組織の戦略・目標 / 従業員の状況
 2.What to reflect upon(何についてリフレクションするのか?)
 3.How to reflect upon?(どのようにリフレクションするのか)
 4.How depth to reflect upon?(どこまで掘り下げるのか?)
 5.その結果何が生まれるのか? 誰が何に気づくのか?

 を見ていく必要があるということですね。

 ある程度事例が集まってきたら、こうしたものを整理して、集めて、展覧会などをなさると面白いのかな、と思いました。イメージでいうと、学園祭かな(笑)。すみません、お祭り好きで。祭りとは、本来、主催する側と愉しむ側が入り乱れて進行しますよね。そういう「お祭り?的な展覧会」があると面白いな、と感じました。ジャスト・アイデアで恐縮ですけれども(笑)。

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 主催者のお一人の方曰く、「リフレクションナイト」さんは、かつて僕が開催していたラーニングバーやワークプレイスラーニングなどをきっかけに、このような活動を着想なさったとおっしゃっていました。僕が、それらをやっていたのは、もう5年前ですが、その頃播いていた様々な種が、志ある実務家の方が集うきっかけになっていたのだとしたら嬉しいことです。
 実務家の方々が、それぞれの領域で、興味深い実践を生み出していけることに、少しでも貢献できているのなら、これ以上に嬉しい事はありません。

 実務の世界で僕にできることはそう多くはないですし、最近本当に時間がなくてヒーヒーいっておりますが、志ある実務家のコミュニティの皆様には、ぜひ協力させて頂きたいと思いました。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2014年2月26日 06:52


ポスト・プレイフル・ラーニング(Post Playful Learning)がはじまるよ!?

 昨夜は嬉しいお知らせがありました。上田信行先生と書いた「プレイフル・ラーニング」の増刷が決定したとの御連絡が出版社より入ったのです。

 この本は「ワークショップ」という言葉を普及させ、これまで数十年にわたり、様々な実践を行ってきた上田信行さんの足跡と、学習研究の歴史を追いながら、「プレイフルでラーニングフルな学びの場」をどのようにデザインしたら良いのかを考えている本(一般向けの書籍)です。
 このマニアックな?内容で、5000部は、とてもうれしいことでした。ご支持いただいたみなさま、ありがとうございました。

play_learn.gif

プレイフルラーニング
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4385365644/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=nakaharalabne-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4385365644

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 思い起こせば、この本が生まれたのは、上田さんと僕の何気ないやりとりからでした。あるワークショップの休み時間、立ち話で

「上田先生、先生のなさっていることをいつか必ず文字にしてくださいね」
「そうですね、僕もそれをやりたいと思っていたんですよ」

 僕は、上田さんの、これまでの実践やなさっているワークショップのことについて、多くの方々に知ってもらいたいと純粋ピュアに思っていました。上田さんも同様のことを思っておられたようですが、当時は、まさか、それが1冊の本になるとは、当時、二人とも思っていませんでした。まさかね・・・。

 そこに構成の井上さん、デザイナーの三宅さん、編集者の石戸谷さんらがジョインし、少しずつプロジェクトが動き始め、途中、様々な出来事やワークショップ実践などを挟みながら、まさに動きつつ、カタチをつくっていったのが、この本です。金井壽宏先生や、上田・中原研究室の学部生、大学院生の皆さんにも、ジョインしていただきました。みなさま、お疲れさまでした&ありがとうございました。

 このように、本書の成り立ちそのものが、「プロジェクト」であり、「旅」のようなものであったように感じます。なぜかはわからないのですが、「本」を創った気がしないのです。「ともに為しとげた経験」が思い起こされます。

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 昨夜、上田先生とは、そろそろ「ポスト・プレイフル・ラーニング(PPL : Post Playful Learning)」をやりたいね、と電話で盛り上がりました。そのような機会を、東京で創っていこうという話になりました。

 どうぞおたのしみに!
 ポスト・プレイフル・ラーニングの旅は続く!
 

投稿者 jun : 2014年2月25日 08:22


「コンサルテーション」に対する「揺れる思い」!?

 ある組織に対して、外部からプロセスコンサルテーションを行うという際、内部の人は相反する2つの感情のあいだを揺れるのではないか、と思います。いわゆる両義的感情。アンビバレントな思い(ambivalent)というものです。
 
 ちなみに、プロセスコンサルテーションとは、ここでは、

「クライアントとの信頼関係に基づいて、クライアント自身が、内部・外部環境において生じている出来事のプロセスに気づき、理解し、それに従った行動ができるようになることを支援すること」

 と定義します。

 一般に、コンサルテーションとは、有能な専門家がクライアントに対して「こうすればいい」「絶対にこうするべき」といった「処方箋」をだしたり、絶対的な基準に照らして「点検」を行う行為として捉えられています。それを「プロセスコンサルテーション」に対応づけて、「コンテンツコンサルテーション」などとよぶことがあります。

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 さて、先ほどの問い、すなわちプロセスコンサルテーションがはじまるとき、クライアントが持つであろう、ひとつの感情は、こんなものでしょうか。すなわち「答えへの渇望」

 プロセスコンサルテーションなのだから、コンサルタントは、答えを言ってはくれないんだとさ。そうだ、答えは、自分自身で探すしかないんだ。でも、コンサルタントは、「何」ももってないのかよ。実際は、答えは、本当はもっているんだろうな。高い金払ってるんだから、少しでも与えてほしいな。

 そして、もうひとつの感情は、こんなものです。すなわち「答えの忌避」

 プロセスコンサルテーションというかたちで、今回外部から人がくるんだとさ。でも、現場にいない人間に何ができる? 何がわかる? おれたちは長いあいだ、この現場でやってきてるんだ。おれたち以上に、自分たちのことがわかっている人間はいない。自分のことは自分でやるんだよ。それなのに、人を外部から呼びやがって。

 前者「答えへの渇望」においてクライアントは、プロセスコンサルテーションを承知しつつも、ついつい「コンテンツコンサルテーション」を望んでしまいます。すなわち、プロセスコンサルテーションとコンテンツコンサルテーションの境界・狭間は、常に、クライアントによって揺れることになります。

 後者「答えの忌避」は最初「外部からの働きかけへの拒否」というかたちをとります。プロセスコンサルテーションであろうと、コンテンツコンサルテーションであろうと、外から介入してくるものすべてに拒否感をもつ。そして、自分たちが現場を一番わかっており、かつ、答えをだすことができる、存在と位置づけます。

 実際は、現場の人は、これら2つの感情「答えの忌避」と「答えの渇望」が複雑にからみあった、いわばゲシュタルト(判別不可能なかたまり)のようなかたちで保持していることが多いものです。
「助けをもとめつつも、どこかのタイミングで拒否をしてみたり」「答えを与えられるものではないことを承知しつつも、答えを求めたり」するものです。クライアントも常に揺れています。よって、プロセスコンサルタントは、常に「外部と内部」「プロセスコンサルテーションとコンテンツコンサルテーション」の境界を行き来しなければなりません。組織とつきあうということに「ステイブルな地平」は存在しません。それは「不安定に揺れつづけること」が「安定」している存在です。

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 今日はプロセスコンサルテーションにまつわる両義的感情について書きました。「支援するもの」と「支援されるもの」には、まさこの種の両義的感情がいつもつきまといます。
 こういう話を書くと、現場の人のもつアンビバレントな思いが「悪い」といっているようにも聞こえますが、全くそんなことはありません。むしろ、人間とはそういうものです。ZARDではありませんが、こうした「揺れる思い」を抱きしめながら、コンサルテーションは続くのかもしれません。

 まさかのZARDオチかよ(笑)
 文章を書き始めたときは、1ミリも予想できなかったことです。

 そして人生も続く

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追伸.
 慶應丸の内シティキャンパスでの僕の授業「ラーニングイノベーション論」の受講申し込みが始まりました。2009年から実施して、もう今年で6回目になります。今年は「現場回帰」をテーマにしました。講師の先生方も、ここでしかまとめてお聞きいただくことはできないと自負しております。150名を越えるアラムナイ(卒業生)との交流も魅力のひとつです。もしよろしければ、どうかご検討下さい。どうぞよろしく御願いいたします。

ラーニングイノベーション論2014
http://www.keiomcc.com/program/lin/

 

投稿者 jun : 2014年2月24日 06:26


組織開発・人材開発の専門知識をどこで学ぶのか?

 昨日までNTL(National Training Laboratory)のPat博士によるOD (Organizational Development)Sessionに参加させていただきました。南山大学の中村和彦先生、スタッフの方々が公開講座として主催している公開研究会で、今年で5回目になるそうです。

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 この会は当初、山梨・清里で開催の予定でしたが、大雪の影響で開催地を変更し、名古屋での開催になりました。スタッフの方々は、大変なご苦労をなさったこと思います。この場を借りて感謝申し上げます。

 組織開発についてPatさんから学んだこと、そして、Patさんのファシリテーションの内容は、また別の機会に筆をとろうと思います。
 その内容は、自分のケース(バックホームケース)やロールプレイやケーススタディを往還して行われるもので、非常に質の高いものでした。このことは、また別に述べます。

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 今日述べうることはひとつ。会に参加しつつ、つくづく思ったことです。それは、組織開発のように社会的ニーズが高く、かつ、職業的専門性の高い教育内容に、今後、大学院が対応していくべきではないか、という思いです。

 たとえば、Patさんはミシガン大学でRonald Lippitさんのもとで、組織開発のPh.Dを取得して、その後、数十年にわたり、組織開発の実務や研究に従事してきました。彼女のPh.Dは「組織開発」です。
 もちろん、組織開発のみならず、人事の世界には、専門家として極めたらよい領域はたくさんあります。人的資源管理、人材開発などはその典型でしょう。実際、そうした専門のMaster Course(マスターならば相当に多い)、Ph.D Course(数は少なくなるが存在はする)は海外には、数は多くはないものの、存在します。少数の専門教員が協働してプログラムを運営しています。

 対して、日本の大学院はどうなっているか、というと、「学位の粒度」教育内容が、海外に比べ「包括的」である傾向があります。たとえば、博士(経営学)、博士(教育学)のように、それは学問領域(研究科名)に対応していることが多い傾向があります。

 もちろん、職業に関連した高度専門家を養成する米国のプロフェッショナルスクールと、研究者養成を主とする日本の大学院は、同じGraduate Schoolでも、その誕生の由来は全く異なっているので、それらを単純比較することは難しいでしょう。

 しかし、人材開発の世界では、海外の場合、相当、専門化が進んでおり、それに従事している人はマスターコースの修了者、場合によってはドクターコースの修了者であることも、希ではありません。
 また、彼らは、より粒度の細かい高度な専門知識を大学院で学び、職業に対応した学位を取得してきています。

 今後、日本の企業がグローバル化の荒波にもまれていく中で、人材開発の世界も、またその影響を受けるでしょう。そのとき、やはり、専門家として持っている知識基盤が重要になってくるように、僕には思えます。
その際、大学院には何ができるか? そして僕は何がしたいのか? そんなことを帰りの新幹線の中で考えながら家路につきました。

 最後に、今回のセッションを実現してくださった、Patさん、南山大学の中山先生はじめ、スタッフのみなさま、セッションで学んだ参加者のみなさまに感謝いたします。ありがとうございました。

 そして人生は続く

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Where can we enhance the expertise of organization and human resource development?

I've participated in the Organization Development(OD) Workshop for 3 days up to yesterday held by Nanzan University. Professor Kazuhiko Nakamura and his staff invited Dr. Pat Bidol-Ladva from National Training Laboratory as a facilitator of this workshop. I really appreciate Professor Nakamura and his staff. Eighteen practitioner and scholars got together from all over the Japan and learned the advanced knowledge of organization development.

Generally, organization development is defined as an ongoing, systematic process of implementing organizational change and enhancing organization effectiveness.
Suppose there is an electricity company whose CEO and top management have to change their company's strategy from using fossil fuel to renewable energy such as solar power and biomass fuel in alinement with changing energy policy of the government. It might be easy to change the strategy on the desk, but is not easy to change the organization and the employee's minds.

Sometimes their lower management and employees might distrust top management, stick to existing strategy and resist the change of operation. An OD(organization development) consultant intervenes the organization from outside of the company as a facilitator and help people implement strategy.
They have interviews with the top management and key persons in order to understand the essential problem and, if necessary, do some social surveys of the organization. They hold strategic meetings for senior management and the campaign progresses down through the lower levels of employees. They hold all-staff conferences in order to create the opportunity for stakeholders to talk about the problem. By this process, they can change the organization gradually.

In this workshop, 18 practitioners and scholars learned the concept and knowledge of OD and experienced some case studies and role play. We learned how to have interviewes with clients, do diagnosis and intervene organizations.

Dr. Pat who worked as the facilitator of this workshop got Ph.D from Michigan University in the 1970s. After that, she has worked for decades as an OD consultant and taught in universities. She is such a charming, skillful and thoughtful facilitator. I've learned so much from her. I really appreciate her.

The following is not directly related to her great work. What I'm interested in is her degree name. She is a Ph. D. of organization development.

In the United States, nobody is surprised at seeing managers of human resource development who hold master-level degrees or doctorate degrees. They holds degrees named for example M.A(Human Resource Development), Ph.D.(Organization Development). Graduate schools in the U.S are professional schools where students get highly developed and work-related expertise and knowledge. The degree name is very specific.

On the other hand, graduate schools of Japan are research-oriented schools where students who want to work as researchers and professors do research. The name of the degrees are comprehensive and correspond to the name of the academic area. For example M.A.(Management) or Ph.D.(Education). They cannot adequately send out people with highly advanced practical and work-relevant knowledge into society.

As I mentioned before, in global companies, the managers who works in human resource development departments tend to hold academic degrees. They learned expert knowledge in graduate school and work as professionals in organizations. The intervention campaigns they plan and implement are very high level. Japanese companies have to compete with global companies.

Of course, research is so important in knowledge economy. Along with the trend, I'm wondering how graduate schools of Japan can cope with this problem and whether we should change or not. And I'm wondering how I should address this area.

My life goes on...
 

投稿者 jun : 2014年2月21日 08:42


仕事のストーリーを語る:ひょんなことから、たまたま、ここにいます!?

  Everybody has stories
 (誰もがストーリーをもっている)

 昨夜は合宿お籠もり最後の夜です。夜は、受講生の皆さんと一緒にワインなどを飲んで語っておりました。
 そこで、誰彼ともなく!?はじまったのが、「今日、この合宿に至るまでの自分の足跡を、"差し支えない範囲!?"でみんなに語る」ということでした。自分も少しだけお話をしました。受講生の皆さんの、これまでのキャリアの話に耳を傾けておりました。

 まことに興味深いと思ったのは、本当に月並みですが、

 Everybody has stories
 (誰もがストーリーをもっている)

 というアタリマエのことです。
 大学を卒業して、最初に就職した会社では鮮魚コーナーに配属され、アジをさばきにさばき(アジはさばくのに失敗しても、叩きにすればいいので、新人に任せられる仕事だそうです。正統的周辺参加の事例?としても興味深いですね)、その後、転職。紆余曲折有り、現在は、人事の仕事をなさっている方!?。
 銀行につとめ留学、今は組織コンサルティングをなさっている方。スポーツ関係の会社に就職し、その後、いくつかの会社を渡り歩いたあとで、つい先日、起業なさった方。海外のエアラインからホテル転職し、現在は、研究所につとめている方。ひとつの会社で、さまざまな出来事に揉まれつつも、音楽などのアートの活動をなさっている方。工場の生産ラインで経験をつみ、現在はコンサルティングをなさっている方。

 アタリマエだのクラッカーですが、本当にひとりとして、同じようなストーリーはありません。「人生は単線じゃないよな」とつくづく思いますし、「前もって計画できること」なんてたかがしれてるとも思います。「キャリア教育」用に加工されたり、パッケージ化されていない、こういう社会人の「生の語り」を、ぜひ、多くの学生が聞けたとしたら興味深いだろうな、と感じます。

 個人的に印象深かったのは、多くの方が自分のキャリアを語るときに、「いや、ひょんなことに・・・」とか「たまたま・・・なんですよ」というような言葉を用いることです。そして、そういう偶然の瞬間を、多くの方は「見逃して」いません。

 僕はキャリアの専門家ではありませんので、適当なことをいいますが、「ひょんな瞬間に起こったこと」あるいは「たまたま起こったこと」から、そのつどそのつど、自分の進む方向を選択肢、今に至っている、という点が、非常に興味深く思いました。またまた安易に「能力」を「捏造」するとすれば「ひょんなこと力(りょく)」「たまたま力(りょく)」でしょうか。そういう資質が非常に興味深く感じました。

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 今日はシャバに帰ります。
 講師の方の話す英語も、だいたい聞き取れるようになってきたのですが、こういうものは、そうなってくると終わりが近づいているものです。
 
 今回の合宿での、様々な出会いに感謝いたします。実務家と肩を並べて学ぶ時間は、まことに嬉しく、また、よい勉強になりました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月20日 07:24


ただいま、小生、学習中です

 このところ、ブログの更新ができず申し訳ございません。実は、今、半期に一度の「お籠もり・勉強タイム」に入っています。海外から専門家をお招きし、某所で開催されているワークショップに、参加させて頂いております。主催者の方々には、貴重な時間をいただいておりますことを心より感謝いたします。

 一般に、自分でワークショップなどをなさる方には、僕は、2種類のタイプがいるのではないか、と思います。ひとつは、「他の方のやるワークショップには参加したがらない方」。もうひとつは「他の方のワークショップに参加する方」です。どちらがよいとか、悪いとかの問題ではありません。それは「個人の選択」の問題です。

 どうやら、僕は、後者のようです。他の方のなさるワークショップで扱われるコンテンツそのものについても勉強になりますし、そのやり方についても学ぶところは多いです。
 また、自分も「学び手」でありたいと願います。他に参加なさる方と一緒に課題解決をするのが興味深いことです。

 ということで、木曜日までは、出張です。金曜日以降、また通常業務に戻ります。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月18日 19:06


みんなで、飛行機、飛ばすんだ!?

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 ちょっと前のことになりますが、ANAの機体整備工場の見学会に、TAKUZOを連れて行きました。以前から行きたいと願っていたのですが、大変人気のコースで、半年後の先日、ようやく願いがかなったわけでございます。

ANAの機体整備工場
http://www.ana.co.jp/cp/kengaku/

 この工場見学は、機体整備のため工場に入っている航空機を見ることができるというもので、見学時間は事前説明ふくめて1時間半ほど。当日は、大変近くから、787含めた航空機を見学することができました。非常に面白かったです、おすすめです。

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 飛行場からの帰りみち、TAKUZOがひとこと漏らしました。

 パパ、飛行機は、パイロットだけじゃ飛ばないんだねぇ。
 修理する人も、切符を売る人もいるんだねぇ。
 飛行機って、みんなで、飛ばすんだねぇ
 
 TAKUZO、それは飛行機だけじゃないんだよ。
 世の中の仕事の多くは、ひとりじゃできないんだよ。
 君も、将来、みんなと協力して、仕事をしてね。

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 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月14日 20:54


「子育て料理!?」は「うんちょす」と「宅急便」に阿鼻叫喚で意思決定力あがる!?

 ふだんは本当に何も創らないのですが、先週末、カミサンが具合を悪くしているので、やむなく、小生、クックパッドをのぞき見ながら、夕食をつくってみました。

 カミサンは、可哀想に、インフルでお部屋に隔離されているので、せめて、温かいものくらいを食べさせてあげたかったのです。いつも何もしていないので(ごめんなさい・・・反省しています)。

oryouti.jpg

 はじめての料理は、やってみると、なかなか面白いものでした。クックパッドレベル?で何を言うか!という感じですが、やってみると、興味深く、悪くはない、単発のイベントならば(笑)。あんまりいうと、「毎週やれ」と言われるので、これ以上は、黙っていることにします。アイ・アム・地蔵。

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 それにしても、痛感したのは、「2人の子どもの面倒をみながら料理をする」というのは「単に料理をするということ」とは、全く違うということです。

 つまり、料理中に、子どもにいろんなハプニングが起こり、それをひらり、はらりとかわしながら、優先順位を決めて、なぎ倒して?いく、さしずめ「プロジェクト」のようなものです。それを日々実践なさっている方にとっては、アタリマエのことかもしれませんが(頭が下がります、ありがとう)、今回、僕はそれを痛感しました(遅い?)

 たとえば、こんな感じ。
 さ、あとは、魚を弱火で煮汁をかけながら煮詰めようかな、と思った瞬間で、TAKUZOが向こうの食卓で牛乳をバチャーンとこぼして、同時に、KENZOが「ブリブリブリ」と「うんちょす」をオムツから漏らし、ぎゃん泣きしている。そうかと思えば、またまた同時に、玄関のチャイムがピンポーンとなって、「宅急便でーす」という声が聞こえる。

 さ、どうする? 
 この状況で、どないせいっちゅうねん!

 さ、どっから何をはじめる? 優先順番は?
 こりゃ、意思決定能力あがるわ(笑)。

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 今日からカミサンは隔離部屋から復帰です。生還おめでとう。とりあえず、乳児KENZOにはうつらなかったので、めでたし、めでたし、という感じです。このプロセスでは、お隣さんのMさんや、実家の母親の助けをえました。ありがとうございました。

 ようやく我が家も、平常にうつります。
 そして人生は続く
  

投稿者 jun : 2014年2月14日 06:51


「オレって、できる奴じゃん的慢心」を予防する!? : 「目線をあげる仕事」と「組織の外のすごい奴に出会う」

 今日の話題は、自戒を込めて申し上げます。話題は「ミドルの学び」についてです。
 
 一般に、いわゆる社会人として仕事をして10年ー15年もたってきますと、仕事に関して、ひとかどの「自信」というものがついてきます。

 新人の頃はあれほどできなかった仕事ができるようになる。ダメダメだった自分が、過去のように思えるようになる。そして、時には後輩などができて、その面倒を見るようになる。そうすると、ともすれば起こりがちなのは「おれって、できる奴じゃん」という慢心です。

 組織の中で自己効力感を感じることのできる機会なんて、限られておりますので、それはそれでいいとは思うのですが、この「オレって、できる奴じゃん的慢心」が度を過ぎてしまいますと、「さらなる発達課題」に向かわないので、注意が必要なのかもしれません。
 僕はまだまだ発達課題の多い人間ですが、それでも、この年になってくると、ルーティンになってくる仕事や、風物詩化する仕事が増えてきて、仕事を「こなす」ようになってきます。そして「仕事をこなすこと」をするたびに、あっ、このままでいいのかな、と一瞬我に返るときが、僕にはあります。くどいようですが、今日の話題は、自戒をこめて申し上げます。

 経験的には、仕事をして10年ー15年くらいたった頃には、敢えて「目線を上げる仕事」 - たとえば、オペレーショナルな仕事を離れ、組織の目線でものを考える機会や、小さなチームやプロジェクトを経営・管理する仕事などにたてるとよいのかな、と思います。そういう機会を通して、「目線」を上げる。上がった目線から今の自分を客体視する必要があるのかもしれません。

 あるいは、組織をいったん離れ、組織外の「すごい奴」に出会える機会をもつとよいのではないか、というのも一計です。組織外の「すごい奴」に出会わせ、一緒に仕事をする。そういう、いつもとは違う仕事を通して、

「最近、おれってできる奴じゃん、と思っていたんだけど、やっぱ、上に上がいるよねー。だよねー。勉強しなきゃダメだよね」

 と感じられる機会が大切なのか、と思います。
 皆さんはどう思われますか?

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 今日は、「おれって、できる奴じゃん的慢心」を予防する2つの機会について、書きました。本当はいろいろデータがあるのですが、時間がないので、これにて終了です。

 この年代は、たいていのオペレーションならこなせるようになる、というのもそうなんですが、家庭など含め、私生活にも変化が起こりがちなときです。仕事も忙しく、家庭も忙しい。

 そういうときに、もっとも犠牲になりがちのは「自分を開発する時間」ー自分の学びに投資することです。ネガティブな意味で、そうした甘えを裏打ちしてしまう感情が、「おれって、できる奴じゃん的慢心」なのかもしれません。

 そして人生は続く

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How early middle-aged workers learn? : Going outside their usual boundaries and stepping out of their organization!?

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Today, I would like to talk you about how the early middle-aged workers learn. Generally 10 years to 15 years after people have worked in an organization, they have confidence in their skills.

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The experienced workers have been able to do what they could not do when they were newcomers. They tend to look at what they could not do in the past. Two-three years after they began to work, another newcomer entered their workplace. The experienced workers had to take care of the newcomer, so then sometimes they tended to feel "I know all there is to know".

The appropriate amount of self efficacy is needed to work, but feeling too much pride is undesirable because people tend to stop themselves from learning more.

In my opinion, 10-15 years after people began to work, it is beneficial for people to challenge new non-routine projects. For example, the opportunity when people leave operational routine work, the experience when people begin to manage small projects or new sections. Through these experiences, people have to go outside their usual boundaries and analyze their ability objectively.

There is another way to go outside their usual boundaries. If the experienced worker steps out of his/her organization, meets and observes a competent executive working in another company and, if possible, collaborates with him, he/she might feel ""I don't really know all there is to know". He/she might say to himself,

"I thought I was clever. but there are other people who are superior to me. I should learn more..."

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Today, I've talked about how early middle-aged workers can learn more. What do you think?

My life goes on...

投稿者 jun : 2014年2月13日 06:35


インフルエンザとは「ソーシャルな病」である!?

 インフルエンザとは、まことに「ソーシャルな病」でございます。先週あたりから、我が家でも、流行はじめ。ついに、カミサンも倒れてしまいました。乳児もいますことから、狭小住宅に「隔離?」部屋をつくり対応しています。

 カミサンが倒れて、家事・子育て含め、さまざまなことが前に進まなくなりました。わたしたちの生活が、いかに彼女に依存していたのかを、深く反省しました。ごめんなさい。小生、慣れないながらも、家事などに邁進しています。カミサンが復帰したら、役割分担を見直さなくてはならないな、と思っています。

 インフルエンザが「ソーシャルな病」である由縁は、その「流行の仕方」もそうなのですが、そこから立ち上がっていくプロセスそのものも、まことに「ソーシャル」です。

 今回我が家の場合は、お隣のMさんに、TAKUZOを預かってもらったり、差し入れをいただくなどして、大変助けて頂きました。本当にMさん、ありがとうございます。
 また、3日目以降は、北海道の実家からは、母親もきてくれています。ソーシャルなつながりの果てに、「ソーシャルな病」を克服しようとしています。

 というわけで、我が家は、バッタバッタで、今、ブログをかくひまは全くありません。ごめんなさい。
皆さん、インフルエンザには気をつけてください。手洗い励行!

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月12日 08:33


【ブログ更新】「アウトプットする知」と「インプットする知」の関係!? : 「栓のないバスタブ」のイラストを添えて!?

 アウトプットを継続的に行うためには、インプットを増やさなくてはなりません。これ、常識。しかし、アウトプットをするためには、時間・労力を要するので、ついつい、インプットが不足します。これも、悲しいかな、たぶん常識。すると、いつのまにか、「栓のないバスタブ」のような状況が生まれます。つまり、こんな感じ(嗚呼、このクソ忙しいのに、朝っぱらから、なんで、こんな絵を描いて、スキャンしてるんだろう。しかもうまく描けない。さすが図工2・・・。)

Doc-2014_02_10 6_38-page-1.png

 本来、「栓のない、このバスタブ」には、上から勢いよくお湯を注がなくては、お湯につかって、いい湯だな、とはならないのだけれども(蛇口からの注水量>栓からの出水量の関係)、ついつい、上からお湯を注ぐのがおっくうになってしまう。
 そうすると、あっという間に「栓からの出水量>蛇口からの注水量」ということになって、栓から、お湯が「ジャジャ漏れ」して、最後はスッカラカンのカーラ、カラになってしまうということです。エンプティっす。

 僕は、割と、このメタファが好きで、これまでにも、紹介したことがあるかもしれませんね。いつも頭の中に、このメタファを思い浮かべて、「今、自分のバスタブには、どのくらいの容量のお湯がはいっているのかな」と想像します。

「今のままいけば、おいおい、このままじゃ、お湯抜けちゃうよ」

 とか

「今はいい案配で、風呂につかれておるわい」

 とか、街を歩きながら独り言をいっているので、気がつけば、いつも、僕の周囲に、は人はいないのかもしれません。

 ちなみに、最近は、「このままいけば、逝ってよし」のレベルまで、水位が低下しています(泣)。年があけてから、何をやっているというわけではないのだけれども、年を明けて本当に忙しく(泣)。2月上旬は、少しインプットの時間をとろうと思ったら、インフルエンザで、おうちが「バイオハザード状態」だし・・・。

 ちなみに、2月後半ー3月中旬は、少しインプットの時間をとります。合宿研究会にもでるし、研究室OBの関根さんや、山形大学の時任君・やはりOBの舘野さん、木村さんらが、いろいろな研究会を開催してくれますので(感謝!)、それに参加したいと思っています。全国からいろいろな仲間が集まるそうですので、非常に楽しみです。マジで勉強したい。最先端を学びたい。

 個人的に、あとこの春に、もうひとつやってみたいことは、「もう一度、リフレクション(reflection)の概念を問い直す研究会」というのもやってみたいんですけれどもね。
 リフレクション研究の最前線?というのか、そういう文献をひたすらよみたい。わかっているつもりでも、なかなかわからない。知っているつもりでも、他人に聞かれたら、なかなか答えられないのがリフレクション。こちらも、また、実現の日を愉しみにしています。

 ところで、皆さんのバスタブには、まだ「お湯」残っていますか?
 他人の心配する前に、己の心配をせい>自分という感じですが。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月10日 06:42


「個」に閉じず、「他者」に拓かれた「プロフェッショナルの学び」!?

「互療」(ごりょう)という言葉をご存じでしょうか?
 
 その言葉は、鍼灸師・竹村文近さんの著書「響きあう鍼灸」の中で、僕もはじめて目にした言葉です。

「互療」(ごりょう)とは「鍼灸師がペアになって相手に対して"相互"に"治療"を行うこと」。

 鍼灸の世界にも、医学の世界にもズブのドシロウトなので、それがどの程度一般的かはわかりませんが、竹村先生によると、それは臨床家にとって「貴重な学びの機会」なのだそうです。

 第一に、「互療」はお互いの「施術方法」を確認し、そこから学ぶ契機になると氏はいいます。
 どのような鍼を選び、どのような治療を行うのか。鍼灸は通常、カーテンの中の密室で治療を行いますので、それを見ることはそれらをプロフェッショナル同士、確認しあうことは、大変よい学びの機会になります。
 ひとかどのプロフェッショナルだから、その仕事は、うちに閉じやすい。仕事の様子をブラックボックスにせず、あえて、拓いていくことはとても大切なことです。

 第二に、「互療」は、プロフェッショナルの身体そのものを知ることができます。人は、仕事によって、その仕事に応じた身体が構築されることはいうまでもないですが、互療の機会とは、臨床的実践によって構築された「プロフェッショナルの身体」を確認することができます。
 人は仕事によって身体が再構築されます。わたしもよく鍼灸師さんのところに治療にいくのですが、先生は「その人の身体をみれば、その人の仕事がだいたいわかる」といいます。プロフェッショナルの身体をプロフェッショナルが見つめれば、それは何らかの学びの契機になるのかもしれません。

 第三に、それは、そもそも臨床家自身を「ヘルシー」にします。だって相互に「治療」してるのだから。
 患者に対して治療を行い、健康な身体をつくりだすものは、その身体を研ぎ澄ませ、自らも健康な身体でなくてはなりません。「互療」とは、そのような身体をつくります。

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 今日は「互療」という「学びの機会」であり、自らの身体を相互に健康に保つような機会について書きました。非常に興味深い機会だと思います。

「個」の技を研ぎ澄ませる必要のある専門家だからこそ、その育成は「個」に閉じない。むしろ、それを「他者に拓いていく」。アタリマエのことなのですが、そのことの大切さを学びました。

 そして人生は続く
 

投稿者 jun : 2014年2月 7日 17:12


RPG化する就職活動!?:「採用活動とは言わない採用活動」の密かな広がり

 「これからの就活に起こる三大変化」というエッセイ風!? 小論を、雑誌プレジデントの連載に書かせて頂きました。いつものとおり、プレジデント社の九法さんとライター井上さんとのコラボレーションの仕事です。ありがとうございます。

これからの就活に起こる3大変化
http://president.jp/articles/-/11812

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 これを書いていたのが1ヶ月以上も前でしょうか。で、それからかなり?時間がたちましたが、この内容が古くなるくらいの変化が、ひたひたと起こっている感じがします。タイトルは「これからの就活に起こる3大変化」ではなく「就活にもう起こっている変化」くらいなっているのかな、という印象です。

 先だってもある人事の方が「今年は、各社の動きが"大企業含めて"早い」と漏らしていました。経団連の倫理協定は「表向き」のものとなり「総抜け駆け状態」が生まれている印象を持ちます。
 実際のところは採用に関する情報はトップシークレットでしょうから、わたしにはマクロな状況はわかりません。あくまで、人事の方や学生からのレスポンスを総合しての、「わたしの印象論」です。

 先だっても、ある学生(本学の学生ではない)が、「先生、面談に行ってきます!」ともらしていたといいます。「面接」じゃなくて「面談」ねぇ。。。ふーん。面談ね、ライトな感じがするね、そこだけ聞くと。面談相手が執行役員じゃなければ、「面談」という言葉を使ってもいいんだけどね。「執行役員が面談」ってどういうことでしょうね。不思議なこともありますね。

 こうなることは、おおよそ採用に関係する関係者は、みなわかっていたことのように思います。先ほどは「総・抜け駆け状態」と書きましたが、この状況は「総・茶番化」のようにも思えます。その中で「採用活動とは言わない採用活動」「採用活動というラヴェリングされない採用活動」がさらに進行している気がします。
 ま、この手のことは、昔からあったことなのですが。それほど目立たなかったし、みんな黙っていただけといえば、そうなんですけれども。

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 昨日は、まさにこのテーマにかかわる研究知見、東大・駒場キャンパスの集中講義で話しました。採用研究(Recruitment research)、予期的社会化研究の知見を概観しながら、事例検討を行いました。
 今日も集中講義なのですが、冒頭では、日本のトランジション(School to Work Transition : 教育機関から仕事領域への移行)の変化について、短い時間で、振り返りたいと思います。ちょっと難しいかなぁ・・・。

 昨日の集中講義では、北九州市立大学の見舘先生にレクチャーをいただき、ディスカッションいたしました。見舘先生にはお忙しいところ本学の学生にレクチャーをいただき、心より感謝いたします。見舘先生のお話は、どれも興味深いものでしたが、特に個人的に印象深かったものは下記です。

 曰く

「米国では就職活動はマッチング(求職者と企業をつなぐ第三者による媒介)の効果がより薄まり、さしずめ"探検"に近くなっている」

 という指摘です(Richard 2012)。

 就職の成功率は、「家族・親戚・様々なコネクションを使って自ら頼み込む」「企業を自ら自分で訪ねる」「片っ端から電話をかける」「求職者仲間を学生自らが組織し、同様のことを行う」などの方がよくなっているそうです。
 要するに「自分で動き、場合によっては、仲間を組織し、約束の場所を見つけなくてはならない」ということです。まさにRPG、ドラクエ的、まさに探検です。
(そうすると、主体的にこうした活動に取り組む人と取り組めない人、そもそも仲間を持たない人、何らかの理由によって、主体生を喪失してしまった人との格差はさらに広がることが予想されます)

 これまで日本の就職は「誰かのお膳立てしたステージにおいて、求職者と企業とマッチングされること」で行われてきました。つまり「イベント」であったということです。
 このやり方にはそれなりの合理性があり、また、日本の組織文化にも埋め込まれているので、趨勢が一気に変わることはないでしょうが(すぐにこの手の議論は、それで一山あてようとする関係者によって極に振られがちです。まー、そう焦りなさんな)、おそらく、これからの就職活動は、少しずつ状況が変わってくるでしょう。

 それは前だおされて「数年間のプロセス」、場合によっては「4年間のプロセス」に変化しはじめます。それは「アングラ化し、マルチルート化したジャングルの中を、探検するプロセス」のようなものに、次第に次第になっていくのではないかと妄想します。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月 6日 06:50


学部生に「人材開発」を教えるときのプチ工夫!?

 今日から駒場で集中講義です。山内祐平先生と担当している「情報人文社会科学Ⅳ」という講義で、兼坦している駒場の教養学部・学際科学科の科目ということになります。
 今年からの授業なので、朝っぱらから、ちょっぴりだけ緊張しております。今日は4時に目が覚めました。

 授業では大きく、下記のような内容を扱っていこうと思っています。
 
 1.経営学習論の視点
 ・人間・組織にとって学習とは何か? 
 ・人材マネジメントとは?
 ・採用ー配置ー育成ー昇進ー退出
 ・企業事例検討

 2.ケーススタディ
 ・人事部長・ミニケース①:採用施策を見直せ
 ・クラスディスカッション

 3.採用とキャリア開発 
 ・北九州市立大学 見舘先生からの問題提起
 ・グループディスカッション
 ・全員でクラス議論

 4.予期的社会化
 ・人事部長になったつもりでミニケース②
  内定辞退を防止せよ!

 5.研修と転移
 ・リアリティショック
 ・研修の意味
 ・Transfer of learning
 ・人事部長になったつもりでミニケース③
  富士山登山研修は何のため?

 6.組織社会化とOJT
 ・中原研・保田さんからの問題提起
 ・グループディスカッション

 7.リーダーシップ開発
 ・マネジャーになること
 ・リーダーシップ開発論の歴史的経緯

 いろいろ詰め込みたい気もするのですが、時間も限られておりますので、こんな感じでしょうか。
 北九州市立大学の見舘先生にはテレビ会議で、中原研の学生で看護師の保田さんには、ご講義をいただくことになりますが、本当に、お忙しいところすみません。まことにありがとうございます。

  ▼

 こういうカリキュラムを組んでいて、いつも悩むのは、こうした「経営的な内容」「会社的な内容」を、一度も社会に出たことのない学部生に講義することが、とてつもなく難しいということです。 
 経営学部なら事情はまた違うんでしょうが、本学のおおくの学生にとっては、

「組織? なんすか、それ?」
「人材マネジメント? まぁ、人が大切なのはわかりますが」
「マネジャー? それって遠い将来のことですよね」

 という風になることは明白です。おそらく、何の工夫もしなければ。一度も、社会に出たことのない彼らに、そのことをイメージしてもらうのが一苦労です。

 時には、「学生サークル」をケースにしながら議論したりもしたことはあるのですが、今回はケースを変えました。
 僕の授業をとりにくる学部学生は(大学院の授業にもぐって受講しているということですね!、単位も出ないのに!英語文献なのに!すごい人もいます!)、東大で学生サークルなどを運営している人も少なくないので、それでも、盛り上がることは盛り上がるのですが、ちょっとリアリティがないかな、と思ったのです。

 で、今回は無茶は承知で、人事のマネジャーに「なったつもり(もちろんなったつもりです)」で、ミニケースを読んで、討議してもらおうかな、と思っています。 学生の目線ではなく、社会人になった自分たちをマネジメントする側の視点に敢えて立たせてみようかな、と思ったのです。
 採用ー社会化ーマネジャーへの発達。僕の研究分野の主要な概念は、幸いにも、学部学生たちが「これからとおる道」なのです。で、「これから通る道」を、そのままトレースするのではなく、立場を変えてトレースさせるというのも面白いのかな、と。
 もちろん、うまくいくかはわからないのですが(笑)。

 とにかく頑張ります。
 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月 5日 06:46


自分の仕事を自分で名づける!? : 奥村文絵著「地域のおいしいをつくる フードディレクションという仕事」を読んだ!

 奥村文絵さんの書かれた「地域のおいしいをつくる フードディレクションという仕事」を読みました。


 フードディレクターとは、聞き慣れない言葉かもしれませんが、端的に要約するのだとすれば、「食に関するプロジェクトのディレクションを行う仕事」といえそうです。著者である奥村さんは「フードディレクター」として、数々の地域の食に関するプロジェクトをディレクションしてきました。
 例えば、地域の老舗が行っている開発に参加して、新商品をプロデュースする。地域のレストランをリビルドして活性化させる。奥村さんが行ってきたことはそういうことです。

 彼女は自分の仕事を「食の建築家」と喩えておられます(p12)。施工主の求める建築(プロダクト)を、彼との対話によって見出し、図面をひいて、予算管理を行いつつ、建築物にしていく。
 まことに非常に興味深い仕事ですね。本書には、そのような彼女のこれまでの仕事が、いくつか掲載されていました。

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 そのプロジェクトの中のひとつに、滝川にある三浦華園というホテルのレストランリノベーションのプロジェクトがあります。北海道出身だからでしょうか。僕にとっては、気になるプロジェクトでした。

 三浦華園の中にある古くなったレストランが、「地産地消」というコンセプトのもと、「クッチーナ・ディ・ソラチ」に生まれ変わる。Webで検索したところ、かなりお洒落なレストランです。

クッチーナ・ディ・ソラチ(食べログ)
http://tabelog.com/hokkaido/A0107/A010705/1021141/

クッチーナ・ディ・ソラチ
http://www.ilcielo.jp/

 そのためには、既存の従業員にも変化してもらわなくてはなりません。コンセプトは立派でも、「今までーーーのようにやってきたのだから」という影があるかぎり、リノベーションは成功しません。

 まずは、率直に意見を交換し、チームをつくらなくてはなりません。従業員の中に当事者意識をもたせ、育つという意識を持たせなくてはなりません。
 人材開発の観点からみても、このプロジェクトは非常に興味深く拝見させて頂きました。

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 フードディレクターは、新しい仕事の名前です。その仕事は現場で格闘しなければならない局面も多々あるでしょうから、大変だとお見受けしますが、非常に魅力的に感じました。特に、本書を通底しているトーンに、奥村さんの「自分の仕事をつくる」のだという意識が流れている気がしました。

 ちなみに、フードディレクターがありなら、ラーニングディレクターだって、ラーニングプロデューサーだって、ラーニングアーキテクトだって、ラーニングスタイリストだって、何だってありだと僕は思います。そこに情熱と責任感と専門性があるかぎり、自分の仕事は自分で名付ければいい、と僕は思います。Name your work!
 
 近い将来、ラーニングディレクター、ラーニングアーキテクトの名刺をもった方にお逢いすることが楽しみです。

 そして人生は続く。

投稿者 jun : 2014年2月 4日 06:25


「為すこと」よりも「為すことをいかに意味づけるか」の時代!? : 高木徹「国際メディア情報戦」を読んだ!

「ボスニア・ヘルツェゴビナの外務大臣は、英語が堪能で、テレジェニック(テレビ映りがよかった)だった。そこで、彼をテレビのトークショーにおけるスポークスマンとして利用する作戦が練られた」
(「ドキュメント 戦争広告代理店」p92)

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 高木徹「国際メディア情報戦」(講談社現代新書)を読みました。本書は、さまざまなメディアのテクニックを駆使しながら繰り広げられる「世界情報戦」について解説した本です。
 具体的には、ボスニア紛争、アメリカ大統領選挙、アルカイダ、2020年五輪招致などを例にとりあげ、その顛末について論じています。著者の前作である「ドキュメント 戦争広告代理店」の続編ともいえる書籍かと思います。

 

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 「国際メディア情報戦」で著者が論じているのは、いわゆる国際的に繰り広げらられるPR(Public relation)合戦です。PRとは「広告」と同義語のように思われがちですが、それは異なっています。
 端的にのべるのであれば、広告とは「お金をはらって行う宣伝」です。PRとは「お金を払って広告枠を買いません」。むしろ、ある組織が、社会・社会構成員とのあいだにコミュニケーション回路を築き、そのことを通してメディアに情報を流通させ、組織体・社会に対して何をもたらすか、ということが求められます。具体的には、ニュースなどの報道番組の中に、自分たちの情報を流通させることをいいます。

 たとえば、筆者が前著で論じたボスニア紛争においては、ジム・ハーフというPR会社のプロフェッショナルが、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府から情報戦略を請け負い、セルビア人を孤立させるべく、国際世論を誘導していく様子が描かれています。
 その手法は、「バズワードをつくる」「サウンドバイトをつくる:流行しやすいように短く断片化した発言」「サダマイズ:標的をきめて、悪の権化として印象操作を行う」など、非常に巧妙で、「なるほどなぁ・・・」と感心してしまうものばかりです。ある出来事をいかに自分たちに有利なように位置づけ、意味づけていくかに焦点化されています。

 国家、さらにはテロ組織までもが、神経をすり減らす国際情報戦。本書の最後には、著者が、日本が国際メディア情報戦をサバイブしていくためのヒントも論じてあり、非常に興味深く読むことができました。おすすめの書籍です。

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 私たちは、「為すこと」よりも、「為すことをいかに意味づけるか」という時代に生きています。
 ここで描かれているのは国際的な世論形成過程ですが、自分の文脈にひきつけて読むことができたとしたら、多くの方々により多くの示唆を与えられる良著であると感じました。

 そして人生は続く

投稿者 jun : 2014年2月 3日 07:49